従軍慰安婦で日韓合意が曲がりなりにも達成できて、さあこれからどうなると言う矢先、「それには問題があります」と国連が出ばってきて、また迷走状態(には多分ならないと予想するが)にはまっていくかもしれない。
今日は別件で愚痴のメモ:
裁判所による原発停止仮処分がまた出てしまった。
判決文を丸ごと読んでいるわけではないが、伝え聞く要旨を見る限り、率直にいって大学のゼミで課しているようなレポートのレベルをでない。
リスクを論じているようで、実は「リスク管理」についての理解が根本的に欠けているからだ。こんな理解では、自動車事故や航空機事故についての訴訟すら適切に処理できないだろう。
*** 原発支持派は乱暴だ***
交通事故では毎年何件の死亡事故が発生しているか?タバコにはどれ程のリスクがあるか?これらに比べれば、福島第一の事故で発生した犠牲はわずかなものだ。死亡者は何人出たか?ほとんど死者は出ていないではないか・・・
原発支持派のこのロジックも粗暴である。
ネット検索の結果によれば、事故による福島県民の避難者数は平成24年の16万人から本年1月の10万人程度にまで減っている。とはいえ地方の10万人都市がそのまま難民化している状況に変わりはない。
事故発生から既に5年である。
事故なかりせば送っていたであろう生活とその後5年間の生活とを比較して、失われた"Quality of Life"を損失として計算するべきである。
一人一人の、1日当たりの損失は少額であっても合計をすれば巨額の損失が発生した、というより発生しつつある。こう認識するのが正確である。
正確に2011年の事故による損害を計算すれば、単に『死者がほとんど出ていない』と言えるような問題ではない。
「戻れないのは年間1mSvの線量規制のためで、本来は戻ってもいいんですよ」という指摘もあり、指摘はいろいろ可能だが、現実には戻れていない。「本当はおかしい」という指摘にあまり意味はない。
試しに、15万人の人が1日1万円(年間365万円)の苦痛を10年間にわたって強いられると想定してみたまえ。累積損失は5.5兆円にのぼる。「たった15万人」、「たった1万円」の想定でそうなる。東電による賠償総額は営業賠償、慰謝料、除染費用を合わせて総額7兆円程度だそうである(
参照記事)。上に記した1万円は慰謝料部分の仮置値である。いずれにしても7兆円では失われた生活を保障することはできていないと察せられる。
確かにこれは巨額の損失である。軽く考えてはダメだ。
*** 原発反対派は石頭だ***
原子力発電には、確かに兆円単位の損失リスクがある。
日本には50数基の原発施設がある。1基の原子炉が1年の間に事故を起こす確率を100万分の1とする。すると、稼働期間を40年として運転中に起こる過酷事故件数は期待値が4*10^{-5}のポアソン分布に従う。すると、1基の原子炉が稼働中に過酷事故を起こすことはない確率は0.9996になる。故に、50基が運転に供されているとして、どの原子炉も事故を起こさない確率は0.998、つまりどこかで過酷事故が起きる確率は0.2%となる。もし2世代の80年を見積もり期間とすれば、同様にして事故発生確率は0.4%になる。
まあ、確率的にはほとんど無視できるほどである。
とはいえ、リスクは決してゼロではない。たとえば300年も原子力発電を続ければ約1.5%の確率で、どこかが過酷事故を起こす。過酷事故が起きれば、周辺住民のQOLは致命的に毀損されるわけだ。
しかし、損失が現実となる確率は(上の試算値を使うと80年間で)0.4%である。つまり損失が発生する可能性はほとんどない。ほぼ確実に利益が得られる。仮に上で計算した損失5.5兆円に確率をかけて期待値を出すと損失リスクの大きさは220億円になる。
毎年200億円の社会的便益が原子力発電から発生するとすれば、80年で1.6兆円となる。
1.6兆円の利益が期待できるからといって、5兆円の損失を被る可能性がゼロでない以上、 その事業は認められないというのが、今回の裁判所のロジックに近い。
であれば、これは「間違った議論」だ。確かに、意思決定をするときに、あらゆる可能性の中の最悪のケースをとり、傷が最も小さくなる選択肢をとるという意思決定原理もある。「ミニマックス原理」である。しかし、ミニマックス原理が現実の人間の行動を説明しているという実証的な根拠はない。期待利益と分散から合理性を議論するのが第一歩だ。標準的な方法ではなく、ミニマックス原理で判断するべきだという論理がないのであれば、気ままな議論だと言われても仕方がない。
故に、この場合はほぼ確実に得られる1.6兆円の利益と、確率がゼロでない巨額損失の期待値220億円を比較するべきなのだ。
投資の数理には無知である裁判官が現代標準理論を本質的に批判する知的基盤をもっているとは思えない。
あえて裁判所の審理にゆだねるのなら、司法試験に合格しただけの判事による裁判ではなく、リスク管理と科学知識に精通する専門家を混じえた「科学技術公判」的な組織を設けなければ仕事はできなかろう。
確率的な現象を考察するときは、いろいろな事象(=可能性)と確率を評価し、オーソドックスに議論をしなければ見当はずれの結論にたどり着く。
見当はずれの結論を押し付ければ、社会全体がマイナスのしわ寄せを負担する。そんな好例(というか屁理屈)になっている。
***まとめ***
危険は避けるべきである。ならば、飛行機には乗らないほうがよい。なぜなら飛行機が落ちる確率は過去の経験からゼロではない。そして命の価値は無限大であろう。とすれば、飛行機に乗るのは理屈に合わない。
人命リスクを回避しようとすれば航空産業が存在する余地はない。
この議論が愚かであるのは、誰にでもわかる。航空産業がなくなれば、現在の経済社会システムが崩壊し、豊かな社会から以前の貧しい社会に戻らざるをえないからだ。
なぜ自動車事故で死者が発生しても自動車は自由に(免許は必要だが)運転できるのか。年間で大体4千人が交通事故でコンスタントに死亡しているにもかかわらず、自動車運転規制は議論すらされていない。
社会全体において、人命は必ずしも無限大と評価されているわけではない。そう解釈する立場もあるだろうし、人はほぼ確実な利益を大きく評価し、ありうる損失を過小に評価するという人間の錯覚を重視する立場もある。
しかし、そのおかげで現在の社会はいろいろなリスクを受け入れ、豊かな社会を作っている。これを社会が受け入れているという事実は、決して無視できないのだな。
原発を停止することで日本経済は直ちに破壊されるわけではない。しかし、原子力発電という技術的可能性を断念することによって、失われることも確かにあるのだ。たとえば、電力価格が高めに据え置かれることによる損失は、ただ我慢を強いられるだけであって、目には見えにくいのだが、社会の中の弱者がより困っているのが事実である。
もちろん脱原発と低電力価格を両立させることは社会的に可能だ。しかし、それを実現するには、発電会社への財政支援が必要だろうー多分、増税が必要だ。ま、みんな我慢して、危ない原発は止めようというのが脱原発運動の理想だとは思っているのだが。
事故が起こったら困るからといって、生活に便利なものを使わない、使うことによって進む技術的な進歩の可能性をすべて諦めることは、やはり愚かである、と。そう思うのだな。
【補足】
以上の議論に反論があるとすれば、1基の原子炉が過酷事故を起こす確率が100万分の1と置いている箇所だろう。『そもそも100万分の1の確率しかない過酷事故が現実に起こったのは何故か?』という疑問は当然ある。
大地震が起こる確率は案外に高い。巨大津波に襲われる確率も歴史を遡れば決して無視できない。重要なのは、天災が実際に起きたとして、その時に事故が起きることの条件付確率なのである。
もし事業運営の資格もない企業が運転していれば、天災が起こったときの事故確率はほぼ1に近づくであろう。100万分の1どころか、大地震がおきる確率イコール事故の確率となる。
高浜原発停止仮処分の一つの理由として、福島第一事故の総括が不十分だという点が挙げられている。これは小生も同感できる部分がある。事故の原因は津波であるという調査結果がある。全電源喪失に事故の主因を求めるものだ。しかし、緊急電源車は到着していた。プラグが合わなかったのだな。福島第一は古いGE製で東電所有の電源車とは仕様がマッチしていなかった。この凡ミスが「仮に」なければどうなっていたか?全電源喪失の原因と背景と併せ考えれば、技術的な限界から決まる事故確率とは別に、経営組織上の問題も考慮に入れなければならない。つまり、現在の電力会社に原子力発電事業者としての資格があるのかという「そもそも論」であるな。今回判決の趣旨がこの点にあるのなら、小生にも共感できる。
大震災発生直後に
投稿して予想しているが、今回判決が<日本原子力発電公社>設立への第一歩にならないことを、電力民営化という戦後日本の理想を支持する立場から、願うばかりだ。