2016年3月30日水曜日

個人情報: Appleの戦術的勝利?

米・司法省とアップル Inc.との個人情報保護論争。司法省のロック解除要請を跳ね返してきたアップルが判定勝ちをおさめるかとみられてきたが、最終的にはFBIが自らの力でロックを解除できる見通しとなり、状況がまた少し変わってきたようだ。

The Justice Department decided Monday to drop its lawsuit against Apple Inc., saying that the Federal Bureau of Investigation, aided by a third party, had unlocked the iPhone belonging to Syed Rizwan Farook, one of two gunmen in the San Bernardino, Calif., attack, and no longer needed the company’s help. 
The government didn’t disclose how it got into the phone, or whether that vulnerability remains open for others to exploit in the future. 
It isn’t clear whether the government will share the information with Apple, but officials said Tuesday that there are good reasons to keep the company in the dark—at least for now. Chief among those, they said, was Apple’s resistance to helping investigators unlock its phones. 
Meanwhile, the FBI is working to determine whether the method used to crack Mr. Farook’s iPhone 5C might work on other models of the phone, according to people familiar with the matter.

Source: Wall Street Journal, 3-29, 2016

伝えられているところによると、FBIにロック解除の技術的助言を提供したのは日系企業であるともいう。

そして、今回対象となったiPhone 5C以外の機種にも解除技術は応用可能だろうと伝えられている。

要するに、アップルは当局の解除要請を跳ね返したが、結局はロックを突破されるという成り行きに道を開いたということである。

解除できるロックはそもそもロックとは言えない以上、事件捜査を担当する当局が自力でロックを解除するとすれば、その行為が違法であるはずはない。

もしロックを解除して情報をみることが違法なら、容疑者が残していた封書を見ることも違法であろう。スマートフォンに保存されている情報は、封筒に入っている紙に書かれた文字情報と大した違いはない。このことが明らかになったわけだ。

秘密を秘密のままにしておくことによって関係者の名誉や利益が守られる時があるのはわかる。しかし、露見されたくない秘密によって守られる利益とは、大体が傷つきやすいヴァルネラブルな利益である。

模倣困難である真の独自性は、その人の才能、その会社の経営資源に裏打ちされた真の価値である。そんな価値は、一国の文化・文明・生活水準と同じで、ただちには模倣困難であるが故に、隠すべき秘密もないし、保護も必要ではなく、むしろオープンであり普及が待たれるものである。

その人にとって、あるいはその企業にとって奪われやすく傷つきやすい名誉や利益があるとして、それらを社会はいつまで守ってあげなくてはならないのだろうか。




2016年3月26日土曜日

今度こそ春なのか

今年の冬は本当に体にこたえた。「暖冬」というよりは「不順な冬」であったな。荒れる冬だった。なので、体調も壊しがちで、小生はやっと咳もおさまってきたのだが、今度は上の愚息が高熱を発してダウンした。

昨日は、本日の新入生向け説明会に使用する資料をメールボックスからとってきた。ところが、駐車場に車を停めて降りると、周囲の風景は「これは本当に冬の終わりなのか」と。目を疑うばかりだった。


3月17日には東京滞在中であり、訪れた増上寺境内は春爛漫そのもので、おりしもどこかの大学の卒業式があったらしく開き始めた桜の樹下には華やかに盛装した学生が輪になって談笑していた。


「天気」とは、自然科学的な気象データを指すのではなく、人間社会との関連性からみた天候全般のことである。

このビッグデータ時代に『平均気温が平年より高かったわけですから暖冬予報に間違いがあったわけではありません』などと気象予報士たちが言っているようでは、集中豪雨があっても合計降水量の数字を見ると少雨予報に間違いなしと総括するようなものだろう。



2016年3月23日水曜日

ヘソ曲がりの賭博論

何度も書いているが、小生はどこからどこまでもヘソ曲がりである。なので、普通の会社勤めや役所務めでは芽が出ない。そんなことは「生まれた時から」分かってたってものヨ。
  監督経験を持つある球界関係者が「(金銭を)励みにする部分もあって判断基準が難しい」と話すこの問題。だが、“仕事場”を巡り非公式に金 銭が行き交っていた感覚が批判を浴び、セ・パ両リーグがそれぞれ急きょ臨時理事会を開催する事態に。ソフトバンクの長谷川選手会長は「僕らの中では当たり 前に思っていたことが世間では異常なことが分かった」と語った。
 こうした金銭授受について、熊崎コミッショナーは1月29日に一切禁止する旨の通達を発出していたが、公表が後手に回った印象は否めない。  
 NPBは昨秋、元3投手の野球賭博問題を調べる過程で、調査委が円陣を巡る金銭授受の事実も把握していた。だが、報告書に簡単に記載された だけで、詳細は明らかにされなかった。巨人での発覚を受けて聞き取りをするまで事態が判明しなかった球団もあり、熊崎氏のいう「賭博の温床」は放置されて いた可能性もあった。
(出所)日本経済新聞、2016年3月23日

世間では異常なことが業界の中では当たり前で通っている・・・これは既視感があるねえ、デジャブだ。

何年か前は相撲が槍玉に挙げられた。芸術の総本山である日展でも入選したら謝礼を審査員に払うという慣例が露見して世間を騒がしたことがあった(と記憶している)ー 確か書道でバレたのだが油彩画部門でもあるというので、日展の「自己浄化力」が試されるとか、人の口には戸はたてられぬ。そんな状況になってしまったが、寡聞にしてその後何かが変わったのか耳にはしていない。ま、報道とはそんなものだとはいうものの、無責任なことは言えないが、あの当時は芸術大学の教官たちも冷や汗ものであったにちがいない。

まあ、芸術もプロスポーツも非日常性を演出するものである。あるものを在るがままにただ写すだけでは、人の心を打つ、というより人の関心をひくような風にならない。

要するに、当たり前のことを常識的にやっていてはダメなのだ。そこがビジネスとは違う。いや、ビジネスもかつては野心あふれる剛の者の成功物語の舞台たりえたが、いまではコンプライアンス(遵法精神)が重視され、世間の感覚とかけ離れた金銭授受ー社長や取締役の報酬も含めてーには反発が強くなってしまった。

いま小生はシュンペーターの『資本主義・社会主義・民主主義』を20数年振りに再読しているのだが、やはり面白い。資本主義は経済システムとして成功をおさめ、豊かな社会を実現し、であるが故に民主主義が浸透し、その果てに人の考え方が変化し、常識と世間知が支配者を抑制し、制度は(自然に)社会主義化していくのである。

非日常を演出する芸術とプロスポーツは、現代社会においてただ一つ残された『夢と冒険の世界』であったにちがいないが、そこにも遂に常識化・世間化の波が押し寄せるのか・・・。

もし国際法が遵守され、リーガルマインドが何より重んじられていれば、英国を興隆に導いたキャプテン・ドレークもジョン・ホーキンズも登場できなかったはずだ。試しに、両者を検索してみたまえ。職業は、私掠船船長にして海賊、海賊にして海軍提督だ。

日本の歴史に類例を探せば、平安期・藤原摂関政治もピークを越した11世紀に日本の東北で突然勃発した内戦、前九年の役・後三年の役で英雄となった八幡太郎義家を挙げられよう。合戦に血をたぎらせ、無限の栄光を夢見て命をかけた強者(ツワモノ)たちも、京の都の既存政権からみれば、義家本人が政権内アウトローであり、その取り巻きはすべて法を尊重せず欲深で非常識な連中であったのだ、な。

ま、「武家政権」というのはアウトローがオーソドクシー(正統派)をひっくり返してできた軍事政権だ ー というのが、 大義名分論に基づく正統派歴史観である。

話題がそれた。

一から勉強をする時間はもうないが、『コンプライアンスを重視するイノベーション』というのは、論理的にあり得るのか?若ければ、こんな問題を分析してみたいものだ。

イノベーションが、文字通り、時間的には独立しているが、毎時点のショックの大きさに一定の確率分布が当てはまるなら、十分な時間の経過のあと、想定外の変動が起きる可能性などは確率的には十分無視できるようになる。ということは、世を変えるほどの創造的破壊は、人を驚かせ、恐れさせるようなものであるはずで、故に時の政府の立場からみれば社会の安定を損なうものとして扱われる。そんな感じがするのだが、きちんと議論すると案外奥行きがあるかもしれない。

2016年3月22日火曜日

"Black Day"ではなく"Black Week"になった

先週から東京に滞在していたが風邪をもらって帰った。咳が止まらず、北海道に帰るなり寝込んでしまった。夜も喉がムズムズして咳が続いて、寝られない。たまには運の悪い日はあるけれど、"Black Week"になるとはなあ・・・予想していなかった。

新聞は読んでいない。ネットをぼつぼつ見始めたところだ。

防衛大学で任官拒否が激増した・・・フ〜〜ム。かみさんが『授業料返すのかなあ?』ときく。『防大は授業料はないヨ。食費・制服は支給、それに給料・賞与がつくはずだ』。それを返すのか、と。調べてみると、入学金・授業料相当分にあたる250万円を返納するとのこと。『やっぱりねえ』。それから何々・・・『任官拒否者は卒業式に出席できないみたいだね。別室で卒業証書(学位記?)を渡されるらしい。『それって可哀想なんじゃない』、『自衛官になるための大学だからなあ、中途で辞めた人は式に出さないということだろうねえ』。昔はそうでなかったと記憶しているが、最近になって厳しくなったようだ。

ネットを探索してみると、「国の守りに情熱を持っている人は全学生中の2割しかいません」、そんな男子学生の言が紹介されていた。

2割しか、というより2割もいるのかと小生は驚いた。

大体、総合商社に入って4年目の若手(というより新米)社員のうちの何割が、会社のためにビッグビジネスにとりくむ志をもっているだろう。無責任なことは言えないが、上司に対する不満とか、残業時間の多さへの不満とか、通勤時間の長さに対する不満とか、次の会議に出す資料の多さへの不満とか、「理解力のない」幹部たちへの不満とか・・・ずっと昔に小役人をやっていた頃を思い出しても、「国の役に立ちたい」という燃えるような情熱は、小生、もっておりませなんだ、な。

そんな「国の守りに情熱を持っている人たち」が、将来的には自衛隊の幹部を構成し、中心となっていくのであろう。同じことは役所でも同様で、若い頃から国のことを思い、超過勤務も厭わない人が長い時間の中でいつの間にか人の上にたち、大黒柱になっているのを発見したりする。総合商社や金融機関、その他諸々の会社でも事情は同じだろう。

最初の動機付け、今流の言葉で言えば「モチベーション」が最も大事である。結局は、ここに戻るのだ、な。

青春時代は道に迷っているばかりだが、すでに歩く道をきめていて、迷わない人もいるのは事実である。小生は前者のほうであり、周りの人をずいぶん振り回してしまった。まあ、そんなことを思う中で、自分一人が風邪で寝込んでいるくらいは、実害のないことだ。





2016年3月17日木曜日

本日、"Black Day"であった

いま東京品川のホテルにいる。墓参と姪の卒業式、それからいわき市の弟宅の様子を見てくるのが目的だ。

今朝のTVワイドショーでやっていた占いでは、小生の星座は「小さな事できずつく」というご託宣であった。「小さいことなら傷も小さいさ」と相手にしなかったが、こちらの空港に着くやいなや、カミさんが突然気分が悪くなった。というか、新千歳空港で搭乗予定のAirDo機が機材不良のため欠航となり、ANAの代替便に振り替えてもらうなど、バタバタした。

品川から北総線直通の電車に乗り墓参に行く予定であったが、カミさんの体調不良でできなくなった。

小生はホテルに大分落ち着いたカミさんを残して増上寺に赴き、今年が受験である姪(最初の姪とは別人だ)、それから資格試験を受験する卒年次の甥と、二名分の勝運守を買う。小さく傷ついたときは、小さなポイントで多少でも挽回しておけばいいってものさね。そんな気分でホテルに戻った。

カミさんは大分よくなっていた。急に悪くなったものは、また急に良くなるそうだ。

占いというのは当たる、当たらないというより、何かが起こってから、起こったことに近いことを言っていた人を思い出す。それが占いというものかもしれない。

ではあるが、タマタマそんな占いを目にしたことも何かの縁であるわけで、『今日は墓参りにいかないほうがいいってことなんだろうね』とカミさん(完全に回復している)と話している。

2016年3月16日水曜日

お維新の憲法草案: こんな議論なら面白い、やってください

おおさか維新・・・「お維新」とそのうち略称されるのではないか。いまある「維新の党」は近日うちに消失する予定であるので、単直に「維新」と名乗ってもいいのではないかとも思うが。

その「お維新」が憲法草案を公表したとのこと。
 夏の参院選に向けておおさか維新の会が作成中の憲法改正原案の全容が15日、分かった。憲法26条の「義務教育は、これを無償とする」との条文は「幼児 期の教育から高等教育に至るまで、法律の定めるところにより無償とする」とし、幼稚園などから大学までを完全無償化とする方針だ。

 4月までに第1次試案としてまとめ、「改憲勢力」として安倍晋三政権と歩調を合わせる一方、護憲色を強める民主党など他の野党と一線を画す狙いがある。

 原案では、地方自治を定めた92条や94条などについて、地方公共団体の権限強化などによる地方分権も明記。国と地方自治体の役割に関しては、住民に身近な行政はできる限り身近な自治体に委ねる「補完性の原則」に基づき定めるとした。憲法解釈を専門的に判断する憲法裁判所の設置なども盛り込む方針。 
(出所)Yahoo!ニュース
(元記事)産経新聞、3月16日 7時55分配信

地方分権や憲法裁判所は本筋をついているとして、その中で幼稚園から高等教育まで「法律により無償化」というのは・・・?

すべて学校はタダということでござるな?
いかにも。文字どおり「すべて」という具合にはまいらぬが。
私立大学の医学部もタダになるのでござろうか?
細かな事はあとじゃ。文字通り「すべて」とは申しておらぬ。
生徒や親は払わなくとも、誰かが払わなくては、学校にはならぬと思うがそれはいかに?
金を支払ってくれる有徳者は自然に現れるものぜよ。

やはり「維新の党」源流の面目が躍如としている。

前にも投稿したことがあるが、<一定期間を通した財政均衡>を憲法に明記しておくべきだ、というのが小生の感想だ。

財政均衡規定が憲法にあれば、日清戦争ならあるいは出来たかもしれないが、日露戦争は資金的に不可能であり、さらに満州事変の勃発はありえたとしても、その後処理から日中戦争、太平洋戰争に至る軍事行動は全て不可能であり、低コストの外交で解決するしかなかった。

その分、軍縮が徹底し、民間に資金が回り、戦前期日本の経済成長率はもっと高く、平和で生活水準の高い日本社会を早い時期に築くことができていただろう。

戦前の陸海軍、戦後の産業政策、年金政策、平成の育児・教育政策。国家が何かを言い出す時、巨大な無駄遣いが始まることが多い。

とはいえ、昨日の国会中継。あれは何だろう?民主党議員の質問だったが。
細かい数字を日本の国務大臣に次々に聞いて、官僚に数字を確かめていると、「勉強不足ですね」と締めくくる。<クイズ番組>ではないか。情ケナキコト涙コボルル、でござります。

疑問が一つ二つあるものの、「お維新」は政治家の集団であることは理解できる。

2016年3月14日月曜日

インターネット: 最近の確定申告事情に感心したこと

確定申告をしなければならない件が一つあったのだが、今年は1月末に実弟宅で不幸があり、戻ってからは成績確定、その後は参加している研究プロジェクトで実施したアンケートのデータ解析と、色々と多事多端なままに日が過ぎて、とうとう明日は確定申告期限の最終日になってしまった。

先刻、税務署が市内都心部に設けている確定申告コーナーへ行った。

しかし、総合受付の前には長蛇の列ができている。中のパソコン端末はどれもふさがっている。真ん中の待合場所にある椅子は何列も人で埋まっている。

そんな状況なので、今年はダメだなあと諦めの境地になって、『まあ、どうしても取るつもりなら夏ころ税務署から連絡があるだろう・・・』、そんな感じになって帰宅したのだな。

が、どうしても気になる ー 小生、小心者なのだろう ー 諦めきれず確定申告の手引きをパラパラめくっていると、国税庁のホームページに確定申告書作成コーナーがあるという。

手続きが面倒なe-Taxとは別で、確定申告書そのものを簡単に作成できるという。

これは、さっき諦めた所で実際にやっていることではないか。そう思いなおして、アクセスすると、非常に簡単で、短時間に作業を終えることができた。銀行での振替納税も申請できる。地元の税務署と違って、国税庁では個人を特定しないため、年末調整がデータに反映されていない。それは最初から源泉徴収票をみて入力する必要がある。とはいえ、自宅でゆっくり出来るのが最高だ。終わったらPDFファイルに保存し、印刷するだけだ。

明日は書類を提出に行こう。長蛇の列をスキップして出口にいる税務署職員に渡せばいいのだと思う。

納税システムも進歩したものだ。

そもそも、小生が浮世離れしていたということか・・・。

というより、先刻行った確定申告コーナーで長蛇の列を作って待っていた人たちはなぜ(ひょっとして何時間も)待たないといけないのか・・・?

【加筆】最終日の本日、朝方出してきた。総合受付の向こうに記載済み申告書の提出受付があった(マ、当然ではある)。控えを持参したにもかかわらず、控えはないかと問われて家に置いてきたと答えてしまう。なので控えに受付印を押してもらえず。前は会場設置のPCで申告書を作成したので、そこでプリントアウトした控えを持っていれば、それが提出の確認になった。アホじゃな。

★ ★ ★

これとは全く別の話し。

以前の投稿で使用したMathjaxが、最近、"Math Processing Error"の表示を出すので、「奇妙だねえ」と思っていたら、どうやらこの現象は広く世界でも時たま起きるらしく、まずはシフト‐リフレッシュが定石だという。

早速やってみる。Shiftキーを押しながら再読み込みボタンをクリックする・・・と、問題は解決された。

いやあ、ネット活用の威力は時に想像を絶する。

確かに、社会全体でみて生産性はこの20年間で急速に上がった。

2016年3月12日土曜日

愚痴: 脱原発派、原発支持派、両方とも極端だネエ

従軍慰安婦で日韓合意が曲がりなりにも達成できて、さあこれからどうなると言う矢先、「それには問題があります」と国連が出ばってきて、また迷走状態(には多分ならないと予想するが)にはまっていくかもしれない。

今日は別件で愚痴のメモ:

裁判所による原発停止仮処分がまた出てしまった。

判決文を丸ごと読んでいるわけではないが、伝え聞く要旨を見る限り、率直にいって大学のゼミで課しているようなレポートのレベルをでない。


リスクを論じているようで、実は「リスク管理」についての理解が根本的に欠けているからだ。こんな理解では、自動車事故や航空機事故についての訴訟すら適切に処理できないだろう。


*** 原発支持派は乱暴だ***

交通事故では毎年何件の死亡事故が発生しているか?タバコにはどれ程のリスクがあるか?これらに比べれば、福島第一の事故で発生した犠牲はわずかなものだ。死亡者は何人出たか?ほとんど死者は出ていないではないか・・・

原発支持派のこのロジックも粗暴である。

ネット検索の結果によれば、事故による福島県民の避難者数は平成24年の16万人から本年1月の10万人程度にまで減っている。とはいえ地方の10万人都市がそのまま難民化している状況に変わりはない。

事故発生から既に5年である。

事故なかりせば送っていたであろう生活とその後5年間の生活とを比較して、失われた"Quality of Life"を損失として計算するべきである。

一人一人の、1日当たりの損失は少額であっても合計をすれば巨額の損失が発生した、というより発生しつつある。こう認識するのが正確である。

正確に2011年の事故による損害を計算すれば、単に『死者がほとんど出ていない』と言えるような問題ではない。

「戻れないのは年間1mSvの線量規制のためで、本来は戻ってもいいんですよ」という指摘もあり、指摘はいろいろ可能だが、現実には戻れていない。「本当はおかしい」という指摘にあまり意味はない。


試しに、15万人の人が1日1万円(年間365万円)の苦痛を10年間にわたって強いられると想定してみたまえ。累積損失は5.5兆円にのぼる。「たった15万人」、「たった1万円」の想定でそうなる。東電による賠償総額は営業賠償、慰謝料、除染費用を合わせて総額7兆円程度だそうである(参照記事)。上に記した1万円は慰謝料部分の仮置値である。いずれにしても7兆円では失われた生活を保障することはできていないと察せられる。

確かにこれは巨額の損失である。軽く考えてはダメだ。


*** 原発反対派は石頭だ***

原子力発電には、確かに兆円単位の損失リスクがある。

日本には50数基の原発施設がある。1基の原子炉が1年の間に事故を起こす確率を100万分の1とする。すると、稼働期間を40年として運転中に起こる過酷事故件数は期待値が4*10^{-5}のポアソン分布に従う。すると、1基の原子炉が稼働中に過酷事故を起こすことはない確率は0.9996になる。故に、50基が運転に供されているとして、どの原子炉も事故を起こさない確率は0.998、つまりどこかで過酷事故が起きる確率は0.2%となる。もし2世代の80年を見積もり期間とすれば、同様にして事故発生確率は0.4%になる。

まあ、確率的にはほとんど無視できるほどである。

とはいえ、リスクは決してゼロではない。たとえば300年も原子力発電を続ければ約1.5%の確率で、どこかが過酷事故を起こす。過酷事故が起きれば、周辺住民のQOLは致命的に毀損されるわけだ。

しかし、損失が現実となる確率は(上の試算値を使うと80年間で)0.4%である。つまり損失が発生する可能性はほとんどない。ほぼ確実に利益が得られる。仮に上で計算した損失5.5兆円に確率をかけて期待値を出すと損失リスクの大きさは220億円になる。

毎年200億円の社会的便益が原子力発電から発生するとすれば、80年で1.6兆円となる。

1.6兆円の利益が期待できるからといって、5兆円の損失を被る可能性がゼロでない以上、 その事業は認められないというのが、今回の裁判所のロジックに近い。

であれば、これは「間違った議論」だ。確かに、意思決定をするときに、あらゆる可能性の中の最悪のケースをとり、傷が最も小さくなる選択肢をとるという意思決定原理もある。「ミニマックス原理」である。しかし、ミニマックス原理が現実の人間の行動を説明しているという実証的な根拠はない。期待利益と分散から合理性を議論するのが第一歩だ。標準的な方法ではなく、ミニマックス原理で判断するべきだという論理がないのであれば、気ままな議論だと言われても仕方がない。

故に、この場合はほぼ確実に得られる1.6兆円の利益と、確率がゼロでない巨額損失の期待値220億円を比較するべきなのだ。

投資の数理には無知である裁判官が現代標準理論を本質的に批判する知的基盤をもっているとは思えない。

あえて裁判所の審理にゆだねるのなら、司法試験に合格しただけの判事による裁判ではなく、リスク管理と科学知識に精通する専門家を混じえた「科学技術公判」的な組織を設けなければ仕事はできなかろう。

確率的な現象を考察するときは、いろいろな事象(=可能性)と確率を評価し、オーソドックスに議論をしなければ見当はずれの結論にたどり着く。

見当はずれの結論を押し付ければ、社会全体がマイナスのしわ寄せを負担する。そんな好例(というか屁理屈)になっている。

***まとめ***

 危険は避けるべきである。ならば、飛行機には乗らないほうがよい。なぜなら飛行機が落ちる確率は過去の経験からゼロではない。そして命の価値は無限大であろう。とすれば、飛行機に乗るのは理屈に合わない。

人命リスクを回避しようとすれば航空産業が存在する余地はない。

この議論が愚かであるのは、誰にでもわかる。航空産業がなくなれば、現在の経済社会システムが崩壊し、豊かな社会から以前の貧しい社会に戻らざるをえないからだ。

なぜ自動車事故で死者が発生しても自動車は自由に(免許は必要だが)運転できるのか。年間で大体4千人が交通事故でコンスタントに死亡しているにもかかわらず、自動車運転規制は議論すらされていない。

社会全体において、人命は必ずしも無限大と評価されているわけではない。そう解釈する立場もあるだろうし、人はほぼ確実な利益を大きく評価し、ありうる損失を過小に評価するという人間の錯覚を重視する立場もある。

しかし、そのおかげで現在の社会はいろいろなリスクを受け入れ、豊かな社会を作っている。これを社会が受け入れているという事実は、決して無視できないのだな。

原発を停止することで日本経済は直ちに破壊されるわけではない。しかし、原子力発電という技術的可能性を断念することによって、失われることも確かにあるのだ。たとえば、電力価格が高めに据え置かれることによる損失は、ただ我慢を強いられるだけであって、目には見えにくいのだが、社会の中の弱者がより困っているのが事実である。

もちろん脱原発と低電力価格を両立させることは社会的に可能だ。しかし、それを実現するには、発電会社への財政支援が必要だろうー多分、増税が必要だ。ま、みんな我慢して、危ない原発は止めようというのが脱原発運動の理想だとは思っているのだが。

事故が起こったら困るからといって、生活に便利なものを使わない、使うことによって進む技術的な進歩の可能性をすべて諦めることは、やはり愚かである、と。そう思うのだな。

【補足】

以上の議論に反論があるとすれば、1基の原子炉が過酷事故を起こす確率が100万分の1と置いている箇所だろう。『そもそも100万分の1の確率しかない過酷事故が現実に起こったのは何故か?』という疑問は当然ある。

大地震が起こる確率は案外に高い。巨大津波に襲われる確率も歴史を遡れば決して無視できない。重要なのは、天災が実際に起きたとして、その時に事故が起きることの条件付確率なのである。

もし事業運営の資格もない企業が運転していれば、天災が起こったときの事故確率はほぼ1に近づくであろう。100万分の1どころか、大地震がおきる確率イコール事故の確率となる。

高浜原発停止仮処分の一つの理由として、福島第一事故の総括が不十分だという点が挙げられている。これは小生も同感できる部分がある。事故の原因は津波であるという調査結果がある。全電源喪失に事故の主因を求めるものだ。しかし、緊急電源車は到着していた。プラグが合わなかったのだな。福島第一は古いGE製で東電所有の電源車とは仕様がマッチしていなかった。この凡ミスが「仮に」なければどうなっていたか?全電源喪失の原因と背景と併せ考えれば、技術的な限界から決まる事故確率とは別に、経営組織上の問題も考慮に入れなければならない。つまり、現在の電力会社に原子力発電事業者としての資格があるのかという「そもそも論」であるな。今回判決の趣旨がこの点にあるのなら、小生にも共感できる。

大震災発生直後に投稿して予想しているが、今回判決が<日本原子力発電公社>設立への第一歩にならないことを、電力民営化という戦後日本の理想を支持する立場から、願うばかりだ。


2016年3月10日木曜日

不祥事に思う: 学校と野球賭博について

広島県で再び、というより又々学校不祥事が起こってしまった、かと思うとプロ野球でも又もや野球賭博に手を染めた現役投手が巨人から出てきてしまった。

どちらも最近の世間を象徴する事件ではあるが、怖さに戦慄を覚えるというよりは、どこか情けさに憮然となるところがある。

ただ、メディアでの露出を観察していると、どうもバランスが悪いというか、明らかに「不公平」というか、「おかしい」点がある。そう感じるようになった。

悪いことを横並びに並べて「どちらが悪いか?」と問うても、いまさら意味はないだろう。しかし、どちらが悪質かといえば、命が失われた以上、学校不祥事の関係者は許せないと、多くの人は感じるのではないだろうか。

もともとプロスポーツの世界は賭博に縁のある世界なのだ。そう思えば腹も立たないと開き直ることさえ出来るのだ。

その点を念頭においたうえで小生の疑問を記しておく。

***

学校不祥事では、担任教師はまずメディアには出てこない。出てくるのは校長か、時に教頭が同席することもあるかもしれないが、あとは教育委員会関係者であって、直接に生徒と触れ合っていた担任教諭がメディアに映ることはほとんど(というか全く)ない。

不思議に思っていたし、だらしのない教師だと思ってもいたのだが、最近になって成る程と了解できた気もするのだ。

教師を労働者、というか一介の担当社員としてみれば、何かトラブルがあれば担当部長なり、取締役、更にトップである社長がまずは代表者としてメディアに出てきて、会社として謝罪をする。そんな対応を世間は求めるものだ。社長が出ずに、直接担当者をメディアに出させるようでは失格だ。

「労働者」 ー 「従業員」といってもいいが ー 所詮は「業務命令」に服して仕事をしている。故に、トラブルがあった際には、命令をした者が対応する。責任は管理職が負う。このロジックは明瞭である。

では、学校の担任教師というのは「労働者」であり、「従業員」なのか?

だとすれば、担任教師が一切出てはこない状況は理解出来る。管理者たる校長が対応すればよいのだ。


しかし、(あくまで一般論・印象論だが)学校教師は、日常的に校長・教頭など上司の業務命令に服しつつ仕事をしているとは、考えていないのではないか。

受け持ちクラスにトラブルがあれば、管理者たる校長、あるいは直接上司である教頭の指示を仰ぐことなく、自己の裁量で独立して仕事をしているのではないか。

授業の設計についてもしかりだ。どう教えるか、上の意向を忖度して仕事をしているとは思われないのだ。

だとすれば、教師は独立した職であり、労働者ではない。


どうも学校という組織の行動を観察していると、共通のパターンがあると思うのだな。

いわゆる「教諭」は「労働者」なのか?だとすれば、管理職の業務命令に服するべきである。労働者ではなく独立して職務にあたる「指導者」なのか?だとすれば、自身が引き起こしたトラブルに責任がある。

労働者か、指導者か?

どこか「いいとこ取り」をしているように見えるのが、現在の初中等教育の担任教師である。

プロ野球球団で仕事をしている選手は、(組合はあるものの)労働者というより、個人事業者である。年棒は給与ではなく事業所得である。だから、不祥事があれば管理責任が問われるというより、まずは選手個人が責められる。実にスッキリしている。

野球賭博の謝罪は頭にすっと入ってきたが、学校不祥事の謝罪の仕方はよく分からないところがある。学校の校長先生というのは、何をすることが職務なのだろうか?

2016年3月9日水曜日

面白いのでメモっておく: 国連と天皇

これは面白い。そんな話題が国連から出てくるとはねえ・・・。そう思わせるのが、次の記事。
 国連女子差別撤廃委員会が7日に発表した日本の女性差別に関する報告書を巡り、男系男子による皇位継承を定めた日本の皇室典範が女性差別にあたるとして、見直しを求める内容が報告書最終案に盛り込まれていたことが8日分かった。
 複数の日本政府関係者が明らかにした。政府が反論し、最終的に記述は削除された。

 政府関係者によると、最終案は4日、同委から政府に示された。皇室典範が女性天皇を認めていないことに「concern(懸念)」を表明し、見直すよう求めていたという。

 政府は、在ジュネーブ日本政府代表部を通じて、〈1〉十分な議論もなく皇室典範に関する意見を突然盛り込むのは手続き上の欠陥がある〈2〉国民の支持を 得ている世界の王室・皇室制度を取り上げるのは不適切――などと反論し、削除を求めた。政府関係者は「反論しなければ、そのまま掲載されていた。報告書の 作成過程に疑問がある」と語った。
(出所)Yahoo!ニュース
(元記事)読売新聞、3月9日7時52分配信

議論のテーマとしては以下のものが選べるだろうか:
  1. 国民の支持を得ている世界の王室・皇室制度を取り上げるのは不適切
  2. 十分な議論もなく皇室典範に関する意見を盛り込む・・・欠陥がある
  3. 男系男子による皇位継承を定めた日本の皇室典範が女性差別にあたる
上の1と2はまとめてもよい。要するに、日本国民がそれでいいと思っている法律を互いに納得する意見交換もすることなく突然「女性差別にあたり問題がある」と公表するのはおかしい、と。

まあ、あれであるな。亭主関白の家庭があって、妻も子もそれでよしと円満に暮らしているのに、『あれじゃあ奥さんが可哀想よ』とお向かいさんの弁護士一家が言い出して、それが市の弁護士会の報告書でも言及される・・・。こんなことがあれば、確かに面白くないわな。小生も同感だ。


『政治においては、世襲の権利によって統べる愚かな殿様ひとりのほうが、権勢を欲しがってなぐり合いをする無数の生半可な利口者よりも危険性が少ない。』(パスカル)

人間は進歩するが、人間が滅びるのも進歩するが故である。これもパスカルの言だったかな ?


「女子差別」という特定かつ単一のテーマに関連して検討を進める以上は、男系男子に限り継承可能であるという現在の皇室典範は、ロジックとしては問題になる。この点は誰が考えても否定できない所だ。

加えて、「国民が支持している、だから・・・」という理屈は、世界において常に容認されるわけではない。容認されなかった例など、現に無数に見ているはずである。

おそらく皇室典範という法律ではなく憲法に明記するとしても、男女の平等という観点からその憲法には問題があるという報告を国連は出すであろうし、また出さなければならない。


日本国憲法にはただ「天皇」と表現されているだけだ。天皇は男性であると規定しているのは法律である皇室典範である。憲法で天皇は世襲されると規定し、その天皇は男性だと皇室典範で決めているので、つまりは男子から男子へと、男系で世襲していくとしているわけだ。その決定を大日本帝国憲法発布と同時に明治政府が明文化して行った。

男系で皇位を世襲するという規定は「女性差別」に該当するのだろうか?

日本の天皇制が「女性差別」の象徴であったのか?

そうではあるまい。歴史という時間を通して生き残ってきたシステムは、その存在によって頑健性が証明されている。そもそも男女を差別するという習慣なり、システムがあるとして、そこから永続可能な利益が日本社会にもたらされるとは考えられない。

一言で言えば、それがよいからそうしてきた。「話せば長くなる。が、それが最もよかった」。最適であった。そんな性格のものじゃあなかったのか。天皇制についてはそう考える視点が本筋であると感じる。

ユニバーサリズムとローカリズムは、常に対立する二つの見方なのだが、それが世界の公共の利益に損害を与えていない限り、ローカルな「伝統」を尊重するという視点も「普遍的真理」という視点と同程度には重要だろう。


・・・と、総括しておくのが、今日のまとめとしては適切か。

誰の利益にもならない真実は、誰も知る必要がないものだ。これもパスカルだったかな・・・。真実だからといって、それ自体に価値があるわけではないというのは、小生も日頃同感するところなのである。森鴎外も言うように『かのように』の視点を捨て去ってはならない。人間社会はそれほどシンプルではない。

2016年3月8日火曜日

Google Nexus 6P: 第一印象

使ってきたスマホは"iPhone 4S"だ。カミさんは"4"を使っている。年齢的には小生の方が若いのだが、このところバッテリーがヘタって来たのか、朝方100%で何も使わなくとも夕方には30%に下がっている。メールチェックなどしようものなら、見ているうちに1%ずつバッテリー残量が減っていくのが見える。

なので、自宅に帰るとずっと充電ケーブルを接続している。うっかり忘れると、起きてから手に取ったとき「1%」の赤線になっていて、いつの間にか意識を失っている。その様子を人間に例えれば、人口呼吸等の生命維持装置をつけて、やっともっている。そんな感じがしていたのだ、な。カミさんのiPhoneの方が齢はとっているのにねえ・・・、これが寿命ってやつさ、などと話していたのだ。

昨日、"Google Nexus 6P"に機種更新してきた。ソフトバンクが独占販売している方で、Google Shop直販ではない。ではないが、ほぼ全体、Google仕様のスマホになっている。ソフトバンクも製品戦略を明らかに変えつつあるようだ。

連絡先、メール、カレンダー、タスク管理などなど、ほとんどの日常業務を(無料の)Google提供ツールでやっていたので、一度ログインするとあとは楽なもので、移行のための雑用はゼロである。

音楽もとっくにiTunesから卒業してAmazon Musicに移行した。音源はサーバーに置いたままだ。端末に依存するなど、やってられん、そういうわけだ。何年か前、日本のIT企業出身の同僚が『分散処理から集中処理に戻りつつあるんですよ』、そんなことを話していた。面倒なこと、大事なものは、クラウドでやってほしいし、クラウドに保管してほしい。端末は、どこまでも軽く、軽く・・・安全としても、感性としても、そうあってほしいものだ。

実は、"Nexus 6P"にするかSONYの"Experia Z5"にするか迷っていた。CPUは両方とも同じ"MSM8994 2GHz+1.5Ghz"のオクタコア、ストーレジは32Gb(6Pは64Gbもあったが32Gbにした)で同じ、RAMも3Gbで双方同じ。加えて、動くのはAndoroid。要するに、コンピューターというハードウェア製品として見れば、ディスプレイ、音質などを別として、同じ製品だ。その他の機能やデザインだけが違う。料理で言えば、食材は同じ、作る料理も同じ、ただ味付けが違うわけである。

Nexusにはソフトがあまり搭載されていない。物足りないと思う人が多いに違いない。しかし、手にしてから、小生がインストールしたのは、Evernote、OneNoteくらいだ。これ以上は余計だ。大体、タブレットを使うようになってから、このところスマホを使う頻度は下がっている。中はまだガラガラである。なので、速い。本当に速い。驚くほどである。これからもガラガラ状態のままにしておきたい。

中身でパンパンに膨らんだ財布は、見っともなくて、一番嫌いなのだ。

あまり使わないが、時々使うときには最大限にスピーディに動いてほしい。そんな使用形態であれば、徹底した<低付加価値路線>をとったGoogleに分がある。今はそう感じている。

もちろんこんな選択基準など、偏屈でいじけているし、普遍性も一般性も全然ない。とはいえ、買うなら良く作り込んだ製品が欲しいよね、と。そうは必ずしも言えないと思うのだ。

直ちに感じる問題個所もある。手に取ったとき、ボリューム調節ボタンを自然に押してしまうことが多い。自動的に音量調節ウィンドウが表示される。これは煩わしい。ボタンの位置には改良の余地がある。

手帳型のケースと保護シートを注文した。が、シートは多分貼らないと思う。タブレットにも貼っていない。保護シートを貼っても汚れることは汚れる。拭きたくなるのは変わらない。貼れば反応が悪くなる。貼らないでおいて、使用時に注意するのが本筋だと思われる。

2016年3月7日月曜日

予想は事実に追い越される: 入試採点の今後

事実は小説よりも奇なり。
事実は予想の常に先を行く。

大学入試採点に人工知能を活用しようと本気で研究していくらしい。
大学入試センター試験の後継となる平成32年度開始予定の「大学入学希望者学力評価テスト」で、新たに導入される記述式試験の採点業務について、文部科学省が作業の効率性や安定性を高めるため、人工知能(AI)の活用を含めた技術開発を推進する方針であることが6日、分かった。11日の同省専門家会議で示される最終報告案に盛り込まれる見込み。大学入試の採点業務でのAI導入は国内初とみられるが、技術的な課題もあり実現までには曲折も予想される。
(出所)Yahoo! ニュース
(元記事)産経新聞 、3月7日

記述式答案をコンピューターが採点する、と。

一度採点された答案を人間の目で再確認するなら、そもそも最初から人間が読む方が効率的であるのだから、AIで採点した結果をそのまま信頼するという発想にちがいない。

大学入試は一度きりの人生の分岐点だ。それを人工知能でやろうという時代になってきた。

であれば、人間ドックの結果に対してコメントをつけるのは、当然、人工知能で十分ということになる。病気の診断もAIで十分。セカンド・オピニオンもIBMのワトソンにお願いしようか・・・。入試をAIで採点するなら、普段の定期試験の採点もAIでOK。教員は楽になる。契約書の文言検討にはもう人工知能が導入されようとする段階にある(はずだ)。国際取引で頼り甲斐のあるアシスタントになる(はずだ)。

企業のリーガルセクション、社内弁護士はいつまで健在だろうか。

プロスポーツで近年花形になってきたデータサイエンティストも、突き詰めればデータとAIがあれば十分であるし、はるかに低コストである。やっぱり近々失業か。

韓流時代劇ではないが『世の中、変わりつつあるようです』。
この言に尽きる。


2016年3月5日土曜日

米司法省 vs アップル: アップル優勢で判定勝ちか

個人情報保護をめぐるアップル対米司法省・FBIの対立は、どうやらIT業界が団結してアップルを支援する一方、米裁判所判事からも司法省の主張に疑問が呈されて、ここにきてアップルが優勢になりつつある。そんな案配だ。

日経でも紹介されていたが、司法省の主張に疑問を呈した米裁判所判事の意見を抜粋しながら引用しておきたい。

米連邦政府がカリフォルニア州サンバーナディーノで銃を乱射したサイード・リズワン・ファルーク容疑者のスマートフォン(スマホ)「iPhone(アイフォーン)」のロック解除を米アップルに迫っていた問題で、ニューヨーク州連邦地方裁判所の判事は2月29日、連邦政府の主張の一部に疑問を呈した。 
・・・ この見解は非常に興味深い。連邦判事が米司法省の検事らの要求を退け、代わりにアップル側を支持していることを示しているからだ。 
 オレンスティン判事はアップルのティム・クック最高経営責任者(CEO)が指摘した点を一部踏襲した。 
 例えば、判事はこの問題を非公開の裁判所ではなく、米議会で議論すべきだと勧告。「この問題は昔の議員には想像もつかなかったテクノロジーや文化の現実について検討できる政治家同士で議論されるべきだ。米国の建国者らが既にこの問題について議論し、1789年に結論を出したと判事が言い張れば、憲法の地位や民主的な統治制度を求める国民の権利に背くことになる」と主張した。 
・・・ 判事が2月29日に米政府に仕掛けた攻撃でおそらく最も重要なのは、iPhoneのロックを解除する適切な技術を持っているのかどうかという点をめぐる政府の発言のブレだ。これは戦術のように思えるかもしれないが、その重要性は実際には極めて正当だ。政府は今回、iPhoneのロックを解除できなかったために裁判所による救済を求めたが、オレンスティン判事が指摘した通り、これは事実ではない可能性がある。
 判事は「政府は2カ月前、この地区で起きた別の犯罪事件での証拠排除の申し立てに反対し、全く異なる内容の発言をした」と指摘。国がアダム・ジボ容疑者と争った裁判で政府が提出した書簡を引用した。 
 書簡では「パスコードが分からなくても、政府の記録を入手する能力に重大な支障はない。(米国土安全保障省の国土安全保障研究所=HSIは)鑑識技術者に該当のiPhoneのパスコード機能を無効化させ、内部のデータを入手させる技術を持っているからだ。言い換えれば、HSIの捜査官は被告人のパスコードが分からなくても、特殊なソフトウエアを使ってその端末に保存されている記録を入手できる。このソフトウエアはパスコード入力の要求をすり抜け、コードを入力することなくその端末の『ロック解除』機能を作動させる。ロックを解除してしまえば、端末内部の全ての記録にアクセスし、コピーすることができる」と説明されている。 
 ここで言及されている技術は、アップルの基本ソフト(OS)「iOS」を搭載した端末のロックを解除するために、総当たりで攻撃を仕掛ける「IP-BOX」だ。ジボ容疑者のiPhoneは、iOS8.1.2を搭載した「5」だった。オレンスティン判事が政府に対し、当時と今回との発言の食い違いについてただすと、政府側はひどく動揺し、答えを濁した。
(出所)日本経済新聞、3月4日

当該判事は、あらゆる製品をネット経由で相互に接続するIoTが進展する中で、<安全保障のため>という名目で政府が個人情報にアクセスできることを認めれば、結局はあらゆるプライバシーを侵害する法的権限を政府に与えることになる。そんな指摘もしている。

加えて、民間企業にロック解除を強制せずとも、司法省は技術的にロックを突破できる。そんな発言を現に政府はしてきている・・・。

どうやら勝負はついてきたような雰囲気がある。


それにしても、日本の中央官庁(たとえば経済産業省や東京地検特捜部など)と民間大企業が係争している空中戦に東京地裁の判事が割って入って、政府の主張に疑問を呈する意見を公に述べるなど、ありえるか・・・

まあ、司法省が裁判に持ち込んでいるので、裁判官の立場から意見を述べたのだろうが、それにしても結論が出る前に一判事の意見がメディアで報道される・・・

メディアの権威、メディアへの信頼などなど、社会的背景が違うといえばそれまでだが、ここにも「お国柄」というものが表れている。


2016年3月2日水曜日

統計分析はいつ人工知能で置き換わってくれるのか

人工知能技術の進化で多くの専門職はやることがなくなるだろうと言われて(=心配されて)いる。

医療しかり、税理士・公認会計士しかり、判事しかり、弁護士しかり・・・そして、最も不要となるのは大学教授ということだ。

ただし不要となるのは、授業担当としての教員であって、研究者としての仕事と役割はむしろ加速度的に高まるとは見ているところだ。


いま昨年に実施した某アンケート結果の分析に時間を使っている。

質問票の質問数は17であるので、分量的にはマアマア、分析しがいのあるデータなのだ、な --- ただ回答者数が200人強であり、何を分析するにしても欠損値を除外すると、有効なレコードは150人程度に減ってしまう。

それでも統計調査として合格圏内に入るだけの信頼性はあるだろう。

早く人工知能でやってもらいたいと思います。これは真剣な願いだ。


回答をコード化し、(特定のソフトウェアによって)分析可能なデータテーブルに持っていく前処理だけで結構面倒であるのに、各質問の回答を一つのカテゴリー変量で表すべきか、それとも各質問の個別選択肢ごとにその選択肢を選んだかどうかを0、1で表しておくべきか。

どんな分析メニューをとるかによって求められるデータテーブルは違ってくる。内容の本質は同じであるので、この辺は機械的処理で本来はあるのだが、いまはまだ人の手でやっている。

先刻作業をしたのは幾つか複数の質問に対する回答パターンに着目して、回答者全体を行動パターンが異なる幾つかのクラスターに細分化する作業であった。そのため、まずはデータテーブル全体から対象とする質問部分だけを取り出して、各質問の未回答を除去し、最後にマージして対応分析にかければ、行得点を使ってクラスタリングできる。こんな手順でやっていったのだが、クラスターごとの平均消費額、男女別、年齢別構成など、データ全体の内容を含んだ状態で欠損値を除かなければならなかった。

質問ごとに個別にやってしまったのだね。

これでは使えぬ。


元のデータテーブル全体が変わることはないのだから、それを1回最初に知らせておけば、あとは分析したいテーマに応じて、作業手順を提案するくらいのことは、そして機械的なデータ準備くらいのことは済ませてほしい、人が考えなくともやってもらいたいなあ・・・。
この元ファイルを使ってね、これとこれをまとめて対応分析、その後クラスタリングをして、それでグループごとの所得の違いや動機の違い、年齢や男女別、居住区域など特性にどんな違いがあるかを知りたいんだ・・・ 
では、こうしたらいかがでしょう・・・この作業は私でできますから、このステップからあとをお願いできますか・・・
既に自然言語も理解できてきているのだから、このまま会話式で機械にやってもらいたい。

このあとをお願いできますか・・・と機械のほうから言う必要がなくなったとき、 最後までレポーティングを含めて全てを機械処理できるようになったときは、データサイエンティストなる専門職は失業するのだろう。

あと20年は大丈夫だと思うが、50年となると全く予想もつかない。