2016年5月31日火曜日

消費税率引き上げ延期 - 不思議な反応

原発再稼働を認めるかどうかでは、『もし・・・万が一にも東日本大震災級の巨大地震が来ても大丈夫か、それを上回る巨大地震の可能性は本当にないのか?』などなど、ありうべき可能性がどれほど小さくとも、危険に備えることの必要性を強調するのが世論の常である。そして、その社会心理は世論調査からもみてとれるように思ってきた。

同様の傾向はすでに昔になった感もするが米国産牛肉にまつわる狂牛病騒動からもうかがえた。

その頃、日本への輸入が再開されるかどうかで全頭検査をしようという声があり、日本の世論も強くそれを支持していたが、アメリカ政府は「全頭検査が必要であるという科学的根拠がない」として拒否した。ちょうど、その頃にビジネススクールの授業で統計的検定の考え方を解説していたのだが、「5%、1%を有意水準にして間違いがないかどうかを検査しても、間違いを見逃す確率はゼロではないわけですよね、検査の見落としがありうると知っていながら出荷するのはおかしい」と、そんなクレームを履修者から承ったことがある。この辺の事情はWikipediaにも詳しい。

間違いはあってはならぬこと、危険はあってはならぬこと。「そう思いたい」が、いつしか「そのはずだ」に転じる日本の社会心理は、これ以上面白い分析テーマはないのではないかと、そう思うほどのものだが、色々なところで顔をのぞかせる「国民性」であると見ているのだ。

ところが・・・

消費税率の10パーセント引き上げを延期したい。2015年夏場から国際商品市況は50%以上下落しており、正にリーマン危機に匹敵する「危機(Crisis)」である。とても増税できる経済状況ではないと。そんな安倍首相の現状判断に対して、『そんな危機なんてありませんよ』、『上げると言った以上は上げるべきだ』と。様々な異論が噴出していると伝えられている。

確かに石油はバーレル50ドル台に一時的にもせよ回復するなど価格反転の動きが顕著である。国際商品市況全般をみても、実は2016年初めから回復への動きが見られる。株価は上海市場で昨年8月とこの1、2月に底を二度打ったが、どうやら今年初の下落は「余震」であり、昨年夏の暴落が「本震」であったようだ。そう見れば、『いまは世界経済の危機である』とはとても言えない。増税という嫌なことから逃げる方便である。そんな批判もあるのだろう。

しかし、データを淡々と見る限り、日欧米の株価には底打ちの気配が確かにあるが、鍵となる上海市場についてはまだ断定はできまい。


上の図を見る限り、6月に、あるいは7月あたりに三番底があってもおかしくない。まだ中国の株価は下がり切っていない。

そもそも中国経済は個人消費を軸とした内需中心の経済成長を目指すべきステージに来ているにも関わらず、輸出主導型の経済構造は旧態依然であり、ほとんど改革が進んでいない。中国政府は痛みを伴う構造改革より、元安、金融緩和を織り交ぜた軟着陸を目指している。その政策効果は永続的なものではありえない。問題は解決されていないのだ……。とすれば、もっと下がることは十分ありうる。

確かに、現時点では株価や商品市況は回復途上にある。しかし、このさき1年間は何が起こるか分からない。なぜそんな声が上がらないのだろう?

東日本大震災を上回るほどの巨大地震がまた来るのではないか・・・そんな心配をするなら、今度は中国経済が震源地となって、リーマン級の恐慌が来るかもしれないと。なぜ心配をしないのだろう。確率的にはこちらの方が高いのではないだろうか。

中国を含めた世界経済が<十分に>安定してから、日本の消費税率を引き上げて行こう。いま引き上げれば、来年3月までは駆け込み需要が期待できる。しかし、来年4月以降はマイナスのショックが出る。その頃、上海市場が暴落して、中国発の金融不安が発生したらどうするのか。そんな心配を語る<(自称)経済専門家>がメディアに登場しないのは、小生、不思議でたまりませぬ。

(日本の)メディアと言うのは、いつも、何についても、実にバランスが悪い。

ある事ではひどく心配症になり、別のことでは『そんなことはないでしょう』、甚だ論理の通らないことを世間ではお話しになっているようで・・・。

2016年5月28日土曜日

Windows10へのアップグレード騒動?

仕事場のPCはまだWindows7を使っている。それより高速な方はWindows8.1だ。ともにオラクルのVirtualBoxを入れてUbuntuで作業をすることもある。齢も齢なので今更Windows10にする意思は毛頭ない。いずれにせよ、仕事場で使っているPCは退職すれば大学に返納するのだ。環境は変えたくない。そんな心理は誰にでも理解してもらえると思う。

ところが、マイクロソフト・ジャパンは強制的アップグレードを開始した・・・というので状況は一変した。

もうすぐアップグレードが始まりますというダイアログが出て困惑した人は多かろう。あまりに五月蝿いので、そんなに言うならするよという気持ちで、昨日は常用しているLet's NoteのWindows7をアップしようと作業を始めたのだ。そうすると、パナソニック製のノートPCには多数確認されている問題のようなのだが、"Intel(R) Dynamic Power Performance Management"は互換性がないので「アンインストールするか?」と聞いてくる。「いいよ!」とOKボタンを押すと、アンインストールできなかったから「手で削除しなさい」というてくる。ところが、この"DPPM"というソフトはコントロールパネルのプログラム管理からはうまくアンインストールすることができないようなのである、な。

問題解決策としては幾つか提案されている。そもそもこの現象はWindows8へのアップグレード時にも確認されていたようだ(たとえばこれを参照)。同じことをやってみるが、いくらやっても同じ結果になる・・・。

アップグレードを強制するマーケティングも戦術として理解困難だが、強制的に時間を無駄にさせられることには実に腹が立った。

全て記録しておけば問題解決へのステップとしての意味合いがあるが、色々と調べているうちに日本のソフトウェア会社がWindows10導入を勧めるソフトを表示したり、動作するのを抑止するツールをこの春に無料公開してくれていることを知る。


早速インストールして使っているが、望んだ状況を作ることができた。そもそもこのツールの本来の目的はWindows10へのアップグレードを円滑に実現することである。その中の一つのツールとしてアップグレード自体を抑える機能を含めてくれたわけである。

本来はマイクロソフト社が行うべきサービスを民間ソフト業界が担当している。日本ではなくアメリカなら、無駄な時間を不当に費やさせられて損害を被った、その損害を弁償しろという訴訟が起きてくるのではないか、と。というか、今回のマイクロソフトの戦術はそもそも不当行為に該当する(のではないか)。そんな心配も心に浮かぶ最近の状況ではある。


2016年5月25日水曜日

正に「いま」が景気反転判断が最も難しいところだ

このところの国際商品市況の動きを見ていると、底打ちしたのではないか。そう思わせる形になってきている。

主な背景は石油先物市場の上昇である。足元では石油製品の需給は引き締まり気味の予測になっている。

昨日のNY市場は住宅市場の予想外の好況を反映したものだ。

こんな中、ロンドン市場、NY市場でずっと低迷を続けてきた石油関連株が底打ちの動きをみせ、さらにはHSBCやBCSなど金融株も2015年以来の低下トレンドから本格的に上方転換しそうな形を示している。他の銘柄も総じて同じ。

数日前の投稿では、<3月までの>景気動向指数(先行系列)に基づく12か月予測を記載した。そうしたところ、この7月がボトムになるとの結果を得た。

あくまで3月までの数字の動きから、底打ちの兆しを見出せるということだ。もちろん株価は先行性をもつ。

4月、5月の動きは<上振れ>を示している・・・ということなのか。7月まで様子をみていていい・・・ということなのか。毎日の数字の変化は単なるノイズではないのか。6月23日の英国のEU離脱国民投票は結果を確認しなくていいのか・・・。

それが正にいまの状況である。
『ここが思案のインド洋』の心境だ。


2016年5月24日火曜日

メモ: 都知事に何を期待しているの・・・

苦境に立っている舛添要一都知事。東京は昔仕事をしていた土地でもあるし、無関心ではないものの、今は直接の関係はなく、遠い町の出来事であるともいえる。

ただ辞任の必要性、後任に期待される人物像をめぐって、報道されている住民の意識に関しては「これ本当にそう思っているんですか?」と、驚きの念を感じるのが正直なところ。

多いのは
「後任は透明性と知名度で橋下か東(投稿者追加:国原?)」
「舛添氏の後任は、とにかく無名で良いから、出来る限りお金に綺麗な人を望む。タレントである必要は全くない」
など、橋下徹氏や東国原英夫氏といった知事経験者の名前が出ているほか、知名度よりもクリーンさこそ重視すべきだとの意見も。
確かにカネに絡んだトラブル(?)であるので透明でクリーンな人に期待したい気持ちは分からないでもないが、クリーンである人が都知事に最適任な人なのだろうか?本当にそう地元の人は考えているのだろうか?

単にカネに縁のない「クリーンな人」なら、東京都には一千万人、いくらでもいるのではござるまいか?

「有能な」とか、「仕事第一の」とか、「滅私奉公できる人とか」、「都民を第一に考えてくれる人」とか、そんな声をあげる人は本当にどこにもおられぬのか?だとすれば、情けないことじゃ。

そんなやりとりが聞こえてきそうだ。

2016年5月23日月曜日

北の花見はライラックで・・・

昨日は隣町のS市まで画材を買いに出かけた、というより跳ね上げ式の老眼鏡をかけたまま寝てしまい、それをはずして枕元に置き、さらに肘で押しつぶしたようなのだ、な。枠が変形し、修理してもらわないとダメになった。どうせ行くなら画材も買って帰ろうと思ったのだ。ところが画材は大通り向こうで買うので、(再び)どうせならライラック祭りで賑わっている中を歩いて帰ってもいいかと思った次第。どうせ、どうせの外出であった。




大変暑い。「熱い」と言ってもいいくらいだ。まだ5月というに、まるで7月だった。

ライラックは満開をやや過ぎたころか。とはいえ、北海道で花見をしたいなら、桜よりもライラックに限ると個人的には思っている。

人の出足も大したものだ。

横では裏千家の抹茶鑑賞会がテントを開いている。テント裏を覗き見してみると、和服をきたご婦人たちが扇子であおいで涼をとっている。

暑すぎますよね・・・と、声をかけると吃驚されるだけなので、黙って歩きすぎる。




ライラックの花言葉は「初恋」だそうだ―ほかにもある。

大体は4枚の花弁があるが、稀に5枚の花弁をもっているものがあるという。それを二人で飲み込むと、二人は離れられなくなるという言い伝えがある。ただし、「結ばれる」とは言っていない。形はどうであれ「離れられない」というのは、意味深長である。



薄紫のライラックは小生が暮らすマンションの周辺にも多数植わっているが、白いライラックは比較的少ない。

こちらは「青春の純潔」を意味するそうだ。

まあ、そんな感じだが、ドイツ地方ではこれに加えて「不幸を呼ぶ花」にもなっていると、どこかで聞いたことがある。

どちらにしても、ライラックは若い人と縁のある花のようだ。

それでも中高年がみても美しい花だ。やすらぐし、桜の季節のように肌寒くなく風邪をひく心配がない。

同じ紫でも色々な色合いがある。ライラックの花の下で冷やしたワイン、それもソーテルヌとか甘口をチビチビと飲むのは最高である。

本を一冊もっていけば3~4時間はそこで過ごせそうだ。

2016年5月19日木曜日

つれづれに: 夢見が悪くて

最近、どうも夢見が悪い。もともとカミさんに比べると夢をみることが多いので『また見たの』とよく言われる。

朝起きて ああよかったと きく雀

今日は何だか「六道輪廻」とか、そんな言葉を考えていた。かと思うと、勤務先の大学がロシア軍、と思うのだが外国の部隊に占領されていて、最初は留置場らしき所に拘束されているのだ。すると、話したことのある女性が近づいてきて言う。
無用の信念なんて持たないほうがいいですよ
無用の理想なんて持たないほうがいいですよ
それより儲けなさい
あなたの商売がうまくいけば、働く人も、お客さんも、あなた自身も助かるのです
気がつくと大学キャンパスの中を若い同僚と歩き回っている。周囲はロシア軍兵士で一杯だ。そのうち野原に出た。向こうに川の流れが見えるーいまの勤務先は高台にあって川の畔りには出ない。あくまで夢の情景である。

すると二、三十人の集団が連れてこられて右の方に並べられる。正面には銃を構えた兵が整列する。この光景をみて恐怖にかられ、小生と同僚は逃げるように蹌踉と元いた場所に引き返していった。逃げ帰る途中で事務官と遭遇した。『それでもう処刑されたのですか?』と質問される。『いや、銃声は聞こえなかった・・・いや、それらしき音はしたかな』、しどろもどろに答える。

ここで今朝は目覚めたのだが、夢であったとしても、本当の銃弾が飛び交う戦場に向き合う勇気など、小生には空ッキシ備わっていないことがよくわかる。威勢のいい会話と本当の性格は別である。


それにしても、「占領」というのは「される」方にとっては悲しいことだねえ。それも感覚的にわかるような気がする。たとえ夢であっても。

この世で人間がいきる世界には六道がある。最初はそれを考えていたのだ。六道とは、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・極楽の六つである。

地獄と極楽はいま生きている世界の外にあるが、残りの4つはまさにこの世界に現出していると、小生は昔から勝手に思っている。人間だから「人間」の生き方をしているわけではない。六道の中の「人間」とは、『こんな状況、人間には耐えられないだろ』、『人間らしく暮らしたいじゃねえか』、『人間の暮らす街じゃねえよ』というときの「人間」のニュアンスに近い。

勝負の世界は修羅に属する。ゆえに、競争をしかけたり、拡大を目指したりするのは「人間」ではなく、「修羅」の生き方である。現代の経済理論は「競争」を本質的に肯定し、競争促進政策が正しい政策であると理論づけをしているのだが、仏教的哲学からいえば、修羅に生きよと主張していることになる。極楽に逝って至福を得たい、生きている間は人間らしくありたい、と。そんな願望から政治哲学を構築する観点もあってよいと小生には思われるが、現代の経済政策は本質的に異なる理念に立っていて、何が<理論的に>正しいかについては一本道の単純構造をしている。確かに「競争」を徹底すれば、それだけ社会の進化は加速される。社会の進化をもたらすためならば一人一人の人間が修羅に生きることは仕方がない。そう考えるなら、思想全体が全体主義−社会主義ではない–であるとも言えるだろう。


まあ、そもそも仏教的世界観と現代経済理論をゴッチャにする議論はゲテモノであるというのが正統的学者の判断だろう。

現代社会は専門化を徹底することで進化しつつある。専門化とは細分化のことでもある。ゆえに、一つの学問を研究することで理解出来る世界はますます狭くなってきている。

しかし、たまには仏教と現代経済理論を横に並べて考えるのも楽しいではないか。いまの勤務先はそんな姿勢を放っておいてくれるので精神衛生によい。



仕事場を撮影しておいた。Nexus 6Pでパノラマ写真を選択して撮った。そのうち、思い出になるだろう。



2016年5月18日水曜日

アップル株: 投資家 or 投機家、人はいろいろだ

投資家として長年世界の注目を集めてきて、老いて益々盛んな人物となると、小生、やはりソロス氏を第一に挙げる。

Billionaire George Soros cut his firm’s investments in U.S. stocks by more than a third in the first quarter and bought a $264 million stake in the world’s biggest bullion producer Barrick Gold Corp.

(出所)Bloomberg, 2016-05-17

米株を大幅に減らして、金鉱山企業を買った、と。

まあ、わかるような気もする。理解の範囲内にはある。しかし、実に短期的な思惑ではないかとも感じる。投機だ。

そうかと思えば、同じく高名なバフェット氏は最近になってアップル株(!?)を購入したそうである。
But the big news of the day came from Warren Buffett. The chief executive of Berkshire Hathaway has revealed a new $1 billion stake in technology giant Apple in the first quarter, a move that comes as the technology giant’s shares have been battered amid a slowdown in iPhone sales. The legendary investor’s firm reported owning 9.81 million Apple shares as of March 31, valued at roughly $1.07 billion. 
BerkshireHathaway’s investment in Apple, which was the firm’s only new position taken in the quarter, follows the exits of other well-known investors, Carl Icahn and David Tepper, who both dumped their Apple holdings recently. Apple shares were up a healthy 3.46% during Monday’s session.
(出所)Independent, 2016-05-17

上の引用記事のメインタイトルは"Buffet believes in Apple" だ。

ところが、ソロス氏も追いかけるようにアップル株に新規投資したというから吃驚だ。

Soros' hedge fund, Soros Fund Management LLC, purchased 3,100 shares of Apple stock during the first quarter of 2016, a figure valued at $338,000, according to a U.S. Securities and Exchange Commission filing. The report comes after Buffett's Berkshire Hathaway disclosed a new $1.07 billion stake in Apple, purchased over the same period, that sent AAPL shares up two percent on Monday.

(出所)appleinsider, 2016-05-17

いずれも本年第1四半期でとった行動である。

世間で言われている評判は、ソロス氏は投機的(speculative)に行動するが、バフェット氏は投資家(Invester)であるというものだ。その二人がそろって、いまアップル株を買うのか・・・

ふ~~む、正直なところ、アップルが世に送り出す製品からはかつての斬新さやセンス・オブ・ワンダーが失われ、次は何を作るのだろうという期待をほとんど感じさせない、まあ一口に言うなら、「一流の会社」になってしまった。そう感じていたのだ。いま世界を驚かせる、何をするか分からない会社はアマゾンであり、ポスト・アマゾンはフェイスブックだろう。どちらのビジネスも人工知能がベースである。それがどこまで進化するか分からない。面白いが世の中を壊してしまうのじゃないか。そんな雰囲気がこの2社にはある。

マイクロソフトはねえ・・・グーグルはねえ、という同じ目線で「もうアップルはねえ」と。つまりビジネス界のエスタブリッシュメントに成りあがってしまった、そんな印象であったのだ、な。

その会社が注目されたものだ。

本当に投資なのか?

そう感じている人は多いのじゃないか。

2016年5月16日月曜日

わが人生の一部となった名機


関西の某国立大学附置研究所に在職していた時分、科研費で購入したMacintosh SE/30を自宅から研究室に移した。

車に乗せ研究棟裏の駐車場から手に持って搬入。それほど重くはない。




母が亡くなった翌年に偶々現在の勤務先で公募していた数理統計学担当教官に応募するための書類はすべてこのSE/30と日本語FEPのSweet Jamを使って作成した。書類を作成する前後のことはまだ頭に残っている。小役人の人生から完全に方向転換したわけだ。

当地に着任してからも暫くは研究室で使用していた。が、翌年か翌々年に(確か)自費であったと思うが、Macintosh Quadra 840 AV、機番はもはやうろ覚えだが、より高速に動作する最先端の機種に買い替えて、先輩のA.M.さんとの共同研究に必要な計算を進めたものである。

半ば引退状態になったSE/30であるが、廃棄するには忍びず、自宅に持ち帰って、机上で使っていたこともあったと思うのだが、そのうちに父の遺品である書棚の上に置くことにした。やがて置き場所は父の退職記念品である背の高い書棚の横の畳の上に変わり、最近は積み重ねた本の下に埋もれていたのである。

昨日、郊外のホームセンターで収納ボックスを買ってきて、その周辺を片付けた。SE/30も、自宅よりは最後の何年かの間、研究室に置く方が適切であろう、と。そう考えた次第。

2016年5月14日土曜日

今回の景気反転のタイミングは?

昨日は2016年3月期の決算報告のピークだったようだ。金融機関は、15年度はまあまあ利益を確保できたようだが、今期は日銀のマイナス金利の影響もあって、減益予想である。総合商社はとにかく資源安で回復までしばらくかかる見込み。鉄鋼は新興国の景気後退でダメ。自動車は円高でダメ。こう見てくると、どこもお先真っ暗というのが、現時点での日本経済であるようだ。

☆ ☆ ☆

ただ、株価のトレンドを長期的にみると、今回の景気後退の兆しは2015年の初めから明瞭であったことがわかる。

アメリカのダウ平均をみると、以下のようだ。


リーマン危機後の底である2009年春から2015年初まで拡大期間が6年に達しようとしていたのが15年1月である。以後、2015年を通してニューヨーク市場の株価は踊り場に入り、ずっと横ばいを続けてきている。2回あった急落は中国の上海市場で15年夏場、それから16年の初めに起こったクラッシュの影響である。それでもダウ平均は高水準を維持している。

これをロンドン市場でみても、大体は同じだ。



15年夏場から下降基調を辿っているが、これは上記した上海市場とシンクロナイズしている。この動きはドイツ市場をみても同様だ。

その上海市場だが、下図のような経路をたどっている。


上海市場の15年夏以降の急落は明らかにバブル崩壊である。15年夏に1回、16年年明けに1回、クラッシュを引き起こしている。

ロンドン市場はここに来てやや底打ちの気配を示しているのだが、上海市場のバブル崩壊がいつ一段落するかまだ予断は許さない。カギは中国の実体経済ということだ。

東京市場は下のように変化している。


2015年に入ってからも上昇を続けていた点が欧米とは異なる。その分、上海ショックをまともに受けて、下落の衝撃も強いというのが日本の特徴と言える。

☆ ☆ ☆

実体経済のみに目を向けると、通常、景気後退期の平均的長さは1年半程度というのが経験則である ー リーマンショック時も実は景気の実態は2007年末から後退しており、ボトムであった2009年春まで概ね1年半程度の不況であった。

今回、アメリカ経済を見ると明らかに2015年に入ってから頭打ち状態になっている。ロンドン市場をみてもそうだ。2015年初めから実体経済は踊り場入りしていたとすれば、今年の夏場で1年半が経過することになる。

☆ ☆ ☆

内閣府から先日公表された景気動向指数を使ってARIMA予測をしてみた。

すると、以下のような予測経路が得られた。

まず先行指数だが足元ではなお低下をするが、間もなく下降局面は終わるというイメージだ。


数字を具体的にみると、先行指数は3月の98.4から4月以降も低下を続け、7月の97.46がボトムになる。8月以降は鍋底をはうような状況になる見込みだ。

他方、生産・販売につながる一致指数は以下のようなイメージである。


こちらは夏場を超えて低下トレンドが続く予測になっている。但し、今年10月からあとの予測対象期間の後半は誤差も大きいので何とも言えないというのが正直なところだ。

いずれにしても先行指数については今夏で底打ちという気配があるという計算結果なのだが、これはニューヨーク株式市場の動きから概観できる大局観と一致している。

さて、

7月の景気動向指数が公表されるのは9月上旬である。理想的にいえば、よい数字が公表されて雰囲気が明るくなる。というより、統計数字がなくともこの夏のボーナス時期になると、経済の現場では底打ち近しという空気が出てくるのではないか。

いまの印象はこんなところだ。となると、全般に株価は足元でもう少し下押しする。買うなら今は適当でない。こう判断しているところだ。

資源価格は循環的と言うより、構造的なものが絡んでいるので、景気の先を読むよりはずっと難しい。たとえばいま英国の資源大手"RIO TINTO"に投資すれば、配当利回りは7.26%に達するのであるが、だから”GO"というわけにもいかない。

(注)
上の12か月予測計算の前提として、(もちろん)以下の要因は考慮していない。
  1. 6月23日: 英国でEU離脱の可否を国民投票
  2. 7月10日: 日本の参院選投票
  3. 11月8日: 一般有権者による米大統領選投票











2016年5月13日金曜日

本日も断想: 司馬遼太郎の「リアリズム」

今日の道新のコラム記事「卓上四季」は司馬流リアリズムと三菱自動車の品質管理を組み合わせた文章でよくまとまっている。

司馬作品は大体は読んだのだが、確かにリアリズム(現実主義)のもたらす果実と理想・信念・主義がもたらす害悪とが一貫して対比されていて、おそらくそれは同氏の戦争体験に基づく感覚的なもので、疑いの余地のない真実だったのだろう。

正直、やや偏っている気もするのだが、理想や信念が(時にはリーダーシップを裏付ける要因にはなるのだろうが)不毛で非生産的であるという指摘は小生も大賛成なのである。

いま流の言葉でいえば、リーダーシップを発揮するにしても"Data Oriented Management"に該当するものでなくてはならず、実証精神がそこに発露していないとトンデモ・リーダーシップに堕する。これは大多数の人が賛成するし、また日常でも現に経験していることだろうと思う。

その司馬流のリアリズムである。

リアリズムを貫くには、上にも"Data Oriented Management"と書いたが、現実を直視する人は、すでに最善と思われる戦略を採用しているとしても、それに執着せず現実に儲からなければいつでも方針転換する。そんな行動特性をもっているはずだ。

一方、信念や主義を重んずる人は、現実に出ている数字よりも「何が正しいか」に基づいて行動を決める傾向があると思うのだ、な。

どちらの人物を日本人は好むであろうか?

今日の卓上四季にも書いているように『現場や現実と向き合えず、不祥事に至る姿が浮かび上がる』のは、三菱自動車の悲劇であったのかもしれないが、艱難辛苦を乗り越えて部下を叱咤激励することこそトップの果たすべき役割と心得ている古典的指導者論が正しいという立場から見れば、今回のことは悲劇というより喜劇になるような気もする。

人生劇場にも、たしかに悲劇と喜劇の両方がある。

日本の組織が精神主義に堕して、帝国陸海軍のような退廃的組織になり下がる可能性は、潜在的には常にあると思っている。


2016年5月12日木曜日

断想ー「かのように」の下らないおしゃべり

書いておこうと思っていたテーマがあったが、急ぐことでもない。まったく下らないやりとりが頭に思い浮かんだので、メモっておきたい。

「相対主義」という言葉がある。不信と疑惑の現代では大体が相対主義で物事を判定、解釈している印象だ。

「▲▲ってサ、これは許せないだろ?」というと、「それは▲▲は悪いという前提にたっているわけだろ?それが真に悪いことなのか決めつけられないじゃないか。だから許せないという結論は正しいわけではないんだよ」と、こんな風な物言いをするのは、大体において相対主義である。

何かを計算して出して、その解釈を文章にする。見てもらう。「これは××の学説に似ているね。それに対するに○○という学説もある。どちらが正しいかまだ決着はついていないのですよ。」と、涼しい顔をして批評されると、腹も立つというものだ。

相対主義の下ではすべてが単なる「学説」であり、「仮説」である。


ところが、現代の世に多数生息する相対主義者も、「事実は一つですから」とよく口にするのには驚かされる。

◇ ◇ ◇


「事実は一つだからさ・・・」
「その事実って、何だ?」
「本当にあったことだよ」
「つまり一連の出来事ってことだな。出来事が続いてずっと起こっていることはわかるけど、真に起こったことを知ることなんて出来るのかよ?」
「調べればわかる」
「調べたって出来ねえよ、永遠にな。切りのいいところで調べるのを止めて、実際に起こったことはこれこれこういうことです、と言う。ここまでさ。お前さ、富士山が本当はどんな形をしているか、知ってるかい?」
「当たり前だろ」
「見たことがあるだけだろ?」
「いろんな方向からみたよ」
「見るときはさ、裏側は見えないだろ?」
「それを言うなら、立体画像をつくればいいさ」
「立体画像は富士山じゃない、モデルだよ。そのモデルだって、本当の姿を、お前、わかるのか?」
「言ってる意味が分からねえな」
「目で見て、こんなものだ、触ってみてこんなものだ、調べてから、こんなことだ。人間にやれることは、ここまでだ。そう思わないかい?」

◇ ◇ ◇

何をきいても、「そういう見方もある」と涼しい顔で受け流す生き方は、嫌いではない。狂信者や、自称「愛国者」のバカバカしさにはうんざりだ。

しかし、いや「だとすれば」という方がいいか・・・、「事実は一つしかないからネ」などと言うべきではない。どんな事実があったかということ自体、仮説であり学説でしかないはずだ。「いやあ、本当は何があったか、それはハッキリ言えないんですけどネ。調べた限りでは、こんなことかと・・・。どう思います?」。こうでなければなるまい。

しかし、これでは世の中、何も決められない。

結局は、「いまはこの見方が正しい」かのように毎日を過ごす。あんな結論を下すのは間違っているかのように生きていく・・・。森鴎外の「かのように」哲学が、実践可能性という点からはお奨めなのだろう。


ケインズのマクロ経済理論が正しい、かのように考える。
消費者は生涯効用を最大化しようとしている、かのように理論を構成する。
あるデータは■■という時系列モデルから生成されている、かのように扱う。
株価は予測できる、かのように仕事をする。
来年はこうなる、かのように旅行プランをつくる。
……

現にいま「生きている」ことはわかる。

いま自分が生きているのは(こう書いている以上)「事実」だ。次に何を「する」かだけが真の問題だとすれば、すべて「かのように」哲学で十分だ。行動が決められるからだ。それで日常が困らなければ、それでよい。

「知識は力なり」であるかのように真面目に勉強すると、「うまく」いくことが多い。勉強を続ける気になるのは、実際に知識が力になり、「うまく」いくからだ。

学問はほとんど全て「仮説」だが、知っておいて「うまく」いくなら、その仮説には存在意味がある。それ以外の「仮説」には意味がない。

こんな風に相対主義に徹すると、精神的プレッシャがなくなって愉快だ。

今日はこんな下らない「おしゃべり」を思いついたのでメモっておいた。

大学の話にまで進むと、また長くなるので、今日はこの辺で。

2016年5月10日火曜日

株が下がって「非難」するなら、上がれば「ほめる」ことになる

株価は上がったり下がったりするが、上がるのと下がるのと、どちらが「良い」現象だろうか?

そりゃあ、株価は上がるのがいいに決まっている。

確かにこれは本筋をついている。ただし、「マクロ的には」という形容詞がつけばである。資金を運用している投資家の立場からみれば、上がって嬉しい時もあれば、下がって嬉しい時もある。

株を現に保有しているときは、株価があがれば時価評価が上がるので、(売却を予定しているなら)それはそれで嬉しいわけだ。が、一定の配当が約束されている特定銘柄に投資しようと考えている場合、株価の上昇は投資の利回りが低下することになるので、株価上昇はイヤである。

株は(全体としては)売りたい人が半分、買いたい人が半分というのが市場の常態だ。なので、株価が上がってほしい人と下がってほしい人は、大体同じ割合だけいる。これが最もベーシックな認識である。

***

さて、本日の日経にこんな記事がある。
 国民年金の損失問題も争点化したい考え。「我々の試算では年金積立金管理運用独立行政法人(GPIF)の15年度の株式運用は5兆円の損失だ」。民進党の山井和則国会対策委員長代理は4月15日に開いた党会合で声を張り上げた。株価底上げのために「年金を流用した」と訴える戦略だ。

 アベノミクスの失速をどう食い止めるか。政権内では17年4月の消費税率10%への引き上げの是非が焦点となっている。
(出所)日本経済新聞、2016年5月10日

確かに東京市場の株価を買い支えたいという動機は(内幕はまったく関知していないが)あるのかもしれない。

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小生もわずかな金額を日米双方の某銘柄の株に投資しているのだが、3年前の時点では日米それぞれ、評価額は半々であった。それが現在では米株が75%、国内株は25%と、大きな差がついてしまった。

理由は簡単である。米株が上昇したのだ。株価の上昇は事業が成長している証しである。反対に、小生が保有している日本株は世界を代表する大企業なのだが、企業全体として大して成長していない。だから株価はあまり上昇しないのだ。

日本経済の景気とは個別企業の景気を合計したものである。日本の企業の株を保有しても(上がってはいるが)評価額がアメリカ株に負けているのは、アメリカ企業には物凄いスピードで拡大している企業があるからである。そんな企業が日本にはない ー あれば当然投資している。

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アベノミクスも最初は「物凄いスピード」で成長する新興企業を雲のように登場させようと。そんな志をもっていたとは思うのだ。

そんな志があるのなら、国が保有している資金を事業に投資する。リスクを負担する。これは有効だ。日本国内の銀行が国内でリスクを負担してくれない。富裕層がベンチャー事業に出資してくれない。それなら国が出資して、日本国内で新規事業を成長させるしかないだろう。他にどうすりゃあいいんですかい?この志が間違ってるとは小生は思わない。

故に、年金積立金(の一部)を株式運用するのは、国家の政策としてありうると思う。まさかアメリカ株を買うわけにもいくまいー年金財政を考えれば買ってもよいとは思うのだが。国内のニュービジネス成長に寄与するために年金積立金を活用するなら、それはそれで「将来への投資」になる。年金にはリスクが生じるかもしれないが、いまは高齢世代が将来の日本を心配するべきときでしょう。やってもいいんじゃないの・・・・「リスク」負担してもバチはあたらないでしょう。そう思ったりもするのだ、な。

ただし、(当たり前のことだが)投資の「目利き」がいなければならない。いるんですかい・・・?

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リスクはある。株価は下がることもある。下がればすでに保有している株の時価評価額は下がる。野党が非難しようとしているのは「損した」というこの点である。しかし、事業内容が所与で株価が下がれば、今度は上がる可能性が高くなる。さらに新規購入には都合がよいのである。

株は下がるからイヤだという感覚で「国家による投資失敗」をなじっても議論が始まらない。下がるのがイヤなら、上がれば良いということなのだろうか。これは余りにも幼稚な議論である。

【加筆】
年金積立金の運用先。ひょっとすると・・・と思って調べてみると、外国株も含まれているようでしたね。
平成25年度末までの年金の運用は、安全な国内債券55.43%、リスクがある国内株16.74%、外国株15.59%、外国債券11.06%、その他1.46%で、約6割が安全確実な投資商品で運用されていました。
この安全運用の国内債券を35%まで減らし、リスクがある国内株を25%に、外国株を25%に、外国債券を15%にと増やしたのが現在の運用方針。つまり、これまでに比べて年金の運用はハイリスク・ハイリターンになっています。

(出所)http://www.huffingtonpost.jp/nobuto-hosaka/pension-risk_b_9014942.html

外国株に16%か・・・。6割は最も安全な国内債券。「安全」というより、ほぼ現金と同じ、ともいえる。それを国内債券を35%まで減らしたと。国内外の株を50%と。確かに国内債券じゃねえ・・・。投資にはならぬ。株式投資(≒事業投資)は内外半々。こりゃあ苦心のポートフォリオだ。このご時勢、ハイリスク・ハイリターンとまでは言えないねえ、というのが小生の感想だ。それより国内投資をするなら、国家自らがベンチャー・キャピタルになってはどうだろう。これこそ国家資本主義だ。明治の初めは国主導でいったのだから、もう一度やったっていいでしょう。それこそ「未来の夢」を切り開くアベノミクスってものじゃござんせんか。そのうち、景気が良ければ年金が増えて、景気が悪化すりゃあ年金が減るってネ。そんな時代になるかもしれませんヤネ。そうなりゃ、民間企業にお勤めの現役世代と同じ感覚で世をすごすってものじゃあないですかい。

2016年5月8日日曜日

利他的な高齢者による「シルバー民主主義」では高齢者が浮かばれまい

シルバー世代と若年層世代の経済的不平等が問題視され始めてから久しい。

確かに日本の年金政策の不手際、というか先行き見通しの愚昧さも手伝って、このままでいけば子供たちの世代は親の世代が使ったカネのつけ回しで大変苦しい生活を余儀なくされるだろう。

そうなることが分かっているにもかかわらず年金給付水準見直しや、社会保障政策全体のリバランス(→年寄りから若者への資源シフト)が実行されないのは、高齢者の反発を恐れる与党政治家の無責任によると。そんな説明が大体の合意を得ているのではないだろうか。


☆ ☆ ☆


まあ、この説明、分からないわけではないが、ちょっと待って・・・と。

自分があと10年程度は贅沢をしたいために、息子が孫を育てるのに苦労しているのに、見て見ないふりをする。孫がきても、まずは自分たちの生活が最優先で孫に買ってあげるおもちゃは安物にする。小生の交際範囲が狭すぎるのかもしれないが、マンションの中、カミさんの友人、いろいろ観察してもそんな老人はまずいないのだ、な ー もちろん、中にはそんな老人もいる。が、大事なのは「傾向」なのだ。

小生の周りにいる高齢者は、孫のために貯金をしている人、孫の世話で息子宅に通っている人、娘夫婦と一緒に外食をすれば料理代は全額もってあげている人・・と、タイプはいろいろだが、自分が楽をしたいために、若い世代の苦境は自分とは無関係だと、そんな風に語るお爺さんやお婆さんはいない。

年金給付削減にシルバー世代が反発するのは、家族の総収入が減るからだと思われる。良くも悪くも、高齢者には家族・親族が大事であるのは確かだ。

利己的なシルバー世代が、若年層の経済的機会を奪っているという見方は本当に真相を説明している見方だろうか?

高齢者の一人一人は利己的ではないかもしれないが、世代全体としてマクロ的に解釈すれば、そうなのだという考え方は不真面目である。最近、(自分も歳をとってきたこともあるのだが)おかしいと思うようになったのだ、な。


☆ ☆ ☆



高齢者が使わない資金が高齢者の手元に眠っているのは、全て要るからではない。

贈与をすれば、<非課税対象でない限りは>贈与税がかかるからである。若者世代に移転して、若者世代と助け合いを進めようにも、そうすると国にとられるからである。故に、高齢者世帯は自分が死ぬまで資産残高を維持して、若者世代には自分の死後に遺贈しようとする。

その頃、息子、娘、さらに甥や姪たちは50歳も過ぎて、あらかた子育ても卒業している。

非常に不合理である。

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高齢者が「ライフサイクル仮説」が予想するほどにはカネを使わず資産を退蔵し、需要が低迷し、民間企業が海外で稼ぎ、国内投資は控えて配当にも回さず内部留保を増やしているのが現在の状況だ。

民間企業は「利己的動機」から貯蓄しているのだろうが、高齢者が真に「利己的動機」から資産管理をしているのかどうか、甚だ疑問である。「あとで使う」にも残り時間はもう少ないのだ。

贈与は、原則すべて非課税、贈与税を課する場合のみ法律に列挙する方式に変える方が、高齢化の時代にはかなっている。

マクロの問題を、利己的姿勢・利他的姿勢などミクロの属性に原因を帰着させる議論は、ずいぶん昔に『マクロ経済理論のミクロ的基礎』というテーマで一世を風靡したものだが、学問的な自己満足に近い。

「財政政策」は、何も公共事業や補正予算に限らないのだ。



高齢者間の不平等が若年世代の不平等を生むという話題もあるのだが、それは別の機会に。


2016年5月6日金曜日

通勤は徒歩にかぎる

新年度に入ってから通勤は出来る限り歩くことにした。今日も車はカミさんが友人とのトールペイント作りの集まりに使い、小生はバスと徒歩である。

歩いて30分程度の所でバスをおり、上り坂、下り坂を繰り返しながら、上がっていく。途中、多種多様の花が開いていた。春爛漫というには肌寒いが、写真に撮っておいた。


桜の一種だと思うのだが、違うかもしれない。この坂を下ったところに水流がある。そこに鄙びた桜の樹がある。


日本には約20種の桜があるというが、北海道にはソメイヨシノはあまりない。多くはエゾヤマザクラである。


街中はもう葉桜になった。チューリップが咲くのもいま時分だ。梅や桃も桜と一緒にさくが、もう盛は過ぎた感がする。

もう少しすると、ライラックが咲く。北国の本当の花まつりはライラックが咲く季節にするのが最適で、薄紫のライラックの花の下、薫りがほのかに漂う中でワインを楽しむのは最高である。その季節が過ぎると、ヨサコイ・ソーランがもう間近になる。

歩くと汗が止まらなくなる。体重減量にはそれがいいのだが、いくら汗をかいてもちっとも減らないのは不思議だ。



2016年5月5日木曜日

日米: 中国市場争奪で歴史は繰り返す?

米・共和党の大統領候補が(事実上)トランプ氏に決まって今秋の本選挙は面白くなってきた感がある。

報道によれば、民主党の最有力候補であるヒラリー・クリントン氏は、極めて著名で実績も十分すぎるくらいだが、特に女性と若者の支持が薄い弱みがある(そうだ)。それに対して、トランプ氏は、草の根アメリカ人のホンネに響きあうことを語っているようだが、女性層はトランプ氏に嫌悪感を感じているようである(とのことだ)。

今秋の米国・大統領選挙は、どちらが大統領にふさわしいか、どちらの候補を支持するか、というよりもどちらが嫌いか、どちらがイヤか、そんな<ババ抜き大統領選挙>になるのではないかと予想してきたが、まさしくババ抜きゲームがこれからアメリカで繰り広げられそうな塩梅になってきた。

まあ、ババ抜きを文字通りに解すれば、クリントン氏は娘さんが出産されてもうお婆ちゃんになっているそうで、そうなるとトランプ大統領誕生とあいなるわけだが、これは一場の笑い話であろう。


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ただ、思うのだなあ・・・。

トランプ氏は、日本や韓国など同盟国に対する軍事負担を軽減し、むしろ仮想敵国であった中国やロシアとの融和を図りたい。そんな姿勢を示しているので、日本政府も気をもんでいるそうだ。

本ブログで何度も書いているが、アメリカという国の<永遠の夢>、というよりこれまでの歴史を見る限り<見果てぬ夢>であってきたのは、中国という巨大市場をロイヤリティの高い優良顧客にするという野望である。もし中国人をそっくりアメリカ企業の優良顧客にすることができれば、停滞色を強めるアメリカ経済は再び太陽の光を浴びることができるというものだ。人数だけで言えば、中国は日本よりも10倍も魅力のある市場なのである。10を捨てて、1を自腹で守るなんてバカバカシイではないか。トモダチを選ぶならトモダチがいのある奴を選びたいものだ。この理屈はたしかに庶民受けするであろう。

中国市場を獲得しつつあるのは、むしろロシアであり、ドイツであり、イギリスである。そして日本も険悪な日中関係が続いているにもかかわらず、経済面では関係を深めたいと互いが考えている節がある。

アメリカが中国市場の『門戸開放』を要求したのは、20世紀初頭である。それ以来、日本はアメリカの目の上のタン瘤となってきた。ヨーロッパの帝国主義国家は駆逐するべき老大国であった。植民地帝国を駆逐する段階では日米の利益が合致したが、そもそも中国進出においては熾烈な競争関係にもあったわけだ。

1920年代以降の日本の外交戦略は、中国での権益維持と国際協調のバランス、アメリカとの良好な関係維持と中国進出とのバランス、ロシア抑制策とのバランスであった。そのバランスを一挙に崩したのが、満州事変という陸軍の一参謀(=石原莞爾)による曲芸のような戦略、というより暴発であったのだな。

あとは歴史が示すのみ。

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欧州が先行し、日本が追随する。その日本が目の上のタンコブとなる。

歴史は繰り返す、だ。

考えていることはわかるが、アメリカの大戦略を180度転換するということだ。

TPPもせっかくまとまったが、<ちゃぶ台返し>の憂き目にあうかもしれない。本当にそうなるとは予想できないが、ずっと持ってきたアメリカの野心であるには違いない。

とはいえ、共産党政府ですぜ。自由資本主義はどうするんですかい?自分だって、資本主義の象徴みたいなお人でしょ?

まあいいってものか・・・、共産党の親玉の習近平さんだって、ご親族のお方がタックスヘイブンに隠し所得をもってたってネエ、驚き、桃ノ木、山椒の木ってもんだ。看板と中身は違うと考えりゃあ、中国もアメリカもやっていることは同じってことさね。もうけ話が何よりお好きでしょう・・・。

こんな風な政治評論がそのうち出回るかもしれない。そうなってきた。

2016年5月4日水曜日

裁判員: 今後20年、30年このままで定着するとは思われない

連休も後半に入った今日4日。北海道でも桜が満開となり日高は大混雑だそうである。

長閑だ。秋までは義務的業務からも解放されているので実にのんびりとする。

これで裁判員を委嘱されたりすれば、正に晴天の霹靂に違いない。

こんな報道あり。
昨年暮れ、死刑が執行された。2009年に始まった裁判員制度の対象事件では、初めての執行。・・・「死刑がひとごとではなくなってしまった。一般市民が人の命を奪う判決にかかわるのはきつい」。(中略)「法廷での無表情な顔が、浮かぶんです。最期はどんなことを思ったのだろうかと考えてしまう」・・・まもなくして、裁判員の経験を話した親しい友人にこう問われた。
 「人を殺したのか?」
(出所)朝日新聞DIGITAL、 2016年4月22日配信

公判への市民参加としては何と言っても有罪であるか無罪であるかを決する英米流の陪審員制度が有名だが、何かの形で市民が裁判に参加する国は多くある。

日本の裁判員制度は、裁判官と市民が審理を重ね量刑判断にまで至る点で、欧州に多い参審制に似ているが、裁判員は任期制ではないところが違うという説明がWikipediaにはある。

そもそも論をいえば、起訴から判決まで一般市民がまったく関与できない制度は、民主主義国家としては失格であるとは思っている。できれば、公判を指揮するのは職業裁判官ではなく、(専門知識は必要として)一般市民から選ばれた人である。そうあってほしい。

ただ、具体的な量刑判断は判例や法的裁量の余地もある以上は、専門家に(先ずは)判断・提案してほしい。その覚悟をもって裁判官という職業を公僕として選んだのではないか、とも感じる。

日本の裁判において、一般市民がどのような役割を果たすか、果たしうるか、果たしたいと思うか、いま分かることは現行の方式が永い耐用性をもつとは思えない。そういうことではないだろうか。




2016年5月3日火曜日

富の偏在をどう思う?

世界の中の1%の人間が世界の富の99%を保有していると聞けば、確かにこの世は公平ではないと感じる。

もし、世界の人がすべて平等に等しい富をもてるようなシステムがあれば、理屈としては誰も貧困に陥ることはなくなる。そのほうが善い世界であると思う人は多いだろう。

ただ、そんな世の中が本当に住みやすくて善い世の中になるかといえば、それはそれで別の住み難さが出てくるに違いない。この辺のことについては本ブログでもこれまで何度も投稿している。


特に覚書きの必要がない時には、Evernoteに保存した記録を見ることにしている。

そうしたら『「世界の大富豪」格差拡大と「IT長者」台頭の地殻変動』というタイトルの報道(?)があるのに気がついた。これは『「世界の大富豪」成功の法則』(城島明彦著・プレジデント社)に対する書評にもなっている。

このままでは忘れてしまうので、ブログにメモしておく。一部分を抜粋・引用したい。最後のところだ。
いま話題の企業では、シャープ買収に動いた台湾のIT企業ホンハイ(鴻海精密工業)の創業者郭台銘(テリー・ゴウ)は、昨年より5億ドル減の56億ドルで台湾2位、世界228位である。一方、韓国では、“液晶テレビのシャープ”を追い詰めたサムスングループの李健熙(リ・ゴンヒ)会長が韓国一の大富豪で、資産額は2015年より15億ドル減の96億ドル、世界順位は10位下げて112位となっている。
東芝の粉飾決算騒動やシャープの身売り話は、世界をリードしてきた日本のエレクトロニクス業界の落日を象徴している。そんな日本を尻目に、「IT立国路線」をひた走っているのがインドだ。インドの大富豪トップは、3大財閥の「リライアンスインダストリー」の2代目ムシュケ・アンバニ(58)で、前年より17億ドル減の193億ドルで36位。すぐ上の35位に、PC直販の「DELL」の創業者マイケル・デルがおり、実力のほどがわかるのではなかろうか。デルは、わずか1000ドルの資金で創業した。
デルを彷彿させるような日本人起業者が出現して、「フォーブスのビリオネアランキング」の上位に彗星のごとく躍り出る日は、いつになるのか。
(出所)上記リンク先

デルを彷彿させるような日本人起業者が出現して「フォーブスのビリオネアランキング」の上位に彗星のごとく躍りでる日はいつになるのか・・・?

本当にまったく、いつになるのでしょう、と。
ここで暗澹とする人物と安心する人物に二大別される気がする。


日本社会がもっと不平等になるのを受け入れれば、ビリオネアは出現できるのだろうか。

不平等を気にしなければ、日本においても世界ランキングに登場するようなビリオネアが出現可能だと小生は思っている。

とはいうものの「平等が善い」という公理から議論をスタートさせれば、生まれてくる不平等はすべて許せないはずだ。これは理の当然である。平等がよいと言いつつ、同時に近年の日本経済に問題はないというのは矛盾している。

「大富豪」が登場してくること自体、格差拡大の象徴でもある。平等を是とする人物の目には、成功した大富豪が「成功例」とは映らず、「社会の失敗」と映るはずである。

これが当然のロジックだが、ここまで言われると「そうなるのか」と感じる向きもあるだろう。

上に引用した文章は、世界的ビリオネアが日本にも登場してほしいという願いが込められているようだ。ということは、不平等はそれ自体としては悪くはないという大前提に立っている。この発想は平等をそれ自体として善しとはしない立場である。


成功した創業者が得る巨万の富はなるほど人を羨ませるに足る。羨ましいと同時に納得できるか否かという点もカギだ。その富は、人々が待ち望んだ新たな商品を創造し、世界に提供したことへの報酬だといえば、それでそれで論理は通り、倫理にも反していない。

そう思えば、大富豪即ち社会の失敗とはならず、自分もそうなりたいドリームでありうる。確かにこういう考え方もあるわけで、これが(今のところ)現代経済学の主流になっている。

それでもなお、生産過程に貢献してきた度合いが個人間でそれほど大きな違いになっているのだろうか?こんな疑問もあってよい。1%の大富豪が手にした富のその何割かは、本来はその人のために手足となって働いてくれた従業員がもらうべき部分ではなかったのか?いや、経営者と従業員のみが、その企業の生産過程に参加したのかといえば、その企業を支えている資源や基盤の大半は現代社会の全体そのものであるとも極言できるだろう。

こんな問題意識に囚われれば、正にこれはマルクスの言う「搾取」になる。こんな経済理論は、経済理論が進化する中で完膚なきまでに論破されたはずであるが、数学の証明と同じくいくら現代経済理論を勉強しても「これで搾取や剰余価値の存在が論破されたことになるのか」と感じる人はなお多いに違いない。


何故こんな経済的現実になっているのか?
そのメカニズムを合理的に解明することが経済理論の役割だ。

しかし、これだけでは全ての現実はロジックに沿ったもので、合理的であり、(善いか悪いかは別として)そう成るべくして成ったものとなる。

論理は通るが、数学の証明を読んで納得できない思いをもつ人は多かろう。それと同じだ。

現実を説明するのであれば、もっと他にも説明のしようはあろうじゃないか。これでは何をすればいいのか分からない。そう言いたくなる気持ちは畑違いの人は誰でも一度はもつようである。

人は、問題が何であれ「論理的に」説明されてしまえば、「そうなのか」と言いたくなるものだ。これではありのままの事実を認めるしか選択肢はない。ありのままの事実から別の状態へ変えたいなら、変えることが理にかなっているという論理構造にしなければ、人は動機付けられない。

社会の進化はイノベーションによる・・・、同じことを100年も言い続けるのは芸のない話だ。

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それにしても、今日が憲法記念日ということなのだろうが、某TVニュース番組では「憲法9条の発案者は誰か?」というテーマで「専門家」が意見を開陳する予定だそうだ。

わからぬ・・・。

発案者が誰であるか。新しい事実が発見されたのだろうか。発見されたにしても、それは学問上の事柄ではないのか。日本人であるか、外国人であるか、日本政府であるか、当時のGHQであるか?戦後71年が経った現在の日本人が、発案者が誰だったかという真相に束縛されることがあるのか?法制史専門家や歴史家には興味があるだろうが、その経緯を知って、というより正しい答えが見つかるとして、これからの行動計画を変えたりする理由になるのか?

わからぬ・・・。なぜ憲法制定前後に関する意見が「報道番組」に登場する話題になるのだろう。