「相対主義」という言葉がある。不信と疑惑の現代では大体が相対主義で物事を判定、解釈している印象だ。
「▲▲ってサ、これは許せないだろ?」というと、「それは▲▲は悪いという前提にたっているわけだろ?それが真に悪いことなのか決めつけられないじゃないか。だから許せないという結論は正しいわけではないんだよ」と、こんな風な物言いをするのは、大体において相対主義である。
何かを計算して出して、その解釈を文章にする。見てもらう。「これは××の学説に似ているね。それに対するに○○という学説もある。どちらが正しいかまだ決着はついていないのですよ。」と、涼しい顔をして批評されると、腹も立つというものだ。
相対主義の下ではすべてが単なる「学説」であり、「仮説」である。
ところが、現代の世に多数生息する相対主義者も、「事実は一つですから」とよく口にするのには驚かされる。
「事実は一つだからさ・・・」
「その事実って、何だ?」
「本当にあったことだよ」
「つまり一連の出来事ってことだな。出来事が続いてずっと起こっていることはわかるけど、真に起こったことを知ることなんて出来るのかよ?」
「調べればわかる」
「調べたって出来ねえよ、永遠にな。切りのいいところで調べるのを止めて、実際に起こったことはこれこれこういうことです、と言う。ここまでさ。お前さ、富士山が本当はどんな形をしているか、知ってるかい?」
「当たり前だろ」
「見たことがあるだけだろ?」
「いろんな方向からみたよ」
「見るときはさ、裏側は見えないだろ?」
「それを言うなら、立体画像をつくればいいさ」
「立体画像は富士山じゃない、モデルだよ。そのモデルだって、本当の姿を、お前、わかるのか?」
「言ってる意味が分からねえな」
「目で見て、こんなものだ、触ってみてこんなものだ、調べてから、こんなことだ。人間にやれることは、ここまでだ。そう思わないかい?」
◇ ◇ ◇
何をきいても、「そういう見方もある」と涼しい顔で受け流す生き方は、嫌いではない。狂信者や、自称「愛国者」のバカバカしさにはうんざりだ。
しかし、いや「だとすれば」という方がいいか・・・、「事実は一つしかないからネ」などと言うべきではない。どんな事実があったかということ自体、仮説であり学説でしかないはずだ。「いやあ、本当は何があったか、それはハッキリ言えないんですけどネ。調べた限りでは、こんなことかと・・・。どう思います?」。こうでなければなるまい。
しかし、これでは世の中、何も決められない。
結局は、「いまはこの見方が正しい」かのように毎日を過ごす。あんな結論を下すのは間違っているかのように生きていく・・・。森鴎外の「かのように」哲学が、実践可能性という点からはお奨めなのだろう。
「その事実って、何だ?」
「本当にあったことだよ」
「つまり一連の出来事ってことだな。出来事が続いてずっと起こっていることはわかるけど、真に起こったことを知ることなんて出来るのかよ?」
「調べればわかる」
「調べたって出来ねえよ、永遠にな。切りのいいところで調べるのを止めて、実際に起こったことはこれこれこういうことです、と言う。ここまでさ。お前さ、富士山が本当はどんな形をしているか、知ってるかい?」
「当たり前だろ」
「見たことがあるだけだろ?」
「いろんな方向からみたよ」
「見るときはさ、裏側は見えないだろ?」
「それを言うなら、立体画像をつくればいいさ」
「立体画像は富士山じゃない、モデルだよ。そのモデルだって、本当の姿を、お前、わかるのか?」
「言ってる意味が分からねえな」
「目で見て、こんなものだ、触ってみてこんなものだ、調べてから、こんなことだ。人間にやれることは、ここまでだ。そう思わないかい?」
ケインズのマクロ経済理論が正しい、かのように考える。
消費者は生涯効用を最大化しようとしている、かのように理論を構成する。
あるデータは■■という時系列モデルから生成されている、かのように扱う。
株価は予測できる、かのように仕事をする。
来年はこうなる、かのように旅行プランをつくる。
……
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