2017年10月29日日曜日

文明は戦争で進化する??

戦前期日本の軍国主義を象徴する悪名高い刊行物として「国防の本義と其強化の提唱」(俗称:陸軍パンフレット、陸パン)というのがある。昭和9年(1934年)10月1日に発表され、世間はビックリ仰天した。誰が頼んだわけでもないのに陸軍が国家戦略の基本をマスメディアを通して提唱し始めたのだから吃驚するのは無理もなかった。

その書き出しはこうである。
たたかひは創造の父、文化の母である。試練の個人に於ける、競争の国家に於ける、斉しく夫々の生命の生成発展、文化創造の動機であり刺戟である。
(参考サイト)http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1455287
(別サイト)http://teikoku.xxxxxxxx.jp/1934_kokubo.htm

満州事変、5.15事件と一部軍人の「決起」に刮目していた世間は、今度は不言実行の寡黙な組織だと見ていた軍部が「国家戦略」を語り始めたことに驚き、マスメディアも軍人集団というこの新参者の「理論」をもてはやした。新しい理論とは、国家的危機(≒存立危機事態)を乗り越えるための「戦略の必要」、「総動員体制の確立」だった。

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中世が終わり、特に15世紀以降、ヨーロッパがその国力において先進国・中国を凌駕するに至ったのは、戦争と内乱を契機にして技術文明、中でも軍事技術がより速やかに発展したことが主因である、と。これはよく指摘される点だ。戦争の敗者になる恐怖を克服しようとすれば、敵国よりも人口を増やし、軍事技術を進化させ、敵国よりも優れた兵器を保有することが欠かせない。そのためには先ず基礎科学の発展を国家として支援し、優秀な人材は身分や家柄、出自を問わず、実力本位で抜擢する。人づくりには大いに金をかけ学校制度を設けて体系的・組織的に育成する。このように、戦争の危機が常に目前にあるなら、負けないための国家戦略が何より重要になるのは事実だろう。これは理解しやすい話だ。

古代中国でも内乱があい続いた春秋戦国時代においてこそ、産業が大いに発展し、その後の漢帝国によるアジア世界制覇の基礎をつくった。日本でも庶民の農業生産技術とその結果である生活水準がもっとも速やかに発展したのは、中央政府の統制が衰えた15世紀から16世紀、いわゆる「戦国時代」であったとされている。

戦争こそ創造と文化をもたらすものであるというのは、確かに真相の一面をついている。

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上の話題に関連して、先日、大学の同僚と以下のような話をした。

小生: 確かに、軍に召集されると、色々な技術は身につきますよね。危険物取扱(笑)の資格も得られるし、大型特殊車両の運転免許も自動的に取得できますしね。この資格は、世間でも役に立ちますよ。 ツブシがききますから。
同僚: 土木技術とか、怪我の応急処置とか、それも出来るようになります。 
小生: 格闘技も身につきますよね。危険な状況から逃げるのでなく、そんなことは止めろと無頼漢にも言えるようになります。
同僚: 何より武器を扱えるようになります。最先端の兵器の構造や操作法を学ぶには、基礎科学の知識が要りますから、頭脳も必要です。数学が苦手とか言ってられません。 
小生: 敵国の言葉も知っている必要がありますヨ。大体は戦争ではなく、戦争の前か戦争の後かで平和である時の方が長いわけですから、その間に相手の発想や考え方を互いに話をしてよくつかんでおくほうがいい。 
同僚: 外国語も自然に身につく、と(笑)。 
小生: そうなんですよ。友人もつくっておけるわけです。だからネ、たとえば江戸幕府ができて17世紀の中頃、将軍が三代目の家光の頃になって、関ヶ原や大坂の陣を経験した人たちは「若い者はなっちゃいない」と。平和ボケしてると。槍一つ満足に使えないと。厳しい交渉もできんと。年寄りは本当に若い世代をバカにしたんですね。 
同僚: それは今の日本もそうですよ。戦争を知らない世代が心配だ。何もできんと。勇気もない。危機感もないと。そんなことをずっと話しています。 
小生: だけどネ、思うんですけどネ、江戸時代の最初の文化の花が咲くのは元禄時代ですよ。戦の世が終わって、戦争を知っている年寄りがみんないなくなった後です。戦争が完全に歴史の彼方に消え去ったあとに文化の花が開き始めた。それも戦いを知っている武士の町じゃありません。江戸ではなくて、商人の中心地であった大阪が舞台です。その後も、徳川250年の平和が続く中、現代にもつながる江戸文化が華やかに展開されたのは文化文政。1800年代の初めです。今に伝わる日本文化はみな戦争とは無縁の、平和から生み出されたものです。
同僚: 戦争は文化の母であるとか、父であるとか、それは違うと。 
小生: ハッキリ違うと思いますねえ。戦争をようやく忘れられる、そんな時代が来て、やっと人は本当の新しい文化を作り始める。そうではないのですかネエ。確かに、古代中国でも戦国時代に軍事技術が進歩した。その軍事技術で漢帝国はアジア社会の覇権を得た。しかし、戦争は戦争でしかありませんよ。残酷です。そこにあるのは死と破壊しかなかったじゃありませんか。戦争が終わって到来した平和な世界で古代中国の文化は花開いたわけでしょう。戦争の傷跡がいえたあと、次の戦争を準備する必要がなくなったとき、人間は文化的活動にエネルギーをさけるのだ、と。そんな風に感じるんですよね。 
同僚: 平和ボケするくらいじゃないと、新しい文化は生まれてこないと・・・そういうわけですか(笑)。 
小生: そう思ったりするんですよネエ。戦争は進歩に必要じゃあないんですよ。社会をオープンにして、ビジネスを自由にして、競争を促進して、誰でも富を得るチャンスを持てるようにする。これを世界の全ての人間に保証してやれば戦争などは必要じゃあないですよ。競争で技術は進歩できます。イノベーションは起こります。実際、イノベーションは平和な世界でも起こっているでしょ?それを国境で壁をつくる。難民規制だ、社会保障だ、守ることばかりを考えるから、壁の外側の人は暴力で侵略する。相手を破壊することによって自己の安全をはかる。そんな誘因を相手に与えるだけです。そうなんじゃないでしょうかネエ・・・。
同僚: 創造的破壊は戦争の代わりに世界を進歩させる・・・なるほどねえ。 
小生: 自由競争、自由貿易と戦争を比べるなんて無理筋かもしれませんけどネ(笑)、そんな風に思いません? 

北朝鮮危機を材料にして、政治を展開することは、新しい時代を切り開く政治戦略では決してあり得ない。ひょっとすると、選択可能なより良い世界へ至る道を閉ざすだけの愚策であるかもしれない。この点だけは頭に入れておかなければなるまい。

戦争の危機は創造の父、文化の母などではないのだと思う。

2017年10月27日金曜日

選挙のあと: ある会話

カミさんとこんな会話をした。

小生: (朝刊のページをめくりながら)それにしても今年はタヌキの当たり年だねえ。 
カミさん: (朝飯をテーブルに並べながら)そうなの? 
小生: 朝ドラの「ひよっこ」を主演した有村さんサ、タヌキ美人って言われてるらしいよ。 
カミさん: ああ、タヌキ顔ってこと? 
小生: そうそう。かと思うとネ、緑のタヌキ。これは小池百合子のことだね。 
カミさん: 緑って? 
小生: いつも緑の服、着てるじゃない。本人は勝負服って思ってるそうだけどサ。まあ、緑より、魔女服の黒のほうがファッションとしては人柄にピッタリ合ってるけどネ。 
カミさん: 魔女は可哀想なんじゃないの?都知事でしょ! 
小生: アハハ、まあ「都知事」なんだけどネ(笑)。そうそう、ある新聞には「女帝」と書いているのもあるなあ。そういえば、フランスの新聞大手に「フィガロ(Le Figaro)」っていうのがあるんだけどネ、投票日にパリに海外出張した小池さんのことを「逃亡中の女王」って書いたらしいから、まあ「女帝」っていうのもその通りかもしれないねえ・・・「女帝」か・・、処刑されたマリー・アントワネットということなのかな? いや、あれは「王妃」だもんな、というかそもそも聖なる乙女、ジャンヌ・ダルクだったはずだが・・・ 
カミさん: もう放っておきなさいヨ 
小生: 今年の流行語大賞、何になるだろうねえ・・・。これまでは『違うだろう!!』が圧倒的に大賞候補だったそうなんだけどネ、ここに来て『排除します』が追い込みをかけてるらしいヨ。両方とも女性が語った言葉だからナア、やっぱり今年は「女性が輝く年」なんだねえ。酉年っていうのはそうなのかなあ・・・。
カミさん: (にらみながら)調べてみたら
 それにしても小池代表、「創業者の責任」があるからと言って、代表続投の意志を表明したらしい。「都政に専念します」という発言と早くも矛盾して来た。

代表を続けてもウソをついた。代表を辞めてもウソをついた。そう言われるだろうねえ。

希望の党は今度の選挙で180人以上が討ち死にを遂げた。多くの人の恨みが集まってしまった。これまでのように一人で戦って来たなら、勝つにしろ、負けるにしろ自分だけで引き受ければよい。しかし、今度ばかりは多くの人の人生を変えてしまった。仲間に入れておいて暗転させてしまった。リーダーとして望んだ大敗のツケは、ずっと永くつきまとっていくだろう。

それにしても、「政治が趣味」という人もいるんだねえと小生はツクヅクと感じる。頼まれてもあんな修羅場には出向いていかないが・・・、人は色々、人生いろいろである。

画作は小生の趣味だが、絵を自分の人生にしなくて本当によかったと感じる。絵を職業にすれば、絵で勝負することになるし、そうなると高い評価を得られるような絵を自分も描きたいと。そればかりを思うようになる。多分、絵が苦痛になる。それは一番寂しいことである。趣味に他人の人生を巻き込むと、もはや趣味にならない。他人の人生を預かるなら、自分の人生をもかける職業にしないといけない。

【加筆:同日21:30】
巷間、小池代表をつるし上げている旧民進党議員について、負けてから大将を非難するのは仁義にもとるという批判がある。そうかと思えば、非難するのはもっともであるという指摘もあって、両論様々の状況だ。すべて戦いは、白兵戦である以上、兵隊個々の強さが最重要なファクターであるのは事実だ。しかし、個の強さで戦いの勝敗が決まるのならば、何も戦略や戦術などを論じる必要はない。『勇将の下に弱卒なし』ともいう。確かに、希望の党に「はせ参じた」(というより逃げ込んできた?)旧民進党議員は自分の意志でそうしたのであり、しかもそろいもそろって弱卒だったかもしれない。しかし、兵を挙げて戦う兵を募ったのは明らかに希望の党である。希望の党の目で『排除する。絞り込む』とも明言しているのだ。その最高責任者は自らその代表となった小池百合子女史である。戦うなら必勝の戦略を講じておくのは兵の命を大事に思う大将の責務であろう。4人のうち3人が討ち死にを遂げるという結末になれば采配を揮った将軍は自決するであろう。弱卒を強兵に変えることもできるのが勇将であるという格言に沿って言うなら、小池代表は少なくとも勇将ではなかった。周囲から『あなたのせいではありませんヨ』などと慰めてもらえるような立場ではない。ひたすら謹慎するのが当然である。これだけは言えそうである。まあ、小生の個人的感覚から言えばこんな印象になるだろうか。
身を捨ててこそ 浮かぶ瀬もあれ
出処進退の美しさを日本人は何よりも重んじるものである。マア、今となっては又もや御身大事、風を読んでいるようにホノ見えるので、遅きに失したのだが。

2017年10月25日水曜日

前回投稿の補足:選挙戦のあと

今夏の都議選のあと、民進党はたかが地方選である都議選惨敗の責任をとる形で野田佳彦幹事長が辞任した。その幹事長の後任をきめる人選がうまくいかず、結局、蓮舫代表まで辞任するに至り、民進党は代表選を行うことになった。すべてはここから始まった。

職業生活が最終盤にさしかかり、隠居が間近に迫り、余裕ができてきた割にはまだまだ世間の修羅場に興味が残っている間は、▲▲三国志というか、●●戦国時代というのが本当に面白くて、フォローしていると局面の変化ごとに次はどうなるかと思わず唸っているのだな。とにかくリアルタイムの覇権闘争を自分は安全なところに身を置いて観察することほど面白い見世物は世の中にはない ー 当人達は生きるか死ぬかなので、大変なことはわかっている、この点は実に申し訳ないとは思っている。

よく分からないのだが、民主党が政権を失うに至ったA級戦犯は野田元首相だというのが党内世論だと色々な媒体を通して伝わってきている。まあ、確かに解散の引き金を引いたのは野田首相ではあったからだろう。

小生は、民主党支持者でもなく、遠い北海道で暮らしているのでよく知らないのだが、外から見ていて、野田元首相=A級戦犯という認識は納得が到底いかない勘違いである。民主党が信頼を失うに至ったのは、第一に菅直人元首相、第二に鳩山由紀夫元首相のあまりの低品質とお粗末な管理能力が原因であった。小生のカミさんは『民主党にも普通の人がいたんだね、野田さんが最初に首相をやればよかったのに』と話しているくらいだ。こんな感想が、実は一番多いのではないだろうか。

聞けば、野田元首相が民進党の幹事長をやっていること自体に党内では反感があったという。聞けば、菅元首相が野田幹事長辞任の旗を水面下で振っていたという。もしこれが事実なら、菅直人・元首相は民主党を二度つぶした、と。そう言っても過言じゃないかもネエ。

もう瓦解したあとで何をどうやっても元には戻らないが、大組織(であったろう)を崩壊させかねないような人物は、常に組織の中にいるものである。組織のためになる人物は、自らの好悪は別として、その能力は認めるという姿勢が全ての党員に欠かせなかったのではないだろうか。特に「政党という組織」に所属して活動をしている人たちは。

内部の不統一にもかかわらず、民進党は潜在的には高いポテンシャルを秘めた政党組織であった。このまま消滅して結党までの苦労が水泡に帰すとすれば、創立の理念も失われ、日本の国益にとってマイナスとなるのは間違いない。

× × ×

ともかくも、今回の「政治ドラマ」の幕がおりた。犠牲をある程度覚悟していたはずの安倍総裁は想定外の大勝利を得た。民進党議員たちは理由もないのに流浪を余儀なくされ苦労をしたが合計人数では意外や勢力を維持した。前原代表は微妙だが、政治家としては終わっただろう。小池百合子都知事は政治家として大怪我をした。巻き込まれ事故かもしれないが、本人も無茶をした。再起不能かもしれない。

交通事故もそうだが大怪我というのは、往々にして、しなくともいいことをして、その時に不意に運勢が暗転して、やってしまうものである。

2017年10月23日月曜日

まとめ: 選挙のあとに

衆院選2017の結果は、各社の世論調査や事前予測をほぼなぞるようであったので、実際の開票結果は予測の確認といったような塩梅だった。投票率が53.7%というのは関係ない。投票率が仮に95%であったとしても結果に大差はなかったであろう。基礎的な統計学でわかることだ。

やはり与党の圧勝、希望の党の自滅につきる。

これまでの投稿から抜粋するだけでも、総括としては十分なような気がする。

一つは9月29日付けの投稿から以下の下り。
マスメディア各社は面白いものだから<これで政権選択選挙>になったと力説している(もはや解説ではなく、まして報道ではない)。
見ようによっては確かにそうだが、それよりは今度の選挙は<イメージ*ムード vs ファンダメンタルズ>のどちらがより確実な勝因でありうるのか。こうとらえる方が正確だと思って見ている。
やはり選挙の勝敗は経済や外交など各面のファンダメンタルズが最も決め手になることが再確認できたと。そう結論づけている。

北朝鮮、中国ファクターもそうだが、景気、雇用状況、株価動向、物価動向、対米関係、対アジア関係、対露関係等々、どれをみても政権交代を望むような情勢はなかった。森友騒動、加計学園問題が、選挙期間中に結局は大きな論点として議論が広がることがなかったのは、国民の目がゆがんでいるのではなく、それが現実のリアリティそのものであるからだ。実際、与党が大勝したあとの本日、日経平均株価は岩戸景気時の14連騰を57年振りに更新する15連騰となった。安心感である。このような情況では野党が与党に勝てる理屈は基本的にはないのだ、な。というか、こんな情勢の中で与党を追い詰めようとしても、いざ選挙となると、うまく行くには余程の事情がいる。余程の事情があれば、まずは内閣不信任案が通るはずだ。不信任でなく、経済社会が好転しているなら、普通は野党の負けだ。

もしも民進党の左から右まで全てを小池代表が受け入れて、共産党とも協力して、日本新党ブームの再来を目指したとすればどうだったろうか?小生思うに、それでもダメだったと推量する。そもそも統一的政策提言がない以上、野合批判には耐えられないのだ。日本新党が成功した要素として、小沢一郎の『日本改造計画』があり、その小沢本人がバブル崩壊後の日本の政治で様々な仕掛けを進めていたことを忘れてはならない。民主党が政権を奪った時も、前年秋のリーマン危機で経済が混乱していた背景もあるが、同時に民主党の「マニフェスト」に対して、また民主党に所属する議員達に対して、国民が鮮烈な魅力を感じたことも勝利をもたらす主因となっていた。

一言で言えば、今回の与党大勝は民進党が自ら蒔いたタネによるものであった。マイナーな森友・加計問題であっても、内閣支持率に執拗な打撃を与え続ける蓮舫・野田執行部の戦術はそれなりの効果をあげていた。少し見っともない戦術(加えて、それなりに負の副作用もある戦術)であったにしてもだ。6月15日未明の通常国会では内閣不信任案の動議を提出してもいる ー もちろん与党によって否決されている。民進党は既に戦闘モードをとっており、自民党は受けて立つ政局として認識していた。一部のマスメディアも反政権闘争を展開中であったことはまだ記憶も新しい。民進党はそのまま不動の体制を維持すれば、安倍政権はジリ貧だったであろう。安倍政権がその危険を回避するため、いつか好機があれば早期に衆議院を解散して、信を国民に直接問いたいと考えたのは周知のことであり、小生が暮らしている北海道にも早期解散の可能性は伝わっていた。

その民進党の体制が都議選の敗退の責任をとるという理由で覆ってしまった。自壊した。そこに隙と混乱が生じた。安倍政権は当然の選択をした。そもそも、好機がくれば解散というのは政権の基本戦略であり、民進党はそれを熟知していたはずだ。それを民進党は自らが最も不利な状態でさせた。まさに「敗北の方程式」である。勝負はここで決まっていたのである。要するに、そういう事であった。前原・小池会談は、つじつま合わせで瓢箪から出たコマに過ぎない。後始末の茶番劇である。

リアリティを無視して、シナリオだけを書いても、うまく行くはずはなかったのである。

さて、もう一つは10月2日付けから。
頭をつかって、風をみて、一日中動き回ったり、雲隠れしたりしているが、肝心の結果が出てこない。忙しいわりには効率が悪い。キョロキョロしている割には、結果的には迷い道にばかり入りこんでノロマである。だからキョロマ。語源はこんなところだろう。
キョロマ達が時代の風にあおられて走り回っても、目立つことは目立つが、それは輝くとは言わないだろう。不動の定位置にあって光を放つのでなければ、「輝く」という動詞は使えない。
今回の「希望の党」と「民進党」の合流騒動を通して、頭が一番いい人は誰であったか。それは女性ではない。やはり民進党の前原代表が一番頭がいい。小池さんは他人がやるべき汚れ役を代わりに引き受けた分、人がよくて頭がわるい。ただ悪いはマイナス、いいはプラスとならないところが、人間評価の面白いところだ。
世間では希望の党の小池百合子代表が、不評を通り越していまや嫌悪の対象にすらなった印象で落ちも落ちたりという感が拭えないが、そもそも上に引用したように、小池代表がやろうとしたことは、前原民進党代表が自らの手を汚してやらなければならなかった事である。前原代表をすら使い捨てにしなかったところに小池代表の甘さがあったといえば言えるだろう。かつ、そこに小池女史が政治家として内に秘めていなければならない老獪さ、狡猾さがいま一つであることの証明をも見てとれるだろう。そもそも同女史が政治家として築いてきた実績はそう大きくはない。同女史がもっている政治家としての真の力量はそれほど高くはないということはこの点からも明らかだったはずだ。

本当は冷静にそう見ておくべきだったのではないだろうか。「小池劇場」のプロデューサーは、ご本人というより、視聴率が欲しかった(と同時にアンチ安倍闘争を盛り上げたかった)マスメディア大手企業である。そうみれば、小池百合子といえども、マスコミに使い捨てられようとしている<政治女優>の一人に過ぎない。

◇ ◇ ◇

ま、今回の与党大勝は民進党の(敢えて希望の党とは書かない)オウンゴールである。しかし、オウンゴールで試合の決着がつくというケースは確かにあるのである。

今回の選挙が多分に偶発的なものであったにせよ、これが結果であることに変わりはなく、これから新たな情況で決められて行く政治的決定が、日本の将来を決める現実そのものとなる。マスコミは政治ドラマをプロデュースしているつもりであったろうが、実際に起こることはドラマではない。

曲がり角を何気なく曲がったら、そこが迷い道であったことにならなければ幸いだと思っている。

小生自身は、前にも投稿したとおり、一地方紙や小規模な専門家集団が発表する小雑誌ならまだしも、巨大なマスコミ企業が暗黙に一つの政治的立場をとりながら政治に大きな影響力を行使することには全て反対である。そもそもマスメディア大手企業は個人企業ではなく営利法人であるが、法人には参政権はなく、投票権もない。そのような法人が発表する政見は、具体的にどのような人間集団の意見を代表しているのか、ある人間集団を代表しているのか、特定人物の主義を伝えているのか、外国人を代表しているのか、他の企業の代行をしているのか、外からはまったく分からないからである。このような主体が、国民に広く影響を及ぼすという形で実質的に参政権を行使している状況は、まったく不適切だと思っている。

【10月24日加筆】
立憲民主党・希望の党・無所属を合計した旧民進党系候補者の当選者は公示前議席を上回ったとの報道だ。これまた<瓢箪から出たコマ>が回りまわった末の<もっけの幸い>であった。立憲民主党に吹いた追い風の強さがいかに強かったかがわかる。今回の選挙で風を起こしたのは、老いたお局・小池百合子ではなく若年寄・枝野幸男であったということだ。そしてその風は、電波に乗せる映像と言葉ではなく、とった行動の勇敢さに吹いた。これまた疑いのないことだ。
まさに文字通り
巧言令色すくないかな仁(論語・学而)
いい言葉だ。

2017年10月21日土曜日

メモ: 能力を構成する複数の次元

人生のかなりの割合を<仕事>というものが占めている。職業人生がうまく終わるか、失敗して終わるかは、その人の幸福を大きく左右すると言ってもよい ー もちろん仕事で失敗しても、家庭生活で埋め合わせられている人も多いし、この逆のパターンもある。ま、職業も家庭生活も両方ともうまくまとめたい。幸福へ至ることは西洋哲学では最高善とされている。善でありたいというのは、極めて論理的な願いなのだ。

幸福かどうかを結果、幸福を求めているその人の人間的要素を原因として大ぐくりに整理すると、瞬間的時間において考えるか、少し時間をおいた短い期間で考えるか・・・という具合に、能力にも複数の側面、というか次元がある。

いま現時点でどう話すか、何をするかを選ぶのは<感情>によることが多いような気がする。少し長めの時間をとった時に、是非や優劣の順序を決めるのは、やはり<理性>である。しかし、もっと長い期間をとったとき、方向軸がぶれず、一貫した努力を続けていけるかどうかは、理性というより<意欲>が大事だ。<意志>とも言える。そして、意欲や意志が適切であるかどうかは、最後にはその人の心の中にある<理念>が大事になる。では、その理念を形成するのは・・・。キリがないが、多分、その社会の慣習や伝統・美意識、宗教や哲学・世界観が軸になるわけで、マクロ的には<国民性>とか<民度>というものになって現れるのかもしれない。

この中で、いわゆる「頭がいい」というのは、理性の働きが速い、的確である、記憶力と論理的思考力が卓越している。大体、そんな意味をこめることが多い。頭だけではダメだというのは、感情の美しさや意欲、理念が高邁であるかどうかも同程度、というか一層重要であるからだろう。

ここまで書いてきて語呂合わせのように気がついたが、意欲といえば欲、意志といえば志だ。志(ココロザシ)といえばイメージが良いが、実は欲(ヨク)と一体のもの、実は同じものかもしれないねえ。そんなことだ。

2017年10月18日水曜日

メモ: 経済問題、最近の七不思議にまた二つ

今日時点で疑問に感じている点が少なくとも二つはある。なぜ本筋の議論をしようとしないのか、小生にとっての七不思議にリストアップした(もう七つは超えてしまったが)。

疑問1: 給付型奨学金の拡大
とりあえず簡単のため大学・大学院に議論の対象を限定しておきたい。「貸すのではなく、お金をあげるのだ」とすれば、どんな学生にお金をあげるのか、給付型奨学金の支給対象者の選別方法で紛糾するのは必至だ(授業料免除などは予算枠があるので学内で適否が審査されている)。 万が一、税金をドブに捨てるようなケースが発生するならば、どんな理想があれ、それ自体が悪(というより、退廃?堕落?)であろうから、支給による効果を最初にチェックするのは当然であろう。規模が小さいなら、世間の関心を呼ばずに「なんとなく支給」という方式もありえるだろうが、拡大するなら合理的に説明可能な方式を決める必要がある。これは非常な難問であるに違いない。
給付型の「学費支援」は日本は既に実質的に広範にやっている。 
公費で運営する国公立大学の授業料を一律的にさらに引き下げればよい。 
授業料をゼロにするセグメントがあってもよい。必要なら、国公立大学、学部・学科を新設したり、定員を増やせばよい。 
大学への合否判定で自動的にスクリーニングできるので来年度からでも実施可能だ。特に地方圏の子弟にとっては「希望の道」になる。経営の拙い割には不透明で国民の目が届きにくい私立大学を淘汰できるというプラスの効果も期待できるだろう。
戦前期は、陸海軍の士官学校、兵学校(現代の防大も同じ)、教員など教育指導者を育成する師範学校は授業料がゼロであった。ただ公費支給範囲がいかにも狭かった。が、経済的に恵まれない子弟が学問を志し、才能を開花させる道は提供されていた ー このことは日本が貧しさからスタートしたことの現れでもある。危機感の現れと言ってもよい。同じ危機感をもてば同じ選択につながるのではないか。
引き下げようと思えば簡単に引き下げられる国公立大学の授業料をまったく検討することなく、はるかに難しい制度設計が伴う給付型奨学金を議論するのは、やっぱり七不思議だネエ。そう感じてしまう。 

疑問2: 企業の内部留保課税
同じことは配当に対する分離課税税率を20%から(たとえば)30%に引き上げればよい。しかし、こうすると株主は配当で受け取るのではなく、内部留保による株価上昇という形でもらう方を選ぶはずだ。だから配当課税を重くしても税収は増えない理屈だ。 
故に、内部留保課税。目的は資本所得課税の強化である ー 資本課税にまで踏み込んでくると財産権不可侵とぶつかり社会主義に近くなる。同じことは所得税の累進度強化でも達成できる。アメリカなら共和党ではなく民主党政権がやりそうな政策である。 
配当・内部留保など資本所得に対する税率を引き上げるなら、日本企業に資金を投じる魅力が外国企業に比べて下がる。いまでも日本人にとってイギリス株を買うのは魅力的だ。というのは、配当の源泉税率はイギリス側でゼロである。加えて、イギリスでは法人実効税率が20%で日本の30%弱より随分低い(資料はここ、イギリスはもっと引き下げようと言っている)。それもあって英企業の配当利回りは非常に高い。だから日本株を買うより英株の方が有利だ ー アメリカ株ならいわゆる「配当の二重課税問題」があり複雑になるが、概して米企業の配当利回りは高く、米株有利の状況がある。今でも日本企業は資本調達で不利なのだ。 にも関わらず、もっと日本企業を不利にしようとしている。これは不思議である。
日本で新規事業が減れば、優良な就業機会が減る。収入は伸びず、低劣な仕事ばかりが増える。アメリカならこんな反対論が必ず共和党支持者から噴出して、与野党が伯仲するだろう。が、日本では「実は財務省も腹のなかでは考えていたのだ」などと、あたかも内部留保課税が正しい道であるかのような流れが出来かかる。これ、実に不思議だ。どちらが正しいなどと簡単に結論が出るような問題ではないのだ。
まあ、自民党政権では所得税の累進度強化は言い出せないだろう。分離課税廃止などは絶対無理ともいえる。これは自明だ。資本所得課税も言えない。だから消費税の税率引き上げを提案している。消費税率の引き上げは<党派的>と言えばたしかに党派的ではある。自民党の党益からみれば仕方のない選択だ ー 大衆福祉国家の理念が強かったヨーロッパは、それでも付加価値税20%の世界を築いているのだが。資本所得課税強化より穏やかな選択、たとえば所得税の累進度強化(さらには配当・譲渡益の分離課税廃止)を正面から訴えている政党が日本にないのは、やや不思議だ。低所得層から中の下までを減税、中所得層の上からは増税。人口でいえば利益を得る人が多いはずなのだが誰も言わない。近年の格差拡大は株式運用益の大小でほとんど説明できるはずだ。これを言う政党が一つもない。不思議だ。七不思議にリストアップしてもよいのだが、多分、ブレーンらしいブレーンがいないだけの話なのかもしれない。でなければ、自分の所得にとってマイナスだからかもしれない。

ついでにいうと、今度の選挙でどこかの党が口にしているベーシック・インカム。『私たちも言葉は耳にしています、良さそうネ、公約に入れておきましょうカ』という感覚で、まるで『サンタクロースが住んでいるお伽の国があるのヨ、そこではネ、・・・』という母の寝物語にも似ていて、どう考えておけばよいのか分からない。

2017年10月16日月曜日

一言メモ: これは本当に公選法違反にはならないのか?

2年ほど前に作った読書用メガネをなくしてしまった。ずっと昔の単焦点メガネはあるが、度が合っていないせいか、かけていると頭が痛くなる。「そろそろPCを使った統計分析実習は限界か」と感じてきたが、来年2月迄はやらなければならない。そんな事情で今日は隣町のS市にあるビックカメラまで出かけ、近くのテキストが読みやすい眼鏡を作ってきた。節約路線である。

選挙期間中というので駅構内のテレビでも選挙テーマのワイドショーを流している。と、KIOSKをみるとこんな広告がある。


余りの露骨さに呆れたので、帰宅してからネットの「週刊文春WEB」(本日現在)からコピーしたものである。

これは「希望の党」という政党の代表を誹謗している以上、特定政党に対するあからさまなネガティブ・キャンペーンである。発売は12日だから公示日より後である。

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個人としてブログを投稿している小生ですら、選挙公示日の10月10日以降は特定の候補を貶める、あるいは逆に特定の候補をもちあげるような文章を書くのは、なんとなく気が引けて遠慮している。一般有権者の中のたった一人でも、やっぱりネ、そんな感覚だ。もちろん一般有権者はブログやツイッターで特定候補者を応援することができる。落選運動も可である ー 但し、メールによる依頼は駄目だとされている(参考資料はここ)。

いま疑問に思っているのは、個人による落選運動は可能なのだから、法人であるマスメディア大手にも可能であるという法理はあるのかという点だ。

🔶 🔶 🔶

市場において、消費者は商品を売っている商店主に対して売値を値切ることは自由にやってよい。むしろ対等の立場にある経済主体が競争し、かつ交渉しあうことで全体としてはより善い結果がもたらされるものである。しかし、大企業が中小零細企業に対して、同じ値引き交渉をすれば「独占的支配力の行使」、「優越的地位による交渉力の濫用」と判定されることが多い。だからこそ、独占禁止法がある。経済活動には過大な影響力が行使されないよう規制しているのだ。

同じ問題意識は、世論形成における影響力の大小にも向けられなければならないと思うのだが、どうだろうか。経済プロセスだけではなく、政治プロセスでも、個々人の集合体である国民の政治的意思が、少数者の影響を受けることなく、選挙結果に反映されることが重要になる。そのための環境作りは放っておいてもできるものではない。だからこそ公職選挙法がある。

🔶 🔶 🔶

選挙期間中に新たな事実/功績/スキャンダルが明らかになるなら、報道としての価値もマアあるのだろう ― それが報道に値するという判断が少数の編集部幹部によって行われるのはやはり不適切だと思うが。しかし、上の週刊文春の批判記事はざっとみて、古い話ばかりであり、あえてこの時機に出版するのは何か同社が政治的意図をもっているからではないかとすら感じる。

そもそも営利法人である出版社に投票権はないのだ。ない以上、選挙という社会活動に参入し、選挙結果を左右する影響力を行使してはならないと思うのだがどうだろう。

というのは、有権者である個々人は投票権を持っていることを判定可能であるが、法人はそもそも国内で法人格を有しているだけの擬制的存在であって、その法人が有権者のある集合を代表しているのか、投票権を有しない外国人の意志を代行しているのか、まったく分からないからである。後者の可能性が理論的にもせよ否定できないのであるから、投票権がない営利法人が結果を左右するかもしれない政治的意見を公開することは、不適切だと小生は思うがどうだろうか。

営利法人である出版社が特定の政党を批判したり、支持したりする活動を是認するなら、たとえば経団連(→自民党を支持しているはずだ)が自民党を支持するコマーシャルを流したり、医師会(→やはり自民党だろう)やその他業界団体が同じことをするのもOK、全国の商工会議所(→ここもまず自民党だろう)が特定の政党を支持するコマーシャルをテレビで流すのもOK、その他の株式会社が特定の政党を支持するCMを流すのも、印刷物をホームページに掲載するのもOKになるのではないか。

しかし、上に挙げたどの団体も個人ではない。投票権は持たない。投票権を持たない法人が選挙に影響するかもしれない意見をあえて述べる動機はない、というか持ってはならない理屈だと思うがいかに。出版社についてもまた同様なロジックがあてはまる。





2017年10月15日日曜日

「無党派」というマイ・イデオロギーは何を意味するのか

選挙の結果を決めるのは「無党派」である。選挙がやってくると、例外なくマスコミはそう言っている。大体、有権者全体の確か4割ほどが無党派に属しているのだろうか。

が、よく考えてみると、「無党派」なる政治的立場というものは、一考に値する、というかそもそも最大集団が無党派だという状況になるというのは一体どういうことなのか。そんな疑問もわいてくるのだな。

「無党派」が最大の政治集団であるような先進国はほかにあるのだろうか?

こんな文章がネットにある。
希望の党はおそらく50議席も取れない結果に終わるだろう。そうなれば、小池氏の責任問題に直結し、人々は彼女から急速に距離を置き始めるに違いない。政治は結局、その時々の風や勢いだけで突っ走ると、失速したときに自らを支える軸がないので、新たな風や勢いに吹き飛ばされて終わる。安倍晋三氏が、一度は権力を失墜しながら復活できたのは、勢いを失った彼を支える人々が側から離れず、再起のチャンスを皆でお膳立てしたからだ。 
それでも世論調査では、比例での投票先に希望の党を入れるという人が根強くあるが、そうした人々の多くが、おそらくは無党派層であり、政治的関心の薄い人々だろう。他党に入れるという人に対して、希望に入れるという人は話題に飛びつきやすい「なんとなく層」が多く、彼らの多くは、投票日が晴れていれば遊びに行き、雨が降れば外出を控えるだけのことである。
(出所)植村吉弘「希望の党は大敗北に終わるだろう」、2017年10月14日

非常に冷めた目で「無党派」集団の行動パターンを見通している。大体、そんなところだというのが真相だろう。

ただ、小生自身も若い時は子供も二人いて小さく、平日は仕事があり、カミさんも家事に忙しく 、たまの週末はどこに買い物に行こう、どこに遊びに行こう、と。そんな話しばかりで、わざわざ寄り道をして「投票しとこうか」と現実に投票所まで足を向けたのは稀ではなかったかと。そう記憶している。まあ、5回に1回くらいは投票したろうか。それも国政であって、地方選挙などほとんど行ったことがない。40歳になるまでは、正直、そんな感じであったなあと記憶をたどっている。

で、政治的関心となると、やはり必ずしも一貫していなかった。つまり「薄い」といえた。北海道に移住してからも、地元選挙区で民主党候補にいれたりしたこともあったし、カミさんの知人(おそらく創価学会の会員なのだろう)に薦められて、カミさんと二人して公明党候補に票を投じたこともある。まあ「なんとなく」であるな。

自民党に一貫して投票するようになったのは、40代も後半になってから、それとももっと後になってからだろうか。職業人生の後半が明瞭に見えてきて、自分の年金生活も時間の地平線の向こうに見えるようになった頃だ。その頃になると、何か新しい風が吹いてほしいというより、積み重ねた実績や資産や生涯設計を安定的にキープしたいと。そう願うようになった。多くの人もそうではないかと思う。まして「リセット」などはとんでもない発想で、恐怖をすら感じさせる用語である。ほんと、小池百合子という人物は言葉のセンスがない御仁だ。

小生一人をとっても政治的姿勢はこんな変遷をたどっていることを思うと、「無党派」集団を年齢、職業などで層別化するなど、より詳しい分析をすると、面白い結果が出てくるような気がする。

◆ ◆ ◆

これ以降、マクロ的にざっくりとした観点から要点をまとめてみたい。

いま日本はシルバー世代に重心が移ってきている。また、日本国民は世界でも有数の資産を形成している。政府はすでに債務超過だなどと指摘されているが、日本国全体でみるとバランスシートは極めて強固であり、だからこそ経済的危機においてはしばしば円高となる。

日本の有権者はマクロでみると「金持ち」なのだ。日本という国は世界の中では「富裕層」に属している。これはデータに基づく事実だ ー 著名なリッチマンが目立って多いという意味ではない。

日本に金融らしい金融産業はないのが実情だが、カネは持っている。だから、持っているカネを海外に運用して、どう儲けようかと。これが近年の日本国民の関心事項である。政府はイノベーションであるとか、国家戦略であるとか、さかんに旗を振っているが、カネを実際に持っている人は「お上」を信用して国内でチマチマ運用するよりも、米株とか英株に投資する方がもっと儲かることを知っている。政治家は邪魔をしないでくれと願っている。だから、「改革」などはホンネでは欲していないのである。

年金制度自体、支給のための主な財源は支払保険料の積立金残高である。その積立金の運用に株式が組み込まれてからもうかなりな年数がたった。いま運用先の4割(今でもそうだと思うが)は外国株式・外国債券になった。日本国は、家計も年金機構もどこもかしこも丸ごと、国内外に資産を運用して儲けては、やり繰りしているのだ。こんな時代であることが政治の大前提になっている。「リセット」されるなどはとんでもないことなのだ。

■ ■ ■

日本が豊かである間は、本気で「改革」や「リセット」を望む有権者はいない。というより、正しくいうと、数が減りつつある。加速度的に減っている。

なので、正直に「改革」を本気で連呼する政治家は嫌われるだけである。まして改革より過激な「リセット」などを言えば、その時点で「あれはいかんね」と。これが現時点の日本社会の現実だと思うがどうだろうか。ついでに言えば、安倍現総理が憲法改正を言い始めて高齢層に受けが悪い理由は上に述べた点と同じである。

高齢層から既得権益(=財産権として保証されている富)を奪って、若年層にシフトさせても、国民の資産が増えるわけではない ー 高齢者の富はいずれ若年者にも継承される、あるいは高齢者が生存中にすでに継承されつつある、であるので高齢者の財産権の消失は、若年層が富を失うことでもあるのだ。そのことを若年の人たちは本能的に察知している。

資産の配分を移し替えるだけではダメなのだ。あちらが燃えているからといって、かける水を此方から彼方に変えるだけではダメである。此方がまた燃えるだけなのだ。かける水量全体を増やさなければ課題は解決できないのだ。

■ ■ ■

高齢者はなるほど恵まれた年金生活を送っている。しかし、年金の過半の部分は既にもっている資産の取り崩しである。自ら形成した資産をそのまま後世代に継承する義務はない。自らの生計にあてるために公的制度によって貯蓄してきたわけだ。当然、資産を取り崩せば、金持ちではなくなる。これは若年層には損失かもしれない。しかし、若年層は高齢層が形成した豊かな社会を生まれながらに享受できている。小生の上の愚息は非正規社員としてカツカツの暮らしであるが、それでも発展途上国の同世代よりはのんびりと豊かな生活をおくっている。この経済状況は比較的最近になって日本に生まれたことによる世代的な利得である。

要するに、先に貧乏を経験して後に豊かさを享受するか。先に豊かさを享受して、後に貧乏になるか。違いはここにある。これが基本ロジックだ。それでも技術の進歩、生産性の向上への努力があれば、団塊の世代が退場した後の時点において、現在の若年層が元の貧困に戻ることはない(はずだ)。そのための「国家戦略」、「人づくり」。だから、やはり、この方向はキープしておくのが理にかなっている。

有権者は政治家が想像するよりずっと頭がよい。政治家ほど言葉が上手でないだけである。

(とりあえず)本日の結論/予想:

  • 「無党派」に若年層が多く含まれているならそれはよく理解できる。イデオロギーというより、何を最優先するべき価値であると認識するかということ。
  • 「無党派」に高齢層が含まれているなら、与党支持/野党支持の意識がない、つまり自分自身の生活基盤がよく理解できていない人たちではないか。不満がある現状を「改革」したいという願望があるなら野党を支持する理屈だ ― それが自らにとって利益につながるかどうかは別の話題。生活基盤の自覚が弱いので、政治的立場が定まらず、故に言葉に騙される確率が高いのではないかと憶測する。

2017年10月13日金曜日

メモ: 東名高速事故

東名高速道路の追い越し車線で起きた夫婦死亡事故。大変傷ましい交通事故、というより事件であり、テレビのワイドショーでは選挙期間中の自粛ということもあるのか、いつもの政治ショーではなく、こちらが主役級の扱いになっている。

捜査当局から得た情報だろう。「危険運転致死傷」ではなく「過失運転致死傷」に問われるとの報道で、これはおかしいというコメントがテレビ画面ではあふれている。

そういえば、法曹出身のコメンテーターが言っていたのは『これは未必の故意による殺人ですよ』。

まあ、一つの事件をどういう角度からみて、いかなる法を適用するかは警察と検察が協議をしながら手続きが進められているはずだ。担当検察官の力量が非常に問われる事件でもあるだろう。現場で捜査をする警察の受け取り方が検察側にどのように反映されるかも興味のある視点である。

ただ専門外の立場からいまの感想をメモしておくなら『窓から植木鉢を落とす行為であっても未必の故意による殺人罪が成立することがある。まして駐停車厳禁である高速道路の追い越し車線に意図的に停車するよう仕向け、現実に被害者が死に至っている点をみれば、未必の故意による殺人が成立するのは当たり前である』、このようにも思うのだな。

「過失」というのは、もっと注意をしていれば回避できていたはずの致死傷行為をさす。今回のケースでは「過失」というのは当たらないであろうとも感じる。

この事件を担当する検察官、そして任命されるはずの弁護側。やりがいのある、「面白い」というと誤解を招きそうだが、公判の審理には非常に興味がそそられるのが事実。

それにしても、この捜査経過情報。警察側から出たのだろうか。検察が過失でいくという線に不満でもあったのか・・・よう分からぬ、いささか奇妙な雲行きである、な。テレビと世論に押されて、というか迎合して、検察側が罪名を途中で変更するというのもカッコ悪い。信頼にも傷がつく。どうするのだろう。この点は「面白くなってきた」と言っても問題はないだろう。

2017年10月12日木曜日

憲法論議七不思議の一つ

選挙期間ということもあって憲法論議が盛んである。

何かと言うと9条ばかりについて議論をしている。

昨日など、投票権が18歳以上に引き下げられていることもあって、ある高校の期日前投票所の風景が放映された。と同時に、憲法改正に関連した講演(講師は誰であったかな・・・)も挿入されていた。聴き手は高校生である。

エエ〜、みんな憲法というものの存在意義はなんだと思う?それはですネエ、憲法は国家権力を縛るもの、国民は自由、国民は憲法で縛られないんです、そうではなく権力を縛る。それが憲法なんですネ。憲法というものはそのためにあるんです・・・

イヤハヤ、マッタク、何だかそんなことをしゃべっていた ー とてもではないが、「話していました」などという礼儀を守った表現を付与する気にはなれませぬ。まあ、「公民」の授業がきちんと行われていれば、こういうアジ演説のような邪説の誤りは高校生もすぐに気づいていたとは思うが。

放送するテレビ局もテレビ局である。やはり『頭脳は新聞社にまかせ、テレビ局は肉体で稼ぐ』、今でもそんな風なのだろうか・・・。

◆ ◆ ◆

憲法30条の規定を引用しておく。
国民は、法律の定めるところにより、納税の義務を負う。
いわゆる納税義務の規定である。

憲法は国家が国民に提供する公共サービスのコストのうち、何パーセントを税として負担するべきであるとは定めていない。しかし、日本国憲法施行後、戦後日本ではずっと赤字国債はタブーとされ、昭和40年度までは均衡財政が守られていたことを思い出せば、憲法30条の規定する「納税の義務」とは、基本的には公共サービスの費用は国民が責任をもって税として納付する主旨である、と。そう解釈するのが自然だと思われるのだ。

まして国家財政のうち3分の1が税ではなく、必要な税率引き上げをしぶり、一部の富裕な国民、投資ファンドなど金融機関、外国人、あるいは日本銀行に国債を購入してもらう形で財政資金を調達している現状は、そもそも憲法30条に違反していると。小生はずっとそう考えている。

国民もまた義務を負い、憲法には縛られるのである。疑いの余地なし。納税の義務のほか、憲法はあと二つの義務をも定めている。憲法は権力だけを縛るものではない。

というか、<国民主権>である以上、権力を縛るイコール国民を縛る、こう言っても可であろう。いかに「国民の名において」ではあれ、やってはいけないことを定める。それが憲法である。こう言ってもよい。本当に主権者が国民で、日本国憲法が真に<民定憲法>であれば、こう考えるしか考えようがないであろう。

『憲法は、権力を縛るのであり、国民は縛られない』という意見が、なぜいつまでもテレビ界の「常識?」としてまかり通っているのだろう? これ、七不思議じゃ、ずっとそう思っているのである。不思議じゃ、ほんとに。

◆ ◆ ◆

で、9条の話題に戻る。いかに日本人が国民の名において「許せぬ」と思う場合でも、現行の9条ある場合は絶対に武力の行使は許されない。そう書いてある。自衛権云々は戦後日本で発達した屁理屈だ。国民の名における場合でもできないのだから、政府も理の当然として出来ないのだ。これが本筋のロジックではないか。

「できない」と憲法に書かれていることを「こういう場合ならできる」と政府が言っているのは、国民が本当はそう考えたいからである。結局のところ、政府は国民の写し絵にすぎない。なので、ロジックとしてはおかしいと感じることも、結局は通る。定着して、これで良かった、理にかなっている、と。

本当は縛られるべき国民が、縛られたくないと本当は思っている。だから『国民は縛られないのです』と堂々と語る人が出てくる。『縛られるのは国民ではなく政府です』という理屈を選ぶ。国民はフリーだと結論づける。実は最も危険なチョイスであるのだが、戦後日本社会の本質はこんな風に要約してもそれほど間違っていない。そんな気がしているのだ。

2017年10月11日水曜日

今後の課題メモ: 美人の社会学? 女性の社会進出の一側面

「女性が輝く時代」、「女性の社会進出」というキーワードには小生は心底から賛成だ。亡くなった母は『お母さんは何も仕事ができないのが残念だわ、戦争で諦めたけど本当は帝国女子医専ていう学校があってネ、高等女学校を出たら、そこに進学したかったのよ』と、何度小生に話したかわからない。母は専業主婦であったから、父と結婚して主婦となってからは、いわゆる<仕事>というものを持つことはなく、ひたすら家庭の中で家事を担当して人生を生きた。成長してから調べてみると、母が進学したかったと言う「帝国女子医専」は現在の東邦大学医学部であることがわかった。

それでも母はそんな仕方で社会で重要な役回りを果たして生きたことに違いはない、と。そう思っている。他人では代替できない役回りを担っていたからである。そんな社会システムであったのだ。カネをもらってやる仕事と、カネをもらわずにやる仕事と、どちらが立派な仕事ですかと問われれば、人は答えるのに迷うだろう。

なので、女性の社会進出は母が聞けば当然のこと「いい世の中になったわね」と、そういうに違いない。

◇ ◇ ◇

しかし、どうも疑問に思うときが増えてきたことも事実だ。

世の中、色々な仕事がある。しかも人間の半数は男性である。ずばり『美人の女性はそれだけでエラくなるのに有利になるのではないか』。この問題はキチンと調べる必要があるのではないか。そう思うようになってきたのだな。

日本人は美人好き。いつだったか、いい加減な言葉だが、目にしたことがある。もちろん、「日本だけでそうだ」ということなら王朝時代の中国で「傾国の美女」やら「傾城」などという単語が生まれるはずがない。「クレオパトラの鼻がもう1センチ低かったなら世界の歴史は変わっていたであろう」というパスカルの言葉も同じだ。「美人」が世の中で果たしてきた役回りはどうやら国を問わず普遍的なものであるようだ。

魔女は絵本ではお婆さんの姿をしている。が、これは本当は奇妙だ。老婆は力弱き人間の象徴である。おそらくメッセージとしては「本当の姿は年老いた老婆である」という設定、物語のプロットとしての定石が<魔女=老婆>なのだろう。そして、人の前に現れる時は必ず美人になっている。美人に扮している。人は一般に他人を疑うが、美人には騙されるからだ。振り込め詐欺の例を引くまでもなく、お婆ちゃんは騙される立場におりがちであって、騙す方ではあるまい。人を騙すなら、お婆ちゃんより美人のほうに競争優位性がある。

若い頃からの小生の疑問は、『本当は老婆であるが、人前には美人に化けて現れるという童話がこれほどまで多いのはなぜか?』という問いである。

□ □ □ □ □

これまでに述べたことと、政治家には世間全体の比率に比べて<美人>が相対的に多いような印象があることと、何か関連性はあるのだろうか?世界的大企業の取締役以上の女性経営者にも、やはり<美人>が相対的に多いような気がする。この点もまた調べてみると、何か面白い結果が得られるのではないだろうか。

特に社会の支配的地位につこうとする場合、多くの人の支持を得る必要がある。そんな時、特に女性が進出する場合には、美人であることが相当有利ではないのだろうか?

小生、今後のちょっとした「調査課題」として「美人の社会学」というものがあるのではないかと、そう思い始めているところだ。

『美人には気をつけよ』、古代から言い伝えられてきた言葉であるが、この格言と「女性の社会進出」という大きな目標と、どこか関連づけて考察する必要があるのではないかという問題意識だ。


2017年10月10日火曜日

一言メモ: 政党党首会見をきいて

今回の選挙には争点がないという評判だ。

しかし、ないわけでもないだろう。2019年秋の消費税率引き上げの是非が一つ。もう一つは憲法改正になるか。あとは夢物語に類する事柄で論じても無駄だ。

消費税率引き上げも保守野党を含め主張はバカバカしい。消費税率を引き上げないならどうするか。提案するべきこの点をハッキリと口で言わないのだから、最初から逃げ腰だ。有権者としてはスルーするしかない。

ただ聴いていて、この党首は正直だ、と。そう感じることもあった。まずは共産党。自衛隊と憲法は相容れない。ハッキリとそう言っている。だから憲法の規定どおり自衛隊は時間をかけて解散させると言う。自衛隊の存在自体が違憲であるという意見は小生もまったく同じだ。これを堂々と語るのは正直な証拠だろう。憲法学者は違憲ではないという複雑な論理を組み立ててきたが、複雑な解釈を必要とする憲法は善くない、この一言につきる。

自衛隊を必要とするなら改憲が必要であるという論理は、共産党と自民党と、この2党だけだ。真逆にあるこの2党だけが憲法の基本認識を共有している。面白い事実ではないか。

維新の党も、まあまあ率直である。党風なのだろうか。いつも同じことを話す。つまらない。が、政治家たるもの『昔の名前で出ています』という、この愚直さこそが最高のモラルではないか。話すたびに違ったことを話す人物は信用できない。政治家失格だ。

安倍総理には(やはり)キレの鈍さとデリカシーの欠如を感じる。なので長広舌になりがちで、その割には明晰でない。『意あって知なし』かもしれない。日本人は旗幟をハッキリさせ、白黒を明らかにする明晰な行き方を好む。なので自然と頭のいい人を選びがちだ。ただ、前にも投稿したが、特有の鈍感さはあるが、基本的には内心が表情に出る正直な人じゃないかとやはり感じるのだ。だから政治家として主張に共感できると、そこまで言ってしまうと嘘になるのだが。朝日・毎日が論陣を張っているほど悪い政治家かねえ・・・と、こんな疑問もあるのが事実だ。

あとは口から先に生まれてきたような人で、みな利口で賢い人。そんなイメージであったな。

2017年10月9日月曜日

個人に政見があるなら新聞社にもあって当然だ

選挙の公示日は明日だが、いまだに小池百合子都知事兼希望の党代表が出るのか出ないのか、世間の見方は分かれている。

まったくヤレヤレである。『お父様(=小泉純一郎元首相)とも約束しております。私は出馬はいたしません』とも言っているわけだ。にもかかわらず・・・、やっぱりこれまでの<虚言癖>がなせる情況なのだろう。

バカバカしいこと限りなし。

以下のような書き込みもある。
日本記者クラブでの党首討論後の報道各社の論説委員などからの質問を聞いていたが、一部の質問者はジャーナリストとして大丈夫かと疑問を感じるとともに、ジャーナリズム出身者として恐ろしくなった。
今回は衆院選にあたって、有権者に各党の主張やそれに対する疑問点を聞く場である。それに加え「問題」とされる部分についても聞く。
当然、厳しい質問もある。
しかし、今回の質問者は、自らが所属する新聞や自分の主張に基づき、やりこめてやろうという質問の仕方で、しかも答えている途中で答えをさえぎるという失礼なことをしていた。
質問相手が答えに窮するぐらいの詰将棋を見たかったが、自分の思い通りに進まないと質問をかぶせるなどしており、全くそのレベルに達していなかった。
(出所)BLOGOS、2017年10月8日

著者は和田正宗参議院議員である 。同氏はNHK出身の自民党所属議員であるから、まったく100パーセント中立的な意見であるとは言えない。と同時に、しかし、朝日新聞にせよ、毎日新聞にせよ、<社是>というか、会社の理念が反・安倍政権、反・改憲であるのは歴然としている。

個人個人にはその人の支持政党がある。無党派にも意識されないイデオロギーがある。人は何かの価値観、自分で大切にしているホンネがあるもので、だからこそ人は誰かの奴隷ではなく、自分でいられる。そうじゃあござんせんか。故に、人間集団であるマスコミ各社にも必ず<社是>、その会社の多数派の政見というものが事実としてあるはずなのだ。

朝日新聞社も毎日新聞社も、中立的な<社会の木鐸>とか、(何か客観的な真相についての)<知る権利>など、そういう綺麗事をいうのはもう止めて、自らの立場や政見をはっきりとさせるほうがフェアではないのだろうか。『これから総理には対立的/敵対的な立場から幾つか質問をさせていただく』と、はっきり言えばよいのだ。これもまた権利なのだから。『失礼なことも言うかもしれないが、お許しいただきたい』とまで言うかどうかは大事でないが、言えば礼儀にかない、紳士的であるとリスペクトされるだろう。

実際、産経新聞や東京新聞は自らのポジショニングを明確にしている。だから、社説や政治欄は<偏向>している。偏向しているが、これもまた新聞社の権利なのだから、あやまる必要はない。

政治的な意見は常に特定の価値観や社会観、世界観が大前提になっている。大前提そのものの是非を論争し始めると社会が分断される。故に大前提として持っているイデオロギーや世界観については多様性を認めて争わず、人の内面については権力を行使せず、社会の分断を避けながら、具体的な政治問題について言葉で意見を主張する。実行可能な妥協を探る。これが現実そのものである。そうである以上は、マスメディアもまた自分の立場を明らかにしておくべきだ ー 立場を明らかにすれば販売部数は当然ながら落ちるかもしれないが。

トランプ大統領の敵が"New York Times"であり、"CNN"であるのは明らかだ。味方が"Fox News"であるのも明らかだ。立場、価値観が明らかであれば、書かれている記事の目的も明らかになる。もちろん敵対的立場の人が持っている意見を知ることも意義がある。だから多くの立場から意見が主張されている状態が望ましい。それがマス・メディアだ、いやマス・コミュニケーションというともっと正確になる。

インターネットで高度に情報化された21世紀ではもう<全ての国民のための中立的報道機関>という存在はありえない。無理であるし、偽善である。また、必要でもない。

2017年10月8日日曜日

イシグロのノーベル文学賞受賞に思う

カズオ・イシグロが(小生の方では予想外の)ノーベル文学賞を受賞して、前に買って積んでいた『私を離さないで』を取り出して読み始めている。

イシグロの作品は、小生はどちらかというとマイナーな『浮世の画家』から入った。自分も画作が好きなので、戦前期に一世を風靡し、戦後はどことなく零落した感のある大家の日常と記憶を描いているところに興味を覚えたのだ。そう、確かにイシグロの作品のキーワードの一つに<記憶>があげられる。

多くの人が指摘しているように、イシグロの心理描写はきめ細かくて、ストーリーは緩やかに展開されていく。で、ある時点で光が射す、というか地面が割れるような感覚である事実が明るみに出てくるのだな。

『浮世の画家』を読んだ時には、次は『日の名残り』を読もうと思っていたが、『私を離さないで』を買っておいたのはドラマの原作であったからだ。ドラマは第1回を観たのだが、あまりに重く、放映時間も9時からではなかったか、10時ならまだ良かったのだが、途中で止めてしまった。

あれは確かにとんでもない<悲劇>だ。

村上春樹もこの歳になって読み始めたものだから、両者の比較もいつか書いておこう。ただ今日は、昨日ゴッホ展にいって大混雑に疲れてしまったのか、ちょっと長い文章を書く気になれない。

◇ ◇ ◇

イシグロが活躍している英国文学はまずはシェークスピアにまで遡れるが、その時代から悲劇と喜劇とがあった。この区分は、古代ギリシアの華であった戯曲でも設けられていた。悲劇には人間の死が、喜劇には死が出てこないというわけではない。誰だったか『悲劇を2倍速で再生すると喜劇になる』と、そんな意味のことを言っている。

思い起こせば、昨年の初夏、小池百合子女史が自民党内の圧力に昂然と反旗を翻し都知事選に立候補し、ジャンヌ・ダルクのように颯爽と登場した時にはまるで宝塚の歌劇をみるようであったし、最初は勝てる気がしなかった情勢の下で<悲劇>をみるような感覚を覚えたものである。人気のある某評論家が「私も去年は小池女史に投票してしまいました」と告白しているが、もし住民票を都内に置いていたら、小生だってそうしたに違いない。

史上の人物であるジャンヌダルクもそうであったように小池百合子は神がかった戦術で勝利をおさめた。ところが、勝ったあと既に何百日という時間が過ぎたが、その長い日常的な時間をおくるうちに人間の性というものが次第に露わになる。汚い側面も見えてくる・・・決して、聖女のような清浄無垢の正義の味方ではなかった事実がわかってくる。

小池百合子にとって<時間>は味方ではない。これは冷厳たる事実であり、かつ致命的な事実である。歴史に名を残したいなら時間を味方につけなければならない。これは論理的な真理である。

いま人がそう呼んでいる「小池劇場」はクライマックスに差し掛かっている。颯爽と再登場したジャンヌダルク。しかし、舞台途中でヒロインであるジャンヌダルクがスッテンコロリンと転んでしまって、65歳の老いた令嬢の馬脚が観衆の眼前でモロに見えてしまうと、『これは悲劇ではない・・・ほんとは喜劇であったのか』と、上演時間が1年余の常識外の長大な喜劇であったのかと、東京都内の観衆は最初はビックリ仰天するが、次の瞬間に腹を抱えて大笑いし、ジャンヌダルクの大転倒を拍手喝采し、お尻をさすりさすり舞台の下手に退場するヒロインの上出来に満足する。小生、こんな展開がひょっとするとありうるのではないか。こんな思いで今はいるのだ、な。

ともかくも『事実は小説よりも奇なり』、『芸術は自然を模倣する』だ。たとえイシグロの才能をもってしても、現実の深遠さをすべて描写し尽くすことはできないのだ。


2017年10月7日土曜日

ハロウィン: 魔女の風を一番吹かせたい人は誰か?

来週から始まるビジネス統計解析ではRを使うので、事前課題としてR及びRコマンダーのインストールを課している。R本体のインストールは失敗しようがないほど簡単なものだが、Rコマンダーの方は時にうまくいかないことがある。そんな事態も考慮して貸出用PCにRをインストールするよう依頼したので今日は様子を見に行ったのである。

動作確認すると貸出用4台のPCにRがちゃんと入っていた。

その帰り、多少の画材を大通りにある店で買って、高速バスで帰路に着いた。途中で石屋製菓が運営している「白い恋人パーク」の前をとおる。時節はもうそろそろハロウィンである。どうやら関連行事が開かれているらしい。

宅についてTVをみていると、ちょうど上のハロウィン行事の模様が中継放送されている。黒いコスチュームに身を包んだ美しい女性が「これから魔女の風を吹かせましょう」と話している。

小生: さっきこの前を通ってきたんだよ。面白そうだね。でもさあ、魔女の風を吹かせたい人、一番風を吹かせたい人、都知事の小池さんだろうねえ・・・ 
カミさん: ええっ? 
小生: 小池マジックって言うじゃん? つまり魔女だろ? いま風を吹かせようって必死じゃない? ハロウィンも近いしサ、みごと魔女の風を起こしましょうって言ってネ、呪文かなんか唱えてサ、ホ〜ラア〜、吹いてきたでしょ、風が! オッ、ホッ、ホッ、ホッ・・・これでまたみんなを騙せるウソがつけるってものネ! 見ていて御覧なさい! ホホホホ・・・なんてさ、魔女の高笑い。これ、面白いんじゃないかネエ(笑)。マイクじゃなくってホウキか、リンゴを手に持って、勝負服もサ、緑から黒に変えたらいいんだヨ、勝負の色、黒にかえませんかって誰か助言してあげたらいいのになあ。誰か芸人さん、こんな感じでパロディーやってくれないかなあ、たとえば大池桜子みたいな芸名でサ・・・
 カミさん: ほんとにそんなバカなこと言って、可哀想じゃないの。
小生: サラリーマンわあ~、気楽な稼業と来たもんだあ~、っていう植木等の歌を子供の時に真似したんだけどネ、この伝で行くと ・・・『都の知事なんて~、気楽な稼業ときたもんだあ~』、こんな感じでどう思う? 
 カミさん: 駄目、駄目!! 
まあ、こんな冗談というか、バカな話題を提供してくれる分、今度の選挙は実に面白くなってきた。そんなところが今のところいい要約かもしれない。それにしても仮にも日本国の首都である東京の都知事ともあろう御人がねえ、何と言えばよいのでござろうか。形容のしようもござらぬ。


2017年10月6日金曜日

与党の弱気は与党の罠か?

小池都知事兼希望の党代表が、希望の党の選挙公約を発表しそれを「ユリノミクス」と命名した。

しかし、同人は「今回の衆院選に出馬せず」と断言しつつも、それでも「やはり出るのではないか」と(これまでの行動パターンの記憶もあるのか)周囲から疑われ、発言がまったく信用されていない人物である。ま、このあたり「日本のフーシェ」の面目躍如。

その人物が公約する言葉が信用されないのはロジックというものだ。

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守るつもりのない綺麗なことを現時点で発言しておくというのは、小生の感覚からみれば「ほとんど嘘」に該当する。

憤慨の念を感じたので、メモっておこう。

もしも「やっぱり出ることにいたしました」と言葉を翻して立候補すれば、与党は昨秋のヒラリー・クリントン候補がそれでやられた「(上品な)嘘つき」反復指摘戦術をとり、本気で落としにかかるのではないかと憶測しているところだ ー 現政権にも嘘が混じっているだろうが、「相手も嘘をついているんだから自分も嘘をついてもいいはずです」とはとても言えない。「ほとんど嘘」と「あからさまな嘘」はやはり違う。ということは、小池都知事の出馬に戦々恐々としているというのは、ひょっとすると漢の名将・韓信と同じ手口の罠ではないか、と。そんな気もしている。

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実際にそうなる可能性は、小池都知事の今時点の発言を信用する限りないのだが、もしも出馬・白兵戦になれば、意外な接戦となる可能性がある。そう予想しているところだ。

接戦にもっていける可能性が(意外にも)かなりある。「素人」の小生が予想しているくらいだ。プロにはとっくに周知のことだろう。接戦必至の方向を出すだけで戦術的には十分だ。それだけで小池都知事を自分の選挙区にはりつけられる。応援どころではなくなる。自分が落ちたら全てを失うからだ。代わりうる人材は党の中にまだいない。代表を狙い撃ちすれば他の新人候補は枕を並べて全滅の憂き目を喫するだろう。

(もしも今から)衆院選に出馬をするとすれば、見通しは暗い。しかし、このくらいは双方とも既知のことであるに違いない。どう出るだろうか。今のままでは希望の党は苦しい。これまた否定できない。小池女史は一度去った勝機を手に戻す妙手を思いつくだろうか。

2017年10月5日木曜日

日本政治史最大のアノマリーが起こるか?

アノマリーとは例外的事象のことである。特異値というのも可だ。

つまりアノマリーとは"anomaly"で"normal"ではないという意味だ。

どの国の政治でも同じだと思うが、政治家は国民に信用されなければならない。その理由は自明だろう。<信用≠期待>である点にも留意しておく必要はある。

希望の党を立ち上げた小池百合子都知事。今回の衆院選には立候補しないと断言している。断言もおろか「100パーセント出ない、それは最初から言っている」とも言っている。

ところが、小池女史の断言をまだなお疑っている人が多い。それでも出るのではないか。出るはずだ。そういうことだ。

これほど語る言葉が信用されていない政治家は初めてではないだろうか。

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信用されていないのは、「嘘」というと気の毒だろうが、極めて不誠実な行動を現にとっているからである。都知事の任期4年のうちまだ1年余しかたっていない時点で国政選挙にタッチするという行為を始めている。こんな計画は都知事立候補の際には小池女史は何も言っていない。ただ「都民ファースト」を連呼していた。故に、都知事の立場で政党の代表につき国政に関与すること自体、(多くの人が指摘するように)東京都内の有権者に対して極めて不誠実である。はじめから「嘘」をついてきた、嘘をついても平気なのだろうと、そう言われても仕方がない。嘘をつく政治家が信用されないのは当たり前のことである。

確かに政治には、特に選挙では権謀術数が当たり前だ。騙すことも許される。「死んだ振り解散」という事もあった。しかし、すべて<政治家同士の駆け引き>としては嘘も許されるということである。

もしも自身が衆院選に立候補すれば、「ほとんど嘘」ではなく、あからさまに嘘をついたことになる。

国民に対してあからさまな嘘をつき通して、成功する政治家が現れるとすれば、日本政治史の歴史的出来事にリストアップされるだろう。

まして(仮に都知事の任期を就任後1年余で放棄し、かつ前言を翻して衆院選に出馬し、加えて選挙でも多数を制し、最後に首班指名でも勝利して)女性初の総理大臣になるという野望が実現されるとすれば、日本の総理大臣の口から語られる言葉を日本の国民がハナから信用できない、その意味で日本政治史上最大のアノマリーになる。これは今の段階からハッキリと言えることだ。

いや、こう書いているだけで、こんな「非合理」を通り越して「非条理」とも言えることが、これから経済が上向いていこうという時に、なぜ起こらねばならないか?・・・ま、あってはならないことだって時には起こるのだな。つまり<非条理>、したがって"a great anomaly"なのである。

フランス革命期からナポレオン戦争後の王政復古期にかけて、その時その時の主流派を渡り歩きながら権力に寄り添い、仕事の上では警察組織の完成者、秘密警察の創始者として歴史に名を残した政治家ジョゼフ・フーシェ。その存在がフランス政治史においてアノマリーであるのと同じ意味で、小池百合子という女性政治家は日本政治史のアノマリーになる最有力候補である。

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安倍首相は鈍感であり、強引であり、傲慢である。しかし、基本的には正直なところもある。

<政権選択選挙>という観点からみれば、今度の選挙は乱暴な右翼政治家と嘘をつく右翼政治家との二択になるのかもしれない。

ウ〜〜ム、この二択のパターン。既視感があるなあ・・・。そうであった、昨秋の米国・大統領選挙。あれも確か、乱暴で正直な右翼政治家と上品で嘘つきな女性政治家の勝負であった。

アメリカでは乱暴なトランプ候補が勝った(アメリカ人はとにかく嘘つきを一番嫌うからネエ)。日本で嘘つきの女性政治家が成功するとすれば、この点でも日本の政治は、ある意味、創造的破壊を成し遂げたということになるのかもしれない。

とはいえ、都知事は辞めるのかとか、森友や加計にはフタをするのかとか、井の中のカワズ的でスケールが小さくて、田舎芝居のようでもあるなあ、と。そう思って見ている。

2017年10月4日水曜日

文科省: ひいきの引き倒しってヤツか

いまカミさんとこんな話をした。

カミさん: ノーベル賞、日本人はとれないみたいだね。 
小生: うん、まだ化学賞は残っているけどネ、もし今年はとれても長い目でみると、まったく取れなくなるだろうっていうのは確実。そう言われてるよ。特に国立大学のいまの状態をみるとね。 
カミさん: そうなの? 
小生: いまノーベル賞をとっている人たちは、ほとんどが昔の国立大学で仕事をした人たちなんだよね。その昔の国立大学はダメって言うんで国立大学を改革したんだけどね、それじゃあって改革した後の国立大学をみるとサ、これはノーベル賞なんてとても取れる状態じゃあないぞって。そうなっているわけサ。 で、その状態が放置されている。
カミさん: そうなの? 
小生: だからさ、文科省がやってきたこと、言ってきたことは、すべて嘘っていうと可哀想かな。ま、的外れ・・・歪んでいる、そんなところだよ。 いい仕事をしていた国立大学をダメだといって改革して、これでよくなったと自画自賛した今の大学は実はダメになっている。これが事実だからさ。
カミさん: 何かさあ「司法改革」?それを思い出すなあ・・・でもさあ、文科省の仕事が歪められたって言ってたよ。加計学園で。 
小生: 「ひいきの引き倒し」ってやつだね。マスコミが。たとえば二人が喧嘩をして一方が明らかに悪い。そのとき、いくら正しい方を普段から憎いと思ってても、悪い方の肩をもってサ、正しい方がいかに冷たい奴かってことを非難するとしたらサ、悪い方が正しいってことになって、おかしくなるよねえ。世の中、変なことをやっている側を「ダメだ」って指摘してさ、正しい方へ向けないといかんわけよ。いくら可愛くても間違ってたら間違っているとサ。それを言わないから、文科省のやっていることは正しいってことになって、何にも変わらない。そのうち、『日本人はこれで10年連続でノーベル賞を受賞しておりません』ってことになるよ、そうなってから大学をまた改革して、立ち直るまでに20年。あわせると30年間、受賞できなくなる時代がやってくるだろうねえ・・・
カミさんは学校の事情は知らない。まして大学のことは知らない。ただ、小生が若い時分に小役人をやっていたせいで、公務員というのは深夜まで真面目に残業していることは知っている。だから、国家戦略だ何とかという理屈で文科省の役人を内閣が権力的に押さえ込むと「役所の人たち、かわいそう」だと感じてしまう。

しかし、間違っていることは間違っていると認識することが将来のためには大切である。

2017年10月3日火曜日

筋書きのないドラマにも事後的なストーリーができる

政治は一寸先が闇である。しかし、まったく理解不能な政治は国民には耐えがたい。起こってしまっていることに物語を、ストーリーを付与して、納得したいのが人間の常というもの。マスコミもこの人間の普遍的願望に寄り添う必要がある。

なので、マスコミは現実を後追い的に取材をしては、なぜこうなるかを一生懸命に<解説>するのである。

どうやら小池劇場の開幕と小池百合子=ジャンヌダルクという役回りが再演されるかと思いきや、主役がやりすぎ一人芝居になっている間に、敵役・前原氏の長年の同志、枝野氏が敢然と政治家としての筋を通す行動に出た。世間が枝野氏に同情するのは確実である。おそらく枝野氏を最後に残った<正義の味方>として煽るのではないか。朝日はそうするだろう。衰えたりとはいえ、朝日、毎日の影響力は全国に及んでいる。

安倍首相よりも更に右翼に位置する政治家小池百合子氏の実像は既に浸透しつつある。いま現時点で日本国民が求めているのは右翼から着想される政策ではない。印象としては、中道保守的な発想ではないかと思う。そもそも小池女史が元来持ってきた政治思想はいま日本社会では需要されていない。逆向きである。これは確かな事実だろうと思うのだな。

枝野氏は左翼である。が、政治の振り子が振れる方向に立っているのは枝野氏のほうであろう。

ま、枝野氏はちょっと左過ぎるような気はするが、マスメディアの支持があれば大化けする可能性なしとはしない。

こうなるような気は前からしていたようにも思うが、しかし今回の寸劇もガラガラポンの結果の一つだろう。

2017年10月2日月曜日

「女性が輝く時代」?確かに今年はそうだ

今年は女性が「活躍」している。文字通り『女性が輝く21世紀』というキーフレーズが的中した第1年として歴史に残るだろう。


豊田真由子: 暴言暴行: 東大卒の元キャリアで頭がよい
稲田朋美: 極右・靖国神社・失言と隠蔽: 弁護士で頭がよい
山尾志桜里: 若手女性議員で敏腕: 元検察官で頭がよい
小池百合子: 都知事・外国語に堪能な元キャスター: 臨機応変で頭がよい

上のリストに上西小百合議員を入れても良いかもしれない。この人も一見ありのままのようでいながら、実は非常にクレバーなのだと思う。

いま世間で活躍している、輝いている女性はどの人も頭がよい人だ。

しかし、「頭がよい」という点については、これまでにも何度も投稿している。たとえば、これこれ。 

ずっと昔は頭がよいことを「賢しら(さかしら)」と呼んでいた。今では「賢い(かしこい)」という。「聡明」ともいう。サカシラは100パーセント負の印象を伝える形容詞である。現代のカシコイも「君は賢いねえ」と言われるのは、サカシラほどではないが喜ぶべき言葉ではないだろう。聡明な人と誠実な人と、あなたはどちらの人を信頼しますか?ま、趣旨はこれで伝わると思う。

小生の田舎で使っている「キョロマ」は、『またあの人が賢しら気に動き回っているわ』という言い方よりはよほど長閑な語感である。

頭をつかって、風をみて、一日中動き回ったり、雲隠れしたりしているが、肝心の結果が出てこない。忙しいわりには効率が悪い。キョロキョロしている割には、結果的には迷い道にばかり入りこんでノロマである。だからキョロマ。語源はこんなところだろう。

キョロマ達が時代の風にあおられて走り回っても、目立つことは目立つが、それは輝くとは言わないだろう。不動の定位置にあって光を放つのでなければ、「輝く」という動詞は使えない。

今回の「希望の党」と「民進党」の合流騒動を通して、頭が一番いい人は誰であったか。それは女性ではない。やはり民進党の前原代表が一番頭がいい。小池さんは他人がやるべき汚れ役を代わりに引き受けた分、人がよくて頭がわるい。ただ悪いはマイナス、いいはプラスとならないところが、人間評価の面白いところだ。

ただしかし、時代は変わったなあ、と。そう思いますヨ。ずっと昔の共産党では「日和見主義者」や「オポチュニスト」、「敗北主義者」って言ってネ、同志を異端分子に指名して粛清するときの決まり文句だったものですヨ。理念は立派だケド、現実には非人間的な共産党の体質を表す恐い言葉でありやした。それがネエ・・・、好機をとらえるっていうか、そんな賢しらなやり方が今では立派な「戦略」に昇格しているってンだから、時代も変わったもンだって、そう痛感するってエものでござんすヨ。