2017年10月15日日曜日

「無党派」というマイ・イデオロギーは何を意味するのか

選挙の結果を決めるのは「無党派」である。選挙がやってくると、例外なくマスコミはそう言っている。大体、有権者全体の確か4割ほどが無党派に属しているのだろうか。

が、よく考えてみると、「無党派」なる政治的立場というものは、一考に値する、というかそもそも最大集団が無党派だという状況になるというのは一体どういうことなのか。そんな疑問もわいてくるのだな。

「無党派」が最大の政治集団であるような先進国はほかにあるのだろうか?

こんな文章がネットにある。
希望の党はおそらく50議席も取れない結果に終わるだろう。そうなれば、小池氏の責任問題に直結し、人々は彼女から急速に距離を置き始めるに違いない。政治は結局、その時々の風や勢いだけで突っ走ると、失速したときに自らを支える軸がないので、新たな風や勢いに吹き飛ばされて終わる。安倍晋三氏が、一度は権力を失墜しながら復活できたのは、勢いを失った彼を支える人々が側から離れず、再起のチャンスを皆でお膳立てしたからだ。 
それでも世論調査では、比例での投票先に希望の党を入れるという人が根強くあるが、そうした人々の多くが、おそらくは無党派層であり、政治的関心の薄い人々だろう。他党に入れるという人に対して、希望に入れるという人は話題に飛びつきやすい「なんとなく層」が多く、彼らの多くは、投票日が晴れていれば遊びに行き、雨が降れば外出を控えるだけのことである。
(出所)植村吉弘「希望の党は大敗北に終わるだろう」、2017年10月14日

非常に冷めた目で「無党派」集団の行動パターンを見通している。大体、そんなところだというのが真相だろう。

ただ、小生自身も若い時は子供も二人いて小さく、平日は仕事があり、カミさんも家事に忙しく 、たまの週末はどこに買い物に行こう、どこに遊びに行こう、と。そんな話しばかりで、わざわざ寄り道をして「投票しとこうか」と現実に投票所まで足を向けたのは稀ではなかったかと。そう記憶している。まあ、5回に1回くらいは投票したろうか。それも国政であって、地方選挙などほとんど行ったことがない。40歳になるまでは、正直、そんな感じであったなあと記憶をたどっている。

で、政治的関心となると、やはり必ずしも一貫していなかった。つまり「薄い」といえた。北海道に移住してからも、地元選挙区で民主党候補にいれたりしたこともあったし、カミさんの知人(おそらく創価学会の会員なのだろう)に薦められて、カミさんと二人して公明党候補に票を投じたこともある。まあ「なんとなく」であるな。

自民党に一貫して投票するようになったのは、40代も後半になってから、それとももっと後になってからだろうか。職業人生の後半が明瞭に見えてきて、自分の年金生活も時間の地平線の向こうに見えるようになった頃だ。その頃になると、何か新しい風が吹いてほしいというより、積み重ねた実績や資産や生涯設計を安定的にキープしたいと。そう願うようになった。多くの人もそうではないかと思う。まして「リセット」などはとんでもない発想で、恐怖をすら感じさせる用語である。ほんと、小池百合子という人物は言葉のセンスがない御仁だ。

小生一人をとっても政治的姿勢はこんな変遷をたどっていることを思うと、「無党派」集団を年齢、職業などで層別化するなど、より詳しい分析をすると、面白い結果が出てくるような気がする。

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これ以降、マクロ的にざっくりとした観点から要点をまとめてみたい。

いま日本はシルバー世代に重心が移ってきている。また、日本国民は世界でも有数の資産を形成している。政府はすでに債務超過だなどと指摘されているが、日本国全体でみるとバランスシートは極めて強固であり、だからこそ経済的危機においてはしばしば円高となる。

日本の有権者はマクロでみると「金持ち」なのだ。日本という国は世界の中では「富裕層」に属している。これはデータに基づく事実だ ー 著名なリッチマンが目立って多いという意味ではない。

日本に金融らしい金融産業はないのが実情だが、カネは持っている。だから、持っているカネを海外に運用して、どう儲けようかと。これが近年の日本国民の関心事項である。政府はイノベーションであるとか、国家戦略であるとか、さかんに旗を振っているが、カネを実際に持っている人は「お上」を信用して国内でチマチマ運用するよりも、米株とか英株に投資する方がもっと儲かることを知っている。政治家は邪魔をしないでくれと願っている。だから、「改革」などはホンネでは欲していないのである。

年金制度自体、支給のための主な財源は支払保険料の積立金残高である。その積立金の運用に株式が組み込まれてからもうかなりな年数がたった。いま運用先の4割(今でもそうだと思うが)は外国株式・外国債券になった。日本国は、家計も年金機構もどこもかしこも丸ごと、国内外に資産を運用して儲けては、やり繰りしているのだ。こんな時代であることが政治の大前提になっている。「リセット」されるなどはとんでもないことなのだ。

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日本が豊かである間は、本気で「改革」や「リセット」を望む有権者はいない。というより、正しくいうと、数が減りつつある。加速度的に減っている。

なので、正直に「改革」を本気で連呼する政治家は嫌われるだけである。まして改革より過激な「リセット」などを言えば、その時点で「あれはいかんね」と。これが現時点の日本社会の現実だと思うがどうだろうか。ついでに言えば、安倍現総理が憲法改正を言い始めて高齢層に受けが悪い理由は上に述べた点と同じである。

高齢層から既得権益(=財産権として保証されている富)を奪って、若年層にシフトさせても、国民の資産が増えるわけではない ー 高齢者の富はいずれ若年者にも継承される、あるいは高齢者が生存中にすでに継承されつつある、であるので高齢者の財産権の消失は、若年層が富を失うことでもあるのだ。そのことを若年の人たちは本能的に察知している。

資産の配分を移し替えるだけではダメなのだ。あちらが燃えているからといって、かける水を此方から彼方に変えるだけではダメである。此方がまた燃えるだけなのだ。かける水量全体を増やさなければ課題は解決できないのだ。

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高齢者はなるほど恵まれた年金生活を送っている。しかし、年金の過半の部分は既にもっている資産の取り崩しである。自ら形成した資産をそのまま後世代に継承する義務はない。自らの生計にあてるために公的制度によって貯蓄してきたわけだ。当然、資産を取り崩せば、金持ちではなくなる。これは若年層には損失かもしれない。しかし、若年層は高齢層が形成した豊かな社会を生まれながらに享受できている。小生の上の愚息は非正規社員としてカツカツの暮らしであるが、それでも発展途上国の同世代よりはのんびりと豊かな生活をおくっている。この経済状況は比較的最近になって日本に生まれたことによる世代的な利得である。

要するに、先に貧乏を経験して後に豊かさを享受するか。先に豊かさを享受して、後に貧乏になるか。違いはここにある。これが基本ロジックだ。それでも技術の進歩、生産性の向上への努力があれば、団塊の世代が退場した後の時点において、現在の若年層が元の貧困に戻ることはない(はずだ)。そのための「国家戦略」、「人づくり」。だから、やはり、この方向はキープしておくのが理にかなっている。

有権者は政治家が想像するよりずっと頭がよい。政治家ほど言葉が上手でないだけである。

(とりあえず)本日の結論/予想:

  • 「無党派」に若年層が多く含まれているならそれはよく理解できる。イデオロギーというより、何を最優先するべき価値であると認識するかということ。
  • 「無党派」に高齢層が含まれているなら、与党支持/野党支持の意識がない、つまり自分自身の生活基盤がよく理解できていない人たちではないか。不満がある現状を「改革」したいという願望があるなら野党を支持する理屈だ ― それが自らにとって利益につながるかどうかは別の話題。生活基盤の自覚が弱いので、政治的立場が定まらず、故に言葉に騙される確率が高いのではないかと憶測する。

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