2017年12月2日土曜日

日馬富士事件にみる日本人の傾向(というより通弊)

日本人の心根には仏教思想が染み付いているということはよく指摘される。中でも奈良以来の華厳宗の根本思想は空海の真言密教にも継承され、日本古来の多神教とも相性がいいので、現代の日本人の心性にもその反映が認められる。これは司馬遼太郎の『空海の風景』を読めば、フムフムと了解されるところだろう。

一口に言えば、一粒の塵にも仏性は宿る、という思想のことである。その根本に輪廻思想があるのは明白だ。

以前にも投稿したことがある。

地の表にある一塊の土だっても、かつては輝く日の面、星の額であったろう。袖の上の埃を払うにも静かにしよう、それとても花の乙女の変え姿よ。

(出所)青空文庫『ルバイヤート』

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日馬富士の暴行事件とその後の引退をめぐっては、色々な議論が広まり、そこから何がしかのメッセージをくみとろうという日本人の意識がよく伝わってくる(たとえばこれ)。

日本対モンゴルの外交事情と絡ませるのも面白いが、小生はやはり問題に直面した時の日本人の変わらぬ傾向(≒国民性?)を見てとりたくなるのだ。

一言で言うなら、
一個の事実の断片に全ての森羅万象の反映をみようとする
そんな傾向である。

要するに、一つの事実から「ああでもあろう、こうでもあろう、だからそうなのだろう」と、ありとあらゆる可能性を連想ゲームのように展開し、「想像の翼」を広げていく思考の傾向である。

こんな時、日本語の非構造的で、順接・逆説を混ぜながら、曖昧に次から次へと文章を続けていくことができる文法特性が、思考のツールとして非常に適している。とにかく昔の日本語には句読点すらなかったのだから。これと同じことは英語では絶対に無理である。ドイツ語も時に文章がやたらと長くなるが、それは関係代名詞をたたみかけることが多く、もしその論理関係を文脈から把握できなければ、文章全体の意味はまったく分からなくなるはずだ。日本語は(ま、慣れているせいでもあるが)読み進めれば、読むほどに積み重なるように内容が伝わってくるのだ、な(逆に、論理的な日本文は読みづらい)。

日本語は、たゆたう陰影のように纏綿とした情緒の流れをそのまま連想ゲームのように継なげていくのに実に適した言語だと思う。

故に(と言い切っていいのか分からないが)、日本人が日本語で特定の事件や不祥事を語ると、あれもこれもが何となく関係している、すべての事柄が何となく関連している、そんな情緒が浸み出すように醸し出されてくる。

「あれもこれも」という心情が「もう、やりきれない」という諦めに転化していくのは時間の問題である。なので、日本人は煉瓦を積み上げるような執拗かつ論理的な作業はいやがり、どちらかと言えば恬淡として、諦めがいい。反面、想像力をいっぱいにつかった、独自の着想にいたることもママある。

良いところ、悪いところ、両方があると思うのだが、日馬富士の暴行と引退を語る時もそうであるし、森友騒動、加計学園問題を議論するときも、言っていることは「こうなんじゃないんですか? ああなんじゃないんですか?」というパターンであり、驚くほど似ているのだ、な。話題は政治と相撲興行の不祥事で性格は違うが、しかし話が盛り上がる時のパターンは似ている。月並みだがこれが「日本的である」ということなのだろうか。「なぜなら(because)」とか、「この二つは両立しませんよね(contradictory)」とか、「どんな結論が導かれる(can derive)でしょうか」というような論理的な語り口は稀である。

結局、「やりきれないねえ」と言って、頭をふり、肩をゆすり、そっぽを向いて「もういいんじゃない」と言いすてる結果になるとすれば、いつもの日本人の通弊であるように感じるのだ。

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