2017年12月21日木曜日

ビット・バブルの崩壊まで1年から1年半が目途だろうか

相撲界の騒動もチョット・バブル気味である。

最初の暴行事件から事件は拡大し、とうとうモンゴル力士の存在意義、相撲界の異質性など、今後将来にかけて相撲はどうなるのだろうかというレベルにまで議論が広まってきてしまった。

しかし、そもそも論から考えてみようではないか。

裸にフンドシを、いやいやマワシなるものをつけて、頭にはチョンマゲを結って、四方を青龍、朱雀、白虎、玄武を象徴する房で飾った土俵にたって、四股を踏み、柏手をうつ。そうしてから立ち合って闘技を行う相撲というものは、現代日本で総称している「スポーツ」に該当するのだろうか?

相撲はスポーツなのだろうか?小生、個人的には疑問なしとしない。むしろスポーツ庁管轄でなく、神社本庁が管轄するべきではないか。そうでないなら、伝統芸能の一環と認めて、文化庁が所管するのが適切ではないか、と。そんな風に思われたりするのだ。

勝負が相撲の本質と考えるならスポーツになるが、姿・所作・作法が相撲だとみるならスポーツではない。小生思うに、相撲から所作や作法をとってしまえば、レスリングになるのではないか。一つだけ言えることは、相撲は二つのボーダーラインにあって、純粋のスポーツだというなら本質を外すことになるだろう。

マア、とはいえ、ともかくも国家公認の興行事業であるとすれば、今回のようにあからさまな暴力傷害事件が発生すれば、該当者は処罰されるのが当然だろう。

◇ ◇ ◇

さて、今回、本当に力士同士の暴力事件が発生してしまった。その理由は、色々と言われているが、要するに「礼儀がなっていない」、「そこまでするのはやりすぎじゃないか」。ありふれたことである。

相撲は日本古来の闘技である。力士の精神 ― 武士道といってもよいだろうか ― にそって考えればどうなるのだろう?

もし、相撲の力士が日本古来の大和魂を象徴する存在であるなら、武士道の伝統に沿って「喧嘩両成敗」で暴力事件にかかわった双方を罰するのが適切だ。そう考えるのが本筋ではないかという意見もありうる。

しかし、今回のケースでは片方は手を出していない。身をかばっている。それなら「まことに殊勝である」とし、手を加えた者のみを処罰する。このほうが近代的であるかもしれない。吉良上野介は江戸城・松の大廊下で浅野内匠頭に切りつけられた。吉良上野介もなぜ切り付けられたのか、(小説ではなく事実としては)分からなかったそうだが、自分は抵抗しなかった。多分、殿中儀式の作法を指導していた若い大名からいきなり「遺恨あり」と切り付けられただけなのだろう。アンラッキーな人である。悪いのは手を出した浅野である。やられた吉良は悪くない。が、この判断は正に浅野内匠頭が吉良上野介に切りつけた科をもって切腹を命じた将軍・徳川綱吉と同じである。

将軍綱吉は非常に近代的であったことがこの点からも分かる。しかしあまりに近代的であった。「喧嘩両成敗」は武士の習いであると討ち入りを果たした赤穂義士を当時の庶民は拍手喝さいしたのである。片手落ちの処断は日本人の好むところではないようなのだ、な。こんな心情は、相撲に無関心な一般的な日本人ならいざしらず、相撲ファンはひょっとすると気持ちとして持っているかもしれない。

やられた貴ノ岩関。高校の恩師、知人の前で殴られたのがたまらなく『恥ずかしかった』と、そう語っているそうだが、この気持ちが小生にはもっともよく分かる。日馬富士ファンから貴ノ岩がどう見られるか。今後の様子が目に見えるようである。

思わず忠臣蔵の話にしてしまったが、浅野内匠頭=日馬富士、吉良上野介=貴ノ岩とすると年齢が合わないし、役回りも逆だ。今回のケースは、吉良上野介が「なっておらんぞ」と浅野内匠頭を厳しく叱責、殴りつけたところ、(歴史とは逆に)内匠頭は殊勝にも手を出さずジッと我慢をしていた。その事が露見したため、吉良上野介のみが幕府から厳罰を下され所領没収となる。そんな図式だ。だから、遺恨を含むとすれば吉良家の側である。

まあ、世論をきくのが民主的であるのであれば、それが駄目だと主張するつもりはないが、普段は相撲に何も関心をもっていない人たちが持っている<世間の感覚>や<ビジネスマンの常識>に沿って、形式的議論と論理的な結論で幕を閉じるとすれば、失われるものは結構多いのではないかと思っている。

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世間話が長くなった。本題は、わずかだ。

金利の長短スプレッドは典型的な景気先行指標である。アメリカの金融市場から確認すると現時点で以下のようになっている。

(出所)FED St.Louis, FRED

現在は、まだ長短金利がフラット化しつつある景気拡大段階にあり、リスクが意識される景況からはほど遠い。

世界景気がシンクロしている中では日本経済も米景気とそれほど違いはない。そんな中でビットコインの相場が急騰している。既にバブルであることは確実である。問題は、バブルの持続期間いかん、この点だ。

2008年9月にリーマン危機が勃発したが、その前年2007年7月にはパリバ・ショックが発生していた。アメリカのサブプライムローンがいつ爆発してもおかしくない不良債権であるという意識は浸透していた。実体経済は2007年10月から12月にかけてピークアウトしていたことはその後の経済指標から明らかになっている。

パリバショックからベアスターンズ、そしてリーマンと危機の意識が芽生え、実際に爆発するまでに優に1年は経過している。金融の脆弱性の高まりの中でアメリカ議会や財務省、金融当局が必ずしも最善の判断を下しえなかったことも無視できない。

金融上の混乱の背後には、混乱を招いた欲深い人たちに対する世間の冷淡な視線と、そんな世間の感情に配慮せざるを得ない政府の姿勢、この二つの組み合わせがほぼ常に存在している。

世界景気は来年も上昇すると予想できるし、ビットコインをいま買い入れる人たちですらも利益を出すことができると思われる。資産を20倍に増やす人も出てくるだろう。しかし、そのことが世間の嫉妬や反発、非難の感情を醸し出す。そんな世間の感情に(又もや)マスメディアが悪ノリする。最初の偶発的なビットコインの相場下落で大きな損失を被ったときに、あらゆる民放のワイドショーが「これは自己責任でしょう」などと言い立て、それが<世論>というものを形成してしまうと、再び日本経済は不必要なマクロ経済的混乱に陥る可能性が高い。

思い起こせば、1980年代のバブル景気も、賢明な政策を展開していれば、あれほど酷く崩壊することはなく、失われた20年にはならずともすんだ確率が高い。今ではそう考えられている(とそろそろ総括してもよいだろう)。上がった地価を(少々)叩いてもいい、株でもうけた人は(少々)たたいてもいい。そんな世間の感情が時にどれほど酷い経済的惨事を引き起こすか。記憶するに値すると思う。『二度とあやまちは犯しません』、そう言ってもいいくらいだ。

願わくば、ビット・バブルが最初に少しはじけたとき、その時には政府は<非民主的>に<世論は無視して>、そのうえで<賢明な>政策をとってほしいものである。

・・・

普段は経済問題のことを考えたことのない人たちが、にわかに興味をもち投機で失敗した人は自己責任であると言い立てても、そのような世論が経済をマネージするのに役に立つことはほとんどない。これが経験則であるのだから。

ウ~ム、相撲のことから経済の話をしたが、なんとなく論旨が似てきたようだ。不思議だ。


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