2017年12月13日水曜日

「戦後」のノリを超えつつある「新聞社」の態度

戦後、日本はずっと戦前期・日本がとった行動を反省する姿勢をとってきた(と言えるだろう)。亡くなった父は朝日新聞を好まなかった。それでもハッキリ言えば産経新聞を「新聞」として相手にはしていなかった(ように覚えている)。当時から、小生はよく知らなかったが産経新聞は右寄りだった(はずだ)。

新聞社にも会社としての主張はあるわけで、政治的にも思想的にもあらゆる社会問題について自由に問題をみる視点を選んでよいと小生は思う。

戦後日本では日本国憲法が理念として共有されているのだから、それを否定するような言説をとるべきではない、と。そう語る人もいることはいるが、そんなことを言い出せば、「長いものには巻かれろ」と言うのとどこが違うのか、そう思ったりもする。

おかしいことはおかしいと言わなければならない。そう思っている。

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しかしネエ・・・、新聞社が学問の分野にまで踏み込んできて、報道の域を超えて、研究したい人、思想をパブリッシュしている人の名前を挙げて『これはイカンのじゃないか』と言いたげな記事を配信し始めるとなれば、流石に「これは新聞社としてのノリを超えているゾ」と、そう思う。

 「KAKEN」という題字が書かれたデータベースがある。文部科学省および同省所管の独立行政法人・日本学術振興会が交付する科学研究費助成事業(科研費)により行われた研究の記録を収録したものだ。 
 ここには次のような情報が掲載されている。 
 「市民による歴史問題の和解をめぐる活動とその可能性についての研究」(東京大教授 外村大ら、経費3809万円)、「戦時期朝鮮の政治・社会史に関する一次資料の基礎的研究」(京都大教授 水野直樹ら、同1729万円)、「朝鮮総動員体制の構造分析のための基礎研究」(立命館大准教授 庵逧〈あんざこ〉由香、同286万円)=肩書は当時。単年度もあれば複数年にまたがる研究もある。
 外村、水野、庵逧の3人に共通しているのは、3月25日に長野県松本市で開かれた「第10回強制動員真相究明全国研究集会」で「強制連行・強制労働問題」について基調講演などを行ったということだ。
 この場で外村は平成27年に国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界文化遺産に登録された長崎市の端島(通称・軍艦島)を含む「明治日本の産業革命遺産」について論じた。
 「ごく一部の新聞、産経新聞だが、(軍艦島で)楽しく暮らしていた。朝鮮人とも仲良くしていた(と報じた)。個人の思い出は尊重するが、朝鮮人は差別を感じていた。強制かそうではないかの議論は不毛だ。本人が強制と考えたらそれは強制だ」。
 研究会は徴用工問題に取り組んでいる「強制動員真相究明ネットワーク」などが主催した。同ネットワークは11月末、韓国の市民団体「民族問題研究所」とともに「『明治日本の産業革命遺産』と強制労働」というガイドブックを作成した。産業革命遺産の登録申請は従来の文化庁主導と違って「官邸主導ですすめたという点が特徴」としたうえで、こう指摘した。
 「誇らしい歴史だけを記憶するという、反省のない歴史認識は、再び日本を戦争ができる国にするためのプロジェクトと連動しています。『明治日本の産業革命遺産』の物語もこの一環とみられます」 
 文科省関係者によると、科研費の審査は3人一組で行い、総合点で上位の申請が選ばれる。「自然科学分野と違い、歴史学はどうしても思想的な偏りがある」とこの関係者はもらす。
(後略)
(出所)産経ニュース、2017年12月13日、7時16分配信

確かに歴史学の研究には、ある一連の事実を研究者自身がどう見るかという視点が混在する。というより、その視点自体が、その研究者が行った研究の結果として得られたものかもしれない。あるいは、ひょっとすると、その研究を始めた動機や契機に何かの主義や価値観、思想が初めから混在していたのかもしれない。

しかし、特定の思想や主義が混じりこんだ研究であっても学問としては全く問題はない。むしろ社会思想や宗教、哲学などを主題にしてアカデミックな研究を自由に制限なく進め、そこで明らかになった結論は自由にパブリッシュされるべきである。もちろん、自由に放任すれば、その時代の潮流に沿って、時にはある一方向にバイアスがかかり、特定の方向に則した結論が多く出てくる。そんなこともあるには違いない。

しかし『このような研究は社会的意義が乏しい』などと言い出せば、言っている人はずっと昔の「スターリン主義」に賛同していることになるだろう。

どのような問題についても、多様な学問的成果が蓄積される。日本国内の研究の蓄積がデータベースとして蓄積され、誰もがそれを参照できるようになれば、研究が更に効率的になり、内容が深まる。そもそもアカデミックな研究は筆記試験や資格試験ではない。<正解>などは存在しないし、正解を求める姿勢も不適切だ。

<正解>などは最初から存在しないのだと考えているからこそ、たとえある問題について外国から指摘されても、先入観を排し知的な観点にたって、有効なコメントや反論を国内から発することができる。また、そんな論争は本来(ある意味で)知的で楽しいものなのである。反論や批判は、本来は愉快な論争に結びつくものである。批判が不愉快に思うとすれば、自分が正しいと思い込んでいるからだ。これは学問とも研究とも縁遠い姿勢である。研究の事を語るべきではない。

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外国から何かの倫理上、歴史上、思想上の攻撃を受けたときに、日本政府による何かの対応を期待してもまったくダメである。学問上の事柄について政府に何かを期待するなど典型的な愚論である。閣僚や官僚は(議員もよほどの専門家ならまた別だろうが)、原則として、担当する実務以外には無知無学である。

自社の理念から気に入らない結論を掲載しているからという理由で、アカデミックな研究を非難するのは、あまり聞いたことがない。

「天皇機関説批判」や「国体明徴運動」、「人民戦線事件」や「平賀粛学」を思い起こすまでもなく、戦前期・日本のマスコミ大手が数え切れないほどの酷い失敗をしているので、もうそんな愚かな「主張」を国内のマスコミ大手が掲載するはずはないと思っていたが、どうやら『もはや戦後ではない』らしい。自分で経験したわけではないことは、最初から知らないことと同じなのだろう。自分の両親からも、身近の年長者はもちろん、上司、先輩など「先達」と呼ばれる人の経験から学ぼうとしない自称「最先端」の人間集団がいる。どこにでもいる。マスコミ界にもいるということだ。

こんなことを考えさせる掲載記事が日本国内の新聞には増えてきた印象だ。

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