2018年1月31日水曜日

最後の授業: この日の先に予想したことのメモ

朝方変な夢を見た。

10年以上も昔になるか、ドラマ『世界の中心で愛を叫ぶ』の中で病室で闘病中の廣瀬亜紀(綾瀬はるか)が松本朔太郎(山田孝之)にいうセリフ「キスでもしませんか」を身近なバージョンに置き換えた情景を夢に見たのだ、な。実に新鮮であった・・・

というのはさておき、本日、現役時代の最後の授業を行う。(代わり映えしないことに)来年度もまったく同じ授業を担当する。但し、報酬は実に30分の1となる。まあ、非常勤になるので仕方がない。

ミラボー橋の下をセーヌ河が流れ
      われらの恋が流れる
   わたしは思い出す
   悩みのあとには楽しみが来ると 
日も暮れよ、鐘も鳴れ
   月日は流れ、わたしは残る
::アポリネール「ミラボー橋」堀口大学訳より

恋は過去の出来事になって遠く去りゆき、小生はここに残っている。それでもなお、将来を予想するのは小生の個人的趣味である。

***

少年から青年にかけての時代、イギリスではミステリー作家、サスペンス作家が隆盛を極めていた。フレミングやルカレは好きだったし、いまでは右翼的言動が忌避されて日本国内では販売されなくなったジェラール・ド・ヴィリエもフランス人ではあったが愛読したものだ。007やジョージ・スマイリーが虚構の人物であるなど、信じられないほどだ。

あれだけリアルな世界を作中で構成できたのには現実の裏付けがあったのだ。

確かにイギリスには情報戦を展開するだけの現実の裏付けがあったのだ。第2次大戦後の冷戦期だけには限らない。19世紀の中東地域でロシアと対立する中で、フランスとアフリカで対立する中でも、幕末の日本でフランスやドイツと対立する中でも、イギリスは常に情報を欲していた。だからスパイ網の構築は不可欠であったのだな。1950年代以降、ソ連のKGBとイギリスのMI6のツバゼリ合イは、英国民の誰でもが身近のテーマとして関心をもち、小説世界と現実とが融合しているかのような興奮を感じただろう。知的興奮をもよおさせる国際環境はゆうに100年は続いた。イギリスに分厚いサスペンス小説が蓄積されたのは偶然ではないだろう。

「だろう」というより「そうであったに違いない」と、現時点の日本人としてはよく共感できるようになった。イギリスとソ連、ロシア、ドイツではなく、日本と中国、北朝鮮(それと韓国?)に関係国が置き換わってはいるが。

今日のイギリスではカズオ・イシグロが綴る枯淡で美しい小説世界が読者を魅了しているようだが、これと入れ替わりに、これからの日本では東アジアでつばぜり合いを演じる日本の諜報部員と中国の軍事スパイ、産業スパイとの抗争劇が多数のファンを獲得するに違いない。さて、その日本の諜報部員だが・・・組織の存在自体が広く知られることはないはずで、この事情はイギリスのMI6と同様である。まあ、内調か法務省の公調あたりだろうか。

***

綾瀬はるかが演じたドラマ『奥様は取り扱い注意』が好評だったが、これも一つの兆候だろう。1960年代の刑事アクションもの、1970年代のホームドラマ、1980年代のトレンディーと、その時々のヒット曲と同じく、ドラマもまた時代や世相を映す鏡であった。その背後には世間で共有されている感覚、興味、関心というものがあった。いま足元では、日本国内で発生する事件を国内で解決するミステリーものが人気だが、やがて舞台は国境を超えて、アジア全域へ、中国、朝鮮半島に広がり、さらにはロシア、インド、オーストラリア、南太平洋の島々へと舞台は拡大し、日中間の仁義なき闘争が繰り広げられるアクション、スペクタクル活劇が企画されるようになるだろう。

資金は、そう・・・半分以上は中国が出すかもしれない。中国の国民の方がまず日本を相手にするサスペンス・スパイ活劇をみたい、と。そう思われるからだ。これまで製作されてきた低品質の抗日映画はよりソフィスティケートされた知的ゲームへと進化するはずだ。まず中国側にこんな需要があると憶測する。

まあ、中国から見れば、日本は(いまのところ?)「アメリカの名代(≒家来)」という感覚であろうから、日本の諜報部だけではなく、アメリカのCIAもまた、登場させるであろう。この辺り、多分、日本人としては見ていて忸怩たる感想をもつ作品が多くなるかもしれない。ホントにねえ・・・明治以来、中国大陸で暗躍した陸軍特務機関の伝統もまた月日が流れるとともに遠く去ってしまったのか。対中諜報でアメリカのCIAに負けるはずはないと思うのだが。

いずれにせよ、映像で新たな潮流が生まれてくれば、やがて脚本、小説でも新しい作家が続々と登場するのは必然の成り行きだ。

イギリスとソ連に限らない。英仏、英独、英蘭、英西、独仏、独露、仏伊等々、それぞれに領有権、権益をめぐる歴史的敵対関係がある。19世紀・幕末の日本人がすぐに理解したように西洋の国々は戦争を繰り返す中で発展してきたのだ。この事情は、日本と中国、中国と朝鮮半島、中国国内の各地域(?)等々、東洋の世界にも当てはまることだ。

一つ、何よりも大事なことは、軍事機密、産業機密を違法に取得するスパイ活動は、足元では国益を阻害するケースもあるかもしれないが、全体としては国際平和を維持するプラスの効果を持つという点だ。『敵を知り、己を知ることこそ、平和を守る最良の政策』である。敵を知らないことこそ、不必要な戦争を選んでしまう理由であるからだ。

2018年1月30日火曜日

国会の場のヤジは品がないのだろうか?

国会にはヤジはつきものである。代議制民主主義では伝統のある英国議会でもヤジは相当のものであるそうだ。リアルには見聞していないが、こんな面白い記事がある。引用元には英議会のホームページにアップされた動画も入っている。
デビッド・キャメロン首相の様子に注目してください。
この動画からもわかるとおり、党首には、轟々たる野次を制し、議場を自分のコントロール下に置くスキルが要求されるのです。

イギリスの政治家の多くはパブリックスクールやオックスフォード大学などで学びます。それらのエリート校の特色として、子供の頃からディベートをさんざん行い、学友をdisり合いながらパブリック・スピーチの呼吸を覚えてゆくわけです。
1943年に庶民院本会議場を円形にしては? という議論が出た際、ウインストン・チャーチルは「そうすると議論が不活発になってしまう」と警鐘を発しました。
実際、イギリスでもモダンな、教室形式の部屋で行われる公聴会への出席者は少ないです。

同様に、円形議場の形態を取る米議会も議員の出席率は悪いです。
さらに欧州議会の寂しさは、目を覆わんばかりです。
由緒ある保守週刊誌『ザ・スペクテーター』のアシスタント・エディター、イザベル・ハードマンは「野次は議会における討議を活発にし、提起された問題に対し、与野党双方が深く考え、ベストの回答を模索するきっかけを与える。だから野次は民主主義のプロセスとして欠かせない」と主張しています。
(URL) http://www.huffingtonpost.jp/takao-hirose/story_b_5517266.html

イギリスの議会は与野党が向き合うように座席が配置されている。それに対して、日本(やフランス、アメリカ等々も) は劇場型配置である。上の引用記事では、劇場型議席配置にすると議論が不活発になるというチャーチルの懸念が述べられているが、日本の国会のヤジはそれなりに活発なようだ。

先日は沖縄の米軍で続発している事故について共産党の志位委員長が代表質問しているときに与党席にいた松本文明内閣府副大臣が『それで何人死んだんだ?』というヤジを飛ばした。それが(たまたま)テレビ電波を通して全国に放映され物議をかもす結果となった。結果、「不適切なヤジ」の責任をとって辞任するという顛末となったのだ。

ふ〜む、なるほどねえ、しかし・・・と思った次第。

駐留米軍に事故が続発している背景には何かがあるだろうと思われるし、事情を確認することは必要だろう。事故が続いているのが自衛隊であっても本質的な事情は同じだ。米軍の場合、外国の軍隊の横暴、怠惰、無神経を非難する気持ちも混じるだろう。しかし、アメリカは日本と安全保障条約(≒軍事同盟)を結んでいる同盟国である。代表質問をしているのは、自衛隊違憲論をとっている共産党である。日米安保廃止を是としている政党の代表者である。その最強野党の代表が米軍の活動を非難しているとき
How many dead ?
与党の議員がこの程度のヤジを飛ばすのは十分ありうるのではないだろうか。そんな気がする。

沖縄の人たちに内地の日本人として何か心中忸怩たるものがあり、何かと言えば遠慮らしく思う、申し訳なく思う、「いつもすいませんネエ、申し訳ないといつも思っているんですヨ」と、そんなやるせない心情があるなら、その心情こそ先ずは最初にとりあげて沖縄に寄り添い、現状の不公平を解消するべく内地として実効性のある努力をするべきだろう。そんな行動も起こさず、あのヤジはひどいと批判するのは、内地に住む日本人の偽善であると感じるのだ。

小生は国会でこの程度のヤジは飛ばしあってよいと思う。

というより、松本副大臣によるこのヤジは与党議員としては飛ばすべきであった。そう思うのだ、な。マスメディアがこれを非難するのは健全なヤジに対する過剰攻撃であると思う。前稿でも話したアレルギー症状と本質は同じだとみる。

もちろん普通の企業の社内会議ではヤジは飛ばさない。役所でも飛ばさない。それは上下の職階、上下の規律があるからだ。通常、日本の組織内では上下の関係が支配する。そして業務は細分化され各担当者に分担されている。いわゆる「殿中」なのである。だから、ヤジは飛ばさない、というか飛ばせない。

しかし国会議員を上下でみてはならない。議員全て対等である。誰が誰の部下であるわけではない。怪しからんと思えば、茶かすなり、皮肉を言ったり、異論を叫んだり、やってもいいと思う。それが冒頭に引用した英・元首相チャーチルの意見ではないだろうか ー ちなみにいうと、大学という場は上下の意識が希薄である。なので教授会では結構ヤジが飛んだりする(正式の会議からは隠居しているので最近の状況は知らないが)。


2018年1月29日月曜日

アレルギー疾患と類似しているメディア過剰の時代

いま暮らしている北海道の海辺の小都市に移住してきたのは1992年である。26年前になる。

当地に来て何か目立った変化があったとすれば、まず第一には(広い意味での)健康状況があるかもしれない。

◆ ◆ ◆

まずカミさんが悩んでいた手のアトピー性皮膚炎が解消した。『水がいいのかしらネ』とその時は話したのだが不思議である。それから背中が痒いと悩んでいたのだが、それも解消し、顔の一部分が赤く発色する炎症もなくなった。有難いのは秋口になると何度かやってきた喘息が全快したことである。『夏が過ぎて金木星が薫るようになると空気が急に冷えてくるでしょう、その頃がこわいの・・・』と話していたカミさんが、今では『秋になったし、どこか遠出しようか?』と聞くようになったのは一番うれしいことである。当地に転居してホッと安堵したのはカミさん本人もそうだが小生もまったく同じである。

小生自身の健康はむしろ悪化したところがある。東京在住時代にもあったアレルギー性鼻炎が悪化した。一年に何度か時々服用した薬が当地に来てからは一年中ずっと手離せなくなった。移住後の我が家ではアレグラは必需品となり、今ではアレロックのジェネリックを個人輸入している。ツムラの小青竜湯徳用版も欠かせない。最近になってからは、アレルギー性結膜炎も悪化し、対アレルギーのアレジオン点眼薬、ドライアイ防止のジクアス点眼薬を外出時にも持つようになった。

専門の仕事とは関係ないのに時間をかけてアレルギー症状について勉強してきたのは毎日を楽しく過ごすのに必要だったからだ。

◆ ◆ ◆

周知のことだが、アレルギー疾患は人体の免疫機能と密接に関連している。

一口に言えば、体内に侵入してくる異質なタンパク質を毒性物質と誤認して攻撃するときに様々なアレルギー症状が発生する。体内で進行する一種の自傷活動である(とも見なせる)。

ずっと昔には日本人の衛生状態は今日のようなレベルにはなかったため、ウイルスや細菌などに感染する機会も多かった。1950年代には日本人の寄生虫感染率は60%を超えていたそうだ。これらは、当然、毒性をもったタンパク質であるので抗原と判断して抗体を形成する免疫機能が身体の健康にはプラスに作用する。攻撃するべき対象が日常的に検出される状態であれば、免疫機能はフル稼働の状態にあり、不必要なターゲットを探すなどという状況は起こりえなかった。

ところが現代日本は高度の衛生管理状態を実現した。無菌社会とまではいかないが、弱毒社会に近くなった。ところが、体内の免疫機能は生物体として同じ水準にある。現代社会の日本人と昔の日本人と遺伝子レベルの設計は同じである。免疫能力過剰の状態がもたらされる。

ちょうど16世紀の終わりに織田信長が登場して戦国時代が終わり、豊臣政権が確立されたあと、内乱状態に対応するための巨大な武士集団が過剰になったことにも似ている。豊臣秀吉が文禄慶長の役を引き起こした理由として、戦乱の時代から継承した武士団に格好の攻撃目的を与え、領土(=税源)獲得と併せて、戦死による消耗も期待した、と。よくこんな解説がされるが、もしそうだとすればアレルギー疾患の蔓延と秀吉政権がとった戦略と、この二つの類似性には驚かされる ― もちろん体内の免疫機能に秀吉の文禄慶長の役に相当するイベントは起こりようがなく、今日もアレロックを服用しているわけだ。

◆ ◆ ◆

確かに、マスメディアは社会において重要な役割を担っている。このことは一般的な観点から間違っていない。

暴力的な権力を倒すには、マスメディアほど有効な手段はないだろう。だからこそ『第4の権力』などと呼ばれたりもするのだ。その意味でマスメディアは社会の自浄機能を実現する機関である。健康なメディアは民主主義社会には不可欠だ。

戦前期の日本で新聞社、放送局、出版社など、現代日本にも継承されているマスメディア企業がもっと自由に、毅然と、表明するべき意見を社会に向かって表明していれば、日本の現代史は別のものになっていただろうとは、よく言われることだ。

しかし、同じ指摘が現時点の日本社会にも言えるのだろうかと、疑わしい思いにかられることが、特に最近はとみに増えてきた。メディア過剰と免疫過剰はどこか似ている。スキャンダル続発とアレルギー症状は何か通じるものがある。不必要な非難と不必要な体内防御反応は本質が同じだ、と。そんな風に思うようになったのだ、な。

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たとえば、(もう少しで予約購読は止めようと思っているのだが)朝刊のテレビ番組表をみると、朝からまずは栃ノ心の優勝、春日野部屋で4年前に起こった暴力事件。昼過ぎから仮想通貨"NEM"の580億円流出事件を少しとりあげる。その後は再び春日野部屋、日本相撲協会の理事選挙、貴乃花親方の動向。まあ、絶句します、ナ。一日に放映するあらゆる番組に占める<相撲もの>のシェアは50%に達するのではないかとすら思われる。本当にこれほど普通の日本人は日常から相撲に関心をもっていたのだろうかと改めて驚かされる。と同時に、疑いも感じる。

これはテレビだが、週刊誌のマーケティングも苦しいことは苦しいのだと推測する。実際、ドラマを制作してもカネはかかるし、視聴率はあがらず、CM収入は増えない。以前なら、プロ野球を春から秋まで中継すれば、低コストで収入を伸ばすことができた。歌番組もあった。いま何を流せば番組をみるのか。

思うに、20世紀型メディア企業はどこも戦力過剰なのだろう。もう朝から夜までずっとテレビ番組を流すことを社会は期待していない。インターネットで十分以上の映像が提供されている。新聞のページ数も中途半端に多いのだ。新聞を端から端まで丁寧に読む時間などもうないのである。北海道内のJRもそうだが、戦力を削減し、スリム化し、真に対応するべき需要に対応する。役割を果たしていく。これに徹するべきだ。そう思うことしきりだ。

上で述べたことはマスメディア産業における大企業をどう見るかという経営戦略の視点であって、メディア産業で仕事をしているビジネスマンの潜在能力の話しとは違うーそれでもまあメディア全体が保有している経営資源が過剰だからこそ色々な現象が起きていると思うのだ。

ま、いずれにせよ今後は人出不足の時代が続く。本当は不必要な、求められてもいない業務を維持するためにターゲットを作り出す戦略は放棄した方がよいと。そう思ったりするのだ、な。

◆ ◆ ◆

思うのだが、日本社会全体にとっての重要性、社会において「毒性をもつ組織体」かもしれない存在になりうるのは、相撲協会ではなく仮想通貨である。

それが、金融当局の指導にも対応することなく問題点を放置し、ムザムザと580億円(!)をハックされて失ってしまった。実に「大事件」ではないか。これが分からないはずがない。

金融当局に落ち度はなかったのか? ムザムザとハックされたコインチェック社の技術水準は十分であったのか? 仮想通貨取引業者は登録制になっているのだが、登録すればそれでよいのか? 仮想通貨は既に資金決済法の中で決済手段、つまり「通貨」として認定されている。であれば、仮想通貨取引業は両替商でもあり、金融機関として管理指導されなければなるまい。その体制はどうであったのか? 森友事件や加計問題よりも遥かに重要性において優先されるべき大問題だ。

まあ日本相撲協会を攻撃するのはご自由だが、それで日本社会がどれほど健康になれるのか?きわめて疑問である。

噂によれば、マスメディアは今年の春までまたまた森友・加計問題で政府を追及する(営業?それともマーケティング?)戦略を検討しているらしい。

まあ、やっていけない、それは犯罪だというつもりはない。しかし、あまりに「無学丸出し」ではないだろうか。マスメディアは標的を誤認している。誤認というより社内資源が過剰状態であるため、投入ミスの機会費用がゼロに近い状態。そうも推測できる。明白な敵の脅威が減り、敵の存在を(北朝鮮問題が拡大しつつはあるものの)迫りくる実体として意識する習慣が薄れ、それ故にターゲッティングのミスによるマイナスを心配する必要がなくなった(資金過剰からもたらされるゼロ金利状態と似ている)。日本のメディア産業は過剰資源、過剰資本、過剰雇用の状態にある。なので、標的選択が甘くなっている。不必要な攻撃をしかけている。リソースの配分割合を間違えている。どうもそう見えてしまうのだ ― 本来は社内資源のスリム化が課題であるときにアウトプットを維持すれば往々にしてこうなる。

◆ ◆ ◆

メディア企業の社内資源制約が有効に意識されていれば、ターゲットは慎重に選択されるはずだ。大きな問題を優先し、小さな問題には人員を割かないだろう。社会が真の意味で脅威にさらされていれば、大きな問題には常時困らない理屈だ。

仮想通貨やフィンテック、資金洗浄には分厚く戦力を投入し、森友には少し、加計学園獣医学部については入学状況、教育状況などのフォローアップ、相撲は余剰人員があればフォローする。そのくらいでいいはずだ。

もしも今でもマスメディアは現代社会の木鐸という自意識をもっているなら、もう一度、自社は何のために日本社会に存在しているのかという問いかけをするべきだ。そう思われるのだ、な。

ひょっとすると、中国マフィアや多数の軍事スパイ、産業スパイ、テロリストが徘徊するようになれば、日本のマスメディア企業も覚醒するのだろうか・・・そうなれば相撲どころではなくなるワナ。そんな風にも思われるわけである。

2018年1月28日日曜日

「これは公(おおやけ)の問題です」のウソと裏

昨日は朝から夕方まで卒年次生による最終発表会があり、採点員を務めた。前週が第1回、昨日は第2回であり、このあとはもうない。

ずっと毎年、最終発表会があると採点員を担当し、決められた時間帯には司会もやってきたが、この春には退役するので最終発表会を担当することはなくなる。続けるのは自分がやってきた授業だけである。もうそろそろ"Old soldiers never die,  they just fade away"の道を歩いていく時機である。

高速バスで家路につき、迎えに来たカミさんの車に乗る。『栃ノ心、勝ったよ』。『知ってるヨ、スマホでネットを見ながら帰ったからネ』。

栃ノ心は春日野部屋の関取である。いま4年前の傷害事件を隠ぺいしたというので世間の逆風にさらされているのが春日野親方である。その親方が、栃ノ心が千秋楽をまたずに初優勝を遂げると、思わず涙を流して号泣し、それをみた八角理事長らももらい泣きしたと報道されている。

これは実に何とも極めて日本的な世界である。文字通り「ちょんまげの世界」の情景だ。

角界とは狭い世界なのだ。

◇ ◇ ◇

その狭い世界が、本音では相撲にそれほどの関心をもってはおらず、本場所にも巡業にも行ったことがない一般多数の世間の人たちに、毎日テレビが流す映像を通して露出され、(多くはネガティブな視点から)批評されている。

分野はまったく違うが、論文ねつ造事件が起きた京都大学・iPS細胞研究所も日本相撲協会の二の舞になるのではないかと危惧したが、こちらはどうやら「マスメディアの興味本位はあまりにひどい」という意見がネットにあふれ出たからなのか、炎上はしない見通しだ。

◇ ◇ ◇

相撲の方は、いま現時点も目の前のワイドショーでとりあげられている。大砂嵐関の無免許運転及び物損事件(?)の話である。いわば「角界不祥事ちゃんこ鍋」という塩梅で番組を構成している。「ま、僕たち、関係ないから」という割り切りが出来ているのだろうし、割り切ったうえで視聴者の関心が集まればビジネスとしてはOKである。そんなビジネスモデルなのだといえばその通りである。 ー そもそも小生の周囲にはマスメディア産業から給与を得ている人はいないので多少は悪意が混じっているかもしれない。

どこかで読んだが、春日野親方は激しい指導で知られていて、時にゴルフのアイアンで殴打することもあったようだ。この話し、このたび初優勝した栃ノ心がまだ若いころに普段着で外出し好きな酒を飲み、門限を破って部屋に帰ったのを親方が厳しく叱ったときの事であるらしい。まあ、力自慢で負けず嫌いの10代、20代の男たちが集団生活をしている。大体は大部屋にたむろしている。普通の学校のクラブ活動と同じ方式では統制できない。小生はそう思う。ゼミ生数名をまとめるにも苦労したダメダメ教官であったので、まとめるだけでも大変だというのは痛切に共感できるのだ、な。

どちらにしても春日野部屋には慶事であるに違いない。栃東以来46年ぶりという。小生の幼かった頃、まだ大鵬が登場する前、横綱・吉葉山が引退するのと入れ違いに春日野部屋の栃錦と花籠部屋の若乃花が一世を風靡するようになっていた(子供の目には朝潮太郎もいかにも強げに見えていたが)。小生は、激し過ぎてどことなく常軌を逸する雰囲気のあった若乃花よりは栃錦のほうが安心して見ていられて好きだった。ある意味で、小生の前頭葉には春日野部屋への好感がインプリントされている。この点は認めてもよい。

好きか、嫌いかというのは純粋に感情によるものなので、理屈を超えた事柄だ。その好きか、嫌いかという世界に、普段は関心をもっていない人たちが是非善悪の理屈っぽい話しをしてみても、事柄の本筋はいつもスルリと落ちてしまうものである。

◇ ◇ ◇

事柄の本質が抜けてしまっている、で思い出したことがある。

小生がもっとも不愉快なメディア表現が一つある:
・・・。私たちの税金が投入されているのですから! ですから、私たちの問題でもあるのです。
この言葉である。

だから相撲界の不祥事にも口を出す権利がある。相撲関係者だけの話ではない。京都大学だけの問題ではない。そんなことを主張したいとき、必ず上の表現が出てくる。

なるほど、日本相撲協会は公益法人であり、税制上の優遇措置が適用されている。京都大学は国立大学だ。とすれば、私たちの税金が投じられていると解釈しても無理筋ではないだろう。

しかし、そんなことをいえば放送業を認められている放送各社は国から保護されている。もしも放送市場が自由化されていれば、この30年間、新規参入が相次ぎ、放送各社の収益源であるCM料金は速やかに低下していたはずである。特に、インターネットが普及するまでは、自由化の効果は大きかったであろう。放送業界各社の高利益は、国民から利益機会を奪うことによって支えられていたのである。これは国民の税金が放送業界各社に投じられているのと同じことである。

というか同様のことは電力業界、ガス業界、はたまた鉄道、航空、タクシー業界にも、医療、保険、金融、農林水産業等々にも当てはまる。

消費者サイドからみても、年金受給者は国民の税金を直接的にもらっている。公務員と同じ立場だ。年金をもらっているからと言って、何かまずいことをしてしまった場合、『税金をもらっている以上、公人なのですから、プライバシーなどという資格はあるでしょうか!」とマスメディアに叫ばれては、これは文字通りの基本的人権の侵害に相当すると思う。

・・・実に、キリがないのである。

税金が投じられていない人々、組織がどこにあるだろう?
税金でまかなわれている公共サービスのお世話になっていない人々、企業、団体がどこにあるだろう?

◇ ◇ ◇

「私たちの税金が使われているのですから」といえば、いかにもその話題は「公(おおやけ)」の話題であると思いがちであるが、マスメディアがその話題をとりあげる理由は「公(おおやけ)」の問題であり、重要な問題であるからではなく、会社の私的利益追求が主な動機であるという指摘を否定できるだろうか。本当は私的利益追求が真の動機であることを「隠ぺい」しながら、メディア事業を継続しているのではないか?

だとすると、どの組織、企業、団体にせよ「事実を隠ぺいしている」と非難する資格はマスメディア産業のどの企業にもないであろう。小生は、そう思っているので、上の表現には怒りを感じることが多いのだ、な。

どちらにしても日本相撲協会の仕事に従事していない人は、外部の人であり、その事務執行には権利がなく、意思決定には参画できない。シンプルこの上ない事実がここにある。外から影響力を行使したいのであれば、ちゃんとファンになって本場所や巡業に足を運ぶことだろう。単に「税金をおさめている」というだけでは、利害関係者である資格もないし、発言をしてもスルーされるだけであろう。




2018年1月26日金曜日

一言メモ: 学問とは魔法使いの呪文なのか?

大変面白い「論争」が進行中のようである。

曰く「自衛隊は軍隊なのか、そうでないのか?」。極めてシンプルな問いかけだと思うのだが、これが実は大変難しい論争を引き起こすに足る大問題であると「法律専門家」には見えるらしいのだ、な。

一方の意見(一部省略して引用):
戦争放棄と戦力不保持を国是とする現在の憲法の下でも「軍隊」の存在が認められる、という理屈は、憲法の明文の規定を読む限りどこからも出てこない。
国際政治学というのは、簡単に法の文理解釈を乗り越えてしまう学問なのか、と驚いてしまう。
自衛隊は国際法上は「軍隊」だ、自衛隊は国際的には「軍隊」として扱われている、などと仰っても、自衛隊が諸外国の軍隊と同じようなことをしているか、と言えば、そんなことはない。
(中略) 
学者が何と言っても自衛隊は軍隊だ、などと篠田氏は仰るが、篠田氏が何と言っても自衛隊は自衛隊であって、軍隊ではない。
まあ、篠田氏は憲法学者の議論が観念的過ぎるとうことから、あえて世論を惹起するために自衛隊は学者が何と言っても軍隊だ(もっとも、「学者が何と言っても」という文言は、ブロゴスの編集者の方で付けられた付加文言。念のため。)、などという一見乱暴な議論を展開されれうのだろうが、この種の議論は目下の憲法改正論議にとって何のプラスにもならないだろうと思うから、あえて異論を申し上げておく。

(URL)http://agora-web.jp/archives/2030718.html

元々は、以下の意見に対する異論である。
自衛権は国際法上の概念であり、日本国憲法上の概念ではない。国際人道法(武力紛争法)は国際法の一部であり、日本国憲法の一部ではない。武力行使を規制しているのは国際法であり、日本国憲法は後付けでそれを追認したにすぎない。憲法学者が「すべて憲法学者に仕切らせろ」といった類のことを主張している日本の現状が、異常である。
自衛隊はどこからどう見ても軍隊である。イデオロギー的なロマン主義を介在させなければ、極めて自然にそう言えるはずだ。
(URL) http://agora-web.jp/archives/2030702.html

一方は「自衛隊は軍隊である」と言い、他方は「いや、自衛隊は軍隊ではない」と言っているのだから、意見は真っ向から対立している。

どちらが正しいかを決めうる問題であるとすれば、いずれかの方は間違っているということになる。

どちらかが「間違っている」のだろうか?

***

小生は法律には素人だ。経済学と統計分析でメシを食ってきた。

だからと言っては何なのだが、遠慮がちに口をはさむとすれば、「ものも言いよう」という、それだけの事ではないのかな、と。

黒いガウンをまとった魔法使いが唱える呪文のようにも聞こえる。


ここに包丁をもって通りを歩いている男がいるとする。

町の人は、知らない男が包丁をもって歩いているのを怖がり警察に連絡するだろう。


駆けつけたお巡りさんがその不審者を尋問する。これに対して、その男は
誤解ですよ。誰かに斬りつけようとか、そんなのじゃありません。単なる包丁じゃないですか。調理器具ですよ。家に戻って魚をおろすんです。それだけです。迷惑ですねえ、犯罪者扱いされるなんて!
そう答える。

確かに、包丁は「武器」ではない。調理器具だ。しかし、殺意をもつ人間が包丁をもてば、殺傷のための手段、つまり武器になる。当人にそんなつもりはなくとも、無頼漢に囲まれれば包丁を使って自衛するかもしれない。

包丁に対して、ミサイルや戦闘機、ヘリ空母は、純然たる武器である。自衛隊は武器をどう使うつもりなのか?

***

確かに日本人は「自衛隊」を軍隊であるとは考えていない(というのが最大公約数的見方だろう)。自衛隊が軍隊として活動しているわけでもない(といまも言えるかもしれない)。そもそも日本国憲法第9条では「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」と明記してある。「陸海空軍」は持たないと決めている以上、現に持っている自衛隊は軍ではない。でなければ、自衛隊は違憲となる(事実、そう考えている法律専門家もいる)。

ただ、憲法には「陸海空軍その他の戦力」を含め保持しないと書いてある。自衛隊は「その他の戦力」にも該当しないということになる。戦力には該当しない組織が、ミサイルや戦闘機、イージス艦、ヘリ空母、潜水艦等々を持つというのは不思議ではないか?「武器をもっていても使うつもりはない」ということなのだろうか。だとすると、これ以上の浪費はないではないか。やはり使うつもりでミサイルを持っているに違いない。こちらからは使わない。そういうことである。

しかしねえ・・・包丁を抜き身で持って町を歩けますか?誰も何ともいいませんか?

結局は、上の論争は戦後ずっと継続してきた論争の焼き直しである。

現在進行中の論争を目にして、思わず小生はニヤニヤとしてしまった。

***

包丁を抜き身でもって歩いても町の人は怖がるであろう。それは武器になりうるからだ。まして、ミサイルや軍艦は最初から武器である。それともミサイルは武器ではないと定義する認識論はありえますか?

もしミサイルは武器にあらずという認識論がありうるなら北朝鮮は大喜びだ。

「ものも言いよう」である。

現に包丁を持って歩いている男がいるなら、もって歩いている当人が何を考えているかよりは、一般世間の多数の人が包丁をどう見るか、包丁をもって歩いている人をどう見るか。これが大事だ。どう見るかがアクションを決める。

同じように、ミサイルや軍艦をもっている武装集団は世界全般、他の国々はその組織をどう認識し、どのような言葉でその存在を呼ぶか。真に重要な論点はこの点だけではないだろうか。どう認識するかで世界の他の国々はアクションを決める。

その認識を、何語で表現しても、実態は同じである。実態が同じであれば、周囲のアクションも同じになるはずだ。

結局「ものも言いよう」。同じ実態を二つの言葉で表現するのは、どちらも間違いではないが、学者の誠実さとは縁遠い。

ただ補足するとすれば、いまのところ中国も日本は平和憲法に束縛されており、自衛隊は(普通にいう)軍隊とは異なる。色々なメディアを読む限りはそう見ているようだ。とすれば、(少なくとも現時点では)自衛隊は軍隊ではないということかもしれない。しかし、軍隊であるための武器を保持している事実は否定できまい。訓練を経た実力集団である。

ロジックの建てようによっては軍隊ではないだろうが、実態としては軍隊と同じである。実態が同じなら、軍隊と呼ぶのが学者として誠実ではないか。もちろん、その瞬間、憲法改正の必要を指摘するか、自衛隊の解体を主張するか、いずれか一つを選ばなければならないが、どちらにしても学者冥利につきる大仕事ではないか。

事故を起こして運転するのはやめて住居として使っているミニバンは「もう自動車ではない、これは家です」と、そう言ってもよいが、存在としては自動車であることに変わりはあるまい。同じことである。それとも『もう私は運転免許を持っていないので、これが自動車であるはずがありません(笑)』と、・・・イヤマア、これは出来のいいジョークになった。

ホント、「ものも言いよう」だ。


2018年1月23日火曜日

研究とリスク

ノーベル賞を受賞した山中伸弥教授が所長を勤めている京都大学・iPS細胞研究所で論文不正事件が発生した。

聞くと、この3月に雇用期間が切れる若手助教が単独でしたデータ改竄であるという。有期雇用が研究者に与えるプレッシャーや不安が新聞等ではとりあげられている。

山中教授については以前にも本ブログでも投稿したことがある。中にこんな下りがある。
「真っ白なところに何を描いてもいい」はずの基礎研究に「うまくいくはずがないと思ったが、迫力に感心した」 ことが、文字通り、時代を切り開く研究のきっかけであったとしたら、これは趣味だとかたづけられる計画ではなく、真の科学的挑戦だ。そんな判断をした資金提供者の眼力もまた賞賛に値するに違いない。
日本の学界組織全体から支援を受けて研究大成への歩みを始めることができたことを山中教授が振り返っている点に好感をもつことができた。そんな趣旨のことを前の投稿には書いている。

もしそうならば、いま若手助教が研究者としての雇用不安に耐えられずに論文不正を行ってしまったことに若い時と逆の立場にある山中教授が痛切な悔恨の念を感じていることは非常によく理解できる。

***

前にも書いているようにアカデミックな(特に最先端の応用科学部門の)研究者はベンチャー起業家と同じである。個々人が成功に至る確率は、研究テーマごとに測ってみると、10%にもならないだろう。

(教育とは切り離された)純粋の研究所は、だから多数の多分野の多彩な研究者を抱える。個々人の研究者も単線的な実験計画、研究計画では失敗のリスクが大きいので、何らかの方法でリスクをヘッジしようとするものだ。

その時の雇用形態が問題になっている。

全ての研究者を(2年では短すぎるのでまずは)3年(?)乃至5年程度の有期雇用にしなければ組織全体でリスクをカバーできないわけではあるまい。

3年でまとまらなければ別の機関に移籍して同じ研究を継続できる研究環境があれば「短期有期研究員」でも支障はないだろう ー それでも実験を主とする科学分野では現実的には移籍は難しいかもしれず、さらに移籍のためのコスト(=備品設備の移転など)、データの所有権・利用権が個人に帰属するか等々、明確なルールが必要となる。

もし、移籍の際の不利益が非常に大きいなら、有期雇用制度は研究員にとって耐え難いかもしれない。得られた結果がいま一つで、任期延長が結果の成否にかかっており、延長がない場合の身の処し方について誰も相談相手がいない場合、データ改竄、図の修正などの論文不正への誘惑は誰の心にも兆しうるはずである。そんな不安をその人のモラル感覚だけを信頼して傍観するとすれば、研究機関のリスク管理としては拙劣だと思う。

軍団が敵軍と戦闘を行う場合の論理も同じだろう。個々の兵士の生死にはリスクがある。戦闘中に戦死する確率は高い場合で20%に達するだろう。戦闘は非常に危険であるのだ。個々のリスクを計算した上で、全体としてより速やかに敵軍が崩壊すれば戦闘には勝利したことになる。作戦は成功したわけであり、生き残った兵士は晴れやかに凱旋できる。しかし、戦死した兵士は戻らない。というより、勇敢にも戦死した兵士がいたからこそ、戦闘に勝利できたのだ。しかし、喜んで死ぬ兵士などいない。死のリスクを意識して、それでもなお死をおそれず戦うモチベーションが与えられていなければならない。動機があったからこそ個々の兵士は勇敢に戦い、少なからぬ兵士は戦死できるのだ。単なる「犠牲」ではない。「勇気アル者ガ最モ早ク負傷シ最モ多ク死ヌ」というのは、あらゆる職場において共通の真実だ。幸運な者と臆病者が生き延びるのだ。これが真相であるにせよ、そう思わせないことこそ組織マネージメントの本当の核心だ。

もし研究成果を出せなければ雇用が打ち切られ、在職中の結果も失敗の過程を記録した研究ノートも全てその機関に差し出すのであれば残るものは失敗の経験以外にはなにもない(そこまで酷くはないと思うが)。
討ち死にしたくはないんですよね。
それなら逃げなさい。
逃げたら処罰されるか追放されます。
それなら戦っている振りをしていなさい。 
限られた雇用期間のうちに必ず結果を得られるエクササイズ程度の研究テーマに取り組むのが最も賢明という理屈である。

こんな組織は勝てない。これだけは言える。

日本企業は莫大な金額の内部留保をつみあげ、この日進月歩の技術革新の時代にあって投資にカネをつぎこむのをためらっていると言われる。何にせよ投資はリスクだ。リスクを敢えて引き受けるのをためらうのは、現状に満足していることもあるが、挑戦する人間が失敗した場合、その後に継続する道が見えないからだ。失敗のコストが大きすぎれば、安全な収益率がいかに低くとも、甘んじて低収益で我慢するだろう。すでに十分成功しているなら猶更である。だからリスクは何にせよすべて避けるほうが合理的になる。

***

いずれにしても人は合理的に行動したがるものだ。その合理的行動を全体にとって望ましい結果につなげていくには、適切なルールと制度をつくっておくことが不可欠だ。

まあ、総司令官は何人かが戦死したからといって辞めたりはしない。むしろ勝てば凱旋将軍となる。戦死率が敵軍より高くなった場合でも、目的を達成すれば勝利になる。社長もそうである。経営不安をもたらせば辞めるが、会社が成長すれば個々の失敗は成功のためのコストとなる。トップの責任のとり方はそれ自体が深い問題である。


2018年1月22日月曜日

「時代」というのは何か?

西部邁氏がなくなった。小生も氏の著書を愛読した一時期があった。まだ若かった頃である。氏は既に「保守派」として高名であった。少し時代の流れとはズレている感じがした。が、そのズレは(おかしな取り合わせだが)森嶋通夫氏のズレとあい通じるところがあった。

本ブログでは「時代」という言葉をよく使っている。潮流とか、流れというのも同じ意味である。

しかし、「時代」の存在を指摘するのは難しい。現に実存しているのは人とその他目に見える物と動植物だけであり、そうでない言葉は概念としてイメージされているだけだからだ。いや、「物」といい、動植物の命といっても、究極的にはそこに存在しているというより、変化しつつある何かでしかない。全ては、音であれ、色であれ、形であれ、時間の中で起きる運動や変化として認識されるしかないからだ。

少なくとも小生は、この点で唯物主義者ではないかもしれない。

***

ただ、小生が若い頃と現時点とでは、やはり「時代」の違いを感じる。小生が若い頃は、オフィスに行くとまず「班」(という言葉も既に死語になっているかもしれない)の女性がお茶をいれてくれた。というより、小役人として初めて配属されたとき、まず聞かれたことは「お湯のみは持ってますか?」ということだ。毎朝、そして午後3時には個々人愛用の湯のみ茶碗にお茶をいれて全員にお茶を給してくれるのだ。

課内会議になると出席している職員たち(すべて男性である、という言い方自体が既に差別的だ、正しくは男性だけから構成されていた調査専門職の職員を指す)に配膳係よろしく熱いお茶を入れた湯のみを配って行く。それも女性職員達の担当であった。男性職員は、配られたお茶をふ〜ふ〜と喫しつつ、資料に目を通しながら意見を述べて行く。2時間、3時間。延々とやる。時々、お茶をつぎ足してくれる。そんな風景が会議というものだった。言うまでもなく、会議が終わって湯のみ茶碗を洗って食器棚に戻すのも女性職員の担当であった。

職場というのはそんなものだと思うところから小生の職業生活は始まった。それが当たり前だとみな思っていた。もう今ではそんなことはないと思う。それが「時代」というものだと思う。

そういえば、一人一人の机には必ず灰皿が置かれてあった。使い古して凸凹になっていた銀色のアルミの灰皿である。見るからに安っぽい小さな灰皿だ。室内に何十個もある灰皿は午後3時頃には吸殻で一杯になる。それを綺麗にするのも各班にいる女性たちであった。「嫌煙権」という言葉は、あるにはあったが、文学用語でしかなかったようだ。

それが「時代」ということだと思う。何を当たり前だと思うか?当たり前だと感じる生活感覚は時代が変わるにつれて変わって行くものだ。

小生が仕事を始めた頃と比べれば、スーツやコートのスタイルも変わったが、それでも服装・風俗は激変しているわけではない。「技術」が変わった。フェースブック やスマホ、インターネットは愚か、Amazonという企業もなく、ワープロも表計算ソフトもなく、そもそもパソコンという機械もなく、資料は謄写版であったのだ。進化したインフラを当然と思う感覚を持っているかどうかは大きな違いだ。変化をもたらす主たる要因として先ず「技術」があるのは言うまでもない。

技術の普及は人間の違いを小さなものとする。個性の違いが技術による標準化によって隠蔽される。社会の生産過程において男女の機能的相違が意味を失う。男女雇用均等原則は、技術進歩に根ざすものであり、倫理的要因から進展してきたものではない。社会の価値観や文化は上部構造であり、下部構造である生産過程によって規定される。

この点では、小生は相当の唯物主義者である。

***

現時点の感性では、小生が若い頃の職場には100パーセント、改善するべき性差別があったと認定されるに違いない。しかし、当時の職場には問題意識そのものがほとんどなかった(と覚えている)。というより、細々した事務、資料整備、手続きなどを差配しているのは女性たちであり、彼女達がいなければ、あとは男性ばかりの職員が会議すらもロクに進行させられなかったに違いない。女性達は職場における文字通りの人的インフラであった。

まあ、いいように言えば「男女分業」が機能していた時代ということであったのだろう。それが最も<効率的>であったのだ。

現在では「男女分業」という言葉がそもそも実効性を失っていると思われる。性別による異なった処遇は「時代」に合致せず、男女は同等・同質・同量の仕事を担当する(ものと原則的には考えられている)。現在はその方が<効率的>であるからだ。

が、この理念もまた「時代」による変容から免れることはできない。現在では当たり前の考え方が30年後には当たり前ではなくなっていることだろう。

「男女均等」も「民主主義」も「市場メカニズム」も、現時点で考えられているようには考えられなくなるだろう。そんな風に予想する。現に、この30年の間にそれだけの変化が起きた。同じ量の変化が今後も起きるだろう。


2018年1月16日火曜日

一言メモ: TVワイドショーへのいつもながらの苦情

TVのワイドショーというのは、(先日も使った表現だが)『ほんと、日本というのはトンデモナイ国だよなあ』という韓国の人たちの反日とすごく似ていて、『ほんと、今どきのワイドショーっていうのは、とんでもない番組だよなあ』と、そう口にすると大体の人と感覚を共有できる。そんな時代である。

韓国と北朝鮮が平昌五輪開催を前に雪解けブームである。ワイドショーも例によって、視聴率のあがる世間的話題に集中する癖があるので、これをとりあげている。

気になった下り:

それにしてもですよ、これまで喧嘩をしてきた隣の国が、急に笑顔になって、やあやあと。 
いや、韓国は本音では北朝鮮とネ、同じ民族ですから、仲良くやりたい。そんな思いがあるわけですよ。 
へえ~~~っ!でもね、国際社会の動きとは逆ですよね。北朝鮮ですよ。 
それでもネ、相手が笑顔で家から出てくれば、こちらもニコニコとネ。根は同じ民族なんですから。 
へえ~~~!
何が「へえ~~~っ」ですかね。

分断国家の悲哀は決して体感的に共有できるものではないが、第2次大戦敗戦を機に、もし東京以北の日本本土と、中部地方以西の日本が分断され、主義も歴史も違ってしまって、再統一までの道筋もおぼつかない。そんな想像をすれば、やはり独特の悲しさや無力感は想像できるのではないか。もしそうなっていれば、いまの北方領土どころではないだろう。アメリカもロシアも中国も、(そしておそらく日本もそうに違いないが)、朝鮮半島の分断の継続を本心では(なぜか)望んでいる ー 決して口には出さないが。そういう韓国と北朝鮮が、たまに巡ってくるオリンピックを口実に、つかの間の平和攻勢を演出するとしても、『あからさまに五輪を政治利用するなど本当にいいんでしょうか?』と目くじらをたてることもないのではないか。もともと古代ギリシア世界のオリンピアはそんなものだったのだ。一時休戦をして、オリンピックの後はまた戦火を交えていたのだ。それを『スポーツの祭典と政治をごっちゃ混ぜにして」などというのは、実に「ケツの穴の小さい」、料簡の狭い言い草であると感じる。

朝鮮半島の現状には、日本も相当の責任があるだろう。確かに朝鮮戦争そのものには交戦国としては参加していないが、アジアにおいて戦後もずっと活動してきた米軍の後方支援基地は何を隠そうこの日本であったことを思えば、「我が国はずっと平和国家で来たわけですから」などとはヨク言ウワ。まったくの偽善。偽善も偽善のコンコンチキである。加えて、1910年から45年までの歴史問題もあるからややこしい。朝鮮半島の現状に(直接的責任は小さいとはいえ)日本は濃厚に関係している事実にかわりはない。

それを『へえ~~~っ』とはねえ、高校の社会科をもう一度勉強した方がいいのじゃないか。そう感じた次第。

2018年1月15日月曜日

「センター試験」を改革できるのか?

最後のセンター試験監督をした。

第1回は、まだ「共通一次試験」と言われていた時分、役所から大学に出向していた身分の頃に遡るから、もう25年以上は毎年正月明けに試験監督をしていたことになる。

ずいぶん長くしてきたなあ、というのが今の気持ちだ。と同時に、もういいんじゃないという気もする。うんざりと言ってもいいくらいである。

***

センター試験はマークシート方式であり、あれでは真の知力・真の学力は測定できないなど、世間ではもっともらしい意見が提出されている。

ちなみに小生は、マークシート方式であるから真の知力・真の学力が正しく測定できないとは思っていない。

確かに、個別大学の二次試験は記述試験が中心だ。それは何も真の知力・真の学力を正しく測定したいというのが唯一の理由ではない(はずだ)。

マークシート方式では最後の答えだけを求めるがゆえに、答えが間違っていると自動的にゼロ点になる(この点も単純にこうだとは言い切れないのだが)。あと一歩で正解に到達するところであった受験生も、半分程度は正解までの道筋を辿っているものも、まったく箸にも棒にもかからない者も、答えが間違っていたら一律にゼロ点になる。正解を得た者だけがプラス得点になる。

一回でも採点業務を経験した人であれば、とっくに分かっていることだが、こんな機械的採点だけで試験問題を構成すると、ゼロ点附近に大半の生徒が底だまりしてしまって、成績評価が非常に困難になる。特に思考力を問う良質の問題であればそうなる ー だからマークシート方式では低品質の問題しか出せないという事情は確かにあるだろう。合格者を十分に増やすためには、わずかな違いも得点差に反映するように問題を作っておく方がよい。回答だけではなくプロセスを部分評価する必要がある。だから記述式問題になるのだ。解答までには至っていないが、『ここまで出来ているなら、7割はあげるか、これは・・・まあ3割かな』と、そんなニーズが採点業務、入試業務にはあるのだ。

マア、もっときめ細かく評価するべきではないかというのは確かに説得力がある。マークシート方式なら「まぐれ当たり」が出るでしょうというのはその通りだが、そんなことを言えば、記述式の解答であっても、ある所でおかしなことを書き、別の所で元の正しい筋に戻っているものの、全体としては論旨が破綻しているなど、多分に「運任せ」、「知っていることを並べただけの答案」というのが山のようにある。マークシート方式より記述式の方が真の知力・真の学力を測定できるというのは、あまり採点業務をやった経験のない人が信じがちな思い込みであると思われる。

学力抜群の受験生は、記述式であろうが、マークシート方式だろうが、それが正解のある試験問題である限り、ちゃんと正解に到達して高得点をとるに決まっている。単純なロジックだ。本当は、この最上層の部分を抽出できれば、あとはどんな方式でもよいのではないか。

試験の得点が評価方式によって変わるのは中層以下の受験生である。試験の得点と将来性はそもそもあまり相関はないとみられる。ならば、どんな方法にせよその出題方式がベストである方式などはあるまい。合格者のうち3分の2程度は運がいいから合格する(と言われている)。だとすれば、出題方式にそれほど執着する必要などないのではあるまいか。とすれば、効率的な方式の方が客観的にみて良い方法だ(と個人的には思われる)。

小生は到達点としてこんな風に「入試」なるものをみている。

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だから記述式問題を中心とすることがなぜ試験改革になるのか。小生はよく理解できない。

まあ、国語などは選択肢の中から適切なものを選ぶより、書かせてみるのがよいという人もいるかもしれない。歴史や地理も考えるという作業が最も大事であることはそうだろう。しかし、だから記述式問題を出せということにはならないだろう。設問の構成によっては、誘導式かつ機械式に回答させることもできる。

***

マークシートか記述式かの不毛な論争より、改革してほしい問題点はある。

まず答案枚数の確認だ。100人を超える試験室で回収した答案枚数が事前に報告した受験者数と合致しないときは悲惨である。焦ると数えなおすたびに違った数になる。センター試験は、時間的ゆとりが極端に少なく、少しでもマゴマゴしていると、次の受験科目までの休憩時間がなくなってくる。

回収した解答用紙をクリップではさむと、ドンピシャリ、枚数を瞬時に計測できる小道具があれば、何と効率化されることだろう。

このくらい、日本の電機産業の技術力があれば出来るだろうと思う。現在は、試験室と大学ごとの試験本部が総がかりで手で枚数を数えている。

もう人力をあてにした単純作業は改善しませんか、というのが第一点。

第二点は受験者数の数え上げだ。

受験科目は事前に登録するのだが、当日の受験者数が受験予定者数に一致するとは限らない。なので、試験科目ごとに受験状況調査をする。その結果は、東京にある入試センターに連絡するのだが、小生はまず室内の通路を歩き、空席になっている席があれば、その受験番号を欠席とする。そうして室内調査の結果から 「受験予定者総数マイナス欠席者数イコール出席者数」を出す。その後、試験室内の座席を1列ごとに何人の受験生が着席しているかを指で数え上げる。全ての列の合計人数が先に出した受験者数と合致すればよし、合致しなければ再度室内を歩き、欠席者の数に間違いがないかどうかを確かめる。こんなバカバカしいほどの数え上げ業務に各科目で15分ないし20分はかけている。多分、全国のすべての入試センター試験試験室で同じ単純業務が行われているに違いない。

何と不毛な業務形態だろう。

もしスマホのカメラを各列に向ければ、画像解析によって人数を即座に教えてくれるアプリが開発されれば、上の答案枚数測定器具とあいまって、試験監督業務は飛躍的に効率化されるだろう。

***

休憩中に同じ試験室で監督をしている同僚たちに話すと、非常に受けて、それより天井にWEBカメラを設置して、上から受験生の動きをモニターできるようにすればあとは人工知能(AI)で不審な動きは検出できますよとか、スマホのアプリなどよりは天井のWEBカメラのほうがずっと正確に人数を数えられるはずだ、と。そんな話も出た。

受験生が写真票に貼っている顔写真をみながら、毎試験科目で写真票照合をするのだが、正面から顔をみてもいないのに正確に照合できているかどうか分かったものではない。それよりは、写真をデジタル化しておき、受験生が正面をみている試験前の段階で顔認証をすればずっと容易だ。群衆の中からテロリストを顔情報から検出できる時代だ。大学入試の本人確認は何と原始的で、非効率なのだろうと感じるばかりだ。

***

本当に良いかどうかも曖昧な問題形式変更にエネルギーを投入するより、プラスの効果が明確に期待できる分野に時間と労力とカネを使うべきだと感じる。

ツベコベ不平を言わず、そんな暇があったら、手足を動かして勤勉に働いてください、と。このスピリットが余りに濃厚であるために日本が世界に対して出遅れた分野は数多くあると思うのだが、どうだろう。

何事も長所と短所は表裏一体だ。長所はすなわち短所であり、短所はすなわち長所なのである。手間暇を惜しまないという性癖は、確かに長所である一方、進歩への反対論にもなりうるのだ。

2018年1月12日金曜日

「予報屋」はインガな稼業ときたもんだあ~

北海道の厳冬期における願いは吹雪の到来を早めに知りたいということに大体尽きる。

想定外の吹雪は、除雪の遅れ、JRの混乱、高速道路の閉鎖、一般国道の不通、出勤困難など、あらゆる分野で混乱が生じる。

いま暮らしているマンションの管理人は、何かというと『天気予報と違うじゃないか・・・』とぼやく。駐車場の除雪を外部の業者に委託しているので、どのタイミングで除雪車を呼ぶのか、天気予報が頼みなのだ、な。

ともかく北海道では『ほんと、天気予報って当たらないですよネエ』というのは、韓国の人が『ほんと、日本ていうのはトンデモナイ国だよネエ』という反日とたぶん似ていて、その場にいる誰もがうなづける共通の話題なのである。

予報屋なんてインガな稼業である。

◇ ◇ ◇

今週は週初めから今冬一番の寒波がやってくると、小生がいま暮らしている道央地域でも暴風雪警報が発令されていた。

しかしながら、事後的には風はビュウビュウと吹き荒れたものの雪の方は大したことはなかった。

テレビやインターネットで確認できる天気予報を視聴していると、リアルタイムといえば印象はよいのだが、ありていに言えば毎日言うことが変わっている。

言うことが変わるのは、昨日には分からなかったことが今日は分かったということなのだが、予報屋さんは決して「こうなるとは分かりませんでした」と口にはしない。

しかし、本当は分からなかったのだと思われる。予報とは可能性の議論であり、どうなりそうかという予測を範囲でしか言えないはずである。一点だけを示す点予測の信頼度など最初からゼロに決まっているのである。

◇ ◇ ◇

景気予測も一種の予報である。しかし、景気予測にせよ、株価予測にせよ、たとえば東証日経平均であれば<○○円~△△円>と範囲をつけるのが普通である。しかも数人、数機関の予測範囲を並列して伝えるのが常識になっている。

ところが天気予報は『明日は多分こうなります』と言うことが多い。だから、暮らしている町の狭い区域の住人から見ると『また外れやがった』となることが多い。

大体「北海道では雪が激しくなるでしょう」とよく言うが、苫小牧や白老などでは今でも雪はほとんど積もっていない。北海道は東北地方と関東地方を併せた面積とほぼ同じなのだ。一律には言えないでしょう。

予報を伝える伝え方は科学的に間違いのないものであってほしい。

何と言っても、天気予報はエンターテインメントでもなく、娯楽でもないのだ。

2018年1月11日木曜日

一言メモ: 「慰安婦合意は間違った合意であった」と日本は認めうるか?

予想されていたことだが、韓国の文在寅大統領は2015年12月28日に日本政府と朴槿恵前政権との間で成立した慰安婦合意は「間違った合意であった」と語った。

具体的にはまず元慰安婦達を大統領府に招き以下のように直接的に謝罪した。
文在寅(ムン・ジェイン)大統領が4日、慰安婦被害者を青瓦台(チョンワデ、大統領府)に招請して昼食会を開き、韓日政府間12・28慰安婦合意が「間違った合意」だったとして公式謝罪した。
(出所)中央日報(日本語版)、2018年1月4日17時4分配信

その後、間違った合意ではあるが再交渉は求めないとして以下の発言をしている。
従軍慰安婦問題を巡る日韓合意は両国間の公式的合意という事実は否定できないが、誤った問題は解決しなければならない。
(出所)産経ニュース、2018年1月10日配信

韓国では意見が割れ、日本では概ね批判的な反応が多いようだ。

***

韓国が公式に表明したこのような認識を日本政府が共有することはロジックからして不可能であろう。

なぜなら、「間違った合意をした」と日本政府が認めるなら、日本としても「間違い」を犯したことになるからであり、当然の論理として日本の外交責任者の責任問題につながるからだ。合意成立時の外相であったのは岸田政調会長であり、次期首相に最も近い人物と目されている。論理としても、人間関係からしても、無理な筋である。

大体、韓国はすべての失敗の責任を前政権にとらせることができるが、日本では政権が交代しているわけではなく、総理も同じである以上、上のような「間違い」を認められるはずがないとは、最初からわかりきっていることだ。

いや、むしろ話はこうなるかもしれない。韓国が「間違い」だとする内容の合意案に日本が合意したのは、それが間違いだと日本は分からなかったからである。韓国が「間違いではない」とする合意案が実は「間違い」だと日本は思わなかった、つまり日本は騙されたことになる。故に、合意に基づいて日本が支出した10億円を韓国はだまし取ったことになる。こんな主張も相当の論理を有しているだろう。

更に挙げられる。もし朴・前政権の間違いは文・現政権の責任ではないという論理を認めるなら、戦前期・日本政府の責任を占領期を経た後の戦後日本の政府に求めることも無理になるのではないか。70年前になる戦前期の行為の責任を韓国が日本に求めるなら、2、3年前の行為の責任を日本が韓国に求めてもよいだろう。


***


色々な観点から無理筋ともいえる無理押しをあえて韓国政府が採ったのは、消去法によれば残されたたった一つの選択肢であったからだと思われる。

この件に関しては日韓の外交当局の間で何の水面下におけるすり合わせもしていない(はずだ)。勝機の検討もなく、正にぶっつけ本番。日本の真珠湾奇襲と同じであるのが奇妙である。

「まあ半年か一年は暴れてみせましょう、しかしその後はわかりません」。これと同じだ。「行くしかないだろう」という点では今回の韓国外交は特攻作戦と同じだ。「正義は我にあり」の道を高々と歩こうと高揚している可能性がある。

あるいは先日投稿したように、韓国は既に中国の外交戦略の一駒になっているが故に、真の目的である中国の国益(≒アメリカの損失≒日本の損失)が韓国の利益としてトリクルダウンすることを期待している、こんな可能性もあるのかもしれない。ならば事大主義である。名誉ある降伏を考えてばかりいる敗北主義的作戦であるともいえる。

いずれにしても、今回の韓国外交は非正規的な戦術であるには違いなく、何かに差し迫られて選びとった結果であるのは確実である。

ということは、日本もまた韓国を外交的に追い詰める姿勢をとっていたということではないだろうか・・・。だとすれば、開戦前夜のアメリカ外交について一部に批判があるように、足元における日本の対韓外交にもまた批判に値するいくつかの点がある、と。そうも言えるかもしれない。

ここまで書いてきて、何となく旧・民進党代表の前原代表が自党凋落の危機に直面して選び取った捨て身の作戦を連想してしまう ー まったく関係はないのだが。あれもまた、後を考えない一期一会、オールインのギャンブラー戦術だったネエ・・・。両方とも相手のある話だ。文在寅さん、北に騙されなければいいけどネエ。人を騙して苦境にたつと、今度は足元を見られて自分が騙されるものだ。

2018年1月10日水曜日

北朝鮮のミサイル開発: アメリカは自国ファースト、東アジアは捨て駒なのか?

アメリカのグラハム上院議員の発言が、昨年も押し詰まったころ、世を騒がせたことがある(少し古いが)。
トランプ米国大統領に近いとされる共和党の重鎮、グラハム上院議員の発言が日本にも波紋を広げている。「北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)との戦争になれば韓国や日本などで100万人規模の犠牲が出かねない」というCNNテレビでの質問に、「大統領は(日本や韓国の北東アジア)地域より米国を選ぶ」と答え、「北朝鮮のICBM級核ミサイルの完成前に米国は、日本に100万人規模の死者が出る恐れがあっても軍事オプションに踏み切る」とのトランプ政権の方針を語ったのだ。

しかも日韓が“捨て石(盾)”となる「米国本土防衛作戦(軍事オプション)」は、既に米国内にかなり浸透、可能性がさらに高まっているとの見方がある。

(中略)

野党はどうか。「先制攻撃は国際法違反。認められない」と指摘した枝野幸男・立憲民主党代表は安倍首相の対米従属ぶりを批判したが、大塚耕平・民進党代表もグラハム上院議員の発言について、安倍首相に「米国は『自国の利益を犠牲にしてでも他国、たとえば日本の利益を守る国だ』と思っているのか」と聞いても明確に答えなかったと指摘した上で、「(米国第一で日本国民二の次の)不安を国民が持つのはあり得る話なので、(安倍首相)自身の考え方を可能な範囲で述べる努力を求めたい」(7日の会見)と述べた。
(出所)BLOGOS、2017‐12‐25
(URL)http://blogos.com/outline/267482/

『米国は「自国の利益を犠牲にしてでも他国、たとえば日本の利益を守る国だ」と思っているのか?』と。この質問の思いは分かるが、日本の利益を犠牲にしてでも、他国を守る覚悟のある日本人などいるのか?? 自分ができそうもないことがアメリカ人には出来ると期待する方が奇妙、というより奇妙を通り越して奇っ怪である。

自国を守るための同盟である。論理的に言えば、それはお互い様なのだ。日本は日本ファースト。アメリカはアメリカ・ファースト。当たり前である。単独でいるよりは集団化すればリスクは(色々な意味で)減るということの分かりやすい一例に過ぎない。複雑な議論など(本来は)必要ないのだ。

上記文章より少し遡るが以下のような報道記事もある。
北朝鮮の長距離弾道ミサイル開発問題では、早ければ来年にもベルリンやパリ、ロンドンといった欧州の主要都市が射程内に入る可能性が指摘されている。だが、現行の欧州ミサイル防衛システムでは迎撃できないと、外交筋や専門家は警告している。

米政府は、構想から10年以上が経過する欧州ミサイル防衛について、欧州を「ならず者国家」から守るために必要だと繰り返し説明してきた。米当局者がこの言葉を使う際、それらは北朝鮮やイランを指す。

ところが専門家によれば、北大西洋条約機構(NATO)が北朝鮮のミサイルを迎撃するためには、より多くのレーダーと専用の迎撃ミサイルを配備する必要があるという。

(中略)

だが北朝鮮の弾道ミサイルを撃ち落とすには、開発中の新型迎撃ミサイル「ブロック2」が必要だ。このミサイルは、弾道弾をより早期に高い高度で迎撃できる性能を持つ。

だが2018年に完成予定のブロック2は、米アラスカ州やカリフォルニア州、日本や韓国への配備が欧州より優先される可能性が高いと、前出のエルマン氏は話す。同氏は「同盟各国が競ってブロック2を求めることになるだろう」と予想している。

(出所) ロイター、2017年9月13日

アラスカ州もハワイ州もアメリカの領土である。グアム島もアメリカの準州だ。故に、アメリカ・ファーストの対象となる。しかし、欧州はアメリカではない。

なので、北朝鮮のミサイルに対してヨーロッパが脆弱であるとしても、アメリカ政府の責任としてその国防、いやいや防衛に努力する義務はない。であっても、欧州はやはりアメリカに期待している。アメリカもヨーロッパの防衛に誠意を尽くすだろう。それがアメリカの利益につながるからだ。

ところが、アラスカ、カリフォルニア、日本や韓国に防衛システムは優先配備されるとヨーロッパからは観察されている、というわけだ。それがアメリカの利益にかなうとヨーロッパからは見える(ということだ)。

◇ ◇ ◇

「やってもらう」ことをまず頭に思い浮かべるヒトは、福沢諭吉が『学問ノススメ』で述べているように国にとっては「客分」、つまりは「お客さん」である。

お客さんには、何かして下さいと頼んでも無駄である、そもそも立場も意識も「周囲の他人のためにいま何かをする」ということとは無縁なのである。

「イの一番にやってくれるのか?」と相手の誠意を不安視するのは、相手をパートナーではなく、自分が弱い立場、相手が強い立場。自分が下、相手が上。要するに、相手を店主か主人のようにみているからだ。友人を相手にこんな不安は(普通)感じないだろう。

つまり「客分」として自分のポジショニングを定義している。


決して裏切ることのない忠実な臣下がいてくれるなら、危機に直面したとき、『そこもとは〇〇をせよ!』と下知を伝えればそれで十分だ。累代の臣下は『ハハ、畏まって候』とただ一言で承るだけだ。ここには(建前としては)不安はない。封建の道徳とはこういうものだった(と思う)。

現代の世界では、「役に立つから」同盟関係にある。役に立たなくなれば、同盟は不要だ。自分に言えることは相手にも言える。自分の不安は、相手の不安でもあるのだ。

危機になったとき、アメリカは日本を守るだろうか?
危機になったとき、アメリカは日本を守るだろうと日本は考えるだろうか?
危機になったとき、アメリカは日本を守るだろうと日本は考えているとアメリカは考えるだろうか?
危機になったとき、アメリカは日本を守るだろうと日本は考えているとアメリカは考えると日本は考えるだろうか?
以下無限に続く・・・

相手に対する不信は、そもそも最初から最後まで日米双方ともにもっているのではあるまいか?

実際、日米二国は(いかに粉飾するとしても実質的には)日米軍事同盟ともいえる関係にずっとあるが、その同盟は第2次世界大戦後、一度として本当の意味で試されてはいない。


◇ ◇ ◇


見捨てられることを不安視するのは、自分は相手の役に立つから相手と協力関係にあると自分が思っているからだろう。なぜそう思うのか。本当は、相手が自分にとって役に立つから自分は相手と協力関係を結んでいるからだ。

道具は無用になれば切り捨てられる。自分がそうしようとそもそも思っているのである。だから不安なのである。しかし、相手はそうは思っていないかもしれない。

『見捨てられるのではないか』という不安は、自分の側に『いざとなれば見捨てても仕方あるまい』と、そんな思いがあるからだ。

自分の側の心理が自分の不安に投影されているだけのことである。

2018年1月8日月曜日

「井戸端会議=忘れ去っても構わない会話」と定義するなら・・・

Evernoteは実に便利で重宝している。昨年の春から初夏にかけては、あらゆる森友不祥事、加計学園問題に関するネット上の記載に、 "temporary"  というタグを付けて、Evernoteに保存しておいた。が、その大半は再度見直すこともなく、今後は不要と思われたので、先刻、Evernoteから全て削除してしまった。

中にはこんな記事もあった。日経の記事である。

経団連の榊原定征会長は5日の記者会見で、学校法人「加計学園」が国家戦略特区に獣医学部を新設する計画が国会審議の主要テーマになっていることに苦言を呈した。「集中して議論してほしい項目が山ほどある。優先順位からすれば加計学園ではないだろう」と述べた。榊原氏は国会で優先的に議論すべきテーマとして、北朝鮮問題やテロ対策、環境政策をあげた。
(出所)日本経済新聞、2017年6月6日

経団連会長まで発言していたんだねえ・・・ 忘れていたが。

◇ ◇ ◇

正論を述べても、マスメディアの編集陣は頭の中が真っ白で、思考力を喪失していた、そんな世間の雰囲気が察せられる。後から振り返ると、「なんで俺たちあんなにバカだったんだろうな?」と口にしたくなる時期というのはあるものだ。1940年から41年にかけての日本の政界、官界、軍部、マスコミ、国民すべて、ある種の感情に理性がマヒしていたと言えばいえるのか。まあ、それと同じだ。

ただ、違う点もある。戦前期の開戦前後の詳細はこれからも何度も検討され研究されていくだろう。それほどにまで重みのある混乱であったから。しかし、おそらく2017年の春から夏にかけての紛糾は、登場人物こそ総理大臣とその夫人、文部科学大臣、官房副長官、前事務次官など大した人たちであるが、長期的には記憶としては残らず、その詳細を研究してみようと思う歴史家、政治学者は今後もまずは現れそうになく、ただ時間だけを浪費したくだらない事件として、最後には忘れ去られていく ・・そんな気が今からするのだ、な。

結局、世を騒がせた事件ではあるが(まだ終わっていないと食い下がっている人たちはいるものの)、例えば「バブル崩壊」などとは違って、この件を調査した名著のような書籍は多分現れず、現れても残らず、やがて絶版となり、おそらく<平成期大事件百話>などにも入らず、あと30年もすれば、「なかった事」と同様の状態に収束していくであろうと予想する。現代日本社会を舞台にした、いわば<日の丸を背負った壮大な井戸端会議>であった、と。いまはそんな空しい感覚を感じている。

本当にこれを<付加価値>というのか?

なんの成果も残さず、なんの痕跡も残さず、時代の進む方向を1ミリも変えることができず、ただ声高に騒ぐだけであった・・・とするならば、現代社会でマスメディアに投入されている人的・物的・貨幣的コストは一切が無駄であった、そもそもがエンターテインメントとしての娯楽的消費であったと、そう批判されても仕方がないのではないだろうか。

東芝をつぶす、シャープをつぶす、山一證券をつぶす、拓銀をつぶす・・・民間企業なら運営の上手下手は会社の存否に直結する。しかし、マスメディアというのはどんなプラスの価値を提供しているのか明瞭でない。なので、こうした途方もない浪費がときに生じるのであろう。

ただ、マア、ケインズは『カネを埋めて、それを掘り返すだけでも雇用のためにはやる価値がある』と言っている。これは極端なまでの「有効需要の原理」の説明である。が、いまは人出不足の時代である。生産性の向上が重要な時代だ。マスメディアによる巨大な浪費は避けるほうが理に適っていて望ましい。もっと地頭のよいプロデューサーに番組編成をさせよという要求は、優秀なエンジニアが技術開発に参加することが重要だというのと、まったく同じ意味である。これまた、全要素生産性の向上率が国民の豊かさをもたらすという経済学的原理の一例である。

たかがEvernoteのメモ整理。ではあるが、何かをすれば何かに気がつく。

時には<棚卸し>というか、情報の大掃除をするのもいいことだ。



2018年1月5日金曜日

こんな怪しげな指摘が横行している怪?

朝刊には色々な雑誌の広告が掲載される。その昔、新聞の広告欄と求人欄が最も有益な情報であると喝破した大先輩がいた。これらを詳細に吟味すると、バイアスのない、真の情報が読み取れると語っていた。

小生は紙媒体の新聞はとっくに放棄してしまったが、株価や商品市況欄は大学の食堂や町の喫茶店に新聞が置いてあれば、今でも必ず目を通して何度でも読み返す。ReuterやBloombergでも毎日確認している。

そもそも新聞が存在した理由は、こういう純粋に客観的な事実情報が整理された形で早く手に入る。この点にこそあったのではないだろうか。記者が文章を書く報道記事は歪曲や偏向が(少なからず?)混在しているにしても、先入観を込めようのない事実報道は今でも非常に役立つものである。

今朝の朝刊である月刊雑誌の広告に目を向けるとこんな文字があった:


  • 県庁で「赤旗」を購読する怪
  • 「朝日」や「赤旗」を公費で購読しているのはなぜ

アホらしいので雑誌を買ってまで本文を読む気はない。が、上の宣伝文句とその他記事の傾向をうかがうと、どうやら「私たちの税金」で「赤旗」なる共産党の機関紙を定期購読するのは不適切であると言いたいらしく思われる。同じ趣旨で、「朝日」や「赤旗」のような特定の政治的立場にたつプロパガンダ紙は、公費で定期購読するべきではない。多分、税金でうえのようなメディアを発行する企業・団体を支援するなどとんでもないことである、と。どうやらそんな主旨であると思われたのだ。

まったくヤレヤレというものでござる。精神年齢がここまで幼稚化しているのは、文字通り慄然とする思いでござる。「だからこそ、必要なのだ」という大人の思考は、「汚くて、ずるい」としか感じられないような世代が育ちつつあるようだ。


太平洋戦争がはじまると、明治初年にあれほどまで燃え盛った英学熱もどこへやら、「鬼畜米英」がしゃべる言葉を勉強するなどまかりならぬ、と。洋楽など聴いてはならぬ。野球のストライクなどは「よし一本」と言え、と。亡くなった小生の父は、戦時中に官僚たちが押し付ける新方式がいかに非生産的でバカバカしいものであったか、友人たちと散々にバカ扱いしていた。そんな思い出話を何度聞いたか分からない。

同じ時期にアメリカでは憎き敵国・日本を打倒するために日本語学習熱が高まり、日本研究の盛り上がりの成果として名著『菊と刀』、人材としては川端康成の紹介者であるエドワード・サイデンステッカーや永井荷風に心酔したドナルド・キーンなど、実にハイレベルな専門家が輩出し、彼らこそが戦後の日本文化の国際化に大いに貢献したのであった。

彼我の間のこの大きな器の違い。本当に何とかならないものかと、暗澹たる情、この上なく、まことに情けなく感じおり候次第。国小さければ人も小さく、心も小さくなるものなりと、かく言われればその通りかと納得する塩梅にも御座候が、小国弱国からも偉人は生まれ出ずるものなれば、やはりこれも我が国の歴史文化生活に由来せるものかと、かく思案いたしおり候。

ま、こんな感じになった。

2018年1月4日木曜日

今後5年の夢: AIによるインターネット情報モニタリング機能

今年は無理だろうが、5年程度の時間があれば可能ではないかと(小生には)思われる技術進歩の一つとして、あらゆるネット記事を対象に以下のような機能を、最初は有料オプションでもいいので、開発・導入してほしいと、そう熱望しているのだ。

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閲覧しているhtmlページ(更に、PDFなど全ファイルを対象にしてほしいし、必要であるという点ではLINEやWhatsAppのログデータも対象とするべきかもしれない)とネットからアクセスできる他のページ(サンプル調査でも十分だが)とを比較して、たとえばいま閲覧しているページと同趣旨のページが80%を超えていればバックグラウンドを濃い赤色で、50%を越えれば薄い赤色にして分かるようにならないものか。そして該当箇所指定ボタンをクリックすれば、その判定の根拠となった意見にわたる段落を強調表示してほしいのだ、な。当然ながら、自動翻訳機能を駆使して検索対象範囲はグローバル。「全世界」とする。似たようなシステムとして、たとえばAmazonのKindleで本を読んでいると、多数の人がコメントを付している箇所はそれが分かるようになっている。要するに<重要箇所>の共有機能だ。あのサービスをさらに発展したレベルにしてほしいのだ。

更に付け足せば、閲覧しているページと趣旨が反対であるページも同数あれば、バックグラウンドをたとえば薄い黄色にして、そのページで主張されている意見は賛否が分かれていることを教えてほしい。

文章表現上、人格攻撃にわたると判断される箇所は(例えば紫色のイタリック体で)分かるようにしてほしいし、ネットからアクセス可能なテキストから攻撃される根拠がないと判断される、いわば誹謗中傷と思われるページは紫のバックグラウンドで表示すれば、いま読んでいるページがどの程度信頼のおけるものかどうか、ある程度は憶測できるであろう。

他に類似のページがまだアップされておらず、何かの提案と思われるページは例えばグリーンのバックグラウンドで表示するなども有用だろうと思われる。

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自然言語処理やテキストマイニング、人工知能のレベルアップが更に進めば、ネットを通した根拠なき誹謗中傷・人格攻撃・イジメやハラスメントを防止できるだろう。頻繁にそのような攻撃的記述を行う人物を特定して情報を共有することも技術的に可能になろう。

ネット上を流れるウイルス(=悪質なビット列)を検出する作業とある程度は似ているかもしれないが、マルチリンガルな自然言語処理と意味解析が求められるのでAIは不可欠だ。

マア確かに、このような技術が警察や検察によって過剰に使用されれば「監視社会」に陥る。しかし、盗聴器が製品としてあるから当局は必ず国民を盗聴するわけではない。「必要なら出来る」というだけで十分だ。そんな技術を社会として保有しておくだけで、抑止効果がある ー もちろん一罰百戒の意味で現実に実行できるための法制度は設けておくべきだろうが。

技術水準の向上は、常にプラスの価値を社会に提供しうる。新しい技術が社会に損失を与えることがあるのは、人間の悪意からであって、その技術の性質自体からもたらされるものでは決してありえない(この「悪意」という言葉は実に複雑なのだが、また改めて)。

なので、<AI化されたインターネット情報モニタリング機能>には大いに期待しているのだ。