フェースブックを利用している5千万人分の個人情報が英国のコンサルタント会社ケンブリッジ・アナリティカ(CA)を経由して、トランプ大統領候補陣営を支援するターゲティング広告に利用された・・・という事件が、文字通りいま世界を揺るがせている ― これに比べると、日本社会が騒いでいる割には森友事件の案外な矮小さに、小生、情けなさが募るばかりであるのが正直なところだ。
ロイターは、FBとCAとを繋ぐキーパーソンとしてケンブリッジ大学の心理学講師・アレクサンドル・コーガン氏の研究テーマに改めて光をあてている。
フェイスブック利用者約5000万人の個人情報が不正流出したスキャンダルの中心人物とされる英ケンブリッジ大の心理学者は、ロシアの研究者と、病的な人格の特徴に関する共同研究を行っていた。
この心理学者アレクサンドル・コーガン氏は、心理学分野で「邪悪な人格特性(ダークトライアド)」と呼ばれる精神病質やナルシシズム(自己愛)、マキャベリズム(権謀術数主義)といった性質が、インターネット上での他者に対する虐待的行動と関連があるかを調べているロシアにあるサンクトペテルブルク大の研究チームに助言していた。
「われわれは、ネット上の怪物を特定したかった。こうした怪物に悩まされている人々の助けになりたいと考えた」と、サンクトペテルブルク大のヤニナ・ルドバヤ上級講師はロイターに語った。
(出所)
ロイター、2018年3月21日配信
社会が高速ネットワークで緊密かつ広範に連結され、いまこの人類社会はこれまでと質的に異なったステージに移行しつつある。公益を守るべき国家や政府もその激流の中で無力になりつつある。こういう漠然たる不安や恐怖の感情が世界に広まりつつある。この点は確かに否定しがたい現実である。
その根っこには、善悪という尺度で極端なケースともいえる人間が少数にもせよ社会には生息していて、ネットワーク化された社会の中で訪れた新たな犯罪チャンスを利用しつつある。悪意ある人間が悪意を現実のものに転化できつつある。いま求められているのは、こんな認識をもって適切に対応することである。対応するための方法について科学的な研究を深化するべきである。
フェースブックだろうが何であれ人と人をつなぐソーシャル・ネットワーク・サービス(SNS)が構築する社会は、リアルな社会をそのまま仮想化した存在になる理屈である。そもそもネット社会が現実の社会とは別の社会になるはずがない。故に、現実の社会で運用されている法は、ネット社会でも形をかえて運用されるべきであり、そうでなければネット社会は無法化され、荒廃していくのは必然だろう。そんなネット社会は悪意をもった人間だけが互いに罵詈雑言を繰り返し、毎日のストレスを発散するだけの結末となる。
人間性善説が現実には無力であることが多いのはネット社会でも同じだ。と同時に、人間性悪説はネット社会にも、現実の社会にも当てはまらないはずである。
確かに論理的にはこんな議論になるしかない。
ネット社会なる存在が既に現実に出来てしまった以上、『危ないものは使わなければいいのサ』では問題を解決することにならない。時間はかかるだろう、法やルールを設けて、ネットを社会のツールとして広く定着させていく、こういう一本の道しか歩める方向はない。
進歩にはコストがかかる。代償も必要だ。もはやネットなき呑気な社会は戻ってこないのだ。
ソーシャル・ネットワークという現代の怪獣は、大変でも飼いならし、人間社会にとっては有害ではなく有益なものにしていく、そのために投入する時間と汗がすべて<文明の進歩>をもたらす、と。これ以外に何と言えばいいのだろう。
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核兵器の時代には核抑止戦略が求められていた。と同様に、クローン人間にせよ、遺伝子技術にせよ、ネットワーク社会に潜む悪意にせよ、科学技術の更なる発展には新しい研究が必要になってくる。これが問題の本質である。
新しい科学技術を活用して豊かな社会を謳歌しながら、同じ科学技術によって問題を解決するという発想には根本的な違和感を感じるという態度は実に手前勝手である。結論としてはそう思うのだな。
ずばり言えば、小生はSNSを流れる個人情報を分析して、それがネットワーク社会がもたらす様々な暴力や犯罪的行為を解決できるなら、そんな研究は大いにやってほしい。そう期待しているのだ。
今回の事件はまさに『事実は小説よりも奇なり』。フェースブックのCEOであるマーク・ザッカーバーグは、何年も前の映画「ソーシャル・ネットワーク」の主人公であったが、今回、ケンブリッジ大学の天才心理学者、英国のコンサルタント会社、ロシアの科学者、アメリカの大統領候補などが登場するデータ流出事件もまた近い将来に映画化され、再び主人公となる。今からそう予想しても間違いないようだ。
二度にわたる主役。つまりは、現時点の世界で未来を切り開きつつあるイノベーターである証拠なのだろう。ジェフ・ベゾスでもなく、ビル・ゲーツでもなく、真に私たちの社会を根本的に変えつつあるのはマーク・ザッカーバーグかもしれない・・・、確かに一理ある見方だ。アマゾンは欲しいものの買い方を変えつつあるに過ぎないし、ゲーツのWindowsやジョブズのMacintoshはその昔のTSS端末をグラフィックに使いやすくしただけだ。そうも言えそうだから。
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若いころの小生の研究テーマはマイクロデータセットとマクロ経済情報とのインテグレーションだった。恩師にその話をしたとき、『それにしても政府がネ、マイクロデータ情報(=個人情報)を管理してサ、マクロ政策にどう対応するとか、こんなグループは利益配分が薄くて政権に反発するだろうとかさ、そんなシミュレーションをしてネ、政府がやりたいことを反発なくやっていくってえのは、恐ろしい社会がやってきたと思うヨ』と、恩師はそんな感想を述べていたものである。
当時、小生が利用していたマイクロデータなど640メガバイトのMOディスク数枚に保存できるほどのものでしかなかった。今では、メガを超えて、ギガ、それにも収まらなくなってテラバイトにならないとビッグデータとは言わなくなった。PCの内臓HDDが1テラなどは普通に販売されている商品である。
そんな時代の個人情報から行動予測モデルを推定する作業は、それは科学的な意味合いでとても面白いに違いない。面白いだけではなく、社会的に有用な知識になることもほぼ確実である。
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今回のデータ流出事件はマネージメント上の失策である。
失策なら、今後は失策しないようにすればよい。PDCAサイクルのCとAのステージに相当する問題だ。
そもそも邪悪なビジネスを展開しているからこの種の犯罪が必然的に発生するのだ・・・などというのは、SF小説の読みすぎだろう。
まして、大統領選挙で悪用され、それによって投票結果そのものが逆転したなどという指摘は、この点こそ科学的に立証されるべき問題で、これから大いにやっていってほしい研究テーマである。
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個人的感想だが、投票先に迷っていて、たまたま送られてきた選挙運動関連メールではじめて意思決定できたなどという程度の浮動層有権者は多数いるわけである。それら浮動層を時々刻々とりまいているノイズが合計としてプラス/マイナスのどちらにふれるのか、個別ケースごとに評価するのは不可能な計算である。多分、ノイズの作用は平均としてゼロ付近であると、統計的に自然な想定をするしかない。まして、特定の人物が特定の投票行動をとったとして、多数のノイズの中の特定のターゲティング広告が、意思決定においてどれだけ影響したのか、影響は大きかったのか、小さかったのか。そんな問題に時間をかけて検証するなどは無駄のまた無駄であると感じる ― マア、正義の観点からはやってみたいと思うテーマであろうが、だから「やるだけの甲斐がある」とは全く思われない。
もちろん今回の個人情報の使い方に義憤の念を感じている有権者はいるはずだ。「何だかおかしなことをやってやがったんだ、やっぱりな」というそんな怒りであろう。アンフェアに対する怒りでもある。
しかし、アンフェアであるのは片方だけではないと推測するのが定石だ。それが選挙、というよりあらゆる戦いの通例だろう。新種のアンフェアと伝統的なアンフェアの区別があるだけではないか。伝統的なアンフェアなら予測可能で容認可能だが、新種のアンフェアは悪いというロジックは無理だ。
まあ、トランプ大統領候補に投票して、ホントに大統領になればこうなるヨっていうのは、最初から分かっていたんじゃない? 満足なんですか? アメリカの人たちにはそう言いたいところではあるけれど。とはいえ、未来のことは誰もわからない。
いずれにせよ、社会はマシンではない。特性を超えて適切かつ瞬時に変化できるわけではない。摩擦的要因が常に作用している。社会には常識も慣行も法律も働いている。遠い昔、「蓄音機」が登場した時には音楽界から反発があったそうだ。「電話」で連絡をとりあうことに不安を覚えた人も多数いたそうだ。戦車が活用される直前には騎兵から反対論が提出された。馬は草さえあればどこまでも走れるが戦車は石油がなければ動かない。プラスにはならないというわけだ。
技術進歩は、それを是とする社会心理が定着するまでは、古いシステムに置き換わることはない。実際、目でみるまでは新しいものがプラスであるとは思わないのが人間だ。だからこそ、新しいものを試みることが非常に重要だ。そして、新しいものを試みるのは何故かというに、その根本には他者に対して<競争優位>に立つ。つまりは「戦略」の意識が大前提としてある。その戦略の目的はなにかといえば、結局は「国防」の観念に行き着く。「防災」と言い換えると平和日本でも感覚が共有されるだろう。もし現在の繁栄がいつか崩壊するのではないかという恐れがないのであれば、現在の平和は確固としているという自信があるのであれば、新しいものには原則として反対するのが人間社会である。
いまはこんな風に考えているということで。