2018年4月30日月曜日

日曜日の昼下がりの雑談

韓国のムンさんと日本の安倍さんが電話で話し、どうやら先の韓朝会談で日本の拉致被害について問題を提起してくれたということだ。良かったねえ・・・ということだろう。安倍総理も厚く感謝の念を伝えたよし。御礼もしないといけないだろう。日本としては何を韓国に進呈するのだろうか?

ともかくも、日米韓が連携した対北朝鮮外交の勝利であると考えたい人は考えるだろうし、現在の状況は明らかに韓米主導、日本はいずれカネだけをむしり取られるだけだろう、と。そんな批判をしたい人はするというステージなのではないか。

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これはさておき、

ネットが世間の騒動を伝える記事をいろいろと確認しながら、昨日の日曜日の平和な昼下がり、食後のお茶を飲みながら、カミさんとこんな話をした:

小生: なんか「いま旬の話題はセクハラだよね」っていう世の中だねえ・・・ある有名な芸人さん(←個人情報保護のため匿名処理にした)がサ、女性にキスするときは「キスしてもいい?」って事前にお伺いをたててからすることにしているから大丈夫ってサ、面白いねえ。 
カミさん: ちょっとバカバカしいんじゃない? 
小生: ずっと前にさ、<壁ドン>ってあったじゃない。綾瀬はるかが出ているドラマじゃなかったっけ。いまあんな動作をするとさ、「はい!今のはセクハラ認定!!」って茶々をいれる人が出てきて、セクハラを助長する映像であるっていうカドでさ、放送倫理・番組向上機構でも審議されるんじゃないかねえ(笑)。
カミさん: バカバカしくない(笑)? 
小生: いやあ、バカバカしいの一言じゃあなくなってきた世の中だよ。実際ネ、昔、テレビであった「月光仮面」でね、悪人をバンバン撃ってたわけよ、そうしたらPTAが人をピストルで撃つのを楽しむなんて子供に悪影響があるって言ってね、ドラマは打ち切りになったんだよねえ。世間の風潮っていうのは、無視できないんだよね。だから「壁ドン」シーンを流せば「ハイ、セクハラ認定!」、ありうるネ。
カミさん: 作る方も大変だね。 
小生: そのうちサ、女性の不意をうつ強引なキスシーンを流せば「何ですかこれは、ハイ、セクハラ!!」、下りエスカレーターで前に立っている若オバさんの白くなりつつある頭のてっ辺をみていたら「あたしの髪をみてたでしょ、いやらしい、セクハラよ」、いやあそんな世の中になっていくんじゃないかねえ・・・で、そのうち「セクハラ防止法」なるものができてネ、自治体が選ぶ「風紀委員」が腕章をつけて巡回するようになってサ、新聞かTVのOBであるわけよ、退職後に任命されてサ、「ちょっと、ちょっと、あなた、<不純異性交遊>は違法行為です!」とかサ、電車の中の女性とたまたま目が合ったらヤクザの「ガン付け」じゃあないけどさ、「あんた、わたしを見てたでしょ、気色わる~~、セクハラ!!」、そしたら風紀委員か警察がやってきて「ちょっと来てもらっていい?」ってネ。いやあ、面白い世の中になってきたもんだねえ・・・(笑) こりゃ憲法改正どころか、憲法崩壊だなあ・・・

カミさん: 何をバカなことを言ってんの、ほんとに!

漫画は面白い、漫才も面白い、落語も面白い。それと同じ意味合いで実に面白い世の中になってきたなあ、と。そんな意味で話したのだが、カミさんはふざけていると思ったらしい。

憲法崩壊・・・少し前に流行した「学級崩壊」を経験した世代が社会の中核になれば、「憲法崩壊」も十分ありうる、いとわない、気にしない。そんなロジックかもしれないネエ。所詮、理念や法律といっても「気にしないから」とみんなが思えば、そこで条文は残っていても死文化し、実質崩壊するのが宿命なのである。

司法の前に社会が制裁してしまえば一般大衆は手っ取り早くスッキリする、つまり社会的カタルシスがもたらされる。大衆はエリートが制定する法律から権力を取り戻せる。確かにそんなロジックはあると思われるのだ、な。理屈がある以上、ありうるのである。

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ま、ともかくも、社会の進展・進歩は表面にあらわれた現象をフォローしているだけでは理解も予測もできない。医師が患者の症状だけを観察して、ただ記録するだけでは何もしていないのと同じだ。その症状をもたらしている真の原因を洞察することが診断ということだが、この事は社会の問題を解決するあらゆる場面でも共通にいえることだ。

桜前線は函館に上陸したそうだ。小生が暮らす町でも早い樹はもう花が咲いている。

土曜日には下の愚息がフィアンセを連れて食事にやってきた。風が強い割には飛行機はそれほど揺れなかったそうだ。4月30日はドイツならば「ヴァルプルギスの夜(Walpurgisnacht)」である。魔女が世界中を飛び回っている。4月下旬に強風が吹くことが多いのはそのためだ、というのがドイツ・北欧の伝説である。その後、本当の春が来る。

2018年4月29日日曜日

現代社会で求められている研究課題の一つ

アンチ・セクハラでヒステリー状態の日本国内の、特にメディア状況の中で、東アジア地域の国際関係構造はひょっとすると大きく変化する(かもしれない)段階にさしかっている。

この見事なギャップ、断層はなぜ生じているのか?これは政治学者だけではなく、社会学者や心理学者、教育学者等々にとってみても、いまという時代の中で巡り合った面白い研究テーマであるに違いない。統計や、経済学でメシを食ってきた小生には、この辺のメカニズムは分からない。ただ社会的病理現象にしか見えない。

小生の関心を引く問題は、セクハラというよりは、より一般的なハラスメント発生メカニズムのほうだ。

というのは、極端な見方をする人は「だから女性は世間で働くなんて気は起こさず、結婚して家庭を守ればいいんだ」、そんなことを言う人も今なお現代社会には残っている ― これからもいるだろう。そうなのだろうか、という点も無視はできないからだ。

しかしながら、家庭の場で嫌な思いをするからこそ結婚は破綻するわけであり、そこに暴力が生まれていればドメスティック・バイオレンス(DV)、物理的暴力に至らなくとも乱暴な言葉を浴びせ続ければ見事なセクシャル・ハラスメントに該当することが多かろう。そして、その頻度は現代的な女性共同参画社会とあまり違うことはない・・・そんな風にも思われるのだ。女性を家庭に閉じ込めようとも、社会で活躍してもらおうとも、一定の頻度と割合でセクシャル・ハラスメントは発生する。与えられた国の社会的リアリティの結果としてハラスメントやイジメは理解するべきなのだ。もしもそうならそのような社会的メカニズムは何から生じるのか? 家族構造、家族道徳に由来するものか、生活水準によるものか、道徳の欠如によるものか、日本人のそんな意識構造の分析的研究が何よりも必要とされている。そう思うのだ、な(仮説にたった議論ではあるけれど)。

そんな研究の一連の成果の中から、「セクシャル・ハラスメント」ばかりではなく、学校という場のイジメ、職場におけるイジメについても、もっと軽微な程度の嫌がらせについても、全体的な解消、というよりは減少への方向が見えてくるに違いない。

防止のための法制化、処罰などはまず基本的かつ科学的知識の蓄積があってこそ効果を期待できるものだ。それまでは、むしろ嫌がらせや喧嘩の類は当事者の面々の和解(あるいは敵対関係の持続)に任せて周囲(=社会)としては放っておくのがベストであるという、そんな伝統的解決法にもまた耳を傾ける余地はあるというものだ。

夫婦喧嘩は犬も食わない・・・イヤ、イヤ、これまたハラスメントを増殖させる傍観者的態度というものか。まあ、現代社会の頭に血がのぼった面々はそう言うかもしれないが、何百年も継承された格言というのは経験的知見のかたまりでもあるのだ。

2018年4月28日土曜日

対北朝鮮外交の戦略的余地は閉ざされつつあるのか?

昨日は、文在寅・韓国大統領と金正恩・北朝鮮最高指導者との会談で一色となった。

歴史的会談である。名実ともに朝鮮戦争を終結させる好機である。

それでも本日の新聞紙面では日本人拉致被害者が韓朝会談の話題になることはなかったと。少なくとも韓国の康京和・外相がその点を明らかにすることはなかったと、いささか残念な調子で伝えている。

今後はトランプ米大統領と金・最高指導者の米朝会談に期待しようではないかということだ。

「新聞紙面は世論をうつす鏡である」とよく言われている(今でもそうなのかどうか分からなくなってきた昨今だが)。

◇ ◇ ◇

安倍総理はトランプ大統領に拉致被害者を直接に問題提起してもらえるよう先の訪米で確約をとったということだ。その代わり、日本はどんな具体的見返りを与えるのか、その辺はまだ曖昧だ。何か具体的内容を含んだ譲歩を日本側がしない限り、アメリカに何か依頼をしてもアメリカが承諾することはないはずである。アメリカが約束したのは、拉致被害者問題を北朝鮮に指摘し、解決を促すということであって、北朝鮮がどう応じるかは不確定だ。それだけでもアメリカとしては約束を果たしたことになるので日本はリターンを与える必要がある。

◇ ◇ ◇

・・・ずいぶん前に、対北朝鮮外交にはまだ戦略的余地が日本には残されているのではないかと投稿したことがある。

それが実行可能か否かは重要ではない。日本の国益を守るのはまずは日本自身の外交であって、アメリカが日本の国益を守ってくれるわけではない ― そもそもアメリカの国益を守ることを目的にアメリカ人はアメリカの政府をつくっている。

韓国のムンさんに期待するのも、アメリカのトランプさんに期待するのも、それが日本外交独特の<戦略的間接アプローチ>だと言うなら、それは「どうぞご自由に」というわけなのだが、少し前までの<強烈な制裁維持>というタフ・コミットメントをどう収めるか、その出口戦略にあったほころびの様なスキをムン大統領が賢く突いてきて、見事に抜け駆けされてしまった。これが実情なのではないか。

ミスはミスとして認めて、これからもキツネのようなムンさん、オオカミのようなキム氏、虎のようなトランプ、灰色熊のようなプーチン、ゴリラのような習近平を向こうに回し、日本の安倍首相にも天狗のように闘ってほしいものである。

◇ ◇ ◇

ただ日本のようなカネはあっても政治的影響力には限りのある旧・敗戦国が、脛に傷を持つ身でありながらも情勢変化に応じた俊敏な外交を展開するには、前提条件が必要だ。

他人に相撲をとってもらって利益は自分にという戦略を実行するには、与党・野党ともに「国益ファースト」を徹底できる国家戦略意識が染みついている狡猾な国情であることが大前提である。

しかし、現時点の日本社会は「国益ファースト」ではなく、「セクハラ反対ファースト」であるようであり、せいぜいが「弱者救済ファースト」を政治的に意識するような国情である。まさか本気でとは思わないが「政権打倒ファースト」でやっているような印象をもたせる勢力もある ― 権力打倒=権力奪取ファーストでもあるので怖い。

何をファーストとするかが、正に戦略的思考なのである。日本の外交は日本社会の現実から決まってくる結果なのだと考えれば、理解が可能であろう。

「国というのは無くなっちまったら全部おしまいなんだよ」という歴史的記憶がある民族とそうでない民族との違いは歴然としてあるということかもしれない。

◇ ◇ ◇

内閣・諸官庁に報道官すらも置かず、国会の委員会審議に首相以下、関係閣僚を終日拘束する。国会を理由に担当する行政業務を犠牲にする。審議内容は「不祥事」とはいえ、国益とはあまり関係のない些事である。

ちょっとこちらも取り込んでいるので、あの件、先方に伝えてもらえないかしらってネエ、庶民の感覚からしても『お国のやってることは、ハナから可笑しゅうござんすよ』ってネエ、こっちとあっちとどっちが大事かハッキリさせないと、頼まれる方だって立場ってものがあるんじゃあござんせんか。一番大事な事を頼むってんなら、先方も一所懸命やってくれるでしょうが、いまあちらの件で手一杯でござんして、なんて言ってるようじゃあ、ああその程度かってサア、先方だって本気にはやってくれませんやね。「挙国一致」って言葉もあるじゃあござんせんか。やってくださいってんなら、こちとらがまず本気にならねえと、頼まれる方だってナアナアでしかやらねえってもんじゃないんですかい? それを「ああ、言ってくれなかったのかあ」なんてガッカリしているなんて、ザマアないってもんですよ、ほんとに。土台、拉致被害者なんぞ他人事、そんなホンネが透けて見えるってものじゃあござんせんか、情けないネエ。

世界どころか、普通の日本人にすら通用しないことを国会で堂々とやっているのは何故か?政治学者をなのる専門家は、そろそろ本気で分析してみてはどうだろう。政治的に病理的症状が認められるとは判断していないのだろうか。

憲法学者が憲法改正にとことん反対するのは何故かという問題もそろそろ法学者には分析してもらいたい所だが、それと並んで解決したい問題が上の問題である。

2018年4月27日金曜日

マスコミ企業の「三無主義」か?

最近の何度かの投稿で「公益」という単語を頻繁に使った。それはマスコミも愛用しているし、(自称)専門家、政府職員も同様なので、ここでも使っているわけで、小生個人としてはこれまでの投稿でも述べているように、真に具体的かつ現実的な意味合いで「公益」などという利益はないと考えている。

あるのは「公益」ではなく「私益」のみである、というのが現実だと思っている。

ただ、マア、少しは考えてみよう。「公益」が公共サービスの提供を指しているなら、明らかにメディアのいう「公益」とは違っている。公共財・準公共財を問わず、これらは排除不可能性、等量消費性の二つもしくは一つを特性として有し、公的機関によって提供されるのが適切な財・サービスであって、そうでなければ過少にしか提供されないことが理論的にも証明されているからだ。明らかにメディア産業とは違う。

もしメディアが公共財である「知識・情報基盤」をサービスとして提供しているというなら、これは噴飯ものである。芸能業界のゴシップ、不倫情報が知識情報基盤の提供するべきサービスであると語る人物は今もこの先もまず見当たらないのではないか。

メディアの語る「公益」とは、極めて多数の視聴者・読者の要望に応えているという当たり前の意味か、でなければ前稿で述べた『官庁が公益に従事しているなら、情報源である官庁と"Win-Win"の戦略的関係を結んだ記者クラブは、こちらもまた公益に寄与してきたという理屈になる』という見方をとるか、どちらかだろう。後者は「これまでは」という区切りがついてしまった。故に、可能性があるのは前者ただ一つだ。

多数の要望に応えることは「公益」なのか・・・?それは違う。もしも成長なき静態的状況であれば、「公益」という名のもとに誰かが助かるとすれば、他の誰かが損をするに決まっているのである。故に、「公益」の向上という以上は、所得、豊かさ、国際関係、領土面積など何らかの意味で拡大を志向しなければ理屈に合わない。

どのような意味で「公益」が向上すると考えているのか?「公益」という言葉を使う以上は、使った側に説明する責任がある。この辺り、小生、かなり厳密にとりあげてもいいのではないかと思っているのだ、な。

なので、例えばテレビ朝日が「無断録音の外部への横流しは公益のために行いました」という時、率直なところ「???」、「公益のために無断録音って、それ、盗聴しましたってことですか?」であったわけだ。安倍総理も同じようなことを主張していた。共謀罪を設けることは「公益」のためであります。集団的自衛権行使への閣議決定は公益の向上に必ず資するものであります・・・ではなかったか。

どちらもどちらであるが、ただ言えることは政府は民主的統制の下に制度上服している。だから、なぜそれが「公益」に寄与するのか、質問も受けなければならず、説明責任もある。

しかし、「公益のためにやりました」と主張しているテレビ朝日は、民主的統制下にはなく、民間企業として自由に行動している。

まあ実際に民間企業であるのだから「ご随意に」というわけなのだが、「公益」を名乗る経済主体としては余りにお粗末、かつ無責任、無軌道、無作法な姿勢ではあるまいか、と。そう感じるのだ、な。

なので本日のタイトルは表題の通りとした。実際、いまマスメディアの経営を担っている人たちは若かりし頃、その「三無主義」、はたまた「五無主義」が批判的にとりあげられていた世代である。

むべなるかな、三つ子の魂、百まで。格言にいうとおりではないか。

2018年4月26日木曜日

ゾンビ化する「記者クラブ制」のあと

財務事務次官セクハラ事件のあと続けてきた一連の投稿もそろそろ一段落としたい。

今朝、カミさんとこんな会話をした:

小生: それにしてもサ、TOKIOの山口某は女癖が悪いって評判もあったわけだろ?夜、自宅に来たらって誘われてサア、ノコノコついていくっていうのはあり得るか? 
カミさん: ちょっと見たかったのよ、どんな家で暮らしているのか。友達に話したら盛り上がるでしょ。 
小生: でも、いくら二人だからって、年上の40台の男の家にあがるってのはね、遊ぼうっていう誘いにOKのサインを出したってことなんだよ。 
カミさん: (憤然として)それがセクハラなんじゃない?なんで男の人って、そんな風に考えるの? 
小生: あのね・・・ある省なんだけどネ、最下位は新聞社、次はTV局、その上にキャスターがあって、最上位には女子アナが来るっていうんだけどね、『俺、3人ゲット!!』、『残念、キャスターをきのう落としたヨ』って、そんなやりとりがあるらしいんだよ。何かで読んだ覚えがあるんだ。それを他の女性記者が聞くと、怒りに身を震わせるというんだけどさ、現実にそんなことが大好きな男はいるんだよ、現実に。 
カミさん: そんなことをしなければいいじゃない!! 
小生: 大半の男はしようとしないさ、そんなこと。女性だからって言って、誰彼構わずエッチな話もしないし、すぐに手を握ろうともしないよ。でも、沈香も焚かず屁もひらず、っていうだろ?仕事ができる男性の中には、女好きな奴がいる、それも現実で、女性もその事は知っているべきなんだよ。 人畜無害な男には女性の方からアプローチしないって言う面もあるだろ?
カミさん: 偉くなってほしくないわね。 
小生: ウン、そういう男は大体仕事はできるんだけど、アクが強い面もあってね、ある程度まで以上は出世できないのが、僕の若かったころの相場だったんだけどね。なんだか、理由は分からないんだけど、最近は仕事さえ出来れば、ほかに悪評があっても一番上まで偉くなってしまうんだよね、何故そうなってしまったのかは分からないんだけどね。
この世に男性と女性がいて、混じって仕事をしている限り、イザコザがなくなることは決してない。それが人間社会の現実だ。

男性だけであってもトラブルはある。イジメもある。パワハラもある。無数にあるだろう。もし相手が女性で片方が男性になれば、セクハラが発生する。それだけの違いである。男女を分けてしまえば、ハラスメントがなくなるというものではない。女性だけの人間集団であっても、嫌なことはあるし、イジメもあるのだ。

ハラスメントが多発しているのが事実ならそれは何故かという研究が求められていることであり、カミングアウトとか厳罰化とか"#Me Too"とか・・・まあ、無駄だとまでは言わないが、いつまでやるんですか、と。小生、ある種の空しさを禁じ得ないのだ、な。

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さて、ポスト財務事務次官セクハラ事件がどうなるか?

省庁と記者クラブは、永年の間、持ちつ持たれつの関係にあった。省庁からみればメディアが広報をしてくれたわけである。クラブに所属している大手マスコミ企業からみれば公式の「記者レク」に出席できる権利をもつ。併せて、夜回りでスクープネタをゲットできる機会をもつこともできた。

利害が異なるのにこんな持ちつ持たれつの関係が機能したのは、双方に「相手は仁義(?)を守る」という相互信頼があったからだ。クラブに入っていない週刊誌の記者が夜になって自宅を訪れても家の中に入れてもらえるはずがない。そこに仁義などはないからだ。

記者クラブというのは、ゲーム論でいう「繰り返しゲーム」におけるナッシュ均衡を形成していたわけで、信頼とペナルティの自生的メカニズムであったと言える。

もし官庁が公益に従事しているなら、情報源である官庁と"Win-Win"の戦略的関係を結んだ記者クラブは、こちらもまた公益に寄与してきたという理屈になる。いまでも「マスメディアは公益に従事しているのですから…」という言い方をすることが多いが、その根拠は制度上の公的機関と信頼関係を築きつつ社会に情報を提供してきたという、その歴史に立脚してのことだと思われるわけで、確かにその言い方は間違いではない一面がある。

これまでは・・・である。

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しかしながら、時代は変わりつつある。

そもそもインターネットも、FacebookもTwitterもないころ、国民に政策に関する理解を訴えるためには、中央省庁はマスコミ各社、特に大手5大紙、NHKや民放キー局を通すしか有効な広報ルートはなかった。地方自治体なら地元紙と地方局がメイン・パートナーになってきた。

が、いまは各省庁のホームページをみれば欲しい情報やデータをすぐに入手できる。官庁が運用しているFacebookをフォローすれば、更にリアルタイムで新たな政策や構想を知らせてくれる。記者の筆を通すよりもはるかに正確にオリジナルの資料を読めるのだ。その資料をどう解釈すればよいのかという疑問があれば、分かりやすい解説記事がいくらでもGoogleで検索できる。内閣府の経済社会総合研究所からメールマガジンをとっていれば特定の政策に関する専門的研究の結果をいち早く知ることができるのだ。

もともと官庁側から見ると外部の報道機関を排除し、特権的な取材権をふりかざす「記者クラブ」という制度はもはや「うざい」存在であったと推察する。

中央省庁の側からみれば、情報を直接的に国民に伝達できるようになってきたわけであり、情報提供の「中抜き」が進むのは必然でもあった。

そんな時代背景の中にあって、その記者クラブという鎖の中の最も弱い環であったのだろう「テレビ朝日」は、情報源たる官庁との暗黙の相互信頼を決定的に毀損させるという行動をした、というか現にそう行動しつつある。

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確かに財務事務次官が女性記者と交わした会話は品格にかけ、眉をひそめさせるものである。国の中央官庁の要職にある身としてあまりにも下品であり、国際的にも恥ずかしい。

しかし、いま津波のように高まる反セクハラの声が日本社会を本質的に変えることは、おそらくの所、ないだろうと小生は悲観的にみている。

セクハラにとどまらず、パワハラ、アカハラ、マタハラ等々、あらゆる種類のハラスメントは、イジメもそうであるが、日本人が真に求めている社会や人間関係のリアリティ自体から必然的に一定の割合で生じてしまう。そう理解するよりほかにどんな理解の仕方があるだろうか。いわば「万引き」や「窃盗」や「振り込め詐欺」などの犯罪と同様、完全にゼロにまで撲滅することは技術的にも、人間の本性を考えても不可能である。故に、セクハラもまた発生するごとに個別的に処罰していかなければならない。それも(残念ながら)「微罪」として扱われることは必然であろうと考えているからだ ― やはり「不適切な話し」という断罪には「表現の自由の抑圧」という一面があり、憲法の保障する基本的人権との調和が求められてくるのは必至であろうと思うのだ、な。

これに対して、官庁と記者クラブ所属企業との相互信頼の亀裂は具体的な結果を必ずもたらすものと予想する。その進展は今回のセクハラ被害者がその行動をとったとき、おそらく予想していなかったことだろうし、望んでいたわけでもないはずだ。が、記者クラブのゾンビ化が今後急速に進むのを止めることはできないだろう。

覆水盆にかえらず、である。

記者クラブ所属企業だけに限定していた「レク」を中央官庁(やがては地方自治体も)が一般企業に開放するのはもう時間の問題だろう。「夜討ち、朝駆け」は、報道各社がやってもよいし、多分続けると思うが、クラブの会員、非会員の区別はもう設けられず、すべての報道機関は対等の立場に立って取材競争を行うことにならざるを得ない。そこにもはや「仁義」というものはなくなるだろう。

情報源とマスメディアによる報道ゲームで信頼を裏切る行為を片方がしても一定のペナルティが機能していれば記者クラブは存続できた。しかし、一方のプレーヤーがゲームの世界から外側の世界に離脱して、より広い世界でゲームをしようと決意した時点で、それまでの報道ゲームは終了したのであり、終了した以上は、プレーヤーたる記者クラブは舞台から去るしかないのである。

今後は、新しい報道ゲームとして再編成されるだろう。新しい公務員行動規範も作成されるだろうし、おそらく国内外の報道機関が入り乱れる自由競争となるはずのメディア産業においても国際的に通用する新たな記者行動規範が作成されていくに違いない。

いまのところ上のように予想していると述べることで、最近の一連の投稿の区切りをつけたい。



2018年4月25日水曜日

前の投稿への反すう(その4): メディアは公益を名乗れるのか?

今度は林文科相がヨガ教室に行ったときに公用車を使っているというのでTV画面で批判されている。「私用で公用車を使っている」という疑いだ。

ヤレヤレ、メディアは一日中、国がつけているSPよろしく、大臣の一挙手一投足を報道するべく張り込んでいるのか・・・と。もっと生産的なテーマにマンパワーを投入しようという思考は働かないのかと考えてしまうのだが、マスコミ各社も何かの理由で「必死」なのだろう。

ブログとはWebLogの略称であり、作業日誌の意味である。日々に出来事を記録するのがログであるので、毎日のように流されてくるこの種の情報を書いておけば、その頃の日本の社会状況がよくわかると思って、世間ネタを書くことにしているのだが、わがブログながら最近の投稿を読んでも、世界の事や東アジアの事、広く日本国内のことはほとんど分からない。いかに現在のマスメディアが偏った報道をしているか、このことからもうかがわれる。

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まあ、上のヨガ教室のことは、ずっと昔に小役人をしていたささやかな経験を思い出しても、理解はできる。

役人は無期限・常勤職員であり、緊急事態においては公務員であるから実質24時間勤務体制である。大臣は、議員から任命された有期・常勤職員であり、下から上がってくる作業結果を待っていることが普通である。平時はともかく異常時には大臣説明が何時に入るかわからない。かつ多くの場合、高年齢で頑張りには限界がある。時にリフレッシュを体が求めるとしても、「精神一到・・・」ではあるまいし、それがダメだとは言えない。

大臣、ばかりではなく副大臣、政務官以下、末端の公務員に至るまで、担当職務で誠実に結果を出せばよいのであって、リフレッシュの方法にまで品格を求められる言われはないと、小生、そのように思っている(異論はあるだろうが)。

予定が入っていない時間帯を利用して、庁外の施設を訪れたい場合、公用車を使ってはいけないのだろうか?

使っても可、というか公用車を使ってもらった方が役所にとってはベターであると考える。その理由は、少しでも役所仕事を知っているなら自明のことである。逆に、私用だからとSPもつけず、秘書官も連れて行かず、一人タクシーにとび乗って姿をくらますのは極めて不適切である。かえって無駄なコストがかかるだろう。騒ぎにもなる。

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人員を張り付けてまで大臣の「お忍び?」のリフレッシュ先まで報道するのも、「公益」に沿った活動であると。マスメディア各社はよく「公益のためにしていることです」という表現を使う。

本当にマスメディア各社は公益のために活動しているのだろうか?

もし公益を主たる目的に活動している組織体があるなら、その経営コストは主に(あるいは一部は)公費で負担されているのが普通である。また企業の成長戦略についても自由に自社で戦略を決定できるケースはないはずだ。というのは、公益に関連する活動を自由にさせておくと「外部経済/不経済」という形で広く国民に影響が及び資源配分の歪みがもたらされることが理論的にも明らかなためである。

マスメディア企業に国から直接的に経常補助金が支給されていることはないはずである(NHKですらも自前の受信料で経営されている)。しかし、新聞は再販売価格維持制度が認められているのに加えて、「新聞特殊指定」によって全国一律の価格で安定的に販売することが可能になっており、安売り合戦は防止されている。このような経済上特別の取り扱いを受けていることによって国民が負担しているコストが即ち「マスメディアは公益に寄与している」ということの(裏返しの)根拠(=マスコミは国民によって守られている)と考えれば、理屈は一応通るかのようである。

電力会社、ガス会社もその価格は公共料金であり文字通りの「公益事業」である。JR各社、バス会社等もそうである。新聞社をはじめとする「マスメディア各社」もまた同じく「独占的な価格が認められている」、つまり電力・ガス、交通などと似たような意味合いで「公益」のために活動している企業なのだとみれば、一応、納得は得られそうだ。

ただ本当にマスメディア各社が「公益」を大きな目的として活動しているなら、新聞代もまた公共料金であるべきであり、電気代、ガス料金、鉄道運賃、バス料金、タクシー料金、電話料金、郵便料金、授業料、はたまた診療代、介護料金等々と同じく、政府による認可、さらに場合によっては国会による承認が必要とされる。そう考えるのが筋道だ。

しかし、新聞代は新聞社が自ら決定している。読者は新聞社が決定した価格で購読せざるを得ない。その決定プロセスには公共性をうかがわせる何の審査手続きもない。とすれば、現在の新聞価格は市場支配力に基づく「寡占価格」である。再販価格維持や特殊指定は、安売りを防止するための特別措置である。

このように考えると、新聞社が「公益に従事している」」と主張するのは無理である可能性が出てくる。TV局もまた政府から電波を割り当てられている。国から認可された「法定寡占企業」である。「守られている」のは何故かといえば「公益性があるからだ」といえば、なるほど理屈は通るが、しかし価格決定については審査を受けておらず、寡占企業として行動している。「公益に従事している」とは主張できない経営を現にとっていると言われても仕方がない。

そもそも「わが社は公益に奉仕するという理念にたっています」という言い方は、電力・ガス・鉄道・バス会社など明々白々たる公益企業だけではなく、私企業たる電機メーカーも口にする言葉であるし、建設土木企業も同じようなことは言っている ― 鹿島建設や大成建設が公益に奉仕しているとは誰も言わないだろう。

新聞社は、公益に従事しているのだ、TV局は公益に従事しているのだ、と。小生は、現にある公益企業と比較して、それほどまでに自信をもって公益に従事しているとマスメディア各社が主張する根拠が分からない。わからないし、もし真の意味で「公益」に関連する企業活動をしているのであれば、その価格は認可を必要とする公共料金であるべきであるし、その運営と経営管理には(間接的にもせよ)会計検査院が関与するべきだろう。従業員給与、役員賞与なども価格を構成する以上、自社の都合で自由に決めてよい理屈にはならないはずだ。

現に電気料金については以下のような報道もある:

会計検査院の国交相に対する是正のポイントの後者は、電力会社との契約の是正です。電気を始めとする公共料金は、確かに民間の商取引と異なり、交渉で契約条件を決める事はできません。しかし、利用状況に応じて料金メニューが分かれており、また、業種や地域によっては、補助が適用される場合があります。電力、水道、ガス各社とも、こちらから働きかければ、契約の適正化の相談に応じてくれますが、向こうから、こちらの利用状況を診断し、契約の適正化を働きかけてくれることはありません。会計検査院は、国道事務所等の電気需給契約にこの契約の適正化の余地がある事を指摘したものです。

URL: https://www.insightnow.jp/article/4501

それが真に公益であるなら、国民共通の公共サービスの生産コストは効率化されるべきであり、国民負担の節減が期待されるべきだ。

大体、新聞やTVに登場する「言論」が「公益」そのものであるなら、インターネットに投稿されているテキストもまた意見の表明であり「公益」に寄与している。このブログにしても「公益」に寄与していると主張したいところだ。作家の司馬遼太郎や村上春樹もまた日本文化の向上をもたらし「公益」に寄与したといえる。こんな見方をすれば、清掃業者も公益に寄与しているし、公園の剪定業者も公益に寄与しているのである。新聞やTV、マスコミ各社が特別の地位にあるわけではない。マスコミ大手企業が公益に従事しているなら、既存マスメディア企業のライバルであるYouTubeもまた「事実を報道している」という点で公益に従事している。Twitterも公益に寄与している。Facebookもそうだ。しかし、そのFacebookはいま公益を損なったという疑惑に揺れているのである。Facebookがなぜ非難されているか、その核心的理由が保護されるべき個人情報の不適切な管理であることを忘れてはならない。新聞社、TV局であるから、個人情報といえども自社の判断で自由に処理してよいという免責規定はないのだ。新聞社やTV局など既存マスメディアの独善性はやはり否定できない、と。そう思われるのだな。

マスコミ各社と他の明らかな公益企業との違いは、マスコミ各社は多数の読者を有していることを自社の利益に活用することが可能な地位にある。「政党」ではないが、「政党」と同じく、あるいはもっと強力な政治的影響力を行使できる地位にある。この点にこそ本当の違いがある。マスメディアが「公益のために」というとき、その本音は「わが社の政治的活動のために」と言うべきであるのかもしれない。しかし、「政治」と言っても、それは「公益」ではなく、最終的には「私益」でしかないのだ。まあ、『それをいっちゃおしめえさ』と言われるだろうが・・・

結論:

マスコミ各社は、国からは独立した純民間の言論企業である、と。自らのポジションについてはそう語るべきだろう。(反対陣営ではなく)わが社を支持する、思想を同じくする読者層の声を大きく、強く、社会に広げるために活動しているのだ、と。敵対する陣営の思想・言論とは徹底的に戦い、敵対勢力を殲滅するのだ、と。そろそろ偽善なき、率直な語り方をするべきではないか、と。こんな風な思いがしきりにするのだな。実際、マスコミ各社の最近の「報道」ぶりは、見ていられないほどに建前と実質とが乖離して、その不誠実な姿勢には腹が立つほどである。

2018年4月24日火曜日

前の投稿への反すう(その3):現場の関係者による判断 vs 公/国/第3者による審議

ここ何回かの投稿では実は矛盾していることを書いている。その下りを引用しておく。

まず前々回の投稿の一部:

ここで、同じ店内にいる他の客もまた同じように不愉快を感じていれば、たとえ男性客が店に抗議をしても、大勢の客が男性たちに一斉に声を上げるだろう。社会の日常的トラブルが解決されるには、政治と同じ「数の力」が必要である。そもそも古代ギリシアの時代から「人間は三人集まれば既に政治が始まっている』と言われる。それが人間だ。多数が結論を決めるというのは人類社会の原初形態であるとも言えるだろう。民主主義といえば学問の香りがするが、社会のあるべき正しい状態とは、多分に「常識」と「みんなで渡ればこわくない」という群集心理によって実現される面があるものだ。

正邪善悪の判定は、現場に居合わせて事情を一番知っている人が最も正確に判断できる、というものである。

要するに<自治の原理>を主張するものであり、狭い範囲では相撲のことは当事者である相撲協会に、野球のことは野球機構に、都道府県や市町村のことは住民と議会・行政機関に委ねるべきであるという考え方だ。これは<ローカリズム>の観点だ。現実とマッチする点を重視する調和主義の観点である。

これとは反対の部分。前の投稿だ:

・・・文字通りのメディア・スクラムを組んで一人の個人に対して圧力を加えるであろう。それが憲法違反の人権侵害であるとはまったく思わないに違いない。そこがメディアの怖さだ・・・メディアの怖さとは群衆の怖さと同一なのである。

仮にもし、こんな情景が正夢になったら、戦後日本の立憲主義、基本的人権の尊厳、罪刑法定主義、法の前の平等、民主主義、国権の最高機関たる国会の尊厳、三権分立、等々。すべては実質的に堕落、自壊して、あとはチンドン屋が日本社会の先を行くのか、横から騒ぎ立てるのか、後ろからついて来るだけなのか分からないが、日本の社会もいよいよ1920年までの浮かれ社会から1930年代の政党政治の没落までと同じ、戦後民主主義没落の10年間に入っていくことになるだろう。
日本人であれば誰にもせよ例外なく、社会の大多数から圧迫や恐怖をうける苦痛から保護される権利を有している。基本的な人権である。自分がおかした不適切な行為に対するペナルティは、その時の群集心理ではなく、明文化された法律によって決定される。同じ行為に対して、あるケースでは重罰に、あるケースでは軽い処罰が課されるという、そういう恣意的な判断で人生を決められてしまうという非条理は出来る限り防ごう、という趣旨がこちらである。

現場の人間だけに委ねていると、不適切な癒着、談合、限られた世界の多数派による横暴によって、社会的には正しい人たちが苦しむ場合がある。その時は、普遍的に適用される<法>によって<公正(Justice)>を達成しようという<ユニバーサリズム>、というか普遍主義がここにある。。

★ ★ ★

小生は、前者に限りない郷愁を感じつつも、基本としては後者の立場にたつべきだと考えている人間だ。

マスメディア各社は、表面的には護憲、法の前の平等、思想・表現の自由、基本的人権の尊厳を主張している。しかし、実際にやっているのは、自社の主張と対立する相手を攻撃し、相手を担当職務から追放するまでは圧迫を加え続けることである。マスコミは、公職にあるものを「権力の象徴」と認識しているようだが、公職にあるものは国民の公益に奉仕する立場にたっている個々の個人である。マスコミが尊重しているはずの基本的な人権を有している個人である。こんな時、マスコミ各社は法律的には〇〇だろうが、国民感情としては▲▲だと言っている。法の前に生きた人間の感情があると言いたいのだろうか。これは群集心理を煽っているだけではないか。定義通りのデマゴーグだろう。社会が自壊を始めるときの兆候である。

他方、時にはマスメディアはスクラムを組んで、前者の観点から現場の関係者が審議しているプロセスに介入することがある。そんなとき、マスコミ各社は当事者、関係者の努力を「世間からずれている」と一蹴して、基本的人権や法の下の平等、法にのっとった透明性ある審議を主張するのだ。口ではそう言いながら、それと同時に自らが尊重するはずの憲法と法律の趣旨に沿うよりも、敵対者の人権を圧迫していることには視線を向けず、群集心理を扇動することを頻繁に繰り返している。

上の両方をまとめれば、現代日本社会のマスメディア各社は<独善>に陥っている。そして、究極的には反対派を<粛正>しようとする意識が表面化してきているようだ。反対派の弁舌との論争を楽しむ余裕は消え去って久しく、いまや<論壇>という言葉も死語となっている。

反対派の主張や言葉をきくと『耳が汚れる』とでも言いたいのだろうか。もしそうならば、表現の自由を圧迫しようとする、あからさまな憲法違反である。

★ ★ ★

下村元文科相が、自分の講演会で言ったそうだ:
音声データによると、下村氏は聴衆との質疑応答の中で「確かに福田事務次官がとんでもない発言をしてるかもしれないけど、そんなの隠しとっておいて、テレビ局の人が週刊誌に売ること自体がはめられてますよ。ある意味犯罪だと思う。福田さんの問題だけども財務省問題ですよね」と発言した。
(出所)日本経済新聞、2018年4月23日

これまた無断録音の公開である。

講演会というのは、ある政治家の主張を忌憚なく聞くために希望者が集う集会である。その集会で講演者が語った言葉が不適切であるという理由で謝罪に追い込む姿勢は、戦前期の国家総動員体制を連想させる。

無断録音をしたのは共産党である。同じことを警察庁が行ったとすれば共産党はどう語るのか。無断録音というのはまだ穏やかな言い方だ。これは<盗聴>に等しい。

小生は、原理・原則として無断録音を公開することによって政敵に打撃を与える作戦は、捜査当局の盗聴と本質的に同じであると投稿した。

その手法の是非善悪がこの現代日本社会でどう判断されていくのか、小生にはまだ分からないが、もしも共産党が政権の座につけば、やはり<無断盗聴>を政治的ツールとして縦横に活用するだろうことは、もやは間違いないように思える。

共産党が社会を指導する集権的社会とはそういうものである。

戦前期の軍部は確かに崩壊し去ったが、その軍部と対峙した共産党、大手新聞社は1930年代の精神的エートスをそのままに残して、戦後日本で繁茂し、まだ呼吸をしていることがよく分かる。

故に、小生、最初に述べた二つの立場の前者(ローカリズム)に限りなく郷愁を感じるのだ。何が正しい理念であるかを定める普遍主義を担う具体的な権力が、(たとえば)共産党や大手マスメディア企業出身者であるような社会は怖くて仕方がない。前回の選挙で大勝し、その結果として政権を保っているとはいえ、支持率の推移を心配する現政権の方がまだ民主的である。

2018年4月22日日曜日

前の投稿への反すう(その2): 「セクハラ」チンドン屋になったら戦後日本の国会もおしまい

前々回の投稿への補足その2を書きとめておきたい。

冷静に今回のセクハラ事件を思い返せば、財務事務次官は女性記者との会話が事実であると認め、不適切な言葉使いにより停職1か月+減給3か月、この夏を待って退官。この辺りが地位の高さと職責、品格に欠けた不適切な会話、使った言葉に対するペナルティとのバランスがとれた道理の通った処分ではなかったろうか。

これに対して女性記者の方は、複数のルール違反を重ねている。まずは無断録音。次に、オフレコのやりとりを報道しようと考えたこと、三番目に自社で却下されたというので会社に隠してネタを週刊誌に横流ししたことである。これは服務規程違反にあたる。

この三つの違反は懲戒解雇に相当する理屈だ。他方、セクハラの被害者でもあった。許せないという気持ちも理解できる。情状はあった。それを斟酌すれば、諭旨解雇が適切だと思う。報道局長は当然辞任に値する。女性記者から相談をうけていたという直接上司も併せて解雇が相当。このように思う。

★ ★ ★

ただ世間は(特に女性達は)いま正気をなくしてしまっているようで、セクハラ非難の一点張りで正邪善悪の道理を忘れている。(女性特有の?)ヒステリーである。この世間の暴風を自社の追い風と錯覚して、テレビ朝日が処分を遅らせると、マスメディア全体の自殺につながるだろう。

★ ★ ★

最後に、これは想像である。

こんなことを言うのは不吉で、万が一のもしもだが、仮に上のように道理が通った処分が課される場合、女性記者が将来を悲観して命を絶つとしよう。

そうしたら日本のマスメディアはどんな反応をするだろう。

あろうことか、辞めた財務次官にマスコミが押し寄せて、『今回亡くなられた女性記者に対してどういう気持ちをお持ちですか?』、『なんとも感じないんですか?』と、文字通りのメディア・スクラムを組んで一人の個人に対して圧力を加えるであろう。それが憲法違反の人権侵害であるとはまったく思わないに違いない。そこがメディアの怖さだ・・・メディアの怖さとは群衆の怖さと同一なのである。

それを見て、国会の6野党(だったか、5野党だったか、厳密には7個になるのだっけ?)の議員たちは『誠実な女性記者を哀れな死に追い込んだにも関わらず何の反省もなく一言の謝罪もしない前財務次官、財務省を私たちは絶対に許さない。その事務次官を任命した財務大臣を私たちは許さない。安倍総理大臣もまた任命責任から逃げられない』、と。大いに気勢を上げるのではないか・・・その情景が目に浮かぶようだ。

仮にもし、こんな情景が正夢になったら、戦後日本の立憲主義、基本的人権の尊厳、罪刑法定主義、法の前の平等、民主主義、国権の最高機関たる国会の尊厳、三権分立、等々。すべては実質的に堕落、自壊して、あとはチンドン屋が日本社会の先を行くのか、横から騒ぎ立てるのか、後ろからついて来るだけなのか分からないが、日本の社会もいよいよ1920年までの浮かれ社会から1930年代の政党政治の没落までと同じ、戦後民主主義没落の10年間に入っていくことになるだろう。

10年後の日本がどうなっているか全くわからなくなってきた。

2018年4月21日土曜日

前の投稿への反すう(その1): 現代社会のハラスメント問題

前の投稿の以下の部分について、思い当たった点を補足したい:
例えば、街の喫茶店で数名の仲間と遠慮のない会話をする中で、偶々、話題が下ネタに落ちしてしまい、大笑いをしてしまったとする。その近くの席に座っていた(女性かもしれないが)眉をひそめ、憤慨の気持ちから店の人に「あまり汚い言葉使いで不愉快です」と伝え、注意をしてもらうというのは社会では当たり前にあることで、都会生活とはそういうものだろうと思われる。しかるに、注意をすると逆切れされるという恐怖も手伝うこともあろう、スマホでその雑談を無断録音し、話している(男性たちかもしれないが)面々の顔が特定可能な動画を公開の場にアップするとする。それで自分の鬱憤をはらすとする。 
小生の基準では、雑談がセクハラに該当したのかを吟味する以前に、無断録音をして公開の場にアップして話していた他者の名誉や信用を壊すという行為が、その人物たちの基本的人権を侵す違法行為となる。「出発点」と言ったのはこういうことである。
隣席の男性集団が下ネタで大笑いすれば、隣にいる女性達が不愉快になるだけではない。その周囲の客たちも不愉快に感じるであろうし、店の従業員、店主もまた迷惑このうえないことである。

つまり、品の悪い雑談をしている客たちの行為はハラスメントの動詞形を用いると"harassing"である。

隣席の女性たちが店の従業員に頼み注意をしてもらうとする。このとき、男性客たちはバツの悪い思いをしながら、おそらく注意を依頼したのは近くの席にいる女性たちであろうと推測するであろう。「もしも近くの席にいる人が同じ男性であれば、このような細かなことで公衆の面前でメンツをつぶされることはなかった」と、そう感じるとすれば、やはりその男性たちも「不愉快だ!この店は!」と感じるかもしれない。だとすれば、最初のハラスメントとは逆向きのハラスメントもまた事実として生じている理屈である。その客たちの性格によっては「ここは怒ってもいい、怒る権利がある」と感じるかもしれない。

社会問題としてのハラスメントは、ほとんどの問題、相互理解・相互信頼の欠如、であるが故の敵対意識から生じるものである。

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ここで、同じ店内にいる他の客もまた同じように不愉快を感じていれば、たとえ男性客が店に抗議をしても、大勢の客が男性たちに一斉に声を上げるだろう。社会の日常的トラブルが解決されるには、政治と同じ「数の力」が必要である。そもそも古代ギリシアの時代から「人間は三人集まれば既に政治が始まっている』と言われる。それが人間だ。多数が結論を決めるというのは人類社会の原初形態であるとも言えるだろう。民主主義といえば学問の香りがするが、社会のあるべき正しい状態とは、多分に「常識」と「みんなで渡ればこわくない」という群集心理によって実現される面があるものだ。

このメカニズムが機能しなくなった時に色々な社会的病理が発生する。とくに社会の自浄作用に期待すると口では言いながら、規律と制裁(ディシプリンとペナルティ)の権限を当事者から公的機関へ一元的に集約しようとする傾向が強まるに伴ってそう言える。

もしも 周囲の客が十分な勇気を持たず臆病であり、何事も<お上>に解決してもらおうという姿勢を日常的にとっていれば、声を上げることをためらう。トラブルを解決する役割を担当するのは、庶民である自分たちではなく、店なり、警察なり、公人であるという生活感覚が当たり前の時代であればそうだ。そんな時代、周囲の人物は物理的距離の近さとは関係なく、当事者ではなく傍観者となる。その場の女性客も、そんな臆病な他人たちには何も期待できないと知っている。店の従業員に注意を依頼することも後難をおそれ、その場では諦めることになる。スマホで密かに動画を撮って音声とともにYouTubeに匿名でアップする行為は、その場で為すべきことを勇気に欠けるがゆえに為すことができなかったことの代償である。

本質的には勇気にかけるが故の卑劣な行為であるのだが、為すべき行為を為せなかった代償であるが故に、それは後になっても正義にかなっていると確信するのだ。

しかし、こうした行為は自動車が接触して自分が怪我をしたとき、相手の攻撃的態度に恐れを感じ1万円のカネで済まされたところが、どうしても怒りがおさまらず後になってその人物の背中をナイフで刺す行為とどこか似たところがあるではないか。

言うべきことは言うべき時に言わねばならず、為すべきことは為すべき時に為さねばならない。これを可能にするのは勇気であり、できないのは臆病のためだ。臆病な人は正しいことを為すことはできない。臆病な人は向き合うのではなく、逃走すればいいのだ・・・小生はそんな風に思う。戦う必要はない。しかし、戦わないなら、後ろから刺すようなことをするべきではない。すれば倫理としては悪である。

★ ★ ★

ハラスメント、あるいはハラスメントがイジメに進行するケースも現代社会の病理として蔓延している。小生が若いころは、喧嘩や武装闘争のような陽性の敵対関係がずっと多かったように思う。これに比較して、現代日本社会のトラブルは陰性であり反復的である。

戦争でも社会的トラブルでもその在り方や態様が変わるには何らかの理由がある。

パワハラは上下関係の下で生じると考えがちだが、真に実質的支配力を有している上役ならば、気に入らない部下は解雇すればよい。左遷してもよい。英語でいえば"fire"すればよいのだ。これ即ち「むき出しの経営判断」である。ところが、国の労働行政で経営者の思うようにはできなくなってきた。課長の上には部長がおり、部長の上には取締役がいる。中間管理職として部下が掌握できずトラブルが生じれば管理職としての評価に傷がつく。「上」が「上」でなくなれば「下」は「下」ではなくなる。「上」が弱体化している下でパワハラは代償行為として起こるものだとみている。パワハラは虐めではない。不愉快な人間関係は実はお互い様である場合が多い。パワハラの周囲では、他のタイプの様々なハラスメントが併せて発生しているものだ。ひょっとすると、パワハラと正反対の向きの"too many complaints harassment"(ぶつぶつ言うばかりで士気を下げる部下)もあるかもしれないし、"neglecting harassment"(何日たってもレスポンスがない部下)も確認できるだろう。

人間関係において生じるトラブルは複雑で微妙なのだ。前の投稿でも述べたが、虐待とハラスメントは異なる。なぜ集団構成員の間の相互信頼が形成されず、敵対意識が形成されてしまっているのか、その背景と原因を分析することがハラスメントの解決には不可欠だ。先行して「ハラスされた("harassed")」と訴えた側が被害者、訴えられた側が加害者("harassing")であるというシンプルな枠組みにはハラスメント問題は収まらない。であるだけでなく、シンプルな枠組みの中に現に生じているハラスメント問題を押し込め、形式的結論を出しても、全体状況は悪化するだけであろうと予想する。

ハラスメントが集団内の問題として発生するプロセス全般についてはまだ研究途上であると推測する。単に強者と弱者が併存していることが原因であるとは限らない。今後、ありとあらゆる種類のハラスメントが生じてくるはずだ(この点も既述した)。

今のところ暫定的に小生は以下の筋道を追っている(一面的だろうが、試し掘りだ):

法律や社会規範で保護されている限り、弱い立場にあるものは本質的に弱いままである。守られている集団が守られようと願っている限り、その集団は臆病であり、社会の中では当事者ではなく傍観者である。故に、その行動が社会正義にかなうことはほとんどない。社会の傍観者が社会に対して真に貢献する行動をとるはずはないと考えるのがロジックではないだろうか。

ハラスメントが発生する場合、当事者、関係者の中に<傍観者>として行動する者が必ずいる(はずだ)。この「傍観者」はゲーム理論でも関連する概念だ。多分、純理論的には"Problem Harassment Audience By-Stander"をキーワードとする学問的成果が得られてきているのではないだろうか。小生、ちょっと調べてみようかという気になっている。

どちらにしても、現代社会の難病ともいえるハラスメントを解決するのは、ヒステリックなマスコミの非難でも国会の証人喚問でもない。人間行動に関する科学的研究の進展のみが問題を解決できる。この点は間違いところだ。

★ ★ ★

ナポレオンは(フランス語で話したはずなので誰かドイツ人が伝えたのだろうが)こう語ったそうだ:

Man muß stark sein um gut sein zu können.
人間は善でありうるにはまず強くあらねばならない

臆病な人が社会で増えれば、その社会から善いことは減り、悪いことが増える。これは必然的な結果だろう。

智の人は惑わず、仁の人は憂えず、勇の人は恐れない

智・仁・勇の三徳を重視する古き道徳教育に何か取り柄があるとすれば、良い人間関係の形成に重要な点を繰り返し強調していた点だろう。

最近の現代社会的な病理の原因がこの種の道徳教育の消滅にあるのでなければ幸いだというべきだ。



2018年4月19日木曜日

財務事務次官セクハラ事件の感想

財務省の前身である「大蔵省」は、横暴にして天上天下唯我独尊的姿勢が顕著な官庁だったことは小生もよく覚えている。

政府部内のあらゆる枢要なポストに「出向」と称して、大蔵官僚を送り込み、政府全体の基本方針を自己の手中でコントロールしようという気構えが明瞭にうかがえた。小生の勤務していた役所もそんな大蔵省の植民地官庁の一つであった。

その大蔵省が1900年代末に接待汚職にまみれ、金融部門を切り離されるという断罪を蒙るという情景は、小生はすでに役所勤めからは足を洗っていたが、実に月並みな言葉ながら「奢れるものは久しからず」という言葉を思い起こさせた。

そして今回、セクハラ疑惑で大蔵省の後身である財務省の事務次官が辞任することになった。

転た凄然。この国はどうなるのだろう、と ― 別にどうなるわけでもない、過剰な国家意識をもった「官僚の中の官僚集団」が普通のGovernment Officialになることは決して悪いことではない。そう思っている。確かに、まあ、少数を除く大多数の与野党・国会議員の低レベルをTV画面を通してみていると、心配なことは心配だが。

★ ★ ★

ただ今回の件は、刺した方も刺された方も、感心できない。

高校野球でいえば、双方とも四死球が10個、内野のエラーが6個、バントミスが4回、スコアは17対14。そんな試合を観たような感じに通じるものがある。

もっと修行した方がいいねえ・・・。そんな感じである。

問題は、なぜこれ程までに取材される高級官僚と取材する大手TV局報道記者のレベルが低落したのか・・・こんな疑問が残るのみ。

レベルが落ちるにはそれなりの原因と背景、経緯と契機があるはずだ。それを知りたい。

そもそも小生が知っている時代にも辣腕で社交的、親分肌で人望がある人は、いた。そんな人は麻雀もゴルフも達者で、5時半以降の「アルコール解禁タイム」(当時はそうであった)ともなれば、「▲▲室」に大勢の人が集まり談論風発。そのうち下ネタが飛び交うこともままであった。しかし、そんな親分は案外と官僚トップの次官にはならなかったことが多く、トップには品格のある、調整型のジェントルマンが就くことが多かったように記憶している。

官僚内部の評価システムが変わってしまったのだろうか・・・・・・一足飛びにここまで結論付けるのは乱暴だが、今回のようなケースが現に生じていることの責任は、人事権を握っている首相官邸、安倍首相、菅官房長官、官房副長官等の面々にあると言えるのかもしれない。

★ ★ ★

会話をしている相手が無断録音をして、その一部を切り取って(例えば)YouTubeにアップするという行為を許容すれば、それがいかに不適切な会話であるにせよ、それは現代社会の共有財産である<相互信頼>を本質的崩壊に導く導火線となるのは確実だ。そればかりでなく、言葉による会話の内容にまで社会が立ち入ることから、日本国憲法で最も重要な国民の基本的人権として保障されている<表現の自由>を根本から犯す行為である、と。この点を、小生、本稿の出発点としたい。

例えば、街の喫茶店で数名の仲間と遠慮のない会話をする中で、偶々、話題が下ネタに落ちしてしまい、大笑いをしてしまったとする。その近くの席に座っていた(女性かもしれないが)眉をひそめ、憤慨の気持ちから店の人に「あまり汚い言葉使いで不愉快です」と伝え、注意をしてもらうというのは社会では当たり前にあることで、都会生活とはそういうものだろうと思われる。しかるに、注意をすると逆切れされるという恐怖も手伝うこともあろう、スマホでその雑談を無断録音し、話している(男性たちかもしれないが)面々の顔が特定可能な動画を公開の場にアップするとする。それで自分の鬱憤をはらすとする。

小生の基準では、雑談がセクハラに該当したのかを吟味する以前に、無断録音をして公開の場にアップして話していた他者の名誉や信用を壊すという行為が、その人物たちの基本的人権を侵す違法行為となる。「出発点」と言ったのはこういうことである。

★ ★ ★

原理原則として、録音をしたいときは「録音させてもらいます」と相手の了承を得ることが不可欠である。撮影するときもそうである。盗撮は原則として反倫理的だ。故に、相手の了承なく、無断で録音した内容を公開することで相手が不利益を被れば、内容によらず無断で録音した側には損害賠償責任がある、というのが小生の個人的意見だ。

公的機関による公式の承認なくして自分の意志で会話を無断録音して後刻それを相手に聴かせて判断を迫る場合は<脅迫罪>、勝手に公開して相手の社会的地位を失わしめた場合は<信用毀損罪・業務妨害罪>に相当する。当然に刑事罰を適用するべきだとすら感じるのだ、な。

そもそも「盗聴」は捜査当局であっても慎重に運用されており、証拠として認められるかどうかは微妙なのだ(無断録音は盗聴と違うが)。

今回の件は、ゲスの喧嘩としか感じられず、両成敗を適切と考える。これを本日の投稿の結論の基本としたい。

★ ★ ★

囮捜査や司法取引は捜査活動にとって有力な手段である。しかし、いくら有効かつ強力であるとしても、それを使っていいかとなると直ちに結論が出るわけでもない。

化学兵器は低コストで製造でき、かつ効率的に敵兵を殺傷できる。だからといって、それを使うと、使った国は守るべき倫理から外れた国として国際的制裁をうけるだろう。

有効であると分かっていながら、その運用に社会が慎重であるのは何故かという点が大事だ。報道機関が取材活動をする上で有効だとされるからといって、どのような行為も許容されるわけではないだろう。専門家によっては、報道機関による無断録音は許容されるべきだという向きもあるようだが、小生の意見は違う。いくら「公益」に奉仕しているのだとしても、公益の前には基本的な人権は小さなことであるとは強弁できない。大体、セクハラ、パワハラなど「ハラスメント」という現代的テーマと、近代社会に移行してからずっと維持されている「表現の自由」との調和ある解決は、いまだに達成されているわけではない。そう思っているのだ、な。

★ ★ ★


不愉快に感じれば、「言いすぎですよ、それ。録音しますからね」といって、ボタンを押せばいいだけの話である。相手は(泥酔状態でなければ)それで自制するはずだ。それをしなかったのは、自由に語らせてネタをとりたいという意志があったからであろうと推察される。

まあ、相手が報道関係者であることを知りながら、『これはオフレコですよ』という一言で安心して、何もかもをさらけ出してしまう被取材側が、バカであるという事実は否定できない。

今回の事件は、今後、報道関係者と二人で会話をするときのケーススタディとして活用されることだろう。そして、財務省内では悪しき口承伝説となり、二度とこの種の失敗を犯さないように徹底的に若手を訓練することだろう。その結果、とりわけ女性、というか異性の記者に対しては決して本音を語るべからず、と。そんな行動規範が共有されるようになるだろう。部外者と部内者の線引きが厳格に守られることになるだろう。国家公務員の都合に合わせたリークと都合の良いメディア操作のバーターを続けるには大事な基礎的前提が崩壊したとも考えられるだろう。最終的には、いわゆる「記者クラブ」の空洞化が進むだろう。

持ちつ持たれつの古き相互信頼の社会的土壌は、何らかの別の原理によって浸食されつつある。

今回の件は、一方の側の何がしかの善意と正義感がもたらしたものであることは間違いない(と、報道内容からは推測できる)。もしそうであっても、しかし、善意と正義が最初に意図した結果をもたらすことはあまりないものである。人間集団でトラブルが発生すれば、双方に言い分があるものであり、どちらかが「正しい」などとは言えない以上、善意や正義の観点から求めたとおりの結果になって行かないとしてもそれは仕方のないことである。

2018年4月18日水曜日

嘘を隠すために、また嘘をつく・・・のは言語が発生して以来の人類の本性だろう

先日、勿来にいる弟宅を訪れ、久しぶりに二人でウイスキー1瓶を空けたのだが、約半日、いろいろな話をした。

酒が回ってくると、自分が何を言おうとしてこんな話をしているかが分からなくなる時がある。これも久しぶりだったのだが、

ありゃ、何を言おうとしているんだったかなア・・・ 
あのネ、女の人はネ、何を話そうとしているかはほとんど気にしないみたい、だから話題がどんどん変わっていってもネ、それはそれで話していること自体が面白いって感じてるんだって聞いたことあるヨ。 
そりゃそうかもしれんよ、男はサ、話題がどんどん変わっていってサ、しばらくすると誰かがね『でえ、話しを戻しますネ、〇〇さんが●●だって話をしていて、△△さんは▲▲だってことを言ってました。結論としては、どうなるんですかね?』ってサ、必ず一人出てくるんだよ。 
アハハ、いるいる。あまり呑んでいないんだよね、そんな人、結構、頭冴えてるんだよネ 、で話を戻すんだよね。
そりゃ、呑まなきゃ、頭も冴えるわサ。男はさ、これこれこういうことだから、どうなるんだって、結論を出さないと気が済まない。
そう男には結論が大事なのよ! 話のかたをどうつけるのさって。途中で終わったらいかんでしょう。
女のおしゃべりは、ぐるぐる回って、最初と同じ話に戻っても、それはそれで楽しかったって。結論みたいなものは出さない・・・って言うか、出さないようにする。そんなところがあるかもね。
 男が生きていくには<方向感>が絶対に欠かせない。目的なくこうしている、というのには耐えられない。女はどこに行くという目的がなくとも案外平気のようだということは、小生のカミさんを日常観察していてもそう感じるのだな。女が必要とするものは<居場所>、つまりここにずっといる、ここは平和である、そんな感覚だとみている。なので、どこかに向かって進んでいるのか否かという事柄には無関心である。むしろ勝算もなく夢を追って旅に出るなどという愚行には付き合おうとしない。

そんな男と女が、「本来男女に違いなし」という原理原則にたって、イコール・フッティングでコミュニケーションをとろうとしても、感性は違う、求めるものは違う、問題解決法は違う、円滑にいかない。こうなる可能性は少なからずあると小生は思っている。互いにイライラする、これだけでもうハラスメントである。いわゆる「ハラスメント」の種は、「浜の真砂」が尽きるとも尽きることはないであろう、と。小生、そう思っている。

男女共同参加は立派な理念だ。しかし、それが「世界の大勢」だと吹聴し、そればかりをパロットにように反復するのは、1900年代末から2000年代初めに何かといえば「グローバル・スタンダード」を標榜した新自由主義者と同じ単細胞型の言動だ。

大事なことは人間の脳みそから生まれたシンプルな理念ではなく、複雑な自然の認識、細部にわたる現実の理解のほうであろう  ―  何しろ小生は旧世代の中でも保守的なグループにいる。そう思ってしまうのは仕方がないと言うしかない。

◇ ◇ ◇

ホテルに滞在中、先日購入したWALKMAN ZX2でよく音楽を聴いた。SHUREのイヤホンがそろえば言うことはないのだが、今のところAudio-Technicaの廉価品で我慢している。

弟は学生時代によく『さだまさし 帰去来』を聴いていた。その中の異邦人(エトランゼ)は小生も好きである。

アルバム版限定のセリフが挿入されている。
意地を張るのに 嘘ついて・・・ 
嘘を隠すために また 嘘をつく・・・ 
たとえば・・・ 
「ごめんなさい」が 素直に言えたら・・・ 
こんな遠回りなど しなくて済んだだろうか・・・
安倍政権は既に末期的段階にさしかかっていると見られるが、どこで失敗したのだろう・・・、あれほど高い支持率を誇っていたのに、と。いまは後悔の念に苛まれているだろうネエ。

ZX2はAndroid(ただし4.2)を搭載しているので、ネット経由でAmazon Musicを利用できる点が便利である。

聴いていると、"Amazon Music Unlimited"を始めませんかと勧誘してきた。Primeには入っているが、Unlimitedは月額800円弱が必要だ。商売が上手いというか、えげつない。思わず入ってしまった。

2018年4月17日火曜日

単細胞的意識の典型: ハラスメントと虐めとの混同

亡くなった両親の墓参を兼ねて、いわき・勿来に住んでいる弟宅を訪れて帰ってきた。東京では久しぶりに芝・増上寺の近くに宿をとった。以前はよくその辺に泊したものだ。



それにしても東京の街中はずいぶん歩きにくくなった。というのは雑踏の事だ。その昔、東京で暮らしていた時にも雑踏はあったが、よく考えれば小生が毎日エキナカを歩いたのは、朝方、深夜でほとんど全てはネクタイをしめたサラリーマンだった。そして大半は同じような世代の男性だった。彼らは降りるにしても、乗り換えをするにしても、人波は幾つにも分かれながら、大体は通路の片側に沿って同じ方向へと歩いていき、一定のペースで黙って進んでいったものである。小生はそんな物言わぬ人間集団の中の一人であったのだな。列をつくって行進をしているようなものであった。

その東京の街中、中でもエキナカが歩きにくくなった原因はというと・・・第一には外国人観光客。様子がわからず迷っているのだから、迷走するのは当たり前だ。斜行したり、立ち止まったりする人が結構いるのは外国人が多いからだというのは直ぐに気が付いた。第二は高齢者。時間帯にもよるのだろうが、小生の在京時代、これほど多くの高齢者が雑踏に混じって歩いていることはなかった。お年寄りは歩く速度が違うし、群衆に混じると見えにくい。ぶつかってお年寄りが転倒し負傷すると小生は加害者になる。やはり気をつかわざるをえない。高速道路でひどくユックリと走行している車が一定数以上いると、走りにくいものである。これと同じだ。第三は・・・女性が増えた。やはり気をつかわされる。

北海道でいま暮らしている町に戻ってきて、一番ホッとしたこと、それは「歩きやすい」というこの一点である。人にぶつかることも、ぶつかりそうになって舌打ちをされることもない。この点だけでもストレスは大いに低減されるのだ、な。

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小生が知っている群衆とは次元と質を異にした雑踏が、いまの東京にはあふれかえっている。非常に疲れる。その疲れの原因を振り返ると、多くの人が「予想困難な動きをする」からだと感じた。

何でもそうである。自分と物理的距離が近い人たちもそうであるし、業務上の関係が近い人もそうだが、そんな人たちの移動、言動の予測困難性は当事者のストレスを確実に高めているのではないかと思う。

ハラスメント(harassment)の原義は「虐められる」という意味ではない。ハラスメントをされる側の感情から意味を定義すれば、日本語では「(ネチネチと)悩まされる」、「(頻繁に)嫌な思いをさせられる」という表現になるだろうか。もちろんハラスメントをされれば"harassed"である状態にはなる。理屈では片方の側は"harassing"であることになるが、それほど簡単に黒白をつけられるわけではないのが現実であることは誰でも知っているはずだ。

<ハラスメント≠虐め>であることを意識しているマスコミはどれほどいるのだろうか? 最近の批判的報道ぶりを見ていると極めて疑問に思う。どのマスメディアも、複雑で微妙な現実の人間関係を、単純な二分類の枠組みに押し込めて議論している。

そもそもどんな交通事故も一方の責任がゼロ、片方の責任が10割となることは稀である。それと同じ道理だ。

「虐め」事件であれば、「喧嘩」とは異なり、必ず虐めた側がおり、虐められた側がいる。その事実関係を明らかにすることから、被害者の保護、加害者に対するペナルティが検討される。しかし「ハラスメント」は「虐め」ではないのだ。

一方がハラスメントを訴えるとしても、もう片方もまたハラスメントを訴えたい心境であることは、私たちの日常をみても当たり前のようにある。「嫌な思いをさせられる」というのは、この人間過剰な日本社会にあっては多分にお互い様なのだ。

ハラスメントはお互い様であるにも関わらず、先に訴えた方が被害者となり、もう片方は加害者となる。そんな解釈なり受け取り方を最初にしてしまうのは、ハラスメントと虐めとを混同しているからだ。

極めて単細胞的、かつ阿保な認識能力しか有していないことを伝えている。

だから虐待防止法とは別にハラスメント基本法が要るのだ。虐めとハラスメント。併発しているケースもあるが、この二つは基本的にまったく違う。異なったアプローチをしなければ社会は迷走するだろう。この話題は前にも投稿しているのでスキップする。

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嫌な思いをさせられる、その根本的原因として、なぜ相手がそんな言動をとるのかが分からない。予測困難性、というか理解困難性があるのじゃあなかろうか。

小生もまた雑踏に埋もれる東京駅構内には辟易とした。不愉快な思いを何度もした。が、その時、小生を不愉快にさせた相手の女性も、外国人も、高齢者も小生には不愉快な思いを感じたのではないか。

そんなことを考えさせられた。と同時に、ハラスメントが「迷惑防止条例」の対象に含められるという極端に異常な社会に日本がまだなってはいないことに感謝している。

2018年4月10日火曜日

民主主義: 公文書・データ・情報の混乱と勘違い

公文書・データ・情報をめぐって混乱が続いている。

「隠蔽」されているはずの公文書が、何らかの筋から特定の狙いをもってリークされるかと思えば、「保護」されているはずの情報が外部機関の利益目的のために不正に入手され利用されたりしている。かと思うと、公開しておくべき文書が「既にない」はずであったのが、実は「あった」と。もうメチャメチャである。

現在の社会常識に照らせば、「個人情報」は保護され、「公文書」は秘匿するべきではない。国内でも「個人情報保護法」の流れが一方にあり、他方では「情報公開法」の制度化が整った。一見矛盾するような二つの流れは、一見バラバラになりながら、世界で勢いを増している。

その基本的な背景は、データや情報の利活用が広く生産性を上げるというビッグデータ時代の到来にある。つまり情報はこれまでの時代にもまして「利益」につながるのだ。

「決裁文書」などの公文書は公開するべきだが、税務情報は「秘匿するべき行政情報」である。統計調査目的で収集した個票情報も秘匿するべきである。戸籍情報も然りで公開されるべきではない。官公庁が管理している情報には秘匿されるべきものと公開可能なもの、公開されなければならないものがある。この辺の道理は、官公庁だけではなく、公共性の高い上場株式会社にも当てはまる。

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守られるべき情報と公開されなければならない情報と。その線引きは、どのような考察と基準のもとに引くべきなのだろう。

たとえば・・・

役所の係長未満の末端職員が部内会議で個人的に記したメモが存在していることが、何らかのルートから野党議員に情報として伝わり、国政調査権の下にそのメモを提供せよと要求する場合、そのメモは提出するべき公文書として扱われることになるのか? そのメモは官庁組織の管理下にあるものなのか? それともそのメモは職員が個人的に記したものであり、その内容は保護に値する個人情報でありうるのか・・・?。

ずっと以前に小役人として勤務した経験があるので、個人的感想を記すなら、自分限りの意識でとったメモを国会議員から「提出せよ」と要求されたならば、それこそ晴天の霹靂であり、こんな業務命令がまかり通る世の中は異常であると意識することだろう。おそらく役所という組織にとどまらず、どの民間企業に雇用されている社員であっても、物事には程合いというものがある。そう言いたいところではないか。

この辺の心理的事情は、ちょうど大学入試の数学において答案用紙だけではなく、下書き用計算用紙も一緒に提出せよと指定されるのと似ているかもしれない。受験生は『計算用紙も提出するのか!? 評価対象になるのだろうか・・』と危惧するであろう。そう思えば「下書き」ではなくなる。もちろん提出させる以上は、採点業務上の必要に応じて計算用紙を参照するかもしれないという可能性が示唆されている  ―  しかし、どのように参照するかは具体的に規定しようがなく、だから「下書きも一緒に」なのである。

結論をいえば、下書き用計算用紙は答案とともに提出させるべきではない。その理由は、少しでも受験経験があったり、入試業務にタッチした経験があれば自明のことである。個々人が担当する業務についてインフォーマルに書き留めるメモも上でいう計算用紙に似ているだろう。その性質は個人的であり、公的なものとは異なる。故に、公開対象とするべきではない。小生はこう考えるネエ・・・

しかしながら、最近年の世の風潮は社会的な井戸端会議で物事の正邪善悪を決めようとする勢いである  ―  たとえば森友事件や加計学園問題で個人的にメモを残している職員が存在しているとして、そのメモをある理由で公開したくないと当該職員が提供を拒否すれば、世間はその職員を反社会的であるとして指弾するだろう。その職員が社会から非難される苦痛を自己救済するべく裁判所を通して慰謝料を請求するとしても、どの程度、真摯に扱ってくれるか明らかではない。

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情報やデータの保護に関して憲法は具体的に規定してはいない。憲法が厳格に保護しているのは基本的人権である。全体的構成からみて、日本国憲法の特徴は、個々人が政府や社会から守られるべき人権の尊厳であることを明記している点だ。

マスメディアも、何かといえば護憲を主張している以上、すべての行動の出発点には護憲の精神を置くべきだろう。憲法で規定していないことを主張するのではなく、明記されている保護対象を厳格に意識するべきだろう。

公人には人権はないのだなどという暴論を平気で口にするジャーナリストを時々みる。公人に人権がないのだと考えれば、そう主張する人物にも守られる人権はないと考えなければフェアではない  ―  こうした議論がまったく不適切な空論であるのは自明だが。そもそも憲法には人権保護の例外規定はない。

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人権の観点から保護されるべき情報が一方において法的に定義されている以上、公開されるべき情報もまた制度的に明確に定義されなければならない。

何らかの情報公開を要求するなら、要求の法的根拠を明らかにし、要求対象が公開義務範囲か公開可能範囲に属することを明らかにし、公開による利益を明らかにしなければなるまい。

守るべきモノは明確である。そして、社会を毎時刻々と流れている情報は無限に近いほどである。憲法上保護するべきものが明確である以上、保護されるべき情報もまた明確に定義される。公開に際して慎重に扱う情報もまた存在する。一口に文書・データ・情報と言っても、それが公開可能/義務範囲にあるのかどうか、公開するとして社会の成員全員に公開するべきなのか、一部の関係者に限定するべきなのか、公開方式をどうするのか等々、あらかじめ決めておくべき事は非常に多い。

そもそも国会が行政府に対してあらかじめ公開を予定されていない情報を提供せよとして国政調査権を行使する際には、それが権利の乱用に当たらず、かつ求める情報に十分な秘匿性はなく公開が適切であることを判断する段階が必要ではないか。そのためには、政治的に中立な司法府なり独立した行政情報管理委員会を通す方がよいのではないか(もちろん現実にはこうなっていない)。国会という本来は「国権の最高機関」であるべき場で恥ずかしげもなく繰り広げられている「お白州」、いやいや「素人法廷芝居」をTVで見せつけられるにつけ、こんな風に感じることが劇的に増えているのだ、な。

情報化時代とはいうものの、情報利用・情報公開については、いまだに未整備のことは多いのが現実だ。

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思うのだが、民主主義社会にとって情報公開は大原則であるのかどうなのか?

まあ、全面的に否定するつもりはない。ただ、情報公開というキーワードは保護/公開という線引きの下で考えてこそ、はじめて意味をもつ論題だ。最初から「情報公開」という言葉が意味をもつわけではない、というのは重要だ。

大体、憲法上の大原則として規定されていない以上、「情報公開」はその時々の具体的な目的に役立つツールとして使われるべき言葉だろう。原則ではない。

なので、これまでは情報公開なき非民主主義国家であったが、これからは情報公開を徹底して民主主義的にするのだという認識は、政治タレントの煽り演説にしかならない。

まとめておこう、

公文書やデータ・情報が必要な時に公開されない社会は国民主権の民主主義国とは言えない、と。こういう指摘には小生は賛成しない。知りたいことを知ることができないからと言って、社会は非民主的であるとは思わない。

但し、保護対象とするべき情報は民主的手続きに沿って決められるべきである。もちろん憲法をおかすことはできず、憲法をおかしたいならその前に憲法を変えるべきだ。保護を必要としない情報を、どのように公開するのかという問題は、何のために公開するかという目的に応じて個々に判断していくべき事柄だ。

やはり最終的に公開義務/公開可能/非公開範囲の3分類になってくるのではないかというのが、今後の整備に関する予想である―もちろん内部的には更に細分類してグレードを設けることだろうが。


2018年4月5日木曜日

FB: 個人データ流出事件について思うこと

フェースブックを利用している5千万人分の個人情報が英国のコンサルタント会社ケンブリッジ・アナリティカ(CA)を経由して、トランプ大統領候補陣営を支援するターゲティング広告に利用された・・・という事件が、文字通りいま世界を揺るがせている ― これに比べると、日本社会が騒いでいる割には森友事件の案外な矮小さに、小生、情けなさが募るばかりであるのが正直なところだ。

ロイターは、FBとCAとを繋ぐキーパーソンとしてケンブリッジ大学の心理学講師・アレクサンドル・コーガン氏の研究テーマに改めて光をあてている。
フェイスブック利用者約5000万人の個人情報が不正流出したスキャンダルの中心人物とされる英ケンブリッジ大の心理学者は、ロシアの研究者と、病的な人格の特徴に関する共同研究を行っていた。 
この心理学者アレクサンドル・コーガン氏は、心理学分野で「邪悪な人格特性(ダークトライアド)」と呼ばれる精神病質やナルシシズム(自己愛)、マキャベリズム(権謀術数主義)といった性質が、インターネット上での他者に対する虐待的行動と関連があるかを調べているロシアにあるサンクトペテルブルク大の研究チームに助言していた。

「われわれは、ネット上の怪物を特定したかった。こうした怪物に悩まされている人々の助けになりたいと考えた」と、サンクトペテルブルク大のヤニナ・ルドバヤ上級講師はロイターに語った。
(出所)ロイター、2018年3月21日配信

社会が高速ネットワークで緊密かつ広範に連結され、いまこの人類社会はこれまでと質的に異なったステージに移行しつつある。公益を守るべき国家や政府もその激流の中で無力になりつつある。こういう漠然たる不安や恐怖の感情が世界に広まりつつある。この点は確かに否定しがたい現実である。

その根っこには、善悪という尺度で極端なケースともいえる人間が少数にもせよ社会には生息していて、ネットワーク化された社会の中で訪れた新たな犯罪チャンスを利用しつつある。悪意ある人間が悪意を現実のものに転化できつつある。いま求められているのは、こんな認識をもって適切に対応することである。対応するための方法について科学的な研究を深化するべきである。

フェースブックだろうが何であれ人と人をつなぐソーシャル・ネットワーク・サービス(SNS)が構築する社会は、リアルな社会をそのまま仮想化した存在になる理屈である。そもそもネット社会が現実の社会とは別の社会になるはずがない。故に、現実の社会で運用されている法は、ネット社会でも形をかえて運用されるべきであり、そうでなければネット社会は無法化され、荒廃していくのは必然だろう。そんなネット社会は悪意をもった人間だけが互いに罵詈雑言を繰り返し、毎日のストレスを発散するだけの結末となる。

人間性善説が現実には無力であることが多いのはネット社会でも同じだ。と同時に、人間性悪説はネット社会にも、現実の社会にも当てはまらないはずである。

確かに論理的にはこんな議論になるしかない。

ネット社会なる存在が既に現実に出来てしまった以上、『危ないものは使わなければいいのサ』では問題を解決することにならない。時間はかかるだろう、法やルールを設けて、ネットを社会のツールとして広く定着させていく、こういう一本の道しか歩める方向はない。

進歩にはコストがかかる。代償も必要だ。もはやネットなき呑気な社会は戻ってこないのだ。

ソーシャル・ネットワークという現代の怪獣は、大変でも飼いならし、人間社会にとっては有害ではなく有益なものにしていく、そのために投入する時間と汗がすべて<文明の進歩>をもたらす、と。これ以外に何と言えばいいのだろう。

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核兵器の時代には核抑止戦略が求められていた。と同様に、クローン人間にせよ、遺伝子技術にせよ、ネットワーク社会に潜む悪意にせよ、科学技術の更なる発展には新しい研究が必要になってくる。これが問題の本質である。

新しい科学技術を活用して豊かな社会を謳歌しながら、同じ科学技術によって問題を解決するという発想には根本的な違和感を感じるという態度は実に手前勝手である。結論としてはそう思うのだな。

ずばり言えば、小生はSNSを流れる個人情報を分析して、それがネットワーク社会がもたらす様々な暴力や犯罪的行為を解決できるなら、そんな研究は大いにやってほしい。そう期待しているのだ。

今回の事件はまさに『事実は小説よりも奇なり』。フェースブックのCEOであるマーク・ザッカーバーグは、何年も前の映画「ソーシャル・ネットワーク」の主人公であったが、今回、ケンブリッジ大学の天才心理学者、英国のコンサルタント会社、ロシアの科学者、アメリカの大統領候補などが登場するデータ流出事件もまた近い将来に映画化され、再び主人公となる。今からそう予想しても間違いないようだ。

二度にわたる主役。つまりは、現時点の世界で未来を切り開きつつあるイノベーターである証拠なのだろう。ジェフ・ベゾスでもなく、ビル・ゲーツでもなく、真に私たちの社会を根本的に変えつつあるのはマーク・ザッカーバーグかもしれない・・・、確かに一理ある見方だ。アマゾンは欲しいものの買い方を変えつつあるに過ぎないし、ゲーツのWindowsやジョブズのMacintoshはその昔のTSS端末をグラフィックに使いやすくしただけだ。そうも言えそうだから。

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若いころの小生の研究テーマはマイクロデータセットとマクロ経済情報とのインテグレーションだった。恩師にその話をしたとき、『それにしても政府がネ、マイクロデータ情報(=個人情報)を管理してサ、マクロ政策にどう対応するとか、こんなグループは利益配分が薄くて政権に反発するだろうとかさ、そんなシミュレーションをしてネ、政府がやりたいことを反発なくやっていくってえのは、恐ろしい社会がやってきたと思うヨ』と、恩師はそんな感想を述べていたものである。

当時、小生が利用していたマイクロデータなど640メガバイトのMOディスク数枚に保存できるほどのものでしかなかった。今では、メガを超えて、ギガ、それにも収まらなくなってテラバイトにならないとビッグデータとは言わなくなった。PCの内臓HDDが1テラなどは普通に販売されている商品である。

そんな時代の個人情報から行動予測モデルを推定する作業は、それは科学的な意味合いでとても面白いに違いない。面白いだけではなく、社会的に有用な知識になることもほぼ確実である。

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今回のデータ流出事件はマネージメント上の失策である。

失策なら、今後は失策しないようにすればよい。PDCAサイクルのCとAのステージに相当する問題だ。

そもそも邪悪なビジネスを展開しているからこの種の犯罪が必然的に発生するのだ・・・などというのは、SF小説の読みすぎだろう。

まして、大統領選挙で悪用され、それによって投票結果そのものが逆転したなどという指摘は、この点こそ科学的に立証されるべき問題で、これから大いにやっていってほしい研究テーマである。

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個人的感想だが、投票先に迷っていて、たまたま送られてきた選挙運動関連メールではじめて意思決定できたなどという程度の浮動層有権者は多数いるわけである。それら浮動層を時々刻々とりまいているノイズが合計としてプラス/マイナスのどちらにふれるのか、個別ケースごとに評価するのは不可能な計算である。多分、ノイズの作用は平均としてゼロ付近であると、統計的に自然な想定をするしかない。まして、特定の人物が特定の投票行動をとったとして、多数のノイズの中の特定のターゲティング広告が、意思決定においてどれだけ影響したのか、影響は大きかったのか、小さかったのか。そんな問題に時間をかけて検証するなどは無駄のまた無駄であると感じる  ― マア、正義の観点からはやってみたいと思うテーマであろうが、だから「やるだけの甲斐がある」とは全く思われない。

もちろん今回の個人情報の使い方に義憤の念を感じている有権者はいるはずだ。「何だかおかしなことをやってやがったんだ、やっぱりな」というそんな怒りであろう。アンフェアに対する怒りでもある。

しかし、アンフェアであるのは片方だけではないと推測するのが定石だ。それが選挙、というよりあらゆる戦いの通例だろう。新種のアンフェアと伝統的なアンフェアの区別があるだけではないか。伝統的なアンフェアなら予測可能で容認可能だが、新種のアンフェアは悪いというロジックは無理だ。

まあ、トランプ大統領候補に投票して、ホントに大統領になればこうなるヨっていうのは、最初から分かっていたんじゃない? 満足なんですか? アメリカの人たちにはそう言いたいところではあるけれど。とはいえ、未来のことは誰もわからない。

いずれにせよ、社会はマシンではない。特性を超えて適切かつ瞬時に変化できるわけではない。摩擦的要因が常に作用している。社会には常識も慣行も法律も働いている。遠い昔、「蓄音機」が登場した時には音楽界から反発があったそうだ。「電話」で連絡をとりあうことに不安を覚えた人も多数いたそうだ。戦車が活用される直前には騎兵から反対論が提出された。馬は草さえあればどこまでも走れるが戦車は石油がなければ動かない。プラスにはならないというわけだ。

技術進歩は、それを是とする社会心理が定着するまでは、古いシステムに置き換わることはない。実際、目でみるまでは新しいものがプラスであるとは思わないのが人間だ。だからこそ、新しいものを試みることが非常に重要だ。そして、新しいものを試みるのは何故かというに、その根本には他者に対して<競争優位>に立つ。つまりは「戦略」の意識が大前提としてある。その戦略の目的はなにかといえば、結局は「国防」の観念に行き着く。「防災」と言い換えると平和日本でも感覚が共有されるだろう。もし現在の繁栄がいつか崩壊するのではないかという恐れがないのであれば、現在の平和は確固としているという自信があるのであれば、新しいものには原則として反対するのが人間社会である。

いまはこんな風に考えているということで。

2018年4月3日火曜日

メモ: トランプ大統領に関する一つ気になること

新年度早々、アメリカ・ト大統領に関して一つの心配、というより危惧、あるいはもっと軽い意味では気になること。

アマゾン・ドットコムが郵政公社(USPS)を食い物にしているとトランプ大統領がツイッターで投稿して、まず第1回目のアマゾン株価急落を(当然の結果として)誘った(3月28日)。その後、USPS関係者の側からアマゾンのお陰でUSPSは利益を確保しているという援護発言があり、加えてホワイトハウスからもアマゾンについて何らかの行動を検討しているわけではないという声明もあったことから、株価は回復してきていた。ところが、ト大統領が追い打ちをかけるように、アマゾンの節税・避税(更には脱税?)、郵政公社の料金が低廉に過ぎる点を指摘する投稿をしたことで、2回目の急落となった(4月2日)。更に、今回はマルコ・ルビオ上院議員もアマゾンが将来的に行使するかもしれない市場支配力を懸念する意見を表明したことで、IT関連株価全体の先行きが不透明化してきた。Amazonに限らず、Google、Facebook、NetflixのFANG4社、Microsoft、Intel、Appleなど現在のアメリカ経済を支えているテクノロジー企業は、市場シェア、占有技術など様々な面で競争優位にあることは明白で、市場支配力を現に有しているからであって、当のアメリカ政府が「これは独占規制の対象である」と切り込むのであれば、今後の影響は甚大である。

ただ、どうもおかしい・・・。

アマゾンがロビイストを変更する決定をして間もなくしてト大統領の発言があった。フェースブックはロシアが大統領選挙中にトランプ候補に有利な情報を発信する場として利用していたという批判の真っただ中にある。ザッカーバーグは国会に招請されるなど当局への協力姿勢を示さざるを得ない状況だ。

IT企業をめぐる色々なゴタゴタとト大統領の口先介入のタイミングが一致しすぎている。

アマゾンはトランプ大統領のNY市場に対する口先介入で10パーセント近い株価下落に襲われた。もし、大統領がツイッターに投稿することを事前に知っていれば、その人はアマゾン株を空売りしたい誘惑に打ち勝つのは難しい。その機会も2回あった。

大統領発言をめぐってインサイダー取引の可能性を誰もが想像するだろう。

今秋にはアメリカで中間選挙がある ―  だからといって、日本の選挙とは違うので、大統領自らが選挙資金を集める必要は薄いかもしれない。しかしメディア操作などカネが必要な仕事もあるかもしれない。

かつてNTT DoCoMo株が株式分割後に急騰した時、なぜか亡くなった小渕恵三元首相がドコモ株を事前に大量に買っていたというのでインサイダー取引ではないかと疑われたことがあった。

政治家と株式市場とは切っても切れない縁がある。それは口先でカネが調達できるからだ。だからこそ、政治家は市場については語りたがらない。李下に冠を正さず、である。ト大統領はあまりにも露骨だ。ということは逆に、ト大統領は真の意味でアメリカ経済の競争的環境の維持、企業全体の健全な発展を望んでいるのかもしれない。しかし、もしそうなら、ほかにも言い方があるだろう。

同じことを日本の安倍総理がもしも口にしていたら(絶対にそんなことはないはずだが)、モリカケ騒動を超える大騒動になっていたに違いない。

行政責任者の口先介入はあってよい時もある。しかし、今回の株価変動劇には疑惑の余地があるような気がする。ひょっとすると、既にSEC、FBIが市場関係者から情報を収集していたりするかもしれない。ひょっとすると、100年前のウィルソン政権からハーディング政権への交代劇が何もかも同じシナリオで再び繰り返される前振れかもしれない、と。そう気になっているところだ。