2018年6月4日月曜日

謝罪頻度が責任意識と解釈できるとすれば

マスメディアが日大関係者や紀州のドンファン不審死関係者をはじめ様々な人物を取り上げながら、TV画面で、あるいは紙上で、多くの人や組織を批判したり非難している。こんな様子が最近は世のならいとなってしまった。

まあ、ずっと昔からこうしたことは確かにあった。が、いわば「市井の一私人」が一日中張りこまれるようにメディアの話題になるという、そんな状況はあまりなかったと覚えている。現代社会特有の現象ではないだろうか?そもそもずっと昔の民放は、ドラマやバラエティ、歌番組、スポーツ番組が主であり、ニュース解説やワイドショーというジャンルはなかったように記憶している。ニュースは純然たるニュース番組だった。

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それはともかく、

社会の現状、というか「世を騒がせている」ことに対する責任意識は平均的な謝罪頻度(明らかな謝罪に撤回・お詫びなども含む)で測られるかもしれない。だとすれば、以下のような順位になるのではないかと(何となく)感じるのだ、な:
  1. 民間企業・団体(記者会見で謝罪、その後に引責辞任するのはおなじみの風景だ)
  2. 個々の議員(発言の撤回やお詫び、更には辞任もまた日常茶飯事になった)
  3. 地方自治体(知事や市長は謝るというより辞任している)
  4. 国家機関(総理や閣僚は遺憾の意をよく発言しているし辞任もよくある)
  5. 報道機関(公開された謝罪、遺憾、辞任などは滅多にない)
厚労省が杜撰な統計調査の件で大臣が謝罪したことは記憶に新しい。財務省についても然りだ。しかし、(たとえば)「財務次官セクハラ事件」で世を騒がせたテレビ朝日が会社として「謝罪」をした記憶はない。あの時も、主として責められるべきは暴言を吐いた次官のほうであったが、取材記者の側に責められるべき点は全くなかったのかといえば、小生は盗聴・盗撮は原則違法と考えているので、大いに責められるべき点があったと思っている。なので、次官が職を辞任したあと、テレビ朝日が公式に謝罪していないのは、やはり無責任の表れではないか、と。そうみているのだ。

長期的に省みて、謝罪の頻度は上のような順位になるのではないか、というのが小生の印象だ。

地方自治体や国家機関の公式な謝罪が少ないのは、それが権力機関であり、一度下した沙汰を覆すなどはあってはならないとする「無謬の前提」が作用しているのかもしれない。また、権力機関であるが故の監視や統制が勝手気ままな行為を抑え、結果として謝罪に追い込まれる事態が少ない、と。こんなロジックかもしれない。

では、報道機関による謝罪が非常に少ないという点はどう解釈すればいいのか?

メディア産業は何度も投稿(たとえばこれ)しているように、狙ったターゲットに対して社会的制裁を加えることも可能なほどの実質的な権力機関である。と同時に、それと比例した監視や統制が制度化されているわけではない。自ら「報道の自由」を主張してもいる。統制なき自由・・・かつ謝罪頻度の低さ。これはそもそも謝罪を意識すること自体が少ないということではないか。基本的に無責任な権力行使者ということではないか。そんな結論になるのだな。

メディア産業の在り方について投稿することが増えているが、こんなアプローチで考察しても、やはり近年のメディア企業の経営行動は多くの問題を含んでいる。ここでもそれが確認された、ということなのだろうか。


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