賛否両論がある。それは当然だ。特に外国では日本式の司法手続き批判が強い。これまた当然である。
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こんな風に賛否両論がある場合、ともすれば批判される側は批判されているという事実そのものに反発して、不必要な反論・釈明を繰り返し、それがかえって火に油を注ぐ結果になってしまう。
まずは二項対立状況を設定して議論を進めるのが定石だ。
A. 仮に世界統一政府があり、全ての国において同一の司法手続きが採られているとする。その場合は、異なった司法手続きへの不信や疑念は根本から解消される理屈だ。国境をまたぐ捜査や取り調べにおいて、今回のような賛否両論は生じないはずである。
B. 反対に、19世紀の帝国主義時代のように国際化が進む一方で、国によって文明・技術・価値規範に大きな違いがある場合には、外国で事件に巻き込まれた自国民を自国の法で裁くべきだとどの国も考えるだろう。こう考えれば、犯罪を犯した外国人に対して本国法による領事裁判権を認めることになろうが、この場合にも今回のような賛否両論は生じないはずである ―治外法権を押し付けられた後進国に、あるいは先進国で容疑者となる自国民をみる後進国の側に、同種の不信が生まれる余地はあるだろうが、それは今回の騒動とは本質が異なる。外国人はすべて本国法で裁かれる原則で一貫させれば、今回事案のような賛否両論は生じないはずである。
現実は上の二つの極端なケースの中間にある。そして、両極端のケースAにおいても、Bにおいても、今回のような賛否両論は生じない。とすれば、賛否両論が生じているのは、現実の世界がケースAでもケースBでもないからである。ケースBは明らかに現在の世界の潮流とは逆行している。ということは、問題の本質は国際的な司法制度調整機構が現在はない点にある。
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理性的に議論をするなら少なくとも「先進国」の間では、司法・警察制度を統一しておく方が、人権保護の確実性が増す。
しかしながら、それぞれの国には歴史と慣習があり、特に司法制度は各国が「最も善い制度である」という合意の下で制度化してきたものである。なので、どの国も自国の司法制度が自国人にとっては最良であると考えるのは当たり前であって、少なくとも制度が成熟した先進国民であれば、自国の司法制度が劣悪で、できれば外国の司法制度で裁かれたいと思う人間は少数のはずである。故に、統一的な司法手続きが国境をまたいで採られるとしても、どの国の国民も決して納得はしないに違いないのだ。それまでの自国の司法制度が最も善いと思うはずなのだから。
こう考えると、今回のゴーン事案について外国から日本に向けて司法批判があるのは「当たり前である」。今はそう割り切って、起訴した後の法廷の実質をみてもらうのが上策であると考えるしかないという結論になる。
と同時に、一見すると違うように見える日仏司法制度も、その骨格を詳細にみるとそれほど隔絶した、相互理解が不可能なほどの非常な違いはない。この点を丁寧に対外発信していくことも重要なのだろう。
いずれにせよ、今回のゴーン事案は国際化する事件をどのように司法処理するかという格好の演習であるのは事実だ。そんな事もあって検察当局はゴーン会長による一連の報酬を違法と認定し、敢えて立件したのかもしれない。法務大臣、検事総長、特捜部長の器がそろって大きくないとビビるはずである、とまあ今はそんな風に見ているところだ。まあ、特捜はギャンブルに打って出たと観ている人もいるようだが、一度はこなしておかなければならないタイプの事案であり、好機をとらえて「症例」を蓄積しておくことは必要な備えであるだろう。
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