たとえば年始早々ながら次のような投稿があった:
「卒婚」という新しい夫婦の形が広がっている背景には、社会の大きな変化があると思います。(URL)http://agora-web.jp/archives/2036503.html
その変化とは、人間関係の多様化と高齢化社会です。
人間関係の多様化によって、家族関係にも多様な選択肢が生まれています。そして、人生後半戦の期間が長くなれば、前半戦とは違った人生を違った人と楽しみたいという人は、着実に増えていきます。
戦国時代から江戸時代の太平が訪れて日本人の平均寿命(=出生時余命の平均値)は長寿化したと推測されている。また、戦前日本から戦後にかけて日本社会はずいぶん長寿化した。それでも「高齢化社会」とは呼ばれなかったし、実際、3人に一人が高齢者という社会は小生の幼少時には想像を絶する現実であったはずだ。それでも寿命が長くなったときに、どんなことが起きるかという点については、日本人はそれなりの予行演習を積んできたはずなのだ。
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小生の両親の世代にとって夫婦生活の長さの目安は、20歳で結婚して、60歳まで生きるとすれば、まずは40年。古希と言われる70歳まで一緒に長生きするとすれば、金婚式が迎えられる。小生の親の世代は、こんなところであったはずだ ― 最近の予想以上の長寿化で、金婚式はおろか、ダイヤモンド婚(=60周年)やプラチナ婚(=70周年)も現実的になってきてはいるが。もっともこれは結果論であり、戦前期のように、まずは人間50年と考えれば、20歳から50歳まで二人の夫婦生活が30年も続けば平穏な人生であった、そんな感覚であったに違いない。
近年の状況はずいぶん晩婚化しており、下の愚息も30歳を過ぎてから配偶者(➡これも昔は日常で使われなかった言葉だが)を得た。いまの目安である80歳まで二人無難に添い遂げれば金婚式を迎えられる。
夫婦生活の目安は、当初の30年から40年、40年から50年へ、と。長寿化によって夫婦生活の長さの目安も長期化した。これが戦前から戦後にかけての歴史だろう。
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それでも「卒婚」という言葉はなかった。言葉はなかったが、リアリティとしては子育て終了後の夫婦関係の変化は当たり前のようにあったと考える方が理に適っている。まして、前の世代よりも長寿化するのが当たり前であった日本社会ではなおさらだ。
結婚した夫婦の在り方が年をとるにつれて変化していったり、破綻したりするのは当たり前である。いかに生活水準が豊かになり、技術進歩が続いても、人間性の本質は変わらない。それは古典文学を読むだけでも直ちに分かることである。人間は何も変わってはいない。変わっているのは、知識や技術、憲法や制度である。どれほど豊かな社会になっても、人は必ず恋愛をし、不倫をし、約束をしては破り、だまし、結ばれたり、別れたりするであろう。
リアリティとしてずっと昔から観察されている夫婦生活の多様な在り方を、「卒婚」という新しい言葉を使って「人間関係の多様化」などと呼ぶのは、継続しつつある同一の現象を異なった言葉で呼ぶわけであり、それはちょうどレコード盤をディスク、パソコンをPCと呼ぶのと同じ話しだ。
メディア産業の観点から商品価値はあるだろうが、社会学的認識としては正確ではない。嫌がらせをハラスメントと呼ぶとしても、最近になって急にハラスメントが増えてきたわけではない。これと同じだ。
同じものは同じものと認識して、過去から現在へと一貫したデータを蓄積し、分析しなければ、実証的な確かな結論というのは引き出せないものだ。
日の下に新しきことなし
使う言葉を旧から新へと新しくしても、言葉だけで現実は変わらない。社会のリアリティは伊勢神宮のように式年遷宮をすればサッパリと清々しくなるわけではない。解決するべき問題がなくなるわけではない。問題を解決するなら、新しい言葉を創って気分一新するのではなく、過去を水に流さず、同じ言葉を使い続け、地道に研究分析を続けなければならない。
無数の言葉が毎年創り出されては忘れられていく流行作家好みの現代社会においては、上の格言を常に思い出したいものだ。
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