2019年1月1日火曜日

年始早々余計な一言: 天皇即位と大赦検討の是非

5月に予定されている新天皇陛下即位を機に、政府では当分の間死刑執行を控えるとの方針が決まりそうである。更に、大赦が検討されているそうだ。

公訴権の消滅、有罪判決の無効化など、戦前の天皇大権には有名な統帥権のほかにも立法大権、外交大権、栄典授与大権、恩赦授与大権等があった。大赦は天皇の立場から臣民のこれまでの罪を帳消しにする恩赦大権の中でも最も幅広いものである。

現在の憲法でこの恩赦が残存しているのは、内閣の輔弼によって天皇が行っていた恩赦大権の名残であると思われる。でなければ、巷間すでに批判が出ているように、内閣の一存で司法の判決を無効化するというのは理屈に合っていない。

ただ思うのだが、一部の意見がいうように「恩赦は制度の不完全さを表すもの」というなら、逆に「司法の決定もまた人間の行為の一部だけを切り取ったうえで裁いた不完全なもの」という批判もありえよう。
罪を憎んで人を憎まず
これが近代法治国家の原理・原則である。有罪判決を受けて刑に服している人もまた、その人個人の責任において犯行を償っているわけであるが、それと同時にその人にそんな行為をさせるに至った社会にも責任が当然あるわけだ。こうは考えないとすれば、一部の社員が悪質な犯罪を働いた場合に、その社員のみを罰するのにとどまらず、会社の社会的責任を重視し、代表である社長が責任をとるべしと。そんな意見が出てくる理屈がないわけだ。現実には、犯罪を犯した社員だけではなく、そんな社員を生んだ会社組織自体も責任を問われることが多い。ならば、有罪判決を受けるような罪人を生む日本の現代社会もまたどこかが病んでいるのであり日本社会が負うべき責任を追及するべきだろう。しかし、日本社会が日本社会全体を罰することは不可能である。

なので個々の罪人の責任追及は、なるほど「公益」の名の下に行われるのだが、そんな司法の現実は極めて一面的で無責任、不完全な制度の反映である、と。こんな風に社会のありようを客観的に見る視点も必要だろうと小生は思っている。

こう考えると、理屈からいえば司法の決定を行政が覆すという言い方もできるかもしれないが、有罪判決を帳消しにするという行為は不完全な現実の社会が己が不完全を反省し、贖罪する象徴的政治ツールとしてあってもよい。こんな見方もまた小生は捨てきれないというのが率直なところだ。

わざわざ天皇制を布いているのであれば、内閣の助言によってこの程度のことは行っても良い。戦災のように何百万人もの安心に直結するような愚行ではない。実際、日本国憲法において『大赦、特赦、減刑、刑の執行の免除及び復権を認証すること」は天皇の国事行為である。大赦が行われるとしても何も奇妙ではない。

これが小生の見方、というより社会観である。

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