2023年6月27日火曜日

断想: 「合理性」、「合理的」では多くの人は共感はせず、行動もしない

 月参りをお願いしている住職が来て仏前で毎月恒例の読経をして帰った。

願我身浄如香炉 (がんがしんじょうにょこうろう)

願我心如智慧火 (がんがしんにょちえか)

念念焚焼戒定香 (ねんねんぼんじょうかいじょうこう)

供養十方三世仏 (くようじっぽうさんぜぶ)

住職が唱える「香偈」の声が耳に入り始めると小生は瞼を閉じて、よく言えば瞑想するのだが、凡愚な小生は目をつぶったまま色々な事を考えてしまう。


考えるというのは、西洋で言う「理性」が活動しているわけだが、この理性が納得できるのはおそらく(哲学が専門分野ではないが)「論理」のみである。そして、世間は何か問題があるたびに「合理性」や「合理的であること」を求めるのだが、それは理性が納得できるどうかであるようだ。

しかし、(ぶっちゃけ、というべきところだと思うが)人は理性で結論の良し悪しを判定するのではなく、その人のモラル感覚、道徳観、倫理観、言い方は様々だが、合理性とは別の価値観から判定するものである。

そして、現代日本社会(ばかりではないが)では定まったモラルが共有されていないところに《混乱》の源があるように見える(ことが増えている)。

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例えば、世間を吃驚させた市川猿之助と彼の両親である段四郎夫妻の心中事件。猿之助一人のみ生き残って入院していたが、先ほど、母親の自殺ほう助罪の容疑で逮捕される方向になったとか。逮捕までしますかネエ……?

これに対して、某ワイドショーでは

「一家心中」という事件は、残念ながら時折起こってしまうのですが、そのとき生き残った人に対して「自殺ほう助罪」という罪を問うというのは、どのような法理によるのでしょうか?

とまあ、こんな趣旨の質問が元検察官であるゲスト・コメンテーターに問われたのだが、どうやらこの質問は元検事であるゲストのツボにハマったらしく、個人的な死生感も混じえながら、結構丁寧な回答を述べていたのが印象に残った。

小生:確かにサ……、生き残ったあとから警察がやってきてサ、あなた方ご家族が一家心中をしたことは状況から明らかですが、あなた一人生き残っていることは事実なんですヨ。あなた、ご家族の自殺をほう助しましたね。これは犯罪なんです。あなたを容疑者として逮捕しますって、これは僕の感覚には合わないナア。屁理屈だよ、これは。生き残った本人も一緒に死のうとしたわけだからネエ。状況を説明できるのは生き残った当人しかいないしネ、捜査不能だな。生き残った以上、そいつには「殺人罪」の可能性があるってか?いや、いや、醜い仕事さね。

カミさん:そもそも家族の自殺を止めるべきだったってことなんでしょ?

小生:家族が自殺しようというのを止めるべきであったのを止めなかった。だからあなた有罪ですという理屈ってあるか?止めるべきところを自分まで一緒に自殺しようとしたのは犯罪だと言うなら、自殺それ自体が「自殺罪」という犯罪になるロジックじゃないか。

カミさん:あたしに言っても仕方ないよ

まあ、こんなヤリトリをしたのだが、「自殺」それ自体が犯罪であれば、確かにそれを止めなかった家族も共犯、つまり同罪である。

ただ、日本には名誉を守るために自死を選ぶ権利を認めてきたという伝統がある。つまり武士の切腹である。

言い換えると、一人の、あるいは高々数人の命を超えてでも守るべき価値があるという哲学が日本にはあった — 高々数人が数十人、数百人に増えていくと、また違った感情が刺激されるのだが。このモラル感覚は、生命こそ最も尊ばれるべき価値であるという戦後日本の理念とは合致しない。この矛盾が色々な所で表れていると思っているし、三島由紀夫もそうであったし、谷崎潤一郎や川端康成が表現した美意識も戦後日本の理念とは相性が悪い。この辺についてはずっと前にも投稿したことがある。

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もちろん法理と感情との矛盾が時代を超えて普遍的にあり得るものであることは森鴎外の『高瀬舟』を読めば直ちに分かる。だから今回の猿之助事件は戦後日本だから矛盾が表面化しているわけではない。この点は言っておくべきだ。とはいえ、(高瀬舟のように)安楽死にどう向き合うかという問題と、一家心中の核心に犯罪性を認めるという問題とは二つの別の問題だ。

一部の人は

自分の命は自分のものではない。社会に生かされている。だから自分で勝手に自死を選んではいけないのです。

そんな「哲学」を語る「有識者」がいるのだが、小生は100パーセント反対である。『あなたは社会に生かされている存在です』という哲学の一歩先には『あなたの命は社会のもの、故に社会はあなたの命を使うことが出来るのです』という戦前期・軍国主義と同じ思想が待っているのである。だから

自分の命をどうするか?それは天意と自分のみが決めうるものである。

こうでなければならないと考えている。軽々しく「社会」という単語を使うべきではない。

すぐに「社会」という言葉を使いたがる日本人の国民性と、一人の個人が社会とは独立に基本的に有している「人権」を軽視するという傾向とは、正に表裏一体である。小生はそう観ているのだ、な。

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戦後日本より前の日本社会では、法理を一貫させる「法」に対して、個々の人間、それぞれの家族、親族が守るべき「モラル・道徳・倫理」が存在していると考えられていた。そしてそのモラルは、曖昧なものではなく、文語で書かれた日本の古典、能・狂言・歌舞伎、和歌・俳句などの芸術に反映されている日本人の美意識に、中国発祥の儒学の徳目、インド初の仏教経典による慈悲の心が重なって、全体として意識されていたもので、ある意味、日本人のモラル感覚は文章として継承されたものであった、と。そう思っているのだ、な。ちょうど西洋で育った人が自殺をどう考えるかという原点に、キリスト教の宗教感情があるのと同じ事情である。

法を一貫させた議論をすると、必ず

法律的にはどうなるのでしょう?

今の法律ではこういう結論にならざるを得ません。

と、こんなタイプの反応が余りに多く社会から出てくる。これは法理や論理というものが、日本人のモラル感覚に合致しないことが多いということを示唆している。

ところが、「モラル感覚」と言っても、現代日本社会にはモラルが有形物として、つまり誰もが知っている古典として継承されているわけではなく、むしろ伝統的な日本的モラル感覚、日本的死生観の継承が、太平洋戦争の敗戦の前後で切断されている。これが現代日本に特有の道徳的な不安定さをもたらしている。

ひょっとすると、韓国併合、朝鮮戦争を潜り抜けてきた韓国、北朝鮮も「負けた側」であることには変わりなく、その点は中国とは根本的に違っていて、日本の道徳的不安定に通じる側面をもっている……

こんな風に観ている。

【加筆修正】2023/10/20


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