本ブログで何度も投稿してきたように、小生は古代ギリシアの哲学者・プラトンが好きである。いま読んでも、とても2400年程の大昔に書かれた著書だとは思えないほどの「今日性」、「現代的意義」を保ち続けていると感じるし、実際、哲学畑でいまなおプラトンの哲学が真剣な研究テーマに選ばれることが多いのも「ムベなるかな」と思う。
『ソクラテスの弁明』は早熟な中学生なら読む。高校生なら真面目に読めば難しい内容ではない。欠点は「面白くない」という点だろう。実際、小生も初めて『ソクラテスの弁明』を読んだときは、中途で放り投げてしまったものだ。
真面目に読み直したのは、他のプラトンの著作を読んでから後のことである。それで初めて、そこで伝えられている思想がクリアに理解できたのだ。
学校の課題図書の常連になっている割には、意外と面白くなくて、変に小難しく、感想の持ちようがないという点で、(個人的な勝手な感想だが)夏目漱石の『こころ』とプラトンの『ソクラテスの弁明』は、よく似ているナアと(実は)思っている。主人公が最後には死んでしまうところも同じだ・・・。
これどう思う? 何しろ主人公、死んじゃってルんだよ?
そう言われてもナア、と思ったものだ (_ _)。
漱石で読むべき作品を一つ挙げろと言われれば直ちに『明暗』をあげるし、プラトンでこれを読めと聞かれれば、当然のこと『国家』をあげる。学校で推薦するなら、この二つだと思っていて、上の推薦図書よりは、文句なく面白い。難点は長すぎるということだ。課題図書にならないのは、このためだと(勝手に)思っている。
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『国家』の第8巻は、5種の国制(=国の体制)の比較論を展開している所だが、いま読んでも実に面白い。
これも課題図書になることが多い鴨長明『方丈記』だが、冒頭の
行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。
は、日本史や古文の教科書に頻繁に出てきて、入試問題にもなることが多い。しかしながら、『方丈記』は厭世的なエッセーではなく、読んでみれば「京の都を襲った天災の災害リポート」であることが了解されるはずだ。要するに、同時代の世相をありのままに記述したドキュメンタリーであると言う方がよい。
同じように、プラトンの『国家』も、ペロポネソス戦争敗戦後の堕落し、荒廃したアテネ民主主義の実相を活写したドキュメンタリーとしての一面をもつ。特に第8巻は、最善の王制もしくは優秀者支配制から始まって最悪の僭主独裁者制に至るまでの5種類の国制(=国の体制)を比較した内容で、最悪から2番目に評価される「民主制」のどこが良くて、どこが悪いか、この辺の描写は実に現代世界にも通じるものがあるわけだ。
堕落した民主制が、どういうプロセスを経て、どんなふうに、愚かで、かつ悪しき社会をもたらすか。これが2500年もの昔に書かれた作品であるとは、俄かには信じられない程の臨場感がある。
プラトンが言いたいことは、
あらゆる人にとって、神的な思慮によって支配されることこそが、― それを自分の内に自分自身のものとしてもっているのがいちばん望ましいが、もしそうでなければ、外から与えられる思慮によってでも ― より善い(為になる)と考える……
最良の人々が主導する国家こそ、最良の状態に至るものであるというプラトンの「賢人政治」の理想は、しかし、自らが対話の相手に語らせているように
少なくともこの地上には、そのような国家はどこにも存在しないと思いますから。
こう考えていた著者・プラトンの熱い心情と人間像が生き生きと伝わってくる。
プラトンが優秀者による支配を望んだその根拠は、有名な魂三分説である。分かりやすく言えば、
魂は、思惟をへて真実を知ることを愛する理性、勝利し人を支配することを愛する気概、利益を得て富を形成することを愛する欲望の三つから成っている。そのいずれの部分が優勢であるかによって、人は、知を愛する者、支配を愛する者、利益を愛する者の三つに分類される。
故に、ただ利益を求める貪欲や、権力それ自体を求める野心に突き動かされるような人物が実際に権力を得て、社会を支配すれば、その国の市民に真の幸福がもたらされることは決してない。これがプラトンによる人間理解と社会観である。
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ただ、読んでいて思うのだが、
人が求める対象には、真実在の知識、力、富の三つがあるというが、それでは迷いからの解放、不安からの解放、即ち「安心」を求める宗教的動機については、プラトンはどう考えていたか?
と、こんな疑問が自然にわいてくる。
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どうやらプラトンは、迷いを解くためには真理を知らなければならない、つまり究極の知識をまなびとる必要があると考えているようだが、一方で日本の浄土系思想を代表する法然は『一枚起請文』の中でこう書いている:
唐土、我朝にもろもろの智者達の沙汰し申さるる観念の念にもあらず。
又学問をして念のこころを悟りて申す念仏にもあらず。
ただ往生極楽のためには、南無阿弥陀仏と申して、うたがいなく往生するぞと思い取りて申す外には別の仔細候わず。
大事なのは、学問でも知恵でもない。《疑い》をもたず、《念仏》を称えることだけである。こういう論理を超越した事を言っている。
「なぜ浄土を信じられるのか?」というこんな疑問ですら、「これは分別知による下らぬ愚問である」として意義を認めない。「すがすがしい」と言えばその通りだ。が、宗教というのは、そもそもそういうものだ。信じられればヨシ、疑いをもてばオワリである。『阿弥陀経』は浄土三部経の一つだが、他力信仰は《難信の法》だと明記してある。それだけ「信じる」というのは大多数の人にとって難しいことは最初から分かっているわけだ。プラトンならこんな事は決して言わない(はずだ)。
プラトンの『国家』を読んでいると、理性によって色々な事物の実相(=イデア)が知られる ― 但し、「善のイデア」そのものを(生きている内に)理性によって直視できるのかどうかという点は、ハッキリとは書かれていない(と記憶している)。一方、日本の浄土系仏教では、無明という闇に生きる此土(=この世界)の住人は、汚穢にまみれ煩悩が心に染み込んでおり、この世に生きている限りは、まったく救いようがないと観る。この世界(=穢土)で動物のように何度も生まれ変わって生き続けることを嫌悪するなら、人は阿弥陀仏の本願を信じ、専修念仏の行をつづけ、仏国土に往くことがかなえば、そこは光明に溢れており、永劫の時間を通した宇宙の由来、未来をありのままに直視できる。不安からは解放される。この世に生きる不安はこの世に生きていることによるのだ。彼岸には不安はない・・・
・・・この辺り、実に超論理的である。超論理的ではあるが、何だか「実数の世界」から「複素数の虚構的世界」に連れていかれた時の戸惑いと、複素空間に慣れた後の広々とした心持を思い出したりもする。「浄土」や「彼岸」という言葉も、私たち人間が一貫した宇宙観、生命観を築くためには、論理上不可欠のピースなのだと思っている ― 純虚数、つまり$i^2\,=\,-1$を満たす値$\,i\,$の実在を問う意識と「浄土」の実在を問う意識は、どこか似ているものだ。
ちなみに、中国の曇鸞、道綽、善導から始まる浄土系思想は大体がこうした思想で一貫している。
やはり東洋と西洋の世界観には大きな違いがある。が、全体構成としては重なっている部分もある。そこが非常に面白い。
理性によって仏国土や神の存在を知ることができないというのは、近代の幕開けを演出した(とも思っているのだが)カントもそう述べている。が、これはまた別の話題になりそうだ。
今日は、プラトンから始まって、鴨長明に寄り道し、法然に辿りつき、最後は複素空間が出てくるという、極度に乱雑な内容になった。これも覚え書きということで。
【加筆修正:2025--2-15】
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