『2001年哲学の旅』の著者である池田晶子のことは、比較的最近に投稿したことがある。そこでは大峯顕の著書について感想を記しておくのが主だった。
この『2001年哲学の旅』は、ジブリ風の装丁の割には中々読み応えのある実質があって、特に就寝前に何度も読み返すには最適な本である。
昨晩もギリシア哲学者・藤澤令夫との対談の箇所をパラパラ読んでいると、以下の下りがあってオヤッと思った:
私自身はやっぱり、哲学としては、ソクラテスやプラトンの「精神」原理と多数の人々の「生き延び」の原理が拮抗する中で、「生き延び」の原理が原子論の世界観によって武装し始めたもとのところに戻って、考え直さなくてはいけないと思う。
ただ東洋の知恵に乗りかえるというだけでは、世界の見方や宇宙の見方とつながらないンですよね。科学的な宇宙観を射程におさめたプラトン的なコスモロジーというところにつながらない。
人間の生き方と世界のあり方というのが同じ「精神」原理で把握できるという、一種の体系みたいなものを構築しておかないといけない。
藤澤の発言である。
この「コスモロジー」という言葉で連想したのは、何と中国中世にアップデートされた儒学体系、つまり「朱子学」であった。朱子学は、理気二元論を基礎に宇宙という物質的存在のあり方と人間の価値的世界を統合したという点で、一貫したコスモロジーを成していた。近代科学がまだ十分に発展しない段階で、知的階層を魅惑したのはもっともであるのだ、な。ちょうど19世紀後半から(多分今でも)マルクスの『資本論』が一部の人たちを魅了しているのと同じ理屈だろう。
カントも自然科学を基礎づける『純粋理性批判』だけでは満足せず、人々の意志を方向付ける『実践理性批判』、因果論ではなく目的論的認識を基礎づける『判断力批判』の三批判書までを書き終わって一つの体系にした。
空海が云った(という)金剛界(=物質界)と胎蔵界(=精神界)とは両部不二であるとの言も、主旨としては結構近いのだろう。
現代文明に欠けている核心の部分が、精神的基盤を提供しない《科学主義》の弱点にあるのは、ほぼ確実であると小生は考えるようになった。
実際、客観的物質が先にあって、その物質的存在は全て素粒子に還元されるという素朴な「科学主義」ほど、有害な思い込みはない。
人は意志をもって生きているのを、ただ生命ある物質が「生きている」と認識するのが、どこか可笑しいのは、少し頭を使えば誰でも分かることだろう。科学的に「生きている」と認識しているのは「身体」である。身体こそ全てであると機械論的に認識するのは、一つの立場としてありうるが、科学の側にも多くの意見がある。明らかに偏っているはずの社会的合意(?)を、無批判に前提して、一定の価値判断を伝えているメディア業界もまた有害な機関であるのかもしれず、現代文明の病理的症状の一つかもしれない。
そういえば、最初に引用した箇所の上段にはこんな下りがあった:
「精神」原理に対する「生き延び」の原理というのがあります。ソクラテスがそれを見つけたのですが、「ただ生きること」と「よく生きること」との対比とも重なります。
プラトンの『ソクラテスの弁明』は、多分いまでも中高生のための推薦図書になっていると思うが、
ことを行うにあたって、それが正しい行いになるか、不正の行いとなるか、すぐれた人のなすことであるか、悪しき人のなすことであるかという、ただこれだけのことを考えるのではなく、生きるか死ぬかの危険も勘定に入れなければならないというのだとしたら、君のいうことは感心できないヨ。
ソクラテスを裁く法廷で裁判員を前にこんな意見を陳述している。 藤澤令夫の師匠である田中美知太郎が訳した『世界の名著6 プラトンI』からの引用だが、主語と述語の順を逆にするという編集を加えさせてもらった。
現代流にいえば、
それが正しいか、不正かという時に、生死のリスクなど考えるな
という意見に等しい。
これは『葉隠』も同じことを言っているわけで、三島由紀夫の『葉隠入門』を何度か引用している:
「我人、生くる方が好きなり。多分すきな方に理が付くべし」、生きている人間にいつも理屈がつくのである。そして生きている人間は、自分が生きているということのために、何らかの理論を発明しなければならないのである。(95頁)
現代人なら「過激すぎる」と感じるのは確実だ。
「生き延びる」、「生き延びたい」という意志は、現代社会においては、最高度に正当化され、理論武装され、合理化されているという事実を、上の引用箇所は意見として云っているわけである。
しかし、思うのだが・・・
上のような意見は確かに理想論である。凡人はリスクを恐れる。リスクを回避するのは合理的であるとして許される。しかし、それは古代ギリシア人が重んじた四徳(=勇気・自制・正義・智恵)の中の勇気の欠如を示すものであって、恥ずべき行いであるという共通認識があったのだと想像している。少なくとも、正邪善悪より、真っ先に命の危険を怖れるのは優れた人物ならしない。それを、(開き直って)危険を避けようとする行動は合理的で、合理的であるが故に他人から責められる筋合いはない、と考える素朴なヒューマニズムで、社会は大丈夫かと感じることは多い。
現代社会のように
人の考え方は人それぞれですから・・・これも多様化を重んじる世界の流れなンだろうと思います、etc. etc.
という風に(何でも)相対化して、誤魔化していれば、社会は劣化するばかりだろう。
ま、とにかく『2001年哲学の旅』という本が、案外売れたという事実そのものが、未来にかけての一つの救いに思われたのであった。
才なく知なく徳もない凡夫でさえもが、現在のメディア業界の語る内容を信頼しなくなったという観察が本当なら、これもまた「ムベなるかな」という所だろう。
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