2025年4月29日火曜日

断想: グローバル化は紀元前の昔からずっと「不安の時代」をつくってきた・・・

《グローバル化》というと足元では逆回転気味の風が世界で吹いているが、これまでの世界史で起きたグローバル化現象を思い起こすと、一度始まったグローバル化はそうそう簡単に止まったりはしないものだ。

西洋史を勉強していると、共和制ローマの拡大と古代ローマ帝国の成立が、ヨーロッパ、北アフリカ、中近東をカバーするグローバル化の現れであったことが、自ずから伝わってくる。

しかしながら、ローマ帝国成立を遡ること300年の以前、アレクサンダーの東方遠征で形成された広大なヘレニズム世界は、ローマ帝国ほどには注目されていないが、これこそ空前のグローバル化であったと、小生は(勝手に)理解している。

ヘレニズム世界は、ギリシアからエジプト、中近東・イラン、北インドまでを含む広大な空間を覆う拡大したギリシア語圏でありながら、領域内には多種多様な民族と言語が自由に混じり合っていたという意味で、言葉の定義通りの《第一次グローバル化》の時代であったと思っている。

このギリシア語優位のヘレニズム文化圏は、B.C.300年頃から形成され始め、アラブでイスラム教が勃興しインドに到達するまでの概ね1000年間は、国家の変遷、盛衰はあったにせよ文化的遺風は残り、この地域で暮らす人々にとっては当たり前のグローバル経済圏であり続けた。多種の民族、多様な宗教が、広大な地域間で相互に浸透し、万人平等のコスモポリタニズムが日常感覚となったヘレニズムの文化的遺産は、ローマ帝国500年間が残したものにおさおさ劣るものではない。

ギリシア勢力の拠点であった北インドのガンダーラ、カシミールといった地域が、現在では荒廃し、時に国際紛争の舞台にもなり戦火に見舞われているという事実を思うと、実に慨嘆に堪えない思いもするわけだ。

いわゆる《大乗仏教思想》が仏教の革新勢力として台頭し、(おそらく多様な文化の坩堝であった北インド地方で)『法華経』や『無量寿経』、『華厳経』などの大乗仏典がサンスクリット語で盛んに編纂されたのは、まだヘレニズムの遺風が残り、その後のインド・グプタ朝の文化が爛熟期を迎えた1世紀から4世紀頃までのことだと伝わっている ― この300年ないし400年という時間もまた十分に永い時間だ。文化の形成と進展は100年を単位として観察するべき事がよく分かる。

大乗仏教とギリシア思想との関係、紀元ゼロ年に始まるキリスト教の東進との関係などは、また機会を改めて記したい。三島由紀夫の『豊饒の海』の第三巻『暁の寺』では、西洋思想とインド思想、大乗仏教思想について掘り下げた研究の跡が述べられている。三島という人は、おそるべき人である。

大乗仏教が起こったのは、仏教を革新する新たな宗教思想が求められていたからだと思われる。即ち、個人的な悟りと成仏から広く衆生を救う利他行への転換である。そこには、伝統的な「小乗仏教」(=多数の部派仏教)では包みきれない混乱と不安の高まりがあったに違いない。不安は、その当時は先進的であった旧・ヘレニズム世界で、バラバラに粒子化しつつあった人々に共有されていた心理であったのだろう。

キリスト教の宗教改革もそうだが、全ての革新は、革新されるべき問題への回答として、為されるものである。大乗仏教の台頭も情況は同じであったろう。


ここでは最近になって目を引いた記述をメモしておきたい。

バートランド・ラッセルの『西洋哲学史』は、非常な大部でありながら、読んで面白く、読み直して有益で、かつ内容も信頼がおける本として、小生の愛読書の一つである、というのはこれまでにも投稿した通りである。

最初の「古代哲学」篇の第25章のサブタイトルが『ヘレニズム世界』である。

その最後の部分でラッセルはこんなことを述べている:

この一般的な混乱は、知的脆弱化ということ以上に、道徳的頽廃をもたらすことは必至であった。長期間にわたる不安の時代は、少数者が高度の聖徳をもつこととは両立しはするが、まっとうな市民というものの散文的な日常の諸徳には、有害な作用を及ぼすものである。

……徳というものの根源が、まったく地上的な思慮分別以外には何もない、というような人間は、もしそのような世界におかれれば、冒険家となるであろうし、勇気をもたなければ、臆病な日和見主義者として無名の生活を求めるであろう。

この時代に属したメナンドロスは次のようにいっている。

生まれつき悪漢ではないのだが、不運にあい

仕方なくそうなった人間どもの

たくさんの例をわたしは知った。

これは紀元前3世紀の道徳的性格を要約している。もっとも、二、三の例外的な人物はいる。(しかし)これらの少数のひとの間でさえ、恐怖が希望にとって代わり、人生の目的は何らかの善を達成するよりは、不運を脱却することだったのである。

上の引用文中のメナンドロスは、仏教の古典でもある『ミリンダ王の問い」の中で、仏僧ナーガセーナと討論したミリンダ王のギリシア名である。

メナンドロスがいう「仕方なくそうなった人間ども」の中には、親鸞が『歎異抄』の中で語った

なにごとも こころにまかせたることならば、往生のために千人ころせといはん に、すなはちころすべし。しかれども、一人にてもかなひぬべき業縁なきによりて害せざるなり。わがこころのよくてころさぬにはあ らず。また害せじとおもふとも、百人・千人をころすこともあるべ し

このような凡夫も含まれているはずで、親鸞のこの科白と上のメナンドロスの科白には、互いに響きあうものがあるのは、誰でも感じることが出来るだろう。そういえば、親鸞が生きた鎌倉時代初期から中期にかけての時代もまた政治を超えた文化全般の混乱期であった。

グローバル化は、経済がグローバル化し、国境を超える大量の移民が日常化し、既存の社会で伝統的な価値観や理念が崩れ、全体としては文化的混乱に支配されるものである。

そんな混乱と不安の時代では、善を積極的に求めるよりは、というより「善が善であることへの疑い」が高まるが故に、凡夫はただ風をよんで、日和見的に、生きている間の損得のみを考える、そんな人生を強いられる、と。そういうことを言っている。

正に、現代のグローバル化でも同じようなことが起こっている。そう云えるであろう。


不安と混乱にみちた時代においては、人々を癒す哲学と信仰、というか堅い精神的基盤、つまり今様にいうと《疑いなく善であるロールモデル》が必要だ(と思います)。

混乱と不安の時代とは、そのまま迷いの時代でもある。生き方に迷い、何が善いのか悪いのかに迷い、主観的な正義感に迷うのである。迷いは、無明であり、闇である。つまり光がいる。仏教ではそれは智慧だと云っているが、要するにそういうものがいる。


混乱に迷うと、「法」に頼るのが人間の性だ。がしかし、法律の条文を「犯罪容疑者」に適用しても社会はチットモ善くはならない(と思います)。混乱は混乱のままである(と思います)。というより、法律はただ犯罪者をつくるだけであってはならない(と思います)。そんな法律は、仮になくとも、案外、世の中は真っ暗にはならないと、小生は確信している。

むしろ法律を善くすることがもっと重要である。悪者は悪い法律がつくり出していると言っても、これまた世間の真相の一面だろう(と思っている)。


科学技術の発展が、つまるところ、多くの人の不安や負担を差し引いても、人類を幸福にして来たのは事実だと思うが、世界のグローバル化もまた人類の幸福増進のためには、通らなければならない関門の一つだと思う。問題は、それに耐えきれない人が非常に多いということだ。「耐えられない」というそのこと自体を責めるべきではないはずだ。

いわゆるマスメディアで繰り広げている雑談は、日にゝ劣悪さの度合いを増している、と。そう感じるのだ、な。メディア業界に従事する人たちの仕事、生活もあるのだろうが、プラスとマイナスが混じりあい、事業の継続には不安がある。これまた現代的不安の一つということで・・・

【加筆修正:2025-04-30】


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