日本の随筆で古典と言えば、『枕草子』、『方丈記』、『徒然草』で概ね決まっているようだ。学校の古文の授業でも、まだこの辺の説明は変わっていないのではないだろうか。
小生は『徒然草』をずっとベッドの横において就眠薬の代わりに一段か二段、パラパラと読むのを習慣にしていた時期がある。ところが、あるとき何かがきっかけで『方丈記』の全体を読み通してから、俄かに著者の鴨長明に親近感を感じ、以後ずっとこの作品の大ファンになった。残念ながら残る一つの『枕草子』は、波長が合わず本でもKindleでも買うに至っていない。
兼好法師 ― かつては吉田兼好と覚えていたが、手元にある岩波文庫版の巻末にある解説では、「吉田兼好」という江戸期に捏造された俗称は否定されるべきであるというのが、現在の学界の定説である、と。こう述べられていて、理屈としては『俗名「卜部兼好」の遁世者としての呼称であることが知られる」と記したうえで、文中では単に「兼好」としている。これに対して、鴨長明は兼好より100年程前の人であるが、朝廷の人事の対象になっていたせいか、名はハッキリしているようだ。
違うのは生きた時代や環境だけではなく、性格もまったく違っていたものと憶測される。例えばそれは『方丈記』と『徒然草』の末尾を読むだけで、二人の人柄の違いが伝わってくる。
方丈記の最後は
静かなる暁、このことわりを思ひつづけて、みづから、心に問ひていはく、世をのがれて、山林にまじはるは、心を修めて、道を行はむとなり。しかるを、汝、姿は聖人にて、心は濁りに染めり。住みかはすなはち、浄名居士のあとをけがせりといへども、たもつところは、わづかに周梨槃特が行にだにおよばず。もし、これ貧賤の報のみづからなやますか。はたまた、妄心のいたりて狂せるか。その時、心、さらにこたふる事なし。ただ、かたはらに舌根をやとひて、不請阿弥陀仏、阿弥陀仏、両三遍申してやみぬ。 于時、建暦の二年、弥生のつごもりころ、桑門の蓮胤、外山の庵にして、これをしるす。こんな文章で終わっている。これに対して、『徒然草』の最後は
八つになりし年、父に問ひて云はく、「仏は如何なるものにか候ふらん」といふ。父が云はく、「仏には、人の成りたるなり」と。また問ふ、「人は何として仏には成り候ふやらん」と。父また、「仏の教によりて成るなり」と答ふ。また問ふ、「教へ候ひける仏をば、何が教へ候ひける」と。また答ふ、「それもまた、先の仏の教によりて成り給ふなり」と。また問ふ、「その教へ始め候ひける、第一の仏は、如何なる仏にか候ひける」といふ時、父、「空よりや降りけん。土よりや湧きけん」と言ひて笑ふ。 「問ひつめられて、え答へずなり侍りつ」と、諸人に語りて興じき。何だか神様のお札にご利益があるのかどうか調べるため、実際に小便をかけてみて、果たして神罰が下るかどうか二、三日待って検証してみたという逸話が伝わる福沢諭吉を連想させるお人柄である。
これに対して、鴨長明は法華信仰や念仏に帰依しながらも、しっくりと来ず、煩悩を自覚しながら、それでも口先で南無阿弥陀仏を唱えるような、実に不徹底で、グジグジした性格であるようだ。実際、『方丈記』という作品の相当部分は、自分が暮らす家のしつらえ、不平・不満、京の都を襲った天災や火事などのレポートであり、不平・不満に加えて、不安もまためんめんと語っているのである。
文句ばかり言いながら、心の中では何かを信じたい、それでも疑わしくて形ばかりの御念仏を口にする。現代日本人につながるようなダメなところに実に親近感を覚えるのである。
いわば、しょせんは「俗人」、「俗物」、「凡夫」どうしの仲間意識であります。
これに対して、『徒然草』の兼好は、理性的であり、かつまた理性に徹しうる強い魂をもっていたことが分かる。こちらは親近感というよりは、尊敬の気持ちの対象というべきか。
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