2025年4月16日水曜日

断想: ある世界観を世代継承するというのは……

『徒然草』よりは『方丈記』の方が(小生には)面白い。

内容の半分以上は、京の都を襲っていた数多くの災害と被災者の様子に関する災害レポートと何度も引っ越しを繰り返して住んできた自宅の住宅レポートと総括してもイイほどだが、著者が(当時としては後期高齢者に該当する)還暦を迎えて己が人生を回顧したいわば「自分史」であるせいか、全体の調べが一貫しているのだ。

無常観とよく言われるが、実際には現世の無常、来世の永遠を信じている当時の知的階層の世界観も反映していて、かといって確信があるわけでもない著者の心理的揺れが表れていて、非常に興味深い。

縦横3メートル四方、高さが2メートル弱の「方丈」、つまりは「小屋」は解体が容易なプレハブ式であったようで、そこをいおりと称して、今の京都市伏見区日野の辺りで晩年を送ったわけである。最終章から一部を引用すると、

北に寄せて障子をへだてて、阿弥陀あみだの絵像を安置し、そばに普賢ふげんをかき、前に法花経ほけきょうを置けり。・・・西南に竹のつりだなをかまへて、黒き皮籠かわご三合を置けり。すなはち、和歌、管弦、往生要集ごときの抄物しょうもつを入れたり。

こんな風に室内の様子が書かれてある。法花経ほけきょうというのは、今は法華経と書いている。普賢菩薩は法華経で欠かせない主たる登場人物である。あらゆる経典の中で法華経は比叡山・延暦寺の天台宗で最も尊重されていたということもあって、日本では「経典の王」と言えるだろう。一方、源信の『往生要集』だが、本でも読もうかというインテリなら誰でも手元に置いていた必読書であったことが窺える。源信とくれば阿弥陀如来と浄土信仰だ。それで法華経とは筋違いの「阿弥陀の絵像」をかかげていたのだろう。

鴨長明が『方丈記』を書いたのは、鎌倉時代初期の1212年(建暦二年)。『往生要集』が世に出たのは摂関政治の盛期である985年(寛和元年)頃だ。200年前の平安時代に書かれた本が、その後もベストセラーとなって、鎌倉時代でも広く読まれていたのは、文語体としての日本語にそれだけの安定性があって、書き言葉が時代を越えた通用力を有していたからである。

修正(2025-04-19):「そう言えば」と、ふと気になって『往生要集』の原文をあたってみると、やはり漢文であった。源信は延暦寺の僧であったから当然でもある。鴨長明は和訳を読んだはずがない。漢文で読んだはずだ。漢文を読みこなせる基礎知識が当時の知的階層の常識であったのは、現代日本において英文を読みこなす知識が当然であるのと似ている。安定性があった日本語文語というより、ここは共通知識としての漢文読解力を強調するべきだった。西洋では(近代になってもある時代までは)ラテン語が同じ役割を担っていた。

この点、明治以降の言文一致がもたらしたメリットとデメリットが窺えるかもしれない。ちなみに、『方丈記』が書かれた建暦二年は専修念仏を旨とする浄土系宗派の開祖・法然が亡くなった年でもある。この辺り、何だか同時代性が感じられて、臨場感を覚えるのだ、な。

加筆(2025-04-19):法然の主著『選択本願念仏宗』の原文は和文である。御遺訓として読まれている『一枚起請文』も和文だ。道元の『正法眼蔵』も日本語で書かれている。鎌倉時代以降、文学にとどまらず、思想や教理も日本語で伝える著述が増えたのは、日本人の知識を底上げした主たる要因であったのではないだろうか?ただ、その日本語は文語であり、文語としての日本語は時代を越えて(かなり)安定していた。これが主旨だった。

いずれにしても

親族や友人と別れ、財産や地位と別れ、己が身体と別れ、心とも別れ、伴うのは善悪の業ばかりなり。
こんな「死にゆく者の四つの別れ」のことは、長い仏教受容の歴史の中で、鴨長明も既に熟知していたに違いない。最後の「伴うのは善悪の業ばかりなり」は「伴うは後悔の涙のみ」と話される時もある。

そういえば、亡くなった小生の祖父が口癖のように云っていたのは

人間、起きて半畳、寝て一畳。生まれながらに無一文。
ということだった。祖父は夏目漱石の愛読者だったのでそのせいかもしれない。言葉は違うが、同じ世界観を世代継承できていることを、今ほど有難いと思った日々はない。

 

あらゆる文明は、ヨコでつながって出来るものだが、よく見ると時を超えてタテにもつながっているものだ。人間関係という横の絆は大事だが、縦の絆が切れていれば、その社会で文明は引き継げないし、そもそも新しいものも創造できないはずだ。技術も価値観も文明の一つの部分である。

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