2025年7月18日金曜日

ホンノ一言: 参院選……暑い日をより暑くさせる意見が多すぎます

今週末の参院選に向けて選挙戦もたけなわだ。しかしながら、参政党など新興保守政党は熱い。猛暑の中でご苦労様だが、この支持拡大は「既存政治への不信」が背景にある、と。そんな(冷静な?)評論がネットにアップされていたりする。目に入るというのは、結構、アクセスされているのかナア、と。既存政治への信頼などあるはずがない現状は既に共通の感覚だと思うのだが……。どうも間が抜けている印象だ。

北海道も暑い。湿度が高いのは異常である。こんな日に、間が抜けた投稿を読むと、猶更暑くなって困る。

そうかと思うと、民主主義への不信は理解できるが、民主主義はあらゆる体制を試してきた最後に残った体制であるから、私たちは民主主義を信じ続けなければいけないという説教調、というか牧師のような投稿もネットにはある。少し読んで止めるが、やはり暑くなる。

西洋史の古代を勉強すると「都市国家」が一つのキーワードになる。そしてしばしば都市国家は古代ギリシアのアテネのように「民主的」に運営されていて、それが(2千年余りの時を超えて)近代西洋の民主主義社会の母体になったということが授業では強調されていた(ように思う)。

ところが、民主的に運営されていた都市国家・ローマが、領土を拡大し、その当時としては多民族国家になるにつれて、共和制の限界が露呈し、紀元前27年にカエサルの甥であるオクタウィアヌス (Octavianus) が元老院の推挙によって初代皇帝に即位しアウグストゥス(Augustus)の称号を贈られた事は、あまりにも有名な時代の転機となった。以後、古代ローマは共和制から帝政に移行し、時代が下るにつれて、ますます皇帝専制の度合いを強めるという歴史を歩んだ。

よく民主制(≒共和制)は最後の政体であるとか、国家が大規模になれば民主制によるしかないなどと述べる御仁もいるが、どちらも歴史の事実に反している。

国家が大規模化し、多民族化すれば、多様な社会をまとめる一つの共通の権威(あるいは権力)が要請されるのは、子供でも理解できる理屈である。 中世ヨーロッパを特徴づける体制、即ち「神の代弁者」たるローマ教会のトップ(=教皇)と「世俗権力の代表者」たる皇帝ないし国王との並立は、政治的妥協の産物で、あたかも中国史、日本史にある南北朝時代に通じるものがある。 いわゆる《権威の分裂》という現象で、これによって良かった面もあった反面、政治不在となる負の側面もあったと思っている。

その欧州も、汎ヨーロッパ的なキリスト教の権威が弱体化するにつれ、絶対主義国家が地域ごとに生まれ、革命と徴兵制の実施を経て国民国家となり、啓蒙思想の広まりと国民皆兵による平等感の浸透から民主主義国家へと衣替えをしてきたのが、極めて概略的な《民主主義国家発展史》だと勝手に理解している。

古代ギリシア・ローマの時代に遡らずとも、民主主義と国民皆兵とは双子のような表裏一体の二要素として誕生した点が重要なポイントだと、これも勝手に理解しているわけで、ここにはいかなる哲学も、思想・信条も不必要で、極めて現実的な選択の結果として「こうするしかなかった」、これが小生の歴史観で、この辺の道理は、ヨーロッパだけではなく、東アジアを含めて、全ての地域に該当するロジックだと、これまた勝手に理解している。

日本というケースは特殊だ。まだ戦前期のうちに国民の要望に応える形で普通選挙が実施されたことは以前にも投稿した。が、寧ろそれをきっかけにして(曲がりなりにも)マアマア機能していた政党政治が自己崩壊してしまったのは、歴史の皮肉というより、天皇制民主主義の病理というものであったろう。戦後の日本は、その天皇制を守るために、連合軍の指示に従って、敢えて(完全!?)民主主義への移行を受け入れた。こうした極めてparadoxicalな歩みを踏んできたのが日本だ ― ほんと、天皇、コメ作り、伊勢神宮?、奈良・京都?、何を犠牲にしても守るものが色々とあって大変なのが日本であります (T_T)

プラトンは、ペロポネソス戦争敗戦後のアテネの精神的混迷の中で『国家』を著し、多数の政体を個別にとりあげて考察した。前にも投稿したことがあるが、一つの国家が選択する政体は、王制、民主制、僭主制等々、その時その時で移り変わって行くものである、と。この認識こそが極めて重要で、国家もまた《無常》の存在であって、実在するものではないということだ。永遠不変の理想の国家は思惟の世界、即ちイデア界に存在する ― 周知のように、プラトンの思考に沿えば「理想の国家」は民主主義国家ではない。現実には無常の世界があるのみ。この「真理」を弁えておくだけでも、何というか「生きる覚悟」というか、世界観をハッキリさせることになるのではないだろうか?。

実在するものではない対象を実在するものと誤認し、それに固執するのは煩悩の中でも三毒(貪瞋痴とんじんち)に挙げられる《=迷い》そのものである。
そう思うのだ、な。

現代社会は、科学的な思考さえマスターすれば良い、あとは要らない、と。何だか理系は優秀、人文系は阿呆と言わんばかりの《科学主義》が(ここ日本では?)盲目的に吹聴されているが、実際には宇宙観、生命観、人生観、哲学・思想いずれにおいても、科学的思考で理解できる領域は極めて限定的である ― 気になるなら最先端の物理学の紹介本でも一読されたい。

というか、この辺の事はドイツの近代哲学者・カントがとっくの昔に整理した事柄で『純粋理性批判』の序文だけでも読めば済む話だ。

年表をみればすぐ分かることや、分かり切ったことで議論が迷走することが多い現代日本社会をみると、どうにもこうにも、基本が定着していないというか、メッキが剥がれてきたというか、知的に《退化》しているという事実が明瞭に現れている感じがして

情けなさには涙コボルる

こんな今日この頃であります。また暑くなってきた・・・

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