少年時代、父からは将棋を教わった。ただ、その頃の父はそれほど多忙ではなかったのだが、教え方はあまり上手ではなく、駒の動き方を一通り説明したあとの基礎力をどう上げればいいか、当人の頑張り次第だナと、そんな感じだった。だから一生の趣味になるほどのレベルには達せず、中学生になって勉強が忙しくなると、自然に遠ざかってしまった。
芸は身をたすく
今になって思うと、塾の試験で正解できなかった問題を解説してくれるより、将棋を教え続けてくれたほうが余程ありがたかった。
将棋から少し遅れて母方の祖父は碁を教えてくれた。ただ祖父母は遠方にいて、頻繁に行くことが出来ない。なので親の家に戻ると、自然に碁のことは忘れてしまった。碁は将棋ほど覚えることは少ない代わりに、それらしく打てるまで体感すべき事は多い。もし祖父が(一時代前のように)近くで悠々自適の暮らしをしていて、いつ遊びに行っても相手をしてくれていたなら、パズルを解くのが好きであった小生は碁に親しんでいたと思う。これも極めて残念なことである。
最近、時間が少しできてクライツィグの数学テキストやスミルノフを読み返すだけでは飽きるとき、取り組みがいのあるゲームをやりたくなった。
いまはAI搭載の将棋、碁アプリが数多く使われている。そこでGoogle Pixel Tabletに詰将棋をインストールして何年振りかで将棋を再開した。ところが勘がまったく鈍っている。少年期に一定のレベルにまで上がっていれば「鈍ってもタイ」のはずだが、早々にやめたから身についていない。それでも段々と感覚を取り戻してきたのだが、タブレットの画面では駒がいかにも小さい。文字も小さすぎる。駒は動くし、目が相当疲れるのである、ナ(^^;;;)。かといって将棋盤を買いなおすのは億劫だ。片手間でよい。
それで碁をやってみた。こちらは最初から習得したとは言えない幼稚なレベルだ。それでも日本棋院から優秀なアプリが提供されているので、昔に比べると格段に勉強しやすくなっている。
もし小生の少年時代に「Katago」や「KataTrain」、「みんなの碁」、「KGS」などというソフトウェアが利用できていれば、祖父の家から両親のもとに帰ってからも、やり続けることが出来ていたはずだ。
英語や数学、更には大学の専門科目である経済学や統計学は、確かに人生を歩むのに役に立つ。が、少なくともそれと同程度に将棋や碁も我が人生を豊かにしてくれていたはずだった。つくづくそう思うのだ。
現代日本社会でファミリー・ライフといえば「両親+子供」の核家族を指すものと決まってしまった。
今はそんなご時世だ。しかし、かつてはそうではなかったのだ。
父は仕事で忙しく、便利で多種多様な家電製品がなく、食事の宅配サービスもコンビニ弁当もない時代、専業主婦の母もまたそれほど子供の相手はできない。そんなとき、祖父母は格好の話し相手、遊び相手であり、また教師であった。何より都合がよいのは「無料」なのである。そこに若い叔父や叔母が来て、従弟妹たちが集まってくれば、自然にそこはフリースクールになる。参加者もまた楽しいのであり、すべて無料である。
今は子供が何かを習得しようとすれば、家族外の有料サービスを利用する(しかないだろう)。お稽古事、習い事など教育サービスの価格は結構高い。その教育支払いを負担するために共稼ぎを余儀なくされている若い夫婦も多いようだ。
幸い、小生が暮らしている町は地方の小都市なので、カミさんの友人はこのところ孫を引きうけ始めて、自宅がまるで幼稚園や託児所のようになっているらしい。これもまた「無料」だからきっと娘夫婦の助けになっていることだろう。
もちろん祖父や祖母は、対価を受け取って特定のスキルを教えるわけではないから、若夫婦が希望する教育をしてくれるわけではあるまい。
しかし、ものは考えようで、親が望む教育を子が受けることが子にとって楽しいものとは限らない。中国ドラマ『琅琊榜 』の中の台詞だが
親、子を知らず
子、親を知らず
である。
無報酬で、ただただ自由な祖父母の語りは、子供にとっては最もノビノビできる時間である。
いま東京の中央政府は、解体されつつある《家族》の機能を《社会》で代替しようと(どのくらい真剣なのか不明だが)努力している様だが、軌道に乗るまで何年かかるか小生にはわからない。ひょっとすると、不可能な難問に挑戦しようと大法螺をかましているだけで、かつて東京都で実施されていた「学校群」のように、30年くらいたってから、その時の現役世代が
などと下から突き上げて、結局、何の成果も跡形もなく放棄されてしまうかもしれない。いわゆる《社会目標》というのは、その時代に何故そのときの大多数の人々がそんなことに賛成したのか、後になってみると分からない、そんなものが多いことは日本人には周知のことである(はずだ)。(特に民主主義国では)政府も議会も、決して失敗の責任はとらない。というより、とれないのである。
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