MLBのワールドシリーズが終わった。毎日、多数者の予想を知りたいので賭けのオッズを見ていたが、事前予想は圧倒的にドジャース優勢と観られていた。それが最終的に紙一重の死闘が展開されたのだから、勝負事はやってみないと分からないものである。ドジャースがホームのLAで1勝2敗と負け越し、王手をかけられた時点では、さすがにこのままブルージェイズが押し切ると観る人が増えたようで、オッズも逆転したのだが、それでもドジャースは敵地で連勝した。今回のシリーズの特徴は事前予想がステージごとに裏切られ続けた点にあった。その意味で
サプライズに満ちたシリーズであった
こんな風に勝手にまとめているところだ。
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時には、説明不可能な《天祐》の様なものが作用しているのかと思う事もあった。本当に《天運》というものがあって、天運がドジャースに味方しているなら、ブルージェイズが勝てないのもムベなるかな、である。
古代ギリシア人たちは、戦争の勝敗や国家の衰退は神々の争いが人間世界に映し出された結果であると理解していた。
ホメロスの『イリアス』を読むと、それがよく分かる。人間個人ゝの生涯を貫く道理と道筋は、人間には人間の解釈があるのだが、その背後には神々の対立抗争とそこから派生した因果が縁となってその人の人生を決めていくのだ、と。悲劇『オイディプス』は、あらかじめ定められた運命のとおりに生きるしかなかった人間の無力さを描写している。
人間は神の思いのままに生きるしかない、と言われればその通りであるが、現代科学主義の立場にたって世の中をみれば、人間社会の出来事はすべて人間が決めることが出来る。不幸は、人間社会の指導者の責任である、と。こういう議論になるから、古代から現代にかけて、人間が世界を観る目は180度真逆に転換してしまったと言える。
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仏教では、ギリシア人が《運命》と呼んだ人生航路を《業》と言っている。ただ、永遠の過去から続く輪廻転生を通じて生まれる時に定まった《業》が、後天的に100パーセントの確度でその人の人生を決定づけるわけではなく、たまたま起きる出来事が《縁》となって、本来の《業》が現実化する。こんな世界観である。
前期までの実現値と今期のランダム要素とが、互いに絡まり合いながら、今期の値が決まっていくという意味では、統計の$\textrm{VAR}$モデルを連想させるところがある。$\textrm{VAR}$モデルでは、他の全ての変数の前期までの実績が今期の各変数に影響を及ぼすが、今期の他変数の変動からは影響されない。その意味で同時決定的ではない。この同時決定的ではないという所で、仏教の《依他起性》とは異なっているのかもしれない。
いずれにせよ
過去の出来事が現在および将来の値を決める
因果分析と言うのは、過去から将来への時間の流れに沿った議論になるのだが、しかし全ての変数の変動は、ある目的を達成するために目的合理的決定から定められた経路をたどっているだけなのだ、と。こんな正反対の見方も当然あるというのは何度も投稿した通りだ。たとえば、現在から将来への消費から得られる満足を最大化しようと考えるなら、いまこれだけの消費しかしない原因は、過去にあるのではなく、現在から将来にかけての収入、それも予想された収入の低さにある。楽観的に将来をみれば現在の行動は楽観的になり、逆は逆。昨日までがこうであったからと言って、それが今日の行動を決める理屈にはならない、と・・・
・・・マア、色々と議論はできる。
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それはともかく、何となく
こんな結果になるのは、前から決まっていたような気がするし、もう一回やっても同じ結果になるような気がする。
こんな思いは、誰でも一度は感じたことがあるのではないだろうか?
人間には知性があるので、単純反復はしない。歴史は単純には繰り返さない。しかし、韻を踏む。形を変えながら、結局は同じ結果になり、状況は必然的に定められたとおりに変わって行く。それが《法》、つまりは《法則》というものだ。それが事前に予想できなかったのは、他でもない《人間の無知》による。
ソクラテスも言ったではないか。
人間は本来何も知らない。しかし自分は自分が無知であることを知っている。
と。
思うのだが、デカルトが発見した《考える我》とソクラテスの《無知な我》とを対立させるとき、小生はソクラテスの(というよりプラトンの)人間観にずっと共感を覚えるようになった。
今回のワールドシリーズでは事前の予想が裏切られ続けた。しかし、終わってみると、何だかドジャースが最後には勝利するべく定まっていたように思える感覚もある。
小生だけでしょうか?こんな感覚を覚えるのは?
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