2019年2月6日水曜日

余計な一言: 家庭内暴力と躾けの曖昧さをどうする?

千葉県野田市内の小学校に通学していた女児が父親に折檻(?)、イヤイヤ、ワイドショーの話を全て信じるとすれば、虐待を受けて死に至ったという事件。連日、TV各局のワイドショーの話題になっている。

そこでは微に入り細を穿つような詳細な話が展開されている。

それにしては、逮捕された父親は、いかなる略歴を経た人物であるのか、勤務先はどこなのか、どんな仕事をしているのか、なぜ沖縄から千葉に転居したのか、それは転勤なのか、同僚が抱いている人柄の印象は、等々ほとんど父親の輪郭が分からずじまいになっている。加害者の個人情報がワイドショーでほぼ何も触れられていないのだな。周辺の関係した人々のことを取材しては、いわゆる「尺をかせいでいる」。

これまでに発生した同種の事件を報道する際には、逮捕された人物、その家族、親族とも、文字通り洗いざらいワイドショーで紹介するという編集で、まさに加害者の身の回りにいる人も含めて「社会的制裁」が臆面もなく繰り広げられたというのが最近の世相だった。

テレビ業界で何か個人情報保護、人権保護に関連して、新しいルールなり、内規が回覧されたのか?それは本年の1月になって発効したのだろうか?まあ、ルール変更があったとしても、こんな具合の悪いことはテレビ局の方が自ら明かすようなことはせんわな・・・そんな風に思ったりしている。

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本日は一言メモ・・よりは長くなってしまったが、覚え書きという事で。

ワイドショーの誰か、その日のコメンテーターが話していた。

家庭内で一切の体罰を禁止するべきではないでしょうか。世界では躾と称する体罰は親であっても禁止する国が増えているんです・・・

確かに増えているのが現状だ。

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最近のように折檻の仕方が分かっていないのではないかと感じるような若い親たちを見ると、体罰は一切禁止という法律も必要かもしれないと思ってしまう。

が、これには大前提があるし、根本的矛盾が日本社会には残されている。

というのは、親が体罰をできなくなるとする。それでも、子供たちは他人に物を投げたり、壊したり、嘘をついたり、殴ったり、色々なことをするものだ。体罰ではなく言い聞かせることになるのだが、後になってから言ってもダメなことは経験から明らかだ。なので、自分の子でなくとも、ダメなことはダメときつく叱る世の中でなければ、子供が成長する過程で正邪善悪を学習できるチャンスが極端に減ってしまうであろう。

つまり、親であっても体罰を禁止するということは、子供の養育、人格形成は社会の責任として、みんなで見守っていきましょう、責任を分かち合っていきましょう、という社会的約束に他ならないのだ。

そんな社会的約束を結ぶ覚悟が日本人にはあるだろうか?

確かに社会全体で、許されない行動をした若年者を誰であれそれを見た人が直ちに叱責するという習慣ができれば、親による体罰よりも望ましい(かもしれない)。両親が同じことをガミガミと口先で注意し続けるよりは、赤の他人から適時適切に叱責される方が子供は素直に耳をかたむけるだろうと想像する。

しかし、現在の日本社会はそんな社会ではない。

昔はガミガミ親父があちこちにいたが、自分の子供が何かで叱られると、叱った大人をにらみつける。そんな若い親たちのほうが今の世相では普通なのである。自分の子に余計なことは言わんといて・・・そんな感覚を日本人は共有してしまっているのではないだろうか。そして、その独立独歩の家族のあり様は、小生、決して嫌いではない。

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何より将来への見通しが大事なのである。

モラルの感覚を十分に発達させることができないままに成長したとしても、日本には日本の法律があり、外国には外国の法律がある。法や道徳を守る感覚が乏しければ、意識するしないによらず、失敗を犯しがちである。

そんなとき、当初の何度かは説諭、つまり説教をされるのであるが、成長したあとでは素直に従う感覚が身についていないだろう。そこで繰り返す。すると、最後には処罰されることになる。

家庭内で体罰は禁止。他人が自分の子をたたけば暴行。それはいい。しかし、長じて法を犯して禁固刑や懲役刑を受けてしまえば、それは社会による体罰となる。そして、最悪の場合、日本には死刑がある。死刑は究極の体罰と言えるだろう。

体罰を禁止することは理念としては尊い。しかし、社会から一切の体罰を禁止することは非現実的である。加えて、日本人の多くは今なお究極の体罰と言える死刑を維持しようと考えていることは世論調査から明らかだ。

「家庭内体罰一掃」と「死刑容認」は根本的に矛盾した精神だ、と小生の目には見える。死刑容認が多数派だとすれば家庭内体罰容認が多数であるのが合理的である。家庭内体罰一掃を支持するなら刑罰として死刑を認めないのが理に適っている。両親による体罰は不可だが、公権力による処罰なら懲役も死刑も仕方がない、と。もしそう考えるなら、日本人はもはや自分の子供の養育に責任は持たないと宣言するのと同じだと、そんな風に見えてしまうのだ、な。言ってもきかないなら、もう子どもの躾は自分の手に余る、ダメなら社会がきちんと罰してくださいと。そういうことになるのではないか、理屈は。

そんな態度は親じゃあネエよ。無責任な丸投げってものですぜ、これは。ホントにそれでいいんですかい?親はいけねえが、お上なら体罰OKってことになるんですかい?親が親になれねえってんなら子供をつくっちゃあイケねえよ。そろそろ日本って国も「国じまい」すりゃあいいのサ。

ほとんど全ての親は自分の子を愛するものだ。鬼手仏心を子供に対してそのまま実行できるのは外ならぬ親であろう。社会から体罰を一切なくしてしまえないなら、子は親にこそ罰してほしい。そう思うことができる家族は決して悪い家族ではないと小生は思うし、むしろ理想型ではないかとすら感じる。それが理想だと思うなら、理想を追求するべきだ。

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家庭内の躾から体罰をなくそうとするには、日本社会の在り方を根本的に変えていくことが不可欠だ。

現時点で、家庭内の体罰禁止を法制化すれば、多くの矛盾が表面化する。持ちこたえられないだろう。

それは現在の日本人の社会に内在する問題だ。

ちなみに小生宅においては、愚息たちに体罰を加えたことが何度かある。それは筋の悪い喧嘩をした時、学級内で粗暴な振る舞いをし、もうしないと約束しながら、また繰り返した時などである。兄弟喧嘩を繰り返した時にも厳しく折檻をした。何度も口でガミガミ、ネチネチと説教するのも確かに選択肢の一つだ。しかし、それが本当に望ましいか、有効なやり方かどうか、小生は疑いをもつ。体罰でより直観的に伝えたいことを伝えられる事がある。家族が暮らす中で言葉は常に万能であるとは限らないのだ。言葉ではなく、行動でこそ心を伝えられる時がある。もうこれは自明であろう。小生は亡父の教育方針から体得した。言葉ではなく経験として、情景として、記憶するのだ。亡父の家庭内教育方針には良い所もあれば、悪い所もあった。悪い所はなるべく継承しないように努力してきた。反対に、良いと感じた所はそのまま愚息たちにも実行してきたのだ。愚息たちは幼少期のことをどれだけ記憶しているか話したことはない。中学校に上がる頃にはもう体罰よりは話す方が主になった。小生の子弟養育は満点ではないと思う。が、まあ60点台の<可>、見ようによっては<良>の成績は確実にもらえるのではないかと自画自賛しているところだ。上の愚息には「兄弟げんかをする時は年上のほうが常に100パーセント悪い」と断定し、随分辛い思いをさせた記憶がある。それは亡父、というより亡父の父親(=祖父)の方針でもあったと聞いている。まあ我が家のDNAのようなものだ。その上の愚息とは両国国技館で夏場所を観ようと相談しているところだ。カミさんも含めて三人になるだろう。愚息もそれを楽しみにしている様子である。

代替案:
体罰禁止ではなく、成熟した養育能力に欠けていると児相、家裁から判定された両親には、親権を一時制限したうえで、外部人材を養育指導員に任命する。定期的に保護観察を行い、親には養育研修の受講を義務付ける、等々。ま、「養育指導員」なる人物こそ実は怪しく、信頼できないのだという指摘もありうる。であれば、それが現在の日本社会の限界でもあり、まずは統計的観点に立って、「子は親と親類・縁族にまかせる」という伝統的方式をとり続けるしか方策はないだろう。例外的な少数例には例外的に特別対応するしかない。多くの家庭は普通の家庭であり、家族を基盤に幸福を実現できている(と思う)、とすれば多数が満足できている社会なのだろう、現代の日本社会は。

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