2011年8月10日水曜日

日本の脱原発は世界で好感されているか?

今日のタイトルは必ずしも適切ではないかもしれない。本当に総理自らが唱える自然エネルギー重視路線が、日本のエネルギー戦略として採用されるのか?色々な国が期待をもって、というか虎視眈々と、あるいは嬉々として、更にはまたハラハラとしながら、日本を見ている。そんな所ではないだろうか?

Wall Street Journalの日本版だが、「日本の脱原発 ― 避けられない国民的議論」というコラム記事が掲載されていた。要点は次の下りからも推察されよう。
温室効果ガスの25%削減に原発停止とくれば、どんなに準備万端のプランナーもお手上げだろう。しかし、この2つの発表は、2人の異なる首相によって、明らかに事前準備も通告もなく、即興で行われたようだ。
それだけでも、日本政府に対する内外の信頼を揺るがすには十分だ。実際、今週の報道は、日本のエネルギー政策が経済活動と世界のエネルギー市場に及ぼす影響について、より具体的な説明を米国が日本に求めたことを示していた。
エネルギーは、今後10年、日本経済を論じるうえで焦点となる可能性が高い。政治的迎合でも空想の飛躍でもなく、真剣な国民的議論が必要だ。日本の将来は、いかにこの議論を最後まで貫くかにかかっていると言っても過言ではない。(7月29日18:46配信)
鳩山首相による温室効果ガス25%削減も、菅首相による脱原発宣言も、何か根拠があって提示した政策ではなく、時の総理大臣の「個人的思い」なのでしょ?そう言いたげであって、そんな即興的なコメントは政策方針という名には値せず、「それだけでも日本政府に対する内外の信頼を揺るがすには十分だ」と書いている。ここまで言えるのは、やはり日本版とはいえ外国紙だからである。この一点だけでもウォール・ストリート・ジャーナルが日本版を出してくれているプラスの価値がある。本国版と日本版とではポジションに違いがあるが、端的にいって、この目線は世界どの国をとっても、いま共通ではないかと思うのだ。「一体、日本は何をどのようにしようとしているのか?」、それを外国は聞きたいと希望していると思うし、日本は海外との取引を通して、現在の豊かな暮らしを実現しているのだから、いま考えている行動計画を広く説明する責任がある。この点は、誰もが同感すると思うのですね。

上に引用した箇所の前の部分を読むと、日本を破壊するようなエネルギー戦略を、日本人自らが選択するということが、ありうるのか?そんな懸念が伝わってくる。
 菅首相の行動は、福島原発事故に対する国民の怒りを受けたものだろう。しかし、原発が停止された時、相当量の代替供給を見つけられないとしたら、首相、もしくは次期首相はどう対応するのか。さらに多くの計画をもってしても、日本の蒸し暑い夏を乗り越える家庭の電力需要は満たされないだろう。
その代替シナリオとは、日本が、世界のエネルギー市場で石油・天然ガスの調達を増やすことだ。それは、世界のエネルギー価格を押し上げるだけでなく、輸入原油への依存度を減らしてきた日本の長期的傾向を覆すことになる。企業とエネルギー会社は、エネルギー効率向上の目標にはおかまいなしに、どこであろうと供給確保に素早く動くと思われる。
この結果、日本の消費者にとってエネルギーはさらに高いものとなるだろう。政府はすでに、電力会社による代替エネルギー買い入れ費用を負担するため、消費者負担につながる補助金の上乗せについて検討している。こうしたことで消費財価格は上昇し、予想される原油価格の上昇とともに、一層の内需が必要という時に個人消費を圧迫する。と同時に、それは、急激な円高がすでに輸出企業の痛手となっているなかでの、海外での日本製品の価格上昇を意味する。(出所:上と同じ)
大震災以降、産業界で進展したサプライチェーン再構築は本当に信じられない程のスピードだった。民間部門は、常にライバル企業との競争裏にあって、自らの組織と活動の最適化を求められている。だから、経営の真の目的が<企業の存続と成長>にあると、一度び目的関数を定めてしまえば、どんな条件、どんな変化の中でも、次に下すべき意志決定はロジカルに決まってくるものなのである。東日本大震災と原発事故、そして電力危機という激烈な環境変化に対しても、日本経済の生産システムは、強靭な復元力を失ってはおらず、現場が優秀であることは昔とほとんど同じである。だとすれば、日本国がどんなエネルギー戦略を選択するにしても、日本企業はしっかりと対応する。改めてそう思うのだ。

しかし、・・・ビジネスは、詰まるところ、<何を>、<どこで>、<誰のために>、<どのように>売るか?これだけである。経営戦略はこの四点を考えている。日本企業は、<日本人の求める商品を>、<日本で>、<日本人のために>、<日本の雇用を維持するように>生産する。そんな風に経営されるとは限らない。それは条件による。資本の利益と国民の利益は一致することもあるし、対立することもある。そういうことだろう。

日本が、脱原発路線を化石燃料による代替で進めようが、自然エネルギーの拡大により進めようが、電力価格は上がる ― 税金を企業への補助金に回せば電力価格は低水準に維持できる。しかし、それは家計が極端に高い電力価格を引き受けるのと同じだ。

電力価格上昇は、日本企業には不利、他国のライバルにとっては有利に働く。しかし、東アジアなど周辺国に日本企業が移転をするに伴って、日本国内のエネルギー需要圧力は和らぐ。同時に、東アジアに移転した日本企業は、当該国の低電力コストの恩恵を受ける。周辺国のライバル企業にとって、これはマイナス要因に違いない。しかし、優良な雇用機会が増える当該国政府にとってはプラスであろう。全体としては日本企業の海外移転は、日本企業の株主にはプラスであり、従業員にはマイナス、相手国の雇用者にはプラスであり、ライバル企業にはマイナスに働く。移転した企業とは関係のない一般的日本人にとっては、エネルギー高価格から解放された日本企業が海外から輸出する低価格商品の恩恵を受ける余地が生まれる。電力市場への需要圧力が緩和される。周辺国では参入した日本企業に資源が振り向けられる。日本では流出した部門から新興産業に資源が振り向けられる。経済の重心が移動するわけだ。それが関係国にとってプラスかマイナスか、よく考えないけといけない ― 小生自身は新しいことが好きですが。

電力価格上昇と製造業海外移転の目先の影響だけをとっても、効果が効果を生み、波及が波及を生む。もちろん、日本の高い電力コストを避けて海外に移転する企業があるのであれば、高い電力コストがさほど不利にならない外資系企業が日本に流入する。そうでないと、出るばっかりじゃあ、日本も苦しいはずだ。技術が外に出るなら、日本も外から取らないと。

今月2日に宮城県庁を訪れたシュタンツェル駐日ドイツ大使と話した村井知事は次のように語ったと報道されている。
村井知事は「県の復興計画には自然エネルギーの活用促進を盛り込んだ。風力やバイオマスなどドイツ国内の取り組みを先行事例として参考にさせていただきたい」と話した。
大使はこの日、ドイツ製のバイオマス発電機械を導入している仙台市泉区の産業廃棄物処理業「新興」を視察。東北大の川内キャンパスも訪れ、学生向けに講演した。(出所:河北新報08月03日付け)
 日本が、3.11の大災害をきっかけに進める産業再編成が、周辺国には技術と資本の波となって浸透していくだろう。アメリカもドイツもその波の中にビジネスチャンスを見つけようとしている。その他の国の目線も一様に同じであろう。
 

2011年8月8日月曜日

「デフレの解決」が最優先課題なのか?

我が家では8月6日の広島原爆記念日から16日の京都大文字焼きまでの10日間を「鎮魂週間」と言っている。この間、9日の長崎原爆記念日、12日の御巣鷹山慰霊祭、15日の終戦記念日と、弔いの行事が続き、折しも一年で一番暑くもあり、求められずとも外出はせず、家の中で昔のことを思い出したり、家族で語り合うことも増えるのである。

昔、読んだ本を取り出すこともある。今日は白川一郎「内外価格差とデフレ経済」(通商産業調査会)を読み返してみた。すると、
95年春から始まったデフレ論議は、日本経済の先行きに悲観的な見通しを投げかけ、これまで取られた景気対策に加えて95年11月にはさらに戦後最大の景気対策が実施されることになった。
こんな下りが目に入り、う~ん、確かにそうだった。それで、96年には景気が急速に回復して、橋本内閣は自信を深め、構造改革路線を突っ走ったのだったなあ。97年の消費税率引き上げは景気判断がカギだったなあ。色々なことが思い出されます。阪神大震災は95年の1月17日に起こったのだが、被災面積が限定的でもあったので、むしろ復興特需のプラス面が強調されてもいた。意気消沈という感じではなかった。バブル景気は終焉したが、まさかそれが失われた20年につながるとは夢にも思わず、日本人は「まだまだやれる」と信じ切っていた。本当に、夕映えのような時代でありました。

読んだのは第1章「内外価格差とデフレ経済」で編者の白川氏(当時、立命館大学教授)自らが執筆されたところだ。
少なくとも、筆者の認識によれば、現在の価格下落は財界を問わず一般に共通した認識であった内外価格差是正のために取られた政策の結果生じていると理解するのが素直な見方であろう。
氏は経済企画庁出身の官庁エコノミストであるが、このような見方は官庁で仕事をされた人たちにとっては相当共通の目線であったようである。たとえば、2003年に出版された「日本はデフレではない―インフレ目標論批判―」(小菅伸彦)でも、概ね同様の見方が展開されている。小菅氏も経済企画庁で経済分析を担当したエコノミストである。

内外価格差を簡単に説明すれば、
内外価格差=購買力平価÷為替レート
という式で求められる。つまり、昨今のように為替レートが円高に振れた時、たとえば100円から80円にレートが変化したときには、1ドルの商品が100円ではなく80円で流通していることになる。だから、日本国内の価格も100円から80円に値引きしないと割高であることになる。この値引きは、デフレではなくて、<内外価格差の是正>である、そう認識するわけだ。

1985年のプラザ合意をきっかけに猛烈な円高が吹き荒れ、これでは日本経済は持たないということで「前川レポート」がまとめられた。その後、89年から日米構造協議が進められ、日本経済の構造を自由市場型に再編成していこうと、多くの規制緩和が実施されたわけだ。中でも流通産業の規制緩和は有効に作用して、郊外型のディスカウントストアの開店と<価格破壊>が日常的に聞かれるようになった。

読んでいると、誠に懐かしい思いがする・・・・

上の見方はほとんど正しいのだが、「待てよ」という点がないこともない。デフレと称していた日本の物価下落は、割高であった日本の商品価格を世界水準に是正していただけであったのか?悪い所を治していたのだから、良くなってきたはずですよ。これは現実感がある説明だろうか?

この20年間、世界市場で安くなってきたのは、どこでも製造できる工業製品だ。世界で安くなっている物は日本でも安くならないとおかしい。日本では、特別に割高な価格で販売できると考えた製造メーカーのほうがおかしかったのだ。だから流通を自由化して価格破壊が進んだ。これはよい。しかし、割安になった商品があれば、割高になる商品もあるはずだ。高い、安いは比較の問題なのだから。

アメリカでは、金融、教育などの専門的サービスの価格が非常に高くなった。モノには金を払わないが、知識・技術には金を払うという「知価社会」の時代だ。だから価格の合計指標であるGDPデフレーターも、アメリカでは下がっていない。日本では、GDPデフレーターが下がっている。それは、日本では高くなるべき商品の価格が十分高くならなかったためである。それは、高く売れるはずの商品が開発されなかったから?開発できなかったから?学力低下のため?それとも、本来、もっと高く売れるのに政府が価格を規制しているから?事情は様々である。

アメリカのサービス価格が日本のサービス価格より高いなら、アメリカ人は日本人の同じサービスを買うはずだ。日本人がアメリカ市場に出張って行って、そこで営業すれば、繁盛するはずだ。そういう理屈が働いていない。国境という壁は、日本を外国人から守るためだけではなく、日本人の対外進出を抑える働きもしているのです。いずれにしても、結果として、世界市場におけるMade in Japanに対する評価が、全体として下がり続けた。「負け犬商品」があれば、「金のなる木」を育てるのがビジネスの鉄則だ。金のなる木が育ってないから、どこをみても負け犬だらけだ。あけすけに言ってしまうと、こんなことではないだろうか?だとすると、話しはデフレであったとしても、それは単に内外価格差の是正ではすまないだろう。

もし金融立国で繁栄を謳歌していた時のニューヨーク、いや香港でも、シンガポールでもいい。国際的に信認が確立された巨額の円資産と優良顧客を持っている日本の銀行を世界のM&A市場に提供していたら、いま現在の日本はどうなっていたであろう?それは波乱や不安はあっただろう。しかし、日本が、今後半世紀、たどるに値する未来予想図が、今時分は誰の目にも見えていた頃ではないのかな、と。少なくとも純債務国アメリカに資金を預けて、ドル安で大損を何度もしながら、それでも「アメリカ国債は安全です」と忠義を尽くす、それよりは日本に営業拠点を開いてもらって円資産を有利に運用してもらったほうが良いではないか?金融商品開発のノウハウも移転されるではないか?日本から中国に流出している技術があるなら、日本だって取る技術がないと、苦しいではないですか?どうせ外国人に資金運用を委託するのであれば、NYや香港でやってもらうより、東京でやってもらうほうが、多くのプラスがあるだろう。課税だって出来るのだから。そう思うのだが、いかがだろう?


2011年8月7日日曜日

日曜日の話し(8/7)

社会科学では人間を理性的存在と前提して、全ての人が合理的に行動する行き着く果てはどうなるのか?こんな問題を考えるために100年以上の時間を費やしてきた。ごく最近は少し変化が出てきたが。

しかし、人間は同時に情念の存在でもある。それに、理性でとらえられる範囲などたかがしれている。直観も必要だし、育ってきた環境というか個人的経験がその人の判断を左右する度合いも高い。

結局、ここに居て、こうして生きている以上、これありきとして物事を決めていくしかないであろう。特に先の読めない混乱した時代では。

そんな時、人はモラルを求める。倫理を求める。生き様を求める。小生は、画家カンディンスキーが何故か ― 法律、経済、統計を最初に研究してから美術の道を選んだという生き方に親近感を感じるという点もあるのだろうが ― 好きだが、生き方としては、「それで良かったのでしょうかねえ・・・・」と質問をぶつけたい所も多々ある人間だった。いやあ、一度、直接聞いてみたいですよね。あれで、ほんとに、良かったんですか?

カンディンスキーは、晩年になって、第一次大戦前にドイツで青騎士グループを旗揚げしてからの十数年が、一番輝いていた、そんな風に追憶していたそうだ。その時分、彼と同棲し ― 婚約していたと言うべきかもしれないが、彼にはロシアに残してきた前妻がいた ― お互いを支え合った女性が(ドイツでは大変有名な)ガブリエレ・ミュンターであったのだな。カンディンスキーがドイツで始めた画塾ファーランクスに入ってきた弟子でもあった。ま、早い話が生徒に手を出してしまった・・・・そう言ってしまっては身も蓋もないが、誠に純愛であったのでしょう、彼女がカンディンスキーと別れ、背信に直面しながらも、ずっと最後まで守り通したものを見れば。

 Muenter, Wassily Kandinsky, 1906

Kandinsky, Gabriele Muenter, 1905

 Muenter, Kandinsky am Harmonium, 1907

Kandinsky, Murnau, 1909

Muenter, Olympiastreet at Murnau, 1936

画風は微妙に違うが、一目瞭然にして、師弟である。画題に何度も登場するムルナウとは、ミュンターが住まいを構えた村であり ― カンディンスキーはロシア人であったので ― 二人はそこで第一次大戦まで暮らしたのである。

第一次大戦が勃発して、敵国人であるカンディンスキーは、ドイツを避け、ロシアに戻らざるをえなくなった。二人が旧縁に服することはなく、カンディンスキーは、ロシアに戻ったあと、別の女性と結婚した。一番下にある絵は、ずっと後年になってからミュンターが描いた作品である。第2次大戦後の1957年、自身の80歳の誕生日に、ミュンターは保管していた絵をミュンヘン市に寄贈した。寄贈した絵の中にはカンディンスキーの作品80点以上が含まれ、その他にグループ青騎士で活躍した若い画家たちの作品がまとまった形で残されていた。現在、ミュンヘン市立レンバッハハウス美術館が世界的に著名であるのは、そのためである。

生きるという事業と為すべき仕事を連立方程式としてみると、これは永遠の難問であるなあ。小生はずっと解けずにいるのです。そもそも、この連立方程式には解はあるのかってね。

それにしても、彫刻家ロダンとカミーユ・クローデルといい、画家マネとベルト・モリゾもそうだが、直ちに映画化をしてもおかしくない人生模様が、西洋には数多ある。ところが、日本ではこうした風景があまり見受けられないような気がするのだ。

女流芸術家としては、日本画では上村松園、片岡球子のような人はいる。真摯で真面目であり、大成した人たちである。洋画では三岸好太郎の妻であって三岸節子女史あたりか。しかし三岸好太郎は、余りにも若く30歳で他界しているし、節子は節子であって、彼女のその後の人生にそれほど深い縁を残したとも感じられない。佐伯祐三の妻であった女流画家佐伯米子はどう?佐伯の作品を守り、愛と煩悩を生きたという側面では極めて近いかなあ。しかし米子は祐三の背信を経験したわけではない(と思う)。美術界以外ではどうだろう?三島由紀夫の弟子だった村松英子女史はどう?人生の縁というか、似てるかなあ・・・でも、まあ小生も御本人から直接話しをうかがったわけではないしね。

とまあ、こんな風なのであり、今のところ日本人美術家から感じるのは、(特に洋画においては)勉強というか、仕事としての美術活動であって、創造を通した<生のあり方>が心的エネルギーとなって迫ってくる。そんな感覚を覚えたことは、(小生の専門分野ではないので熟知していないだけなのだろうが)残念ながら、一度もないのである。


2011年8月6日土曜日

リンク集 ― 国際的な債務問題

7月末から8月初めにかけて、世界の話題は借金問題であった。リーマン危機を引き起こしたのも、元々は民間事業者の借金問題。今度は国民経済を救おうと、カネを借りて借金を肩代わりした政府が、その借金で首が回らなくなった。「政府は返せるのか?」。つまりは、同じカネの問題だ。バブルで浮かれ騒いだツケを政府に回して、政府がフラフラになっている。図式はそういうことだ。

やれやれ、政府が借金の肩代わりをするなど、しなければよいのです。

19世紀初め、薩摩藩は想像を絶する財政危機に陥っていた。どの程度、酷かったかというと、負債が約500万両、年間利子は60万両。これに対して、藩の歳入は約15万両。今でいう債務残高の対GDP比で測れば、何と33.3倍。パーセントなら3333%である。

現在の日本国政府は、2011年で213%。世界一である(先進国では)。日本がトップを占めるなど、そうあるものではない。これでも日本経済は冷静沈着に回っている。国債暴落パニックになど陥ったことはない。立派なものではないか。数字自体、幕末期薩摩藩の自暴自棄的というか、どうにでもなれというか、上の数字に比すれば「可愛いねえ」とすら言えるであろう。

薩摩藩の家老調所広郷が採った再建策は高校の授業でもとりあげられる題材だ。ズバリ、一言。<踏み倒し>。いや、踏み倒しと言ってしまうと、あの世の調所さんに叱られる。「返さない」とは言ってない。そうではなく、借金を無利子250年分割払い(つまり2085年まで)にした。壮大なリスケジュールである。新返済スケジュールがまだ有効であれば、今なお元本償還の途中である。いま世界で不安視されている債務問題はソブリンリスク。つまりは、徳川幕府が何を血迷ったか、「薩摩藩は外様の雄藩、金子が足らぬなどという事情で薩摩藩が立ち行かなくなれば、これすなわち幕藩体制の危機。御公儀の危機。ほうっては置けぬ」などと言い出して、幕府がカネを借りて、代わりに払ってやる(債権の一部は放棄させますけどね)。こんなことをすりゃあ、もっと早く幕府は瓦解していた。もちろん、そんな意志は幕府にはなかったし、そんな責任もなかった。幕府は、要するに、徳川家であり、島津家とは違う<私的存在>だ。ところが、現代世界の政府は民主主義社会における<公的存在>。最終的なリスク引受主体として振る舞う。そういう<責任>があるというか、少なくとも期待されている。いざとなれば、国民に対する全面的徴税権を有しているから。ここにソブリンリスクの根本的背景がある。

で、ギリシア危機、アメリカ債務上限引き上げ騒動になったわけである。

第1幕目は国債市場と言う金融問題であったが、第2幕は財政緊縮と増税という財政再建が主題となる。そういうシナリオだ。日本国民もそう思っているのですけどね。日本では演出がグダグダしているようで。

まず、この辺の見方について、日本人の目で見た意見。「牛さん熊さんブログ」から

米債務問題に置ける茶会の影響(牛さん熊さんブログ)


さて、アメリカの債務上限引き上げと財政健全化をめぐる今回の与野党合意については、色々な評価がある。

積極派は
アメリカの将来にとって間違ったやり方(Project Syndicate, Michael Mandelbaum)

オバマ大統領の果たした役割をこのように見る向きもある。
喜劇役者オバマ(Paul Krugman)

日本の白川日銀総裁も劇中のプレーヤーであった。これは読めなくなるかもしれないので、主な部分を引用しておこう。
Last week Bank of Japan governor Masaaki Shirakawa claimed that Europe’s sovereign crisis and the impasse over the debt ceiling could trigger a rise in government bond yields the world over. 
However, Mr Shirakawa skipped over just how events in Europe and the US – which bond markets view very differently – could lead to soaring yields elsewhere.
The New York Federal Reserve to the rescue. In a note published on Monday on its Liberty Street Economics blog, Vivian Yue and Leslie Shen argue an unexpected rise of 1 per cent in long-term US bond yields can lead to a 0.14 per cent to 0.19 per cent rise in bond yields in Germany, Japan and the UK.
(出所)Financial Times,August 1, 2011
欧米の国債危機が、安全と見られているドイツ、英国、日本の国債市場に波及することは経済の理屈として当然頭に置いておかないといけない。最終的には円でカネを持ちたい日本人が、外国の国債に投資するときには、為替リスクを負担しないといけない。そのリスクがいやなら、最初から先物で円転しておかないといけない。そうすると、利回りは日本国内の低金利とそれほど変わらない。かといって、元やルピーにヘッジなしで投資するのは怖い。しかし、金なら、どう?円はどうなるか分からないし、ほとんどゼロ金利。同じゼロ金利なら、最も安全なのは日銀券じゃなくて、ゴールドでしょう。

金は、新興国も買っている。多分、投機ではなくて、ずっと持つために買っているのだろう。もうドルには戻らないであろう。

先進国の債務問題と新興国の高度成長について(Economists' Forum)

国債が国内で消化されているのなら、何の問題もないのだろうか?外国にカネを借りているなら返す時に資金が海外に流出する。「国民の可処分所得はその分減る」。これは正しいのだろうか?

これは間違いである。所得は、生産水準から決まる。自動車や鉄鋼メーカーの経営者と従業員の目線に立てば容易にわかることだ。借金を返すために、残業を続け、その代わりに「働けど、働けどなお、我が暮らし・・・」という経済状況はある。そもそも借金を返す元手は所得の使い残しであって、<貯蓄>ができなければ借金は返せない。借金返済は、投資と同じである。借金返済で所得が減るのではなく、所得の大部分を債権者に取られてしまうのである。所得は消費と貯蓄に分けられるが、貯蓄を先取りされて、消費が減るのだ。だから生活水準が落ちる。

国債を国内で消化するかしないかは、その取る人が日本人か、外国人かの違いである。カネを取った人が、日本製品を買ってくれれば、需要を維持できるので、日本人の所得は落ちない。返せるのである。日本人が返済を受けても、その日本人が外国品を買えば、カネは流出するのである。

低成長・国債膨張を続けている先進国では、増税、経営資源の流出が予想される。資本は海外に逃避するだろうが、成長を完了した新興国の政府は、先進国の財産持分権を抹消して、先進国資本家に流出するカネを収納する誘因を持つだろう。誘因がある以上、放っておけば必ずそうすると考えておいたほうがよい。言うまでもないが、経営資源が流出すれば国債償還は難しい。流出した分、海外から入ってきてもらう産業分野を作らないといけない。

先進国は、新興国のそうした選択を先読みして、最適な世界戦略を選択しておくべきである。

最後に、アメリカのお気楽な見解を(内容は真剣です)。

アメリカ国債は格下げなんですって?(タイトルを筆者がつけるとすれば)
 I’m not sure how markets will respond, and I don’t think that an alarmist reaction about the market would be appropriate. A letter grade is a letter grade and the facts on the ground did not change today. It may or may not lead to a major sell-off. Still, years from now today may well be seen as a turning point of significance.
If this really does happen, let’s hope it serves as the needed wake-up call. If it doesn’t, well, back to…
今回のアメリカ与野党合意の後、アメリカ国債の格付けは現状据え置きとなった。ネガティブな方向だけが付け加えられた。でも・・・・いずれは下がるのでしょうねえ。こんなところだろう。これ以上のことは大統領といえども、成し遂げられなかった。しようがないよね。そういうことだろう。

8/6 15:35 追加:
本日正午前、S&Pが米国債格付けを引き下げた旨、報道された。先日、Moody社は現状据え置きにしたが、判断が割れた。日経は以下の報道をしている。
【ニューヨーク=西村博之】米格付け会社スタンダード・アンド・プアーズ(S&P)は5日、米国債の長期格付けを最上位の「トリプルA」から、「ダブルAプラス」に1段階引き下げた。同社が米国債を格下げするのは1941年の現行制度開始以来初めて。S&Pは「米政権と議会が合意した財政健全化計画が、政府の中期的な債務構造の安定に不十分と判断した」としている。格下げはドルの信認にも影響が出る可能性が高い。(出所)日本経済新聞WEB版、8月6日11:14配信
週明けの東京市場は大荒れとメディアは予測している。来週開催予定のFOMCでFRBがどんな対応をするかが焦点になっているのが今の状況だ。


2011年8月4日木曜日

日本化って世論への迎合のことですか?

英誌The Economist、7月30日号の特集テーマは<日本化(Turning Japanese)>だ。この記事の内容が日本の新聞でも続々と紹介されている。The Economistが使っていた下のカットを見た人も多いだろう。

ご覧のとおりオバマ米大統領とメルケル独首相が(古き良き時代の?)の日本人と化している。どうやら最近世を騒がせた世界同時国債危機。その危機に直面した首脳たちがとった行動は、エコノミスト誌の目には、「まるで日本人のようではないか」、そう思わせるものであったらしい。どこが?日本紙はその辺を「リーダーシップの欠如」と極端に要約して紹介している。とりあげるのは良いが、オリジナルはどんなことを書いていたのか、ある程度までは正確に紹介した方がいいようにも感じたのである。

リーダーシップが欠けている=日本化、というこの等式。まあ、これについて、我々日本人にさほど異論はないのだが、何故にリーダーシップが発揮できないでいるのか?この原因分析が非常に面白い読ませ所であったのだ、オリジナルは。ここでは、それを覚書までに、書き留めておきたい。

エコノミスト誌が、結論として言いたいことは次のことだ。
Now the politicians have become the problem.... Even if the current crises abate or are averted, the real danger persists: that the West’s political system cannot take the difficult decisions needed to recover from a crisis and prosper in the years ahead.
要するに、今回の方策や合意は痛み止めであって、単なるその場しのぎ。本当の問題は何も解決されておらず、為すべきことから逃げている。一番そう言いたいわけだ。ま、そうだろうね、専門家も余り評価していない。

その後、ヨーロッパとアメリカに分けて、本当に解決するべき問題は何なのか、結構詳細に論じている。しかし、今回の特集記事全体の勘どころは、次の下りであると小生はみた。
In both Europe and America electorates seem to be turning inward. There is the same division between “ins” and “outs” that has plagued Japan. In Europe one set of middle-class workers is desperate to hang on to protections and privileges: millions of others are stuck in unprotected temporary jobs or are unemployed. In both Europe and America well-connected public-sector unions obstruct progress. And then there is the greatest (and also the least sustainable) division of all: between the old, clinging tightly to entitlements they claim to have earned, and the young who will somehow have to pay for all this.

Sometimes crises beget bold leadership. Not, unfortunately, now. Japan has mostly been led by a string of weak consensus-seekers. For all their talents, both Mr Obama and Mrs Merkel are better at following public opinion than leading it.

The problem lies not just in the personalities involved, but also in the political structures. Japan’s dysfunctional politics were rooted in its one-party system: petty factionalism has survived both the Liberal Democratic Party’s resounding defeat in 2009 and the recent tsunami (see article). In America’s Congress the moderate centre—conservative Democrats and liberal Republicans—has collapsed, in part because partisan redistricting has handed over power to the extremes. In Europe national politicians, answerable to their own electorates, are struggling to confront continent-wide problems.
<日本化>(=日本病への罹患)という時に、最もそれを特徴づける症状。それは様々の"ins"と"outs"。要するに、利害集団に分断された党派対立。仲間とよそ者を区分する派閥行動が社会全体の知性と活力を奪いつつある。これが日本病の本質だとエコノミストはみているわけであって、この認識は小生も全くもって同感なのである。

欧州には既得権益を手放そうとしない中流階層がいる。それに対して、非常に多くの人たちは規制で守られていない臨時雇用者(=非正規労働者)である。アメリカでもヨーロッパでも公共部門の労働組合が社会の歩みを止めている。そうして最大の利害対立。それは高齢者と若年層の対立である。社会からカネをもらう権利があると(何故か)信じている集団と、そのカネを(実際には)負担している集団である。

社会が危機に直面すると、しばしば大胆なリーダーシップが発揮されてきたのであったが、今は違う。日本では、社会が危機に陥っているにもかかわらず、合意ばかりを尊重するひ弱な政治家が、もう何人も交代してきている。アメリカもヨーロッパも政治家がやっているのは、これと同じであって、今や彼らはRent-Seeker(レント・シーカー=既得権益追及者)ならぬ、Consensus-Seeker(コンセンサス・シーカー=合意追及者)である。オバマ大統領もメルケル首相も、社会に問題解決への道筋を指し示すのではなく、世論に従っている。指導者のこの姿勢が、社会をより重大な危機に誘導している。そんな危機感がエコノミスト誌には溢れているのであって、小生はこの点をこそ、紹介してほしかったと思うのだ ― 世論アンケートばかりをやっている日本のマスメディアとは矛盾する感性ではありましょうが。

問題を解決できないでいるという<危機>は政治家自身の人柄によるものではない。政治システムに原因がある。日本の政治システムは、ずっと一党体制であった点に今日の機能不全の原因がある。一党体制の中で日本の政治を切り刻んだ党派主義が、自民党を打倒した民主党にも、遺伝子のように伝わってしまっている。同じ症状がアメリカにも認められるようになった。民主党右派と共和党左派から構成される中道は、党派的利益に沿った選挙区割りをきっかけに崩壊し、その後には極端な言動をはいては注目を集める政治家が台頭した。ヨーロッパの政治家はヨーロッパ全体の利益を考えなければいけないのだが、実際には自国の選挙民の願望に応えようとしている。

考察がここまで進んでくると、<日本病=リーダーシップ欠乏症>という認識は、外見の症状だけをみた漢方的臨床診断であることが明らかだ。日本と類似の症状を呈してきたアメリカ、ヨーロッパの政治機能不全。もっと本質的な病因がある。それは政治の構造にある。その構造が様々の党派主義に浸食されている。まるで<思想的ウィルス>の発見でありますな、この認識は。病気の原因を微生物に求めた近代医学の視線である。こうした議論の進め方、本当にセオリティカルであって、小生はヨーロッパ的知性の香りというか、悪く言うと臭いを感ずるのだ。どちらにしても、日本がとか、アメリカがとか、欧州がとか、のような個別特殊的な議論をするのではなく、共通の原因による一般的な<政治的病気>であるという認識。そこから解決への方法を考え出そうとする態度。いや、全く流石に科学が根付いている国の雑誌である。この辺り、編集の本質が違うと思うのだ。

水俣病は日本の風土病かと思いきや、それには特定の化学物質が体内に吸収、蓄積されていたという原因があった。その原因が存在すれば、世界のどこでも水俣病は発生する。日本を特徴づけたリーダーシップ不在。それは日本特有とも思われたが、同じ要素が社会に導入されれば、日本以外のどの国(先進国限定か?)も同じ症状を呈する。

社会的医師の眼ではないか。やっぱりシャーロック・ホームズが誕生した英国の経済誌であるなあ。日本紙の紹介はどこか感性が日本的で、まるで翻訳で読む「シャーロック・ホームズの冒険」のようであったのは仕方がない。そんな印象を覚えたのである。

2011年8月2日火曜日

円高介入を正当化する論理は何か?

市場のことは市場に聞いてください。通貨・金融当局の責任者は常にこう言っている。為替相場もそうである。

円の対ドルスポットレートが、今日、どのような水準になるか、それは市場に参加する主体が自由に判断して取引するべきで、その大勢から相場が決まってくる、それが理想であって、当局の思惑から特定の相場を維持しようと市場に介入すれば、かえって不適切な為替相場を導く原因になり、経済にマイナスの影響を与えるし、しかもまた当局の本音が伝わらず、市場の乱高下をもたらす可能性すらある。

要するに、当局の介入に何も良いことはない。それがオーソドックスな経済学の標準的理解であって、市場介入のセオリーなど統制経済ならいざしらず、そんなものはない。そのように小生は理解してきた(国際金融の専門家ではありませんけどね)。

にも関わらず、日本では円高になると政府・日銀による市場介入が常に期待される。「市場はしょっちゅう間違うのだから、政府が正しい方向に導く必要があるだろう」、まあ以前はそんな風に考えられていたような気もする。現時点では、介入をするにも、もう少し意識が違ったものになってきているとは思うが。

アメリカの債務上限引き上げにケリがつき、外為市場もドル高に振れ、株式市場も上に振れたのだが長続きしない。今度は、アメリカ国債の格下げが心配になってきたというのである。

やれやれ・・・格下げくらい予想できていたのではないですか?そのくらい、織り込んでおきなさいよ、確実なんだから、と。本当に金融市場は情報を効率的に処理している<効率的市場>なのですか?そう思ってしまいます。

下は円の対ドルスポットレートのグラフである。月中平均をとった。青い点線は、日本と外国の物価で修正した実質レートである ― 日本がデフレ、外国がインフレなら、外貨建ての日本製品の価格は上がってしかるべき、つまりレートは円高にならないといけない。レート一定なら、実質的には円安になる。実質レートは日本製品の真の競争力を示している。

(出所)日本銀行「各種マーケット関連統計」サイトで作成

図をみると、名目レートには一貫して円高(目盛りは逆目盛りで上が円高を表す)傾向が認められる(本日追加:赤の実線、左目盛、逆目盛)。名目レートを、たとえば日本の通貨当局の思惑で一定方向へ誘導するなどは、所詮無理なことであろうというのは、上の図のありようからも分かると思うのだ。

そもそも為替相場の決定に当局が介入したところで、(統計的に有意な)影響を及ぼせるとは考えられない。

実質レート(本日追加:青の点線、右目盛、順目盛)を見ると、2000年代に入って実質円安の傾向が続き、日本製品の国際競争力は一貫して改善されてきたこともわかる。実質円高へと方向が変わってきたのは、ごく最近である。それでも1990年代に直面した状況に比べると、まだまだ実質円安である、という点は否定できない。

それなのに、何故にいま緊急市場介入なのですか?日本経済新聞には<円急騰、緊急対応へ>、「政府介入を準備」、「介入、米も容認姿勢」。まさに出動要請をしている観がある。う~~ん、正に財界本流支持メディアの面目躍如たるものがある・・・

ロイターでは
[東京 2日 ロイター] 野田佳彦財務相は2日午前の衆院財務金融委員会で、外国為替市場で円高が進行していることについて、米債務上限引き上げ問題など対外要因によって「思った以上に強く評価されている。日本経済のファンダメンタルズを反映しているとは思えない」とし、「特に今日は市場動向を注視したい」と語った。
為替介入については「コメントしない」としたが、日銀や各国通貨当局とコミュニケーションを「しっかりとっている」と語った。茂木敏充委員(自民)の質問に答えた。
また、野田財務相は、赤字国債発行の前提となる特例公債法案が成立しない場合に予算執行が困難となるタイミングについて「10月にその危険性が極めて高まる」と述べ、「そういうことにならないよう、今国会中の(法案)成立が大事だ」と理解を求めた。
溢れかえるような危機感はないようである。どちらかと言えば、淡々と伝えている。数字としては、特に「未曾有の国難」とは、とても世界に向けては言えないなあ・・・数字はそんな数字だ。

ただ、当局の市場介入が正当化される場合もあると、最近小生、考えるようになった。というのは、マネーの投機をどこまで許容するか、である。

<市場>が信頼されているのは、適正な価格を探しだして、その価格を低コストかつ効率的に市場で成立させることによって、社会経済全体の円滑な運営に寄与するからに他ならない。だから、個々の取引に政府が権力的に介入することは有害だと見なされる。

しかし、最近目立つ現実は、マネー増殖を願う投資家が新興国の株式市場に乱入したかと思うと、石油、その他の資源、農産物を対象に投機売買を行う。そこで市場価格を乱高下させたかと思うと、今度は石油市場からは逃げ、金に向かう。そうかと思えば、今度は円通貨を買う。マネーが奔流というか、暴走族のように流出入する。それに伴って経済の実態たる市場価格は激しく変動する。価格変動を激化させること自体、リスクの高まりをひき起こしている。ここだと思うのですね。

下の図は、円の対ドル・スポットレートの対前月比を描いたものだ。目盛りは逆目盛りで上がマイナス、下がプラスである。平均線を水平に引くと、少しマイナス側に引かれる。これは数字としては、レートが低下する、つまり名目レートは長期円高傾向にあったことを意味している。


図をみると、1980年代半ばのように激しくレートが変動した時期があったかと思うと、それほど変動しない平穏な時期が交代してきていることが分かる。ただ、ずっと横にたどると、この期間は変化率がプラス、この時期はマイナスという風に、「円高の時期」、「円安の時期」が明瞭に現れているわけではない。

小生が思うのは、通貨当局は<高さには無力>だが、<ばらつきを抑える力はある>。そんな風にもみてとれるのですね。言い換えると、通貨当局の介入は、速度制限をあからさまに無視した悪質な暴走車を抑えるくらいの効力はある。それで十分ではないか。暴走を抑制するだけで状況はうんと改善される。そんな見方をするようになっている。

これは不必要なリスクを消し、金融機能を健全化し、事業投資の冷え込みを回避することにより、経済の実態にプラスの貢献をする。このロジックはありうると思う(データに基づく検証は必要だが)。このような市場介入は、価格水準に対する介入ではないし、いわば暴走の取締り。誰はばかることなく、大いにやってほしいのである。

今日は久しぶりに日本経済新聞シンパの意見を、結論としては、述べることになった。

2011年8月1日月曜日

摘めるリスクはリスクではない

アメリカ債務上限引き上げ問題は、どうやら与野党が合意し、一件落着(?)となった。「そんなに心配することはないですよ」、「でも、もしダメだったら大変でしょう?」、「大丈夫だって!」、とまあそんなやりとりが、色々な所であったと思うのだが、今日の株価が上げているのは安心したからであろう。

そんな状況で、週明けの今日、何を書くかなあ・・・細かな数字を覚え書きに書きとめるのも面倒だなあと、例によって日本経済新聞の朝刊をパラパラとめくっていた。すると、また「これは書いておかずばなるまい」と思わせる解説記事があったのだな。別に、日経本社に含むところは決してないのだが、<リスク>を直視する眼差しの弱さが垣間見えるような気がして、「危ねえなあ」と感じた次第。

朝刊5ページに「中国の安全、なじれぬ日本 ― リスク摘む司令塔の不在」という解説記事が掲載されている。そこに
消費者は放射能のリスクゼロを求めて牛肉など食品検査の厳格化を望む。生産地の自治体などが安心を買うため全頭検査に踏み切る事情は無理もない。全頭検査を否定するつもりはないが、それが本当に安全の確保につながるのか疑問だ。
(中略)
むしろ対策の手抜かりに泥縄的な対策を重ねる中で、ヒトやカネを投じるべき本当に大切な安全対策が見落とされはしないかと心配になる。
本文を読みながら、「全頭検査かあ、そう言えばアメリカからの輸入牛肉をめぐって狂牛病騒動があったなあ・・あの時も日本は全頭検査を求めたっけ。アメリカ側はそれは科学的ではないし、不合理だと返答して、日本側の不興を買ったのだったなあ」、そんなことを思い出した。と、どうやら本日の筆者は全頭検査はやり過ぎであるから、もっとコストベネフィットに沿った合理的な手法を考えるべきであるという、そういう方向で考えているのではない、寧ろ反対で全頭検査にまで追い込まれる前に、システムとして安全対策を徹底しておくべきではないのか、そんな主張のようにも解釈されてきたのだ。

そう言えば、<リスク・ゼロ>という言語表現も文中で使われているし、理想状態においては<リスク・ゼロ>を達成しようと努力するべきだ。基本的立場はそれではないか。そう思われたのだ。

もちろん努力目標として<リスク・ゼロ>を置くことに反対があるはずがない。ゼロの方が良いに決まっているから。

しかし、小生、思うのだが、消せるリスクはリスクではない。消せるリスクを放置するのは、怠慢であり、つまりは経営戦略が最適化されていない。ただ、それだけのことである。どんなに合理化に努め、最適化に努めても、消せないリスクがある。そのリスクは、たとえば取り組んでいる事業特有の確率的性質から決まってくるものかもしれないし、マーケットの本来的不安定性に基づくものもある。一口に言って、リスクとは<悲しい誤算>であって、リスクあるところ<嬉しい誤算>が隠れている。

ベンチャー・キャピタルは、創業まもない起業家を支援するファンドなのだが、アメリカでも貸し倒れが8割を越えるという。ほとんどは失敗になるわけだ。全員の夢を叶えてあげることはできない。失敗する人は、成功する人の肥やしになる。文字通り<葉っぱのフレディー>の生命観です。どのプロジェクトがうまく行くか分かっていたら、誰も苦労はしない。少数でも未来に通じる道を見つけるから、後に続く者が助かるのである。社会はそうやって進歩してきたのではないですか?自分が負け組になったらどうする?暗転したらどうする?敗軍の将、兵を語ればよいのである。志を後続者につないでいけばよいのである。中国鉄道省も、敗因を率直に語ればよいのである。東電にもそれを語ってほしい。そういうことではないか?

本ブログにも投稿した<確実な議論をしましょうよ症候群>。1983年にオランダのPhilips社はCD製造工場をアメリカに建設するべきか迷っていた。まだまだCDというメディアが、マーケットに受け入れられるかどうか、定かではなかったからだ。「1年待とう、市場の動きがもう少し明らかになってからでも遅くはない」。で、待ったのだが、待っている間にSONYが先に建設した。そうなると、後からノコノコ出て行っても乱売合戦になるだけだ。フィリップスがアメリカに進出したのは、ソニーの工場がフル操業になってからのことである。相撲のように、「さあ、時間です、にらみ合って」、そんな勝負をしているわけではないのですね。どうやって生活を守り、仕事を守りながら、競争に勝って、国民、民族が生きていくか?それがテーマなのであって、それには何をしなければならないのか?リスクはどの位あって、リスクが顕在化する時はどうすればいいのか?その議論をしないといけないわけだ。リスクに満ちた現実世界に、安全ネットを張りめぐらせて、それで日本国民がリスク感覚を失って緊張の感覚への耐性を喪失したら、それこそ最大のリスクになるのではあるまいか?

欧州もアメリカも、ここまでやってくるのに七転八倒してきたのが現実である。フランス政府は、現在は第5共和制である。戦後になってドゴールが一度身を引いたのだが、アルジェリア紛争に手を焼き、クーデターが勃発して、ドゴールが政権に復帰し、新憲法を公布した。それまでの第4共和制は10年ちょっとの寿命でしかなかった。ドイツに占領されるまでは、第3共和制だった。その政府は、ドイツとの普仏戦争に敗北し、パリは徹底抗戦したのだが、市民に銃を向ける「血の一週間」を経て発足したのだ。まあ、フランスの歴史を書くつもりもないが、戦後日本が神武景気を謳歌した直後である1958(昭和33)年という時点において、先進国フランスではクーデターが起こっていた。憲法なんて、バッタバッタと取り換えている。意外ではありませんか?そんなバイタリティ、日本に残っている?・・・それが一番心配なのだ。

アメリカ合衆国憲法は修正27条まである。「1789年の憲法制定以来、1万件以上の修正案が議会に提出された。最近の数年をみても、毎年100件から200件が提出されている。」、ウィキペディアをちょっと調べても、国の仕組みと憲法をめぐって、喧々諤々の論争が常にある。国家社会はどう転んでいくか予想などつかない。これが世界の現実なのではありませんか?

リスクや危険はゼロにはできません。リスクがゼロだという時は、リスク感覚を喪失したからであって、それが最も怖い最大のリスクである。小生はそう思うのだが、どうだろう?