2011年8月7日日曜日

日曜日の話し(8/7)

社会科学では人間を理性的存在と前提して、全ての人が合理的に行動する行き着く果てはどうなるのか?こんな問題を考えるために100年以上の時間を費やしてきた。ごく最近は少し変化が出てきたが。

しかし、人間は同時に情念の存在でもある。それに、理性でとらえられる範囲などたかがしれている。直観も必要だし、育ってきた環境というか個人的経験がその人の判断を左右する度合いも高い。

結局、ここに居て、こうして生きている以上、これありきとして物事を決めていくしかないであろう。特に先の読めない混乱した時代では。

そんな時、人はモラルを求める。倫理を求める。生き様を求める。小生は、画家カンディンスキーが何故か ― 法律、経済、統計を最初に研究してから美術の道を選んだという生き方に親近感を感じるという点もあるのだろうが ― 好きだが、生き方としては、「それで良かったのでしょうかねえ・・・・」と質問をぶつけたい所も多々ある人間だった。いやあ、一度、直接聞いてみたいですよね。あれで、ほんとに、良かったんですか?

カンディンスキーは、晩年になって、第一次大戦前にドイツで青騎士グループを旗揚げしてからの十数年が、一番輝いていた、そんな風に追憶していたそうだ。その時分、彼と同棲し ― 婚約していたと言うべきかもしれないが、彼にはロシアに残してきた前妻がいた ― お互いを支え合った女性が(ドイツでは大変有名な)ガブリエレ・ミュンターであったのだな。カンディンスキーがドイツで始めた画塾ファーランクスに入ってきた弟子でもあった。ま、早い話が生徒に手を出してしまった・・・・そう言ってしまっては身も蓋もないが、誠に純愛であったのでしょう、彼女がカンディンスキーと別れ、背信に直面しながらも、ずっと最後まで守り通したものを見れば。

 Muenter, Wassily Kandinsky, 1906

Kandinsky, Gabriele Muenter, 1905

 Muenter, Kandinsky am Harmonium, 1907

Kandinsky, Murnau, 1909

Muenter, Olympiastreet at Murnau, 1936

画風は微妙に違うが、一目瞭然にして、師弟である。画題に何度も登場するムルナウとは、ミュンターが住まいを構えた村であり ― カンディンスキーはロシア人であったので ― 二人はそこで第一次大戦まで暮らしたのである。

第一次大戦が勃発して、敵国人であるカンディンスキーは、ドイツを避け、ロシアに戻らざるをえなくなった。二人が旧縁に服することはなく、カンディンスキーは、ロシアに戻ったあと、別の女性と結婚した。一番下にある絵は、ずっと後年になってからミュンターが描いた作品である。第2次大戦後の1957年、自身の80歳の誕生日に、ミュンターは保管していた絵をミュンヘン市に寄贈した。寄贈した絵の中にはカンディンスキーの作品80点以上が含まれ、その他にグループ青騎士で活躍した若い画家たちの作品がまとまった形で残されていた。現在、ミュンヘン市立レンバッハハウス美術館が世界的に著名であるのは、そのためである。

生きるという事業と為すべき仕事を連立方程式としてみると、これは永遠の難問であるなあ。小生はずっと解けずにいるのです。そもそも、この連立方程式には解はあるのかってね。

それにしても、彫刻家ロダンとカミーユ・クローデルといい、画家マネとベルト・モリゾもそうだが、直ちに映画化をしてもおかしくない人生模様が、西洋には数多ある。ところが、日本ではこうした風景があまり見受けられないような気がするのだ。

女流芸術家としては、日本画では上村松園、片岡球子のような人はいる。真摯で真面目であり、大成した人たちである。洋画では三岸好太郎の妻であって三岸節子女史あたりか。しかし三岸好太郎は、余りにも若く30歳で他界しているし、節子は節子であって、彼女のその後の人生にそれほど深い縁を残したとも感じられない。佐伯祐三の妻であった女流画家佐伯米子はどう?佐伯の作品を守り、愛と煩悩を生きたという側面では極めて近いかなあ。しかし米子は祐三の背信を経験したわけではない(と思う)。美術界以外ではどうだろう?三島由紀夫の弟子だった村松英子女史はどう?人生の縁というか、似てるかなあ・・・でも、まあ小生も御本人から直接話しをうかがったわけではないしね。

とまあ、こんな風なのであり、今のところ日本人美術家から感じるのは、(特に洋画においては)勉強というか、仕事としての美術活動であって、創造を通した<生のあり方>が心的エネルギーとなって迫ってくる。そんな感覚を覚えたことは、(小生の専門分野ではないので熟知していないだけなのだろうが)残念ながら、一度もないのである。


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