そんな状況で、週明けの今日、何を書くかなあ・・・細かな数字を覚え書きに書きとめるのも面倒だなあと、例によって日本経済新聞の朝刊をパラパラとめくっていた。すると、また「これは書いておかずばなるまい」と思わせる解説記事があったのだな。別に、日経本社に含むところは決してないのだが、<リスク>を直視する眼差しの弱さが垣間見えるような気がして、「危ねえなあ」と感じた次第。
朝刊5ページに「中国の安全、なじれぬ日本 ― リスク摘む司令塔の不在」という解説記事が掲載されている。そこに
消費者は放射能のリスクゼロを求めて牛肉など食品検査の厳格化を望む。生産地の自治体などが安心を買うため全頭検査に踏み切る事情は無理もない。全頭検査を否定するつもりはないが、それが本当に安全の確保につながるのか疑問だ。本文を読みながら、「全頭検査かあ、そう言えばアメリカからの輸入牛肉をめぐって狂牛病騒動があったなあ・・あの時も日本は全頭検査を求めたっけ。アメリカ側はそれは科学的ではないし、不合理だと返答して、日本側の不興を買ったのだったなあ」、そんなことを思い出した。と、どうやら本日の筆者は全頭検査はやり過ぎであるから、もっとコストベネフィットに沿った合理的な手法を考えるべきであるという、そういう方向で考えているのではない、寧ろ反対で全頭検査にまで追い込まれる前に、システムとして安全対策を徹底しておくべきではないのか、そんな主張のようにも解釈されてきたのだ。
(中略)
むしろ対策の手抜かりに泥縄的な対策を重ねる中で、ヒトやカネを投じるべき本当に大切な安全対策が見落とされはしないかと心配になる。
そう言えば、<リスク・ゼロ>という言語表現も文中で使われているし、理想状態においては<リスク・ゼロ>を達成しようと努力するべきだ。基本的立場はそれではないか。そう思われたのだ。
もちろん努力目標として<リスク・ゼロ>を置くことに反対があるはずがない。ゼロの方が良いに決まっているから。
しかし、小生、思うのだが、消せるリスクはリスクではない。消せるリスクを放置するのは、怠慢であり、つまりは経営戦略が最適化されていない。ただ、それだけのことである。どんなに合理化に努め、最適化に努めても、消せないリスクがある。そのリスクは、たとえば取り組んでいる事業特有の確率的性質から決まってくるものかもしれないし、マーケットの本来的不安定性に基づくものもある。一口に言って、リスクとは<悲しい誤算>であって、リスクあるところ<嬉しい誤算>が隠れている。
ベンチャー・キャピタルは、創業まもない起業家を支援するファンドなのだが、アメリカでも貸し倒れが8割を越えるという。ほとんどは失敗になるわけだ。全員の夢を叶えてあげることはできない。失敗する人は、成功する人の肥やしになる。文字通り<葉っぱのフレディー>の生命観です。どのプロジェクトがうまく行くか分かっていたら、誰も苦労はしない。少数でも未来に通じる道を見つけるから、後に続く者が助かるのである。社会はそうやって進歩してきたのではないですか?自分が負け組になったらどうする?暗転したらどうする?敗軍の将、兵を語ればよいのである。志を後続者につないでいけばよいのである。中国鉄道省も、敗因を率直に語ればよいのである。東電にもそれを語ってほしい。そういうことではないか?
本ブログにも投稿した<確実な議論をしましょうよ症候群>。1983年にオランダのPhilips社はCD製造工場をアメリカに建設するべきか迷っていた。まだまだCDというメディアが、マーケットに受け入れられるかどうか、定かではなかったからだ。「1年待とう、市場の動きがもう少し明らかになってからでも遅くはない」。で、待ったのだが、待っている間にSONYが先に建設した。そうなると、後からノコノコ出て行っても乱売合戦になるだけだ。フィリップスがアメリカに進出したのは、ソニーの工場がフル操業になってからのことである。相撲のように、「さあ、時間です、にらみ合って」、そんな勝負をしているわけではないのですね。どうやって生活を守り、仕事を守りながら、競争に勝って、国民、民族が生きていくか?それがテーマなのであって、それには何をしなければならないのか?リスクはどの位あって、リスクが顕在化する時はどうすればいいのか?その議論をしないといけないわけだ。リスクに満ちた現実世界に、安全ネットを張りめぐらせて、それで日本国民がリスク感覚を失って緊張の感覚への耐性を喪失したら、それこそ最大のリスクになるのではあるまいか?
欧州もアメリカも、ここまでやってくるのに七転八倒してきたのが現実である。フランス政府は、現在は第5共和制である。戦後になってドゴールが一度身を引いたのだが、アルジェリア紛争に手を焼き、クーデターが勃発して、ドゴールが政権に復帰し、新憲法を公布した。それまでの第4共和制は10年ちょっとの寿命でしかなかった。ドイツに占領されるまでは、第3共和制だった。その政府は、ドイツとの普仏戦争に敗北し、パリは徹底抗戦したのだが、市民に銃を向ける「血の一週間」を経て発足したのだ。まあ、フランスの歴史を書くつもりもないが、戦後日本が神武景気を謳歌した直後である1958(昭和33)年という時点において、先進国フランスではクーデターが起こっていた。憲法なんて、バッタバッタと取り換えている。意外ではありませんか?そんなバイタリティ、日本に残っている?・・・それが一番心配なのだ。
アメリカ合衆国憲法は修正27条まである。「1789年の憲法制定以来、1万件以上の修正案が議会に提出された。最近の数年をみても、毎年100件から200件が提出されている。」、ウィキペディアをちょっと調べても、国の仕組みと憲法をめぐって、喧々諤々の論争が常にある。国家社会はどう転んでいくか予想などつかない。これが世界の現実なのではありませんか?
リスクや危険はゼロにはできません。リスクがゼロだという時は、リスク感覚を喪失したからであって、それが最も怖い最大のリスクである。小生はそう思うのだが、どうだろう?
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