2012年8月1日水曜日

アメリカと欧州の経済近況

アメリカでは住宅市場が底入れしつつあるように見える。下図はブログ"Calculated Risk"から引用した最近のケース・シラー指数。5月には季調で2.2%の上昇。


新規失業保険申請件数も減少したことも明るい材料だ。
Department’s latest reports on how many Americans are filing new claims for jobless benefits have contained positive news about the economy even as other gauges of health have worsened. Thursday’s numbers add to that: Claims dropped 35,000 last week to a seasonally-adjusted 353,000. (Source:  Wall Street Journal, Real Time Economics)
足元のマイナス材料は農産品価格の上昇だろう。
As the world’s financial markets focus on the Fed and the ECB, another threat to global growth is showing up across emerging markets. Food inflation is spreading much faster than anyone had anticipated. (Source:  Pragmatic Capitalism
ここでも指摘されているように、マネーを「コントロール」する中央銀行が特に景気ウォッチャーにとって最重要であるわけではない。経済の実態を本質的に変えるのはマネーではなく、相対価格の変動であることは経済学全体の中で最も固い結論である。価格弾力性の低い農産品の価格上昇は、直接効果として、常に他商品の需要減退要因として働く。

最新のIFO Newsによると、ドイツの景気動向指数(IFO Business Climate Index)はまた低下したとのこと。


元々、今年の欧州経済は昨年末から上昇気配を示していたドイツ経済と債務危機から財政緊縮を強化する南欧経済との綱引きになると見ていた。上の図をみると、明らかに昨年末から本年初にかけて認められたドイツ経済の回復は、ストップしたと見てよい。

リーマンショック震源地となったアメリカの住宅市場はどうやら低落鈍化から底打ち状態に入りつつあるようだ。あとは家計の債務状況。そして住宅価格はしばらくは<鍋ぞこ>だろうが、低迷から反転へいつ移行するかが最大のポイントだ。

しかしながら、アメリカの消費者心理の低迷ぶりは変わらない。ミシガン大学のConsumer Sentiment Indexについてはロイターがこう報道している。バブル崩壊後の消費者心理悪化と政策効果に対する不信の増長は世界共通であり、ここがどのようなプロセスを経て<寛解>なり<変化>に至るのか?政治と経済の相関のありかたをみる大事な視点には違いない。
The Thomson Reuters/University of Michigan's final reading on the overall index on consumer sentiment fell to 72.3 from 73.2 in June. It was the second month in a row attitudes have soured and the lowest level since December.
But the level was a touch higher than economists' expectations for it to be unchanged from July's preliminary reading of 72.
"While consumers do not anticipate an economy-wide recessionary decline, they do not expect a pace of economic growth that could satisfactorily revive job and income prospects," survey director Richard Curtin said in a statement.
"Moreover, consumers have become increasingly convinced that current economic policies are incapable of solving the underlying problems facing the economy." 
(Source:  Reuter, Fri Jul 27, 2012 10:27am EDT)
いずれにしても、東日本大震災で地震と津波による被害よりも寧ろそれに引き起こされた原発と電力事情が日本経済の足を引っ張っているのにも似て、経済危機の発端となったアメリカ住宅価格の崩壊よりは寧ろそれによって引き起こされたヨーロッパ銀行危機をどう解決するか?いまは、こちらのほうが世界経済の構造調整要因として大きくクローズアップされたきた。

小生思うに、昨年夏のECBによる<金利引き上げ>。あれほどマクロ経済センスのない政策判断もなかったねえ。何度もいうが、そう思われます、な。


2012年7月30日月曜日

無駄話し ー 正義とは理ではなく感情ではないか

夏休みシーズンがやってきた。先週末は、小生が暮らす街の夏祭りで、夜は打ち上げ花火がうるさい程だった。猛暑の土日は文字通りの祭日和だったろう。拙宅も子供が幼い頃には港近くまで出張っていって、縁日で遊んだものだが、年齢を重ねるとあの喧噪と人ごみ。いまは2時間ともちそうにはない。で、ずっとロンドン五輪をみては、時間を過ごす週末になった。

× × ×

みていると柔道などで納得しかねる判定もあるようだ。日本と韓国の選手の試合では、旗判定になったところ、最初の判定が取り消しになって、日本選手の勝ちとなった。韓国の中継アナは、この瞬間「こんなバカなことがあるか!」と絶叫し、「勝ったのです、確かに勝ったのです」と繰り返したよし。これまさに正義の観念がほとばしり出ているのであろう。 

またまた古代ギリシア人の人間理解の話しをするが、怒りは感情であって、理性の働きではない。愛も道理から出てくるものではない。中国を中心とした儒学では、根本に仁愛と道義を据えて、人間社会のありかたを理論的に定めるというが、その仁愛は感情から発する心の作用である。道義、つまりは正義の感覚も、詰まる所は怒りの感情に基づくのじゃないかと思う。であれば、よく正邪善悪というが、根底は感情論ではないのか。理智の働きで、道理によって、正邪善悪を証明する事など不可能じゃないか。だから必要な公理をどう置くかで人によって結論が違う、そこで学派が分かれ、派閥を形成したのじゃないか。小生には、そう思われるのだ、な。 

正しいとされる判断には神が貼った札でもついているのか?善い事とされる行動は、結果が善いだろうと予想されるから善いのか、それとも善かれと思ってしている事だから善いのか?こういう問題は、人類にとっては永遠の謎である。小生、謎は謎として、正邪善悪の問題には正解などはないと認識しておくのが科学的であると思う。この辺、やっぱり統計学の専門家ですから。

× × ×

 そんな風なので、何かの決定が間違っているとか、正しくないと怒りをあらわにして抗議をする人をみると、まずは順番に話しませんかと言いたくなる。正義よりも強いもの、愛すらも勝てないもの、それは<事実>と<論理>である。事実の確認から話し合いは始めなければならない。仕事は、事実と論理の積み重ねであって、正義や愛情の入り込む余地はない。農業のみが主たる産業で自然の意のままに凶作と豊作が繰り返された時代なら、この道理は周知のことだったろう。努力や丹精とは関係なく、自然は人智を超えた影響を人間に与えてきた。「自然ありき」で生きてきたのが人間だ。トーマス・マンの創造した人間トニオ・クレーゲルが、自己と世間との亀裂に悩むのと同じで、世間の仕事と高邁な理念は相容れない。世間の現実に美を求めても失望するだけである。正義の感覚をもちこむと、無用の混乱が生まれやすい。

「それを混乱というのか?」
「秩序を乱しておりますがゆえ」
「秩序が乱れるというが、正しい状態にすることは善い事ではないか」
「仕事をしている当人たちは、誰も自分たちが悪をなしているとは考えておりません。法をおかしてもおりません。無縁の人たちが、彼らを正しくないと糾弾しているのです。彼らの意に沿うように世を変えようとしているのです。これが秩序をこわし、混乱をもたらしているのでなく、なんでありましょう」 

こんな風なロジックのぶつかり合いを日本のドラマでも聴きたいものである。そうすれば、夏休みの楽しみになるのだがなあ、と。

2012年7月29日日曜日

日曜日の話し(7/29)

前の『日曜日の話し』はセザンヌの話しになった。やっぱり、どこまでもこの画家の作品が気に入っているのだと見える。

しかしセザンヌの人生は、半ば隠者のようであり、半ば敗者のようでもある。印象派第一世代でありながら、位置づけとしては後期印象派の一人として数えられている。実は、数えること自体が不適切であって、セザンヌは印象派ではないと小生は感じるがままに解釈している。セザンヌが美術史上において確定した位置を占めるようになったのは、彼の没後に開催された回顧展が契機である。その頃にはもう既にマティスやピカソといった若い世代から偉大な先達として尊敬を集め始めていた。セザンヌは、同世代と同じ感覚を共有して、仲間と一緒に大きな道を切り開いたというよりも、仲間が歩かない道を独りで歩き続け、自分が良しと思う美意識を貫いて行ったら、彼が到達した地点こそが20世紀美術を展望する三角点であった。そんな人生である。

人の行く 裏に道あり はなの山

そんな偉大な隠者には、小生、性格上とても魅かれるのだ、な。今日は、そのセザンヌの「アルルカン」と、ピカソの「腕を組んで座るサルタンバンク」をここに展示したかった。アルルカンはイタリア風仮面喜劇に登場する道化師をさし、サルタンバンクはスペインでよく見かける旅芸人、というよりサーカス一家のことである。ところがインターネットを探し回っても、自由に使える画像が公開されていない。実は、どちらも日本の美術館に収蔵されているのだ。まさに奇跡じゃな。アルルカンはポーラ美術館、サルタンバンクはブリジストン美術館にいけば観ることができる。その美術館の解説ページをコピーしてトリミングしてここに張り付けるのは、あからさまな著作権侵害であろう。なのでリンクボタンのみを上に入れておいた。

ところでブリジストン美術館にはピカソの風景画も常設展示されている。


Picasso, 生木と枯れ木のある風景(Landscape with Dead Tree), 1919

ピカソはその生涯を通じて、信じられぬほどの激しい振幅で画風を一新し、別人のような美意識から新しい創造を続けた怪物であるが、第一次大戦後に始まる所謂ピカソの<新古典主義時代>の作品は、「サルタンバンク」もそうだが、確固とした存在感と、造形、色彩が、それまで現れたことのない感覚で組み合わされている。ビジネスでいう<イノベーション>を絵画の世界でやってしまっている。

実際、上のような作品はかき上げてしまってからは、当たり前の描き方になるが、それ以前の誰の作品をも超えている。上の作品は素朴派のアンリ・ルソーを連想させるところもあるが、感覚は全く違う。率直に言って、ピカソの作る美は洗練されていて上品でありアクがない。文字通りの天才であるが、やはりセザンヌの筆法を見ることによって、それがヒントになったのだと言われれば、「そうなのだろうなあ」という繋がりを感じ取れる。

セザンヌの風景画はとても多く、かつまた以前の投稿でも書いたように十代の頃は全く理解できなかったが、今は透明感と寂寥感と満足感をミックスしたような小品「レスタックの海」を好んでいる。


セザンヌ、L'Estaque.、1885
出所: Olga's Gallery

近代合理主義哲学の創始者であるフランス人・デカルトは、道に迷い、方向が全く分からなくなったときは、ある方向に向かって真っ直ぐに歩き続ける、それしかないと言っている。田舎者セザンヌには、こういう生き方がむしろ自分の性格にもマッチしていたのかもしれない。いやいや、同郷のエミール・ゾラは世間慣れした、機を見るに敏な人柄であったようだから、やはり個性なのだろう。

分からないなら、真っ直ぐに歩き続ける。キャッチアップではなく、トップランナーになったのなら、この覚悟と決意は大変意味のある言葉ではないだろうか。日本経済のことですよ。小生の田舎でいう”キョロマ”では駄目、頭がいいと思っている”チエ誇り”は利口バカという所以じゃな。

2012年7月28日土曜日

原発比率 ― 決めても空手形になることは決めない方がよい

エネルギーに占める原発比率をゼロにするべきだというデモンストレーションが官邸を取り巻くようになった。「たかが電気」の発言で有名になったミュージシャンの坂本龍一も脱原発支持である。いま脱原発を唱えることは良識派のシンボルなのだろう。

再生エネルギーで全てのエネルギーを賄おうとすれば、大変な広さの土地面積がいる、と。そんな数字を紹介すると「原発比15%に誘導している気がする」とクレームがつく。全く、ヤレヤレである。だから需要供給のことは市場に委ねればよいのであって、その選択肢を削るべきではなかった。これでは道理に基づいた議論はできぬわ。担当者は職場に戻ってボヤイていることであろう。問答無用の勢いで「そうしてよ!なぜ駄目なの!!」、と言い募られているようでもあろう。

社会は、自分たちの声で変えられるという意識は、民主主義にとても大事である。しかし、自分の考えに沿って社会を変える事ができたという人がもしこの世にいたとすれば、時空を超えて小生の眼前に蘇ってほしいものである。事前に意図した通りに社会を変革することができた人間・人間集団は、歴史を通して、いない。自信をもって断言できる。変革が成功したかに見えるが故に、それが成功するが故に、当初の理念とは無縁の人たちが混入し、いつの間にか別の人間が別の意図をもって社会を動かすようになるのが常である。だから社会の運行は原理的に予測不可能である。

何か決めても、必ずその決定は空手形になる。社会のことは全てそうしたものではないか?そしてそうあるべきなのではないか?

× × ×

小生の祖父母はみんな長命した。明治の人である。仕事でもかなり成功した。父は大正15年の人であり、母は昭和4年だった。軍事教練や勤労奉仕を経験した戦中派である。父の職業生活は戦後に始まり、高度成長時代とオーバーラップしている。中年までは成長の果実を満喫したが、1970年代の世界的経済調整の荒波に揉まれた頃、ちょうど責任ある年齢にさしかかっていた。勤務先の新戦略に携わることになったが、時機が悪く失敗に終わり、病を得て、50代半ばで世を去った。戦争では死なずにすんだが、経済戦争で討ち死を遂げた。母も父の死後10年程して他界した。二人ともこの長寿社会の中では短命である。それでも小生が成人するまでは両親の暖かい庇護の下にあった。

小生は、最初の20年は苦労を知らずに成長し、次の20年では役人稼業に就くが父と母を失った。その次の20年は北海道で統計を教えてきた。大病もせず平和な暮らしを続けている、というより、こんな風にして20年を全うできるような気がする。小生は、平均寿命よりも長生きする意志は毛頭ない。とすれば、最後の20年をどうやって生きるか、今はそれを考えている。

自分の生を超えて何か永遠なるものと同一化して死にたい。これは普遍的な意識だろう。神の意識もこの辺の心情から発するのかもしれない。永遠なる存在・・・たとえば<父系の家>なるものはその一つだったろう。しかし、父系の家制度が形成されたのは、日本でもせいぜい平安時代以降だと言う。いま暮らしている北海道では<父系の家>なる実態はもはや微塵もなく、むしろ周囲の知人をみると<母系の繋がり>が生き生きと働いているようである。家だけではない。地域社会も会社も、すべて社会的な組織や制度は、永遠の実態ではありえないのだ、な。すべては風化して無くなるものである。真に永遠なる存在は<自然>の他に何かありうるだろうか。

昔の武芸者のようだが「天地と一つ」、その心境にたどりつきたいものだ。自然と社会というけれど、社会もまた<自然現象>の一部として観察しようと思い定めたい。そんな意識で終盤の20年を送りたいと考えているのだ。だからいま暮らしている町から、雪の少ない白老か伊達辺で、命を育てる活動にあたりたいと計画している。

市内廃線跡地

白老、ポロトコタン

天と地は、小生の父と母にとっては、甚だ過酷だったような気がする。反対に、小生には(今までは幸いにして)優しく接してくれたような気がする。気障ったらしいが、自然に感謝の気持ちを伝える何かをして、最後の20年間を送りたい。もらった分の一部だけでも、お返しをしたい。それが、しなければならない仕事であるような気がするのだな。

× × ×

人間社会の運行と変化を自然現象の一部ではなく、人間の意志で ー というより自分たちの意志で ー 決定していこうという脱原発グループの心意気と義務感には文句なく尊敬の気持ちを否定するものではないが、その努力がその通りの形で実を結ぶ事は小生は決してないと思うし、また自分のなすべきことを上のように考えているので支援しようと言う気持ちもない。

エネルギー産業のあり方は、技術進歩と生産システムのバランスの中で、誰がというより社会経済的なロジックによって選択され、半ば自動的に決まっていくものなのだ、な。人間の意図でどうこうできるものではない。どうこうしようとすれば、その途中で無用の対立や紛争が起こるだけである。

社会の進歩も自然現象の一部であると思う。その進歩を人為的に遅らせるものは、残念ながら人間の正義感や善意などヒューマンファクターなのではないかな。それは法律や慣習になって社会を<ギプス>のように束縛している。善意と良心は品格を保つためには不可欠だが、モノの生産と消費は品格のために為されるのではない。

だから、小生、すべて法律は25年の間、何も改正がなければ、自動失効するのが良いと思う。憲法は、何も改正がなければ、50年で自動失効するのが良いと思う。だってそうでしょう。その文章を起案した人間は、ほぼ全員が死に絶えているか、25年で区切っても社会構造は全く変化している。古い規則は邪魔なだけである。その時、生きている人間が、自らを律する権利を確保しておくべきである。江戸時代の武家社会を律する憲法であった武家諸法度ですら、徳川将軍の代替わりごとに、新将軍の理念に沿った新しい法度を公布していたのである。よほど合理的ではないか。無論、独裁者からトップダウンで下々に押し付けるのは<反民主主義的>ではありますけどね。






2012年7月25日水曜日

<格差是正>とは、感情論にすぎる言葉だ


小生が国から俸給をもらっているから、こんなことを書くと思われるなら大変癪な話である。どこに勤務していようと、小生の性格は直らないから、同じことを言ったり書いたりすることは、間違いない。


55歳以上の公務員は昇給を停止しようという人事院勧告がなされる方針である。これは良い。異論はない。小生自身、年齢の大台が迫るにつれて、「人間50歳がピークだな」、と。痛感している。50を越えてからは、まず目に来る。次に肩と背中に来る。最近は腰に疲労がたまるようになった。それと並行して根気がなくなる。休養を求めるようになる。更には、どんな重要懸案にせよ、自分が直接関係しないような、利害関係の薄い、長期的で基本的な課題については真面目に検討しなくなる。一口に言えば、自分と関係ないからだ。大体、人生の終盤に入った人間が、自分で責任もとれないくせに、基本的な事柄に首をつっこむべきではないというのが、小生の意見だ。したがって55歳以降は昇給停止。決めるのが遅すぎたくらいである。後続の世代の人からみれば<不公平>であり、たしかに気の毒には思うのだが。


しかしながら、昇給停止の理由が<格差是正>にあり、と。これは納得できない。そもそも格差はすべて是正するべきなのか?なくすべきなのか?あるべき格差もあるであろう。あるべき格差になっていない場合は、むしろ格差を拡大するべきだろう。

イチローの年棒は20億円だがこれは不平等の象徴なのか?小生はそうは思わない。プロ野球のレギュラー選手が、シーズンを通してゲームに出場すれば、みんな同じ時間だけチームに貢献する。どのレギュラーがかけても困るだろう。打つ人、守る人。トップバッター、4番打者、ラスト。それぞれ仕事を分担しているだけで、誰がかけても困る。みんな必要なのだ。だから等しく報酬を払うべきだ、と。そんな議論は誰もしない。そんな組織管理をすれば、モラルハザードが広がり、誰も本気でチームに貢献しようとしなくなる。努力のしがいがない。向上心も萎えるだろう。


格差は、貢献を正当に評価し、対価を与えるという観点から見るべきものだが、更に、努力を厭う人間の弱さを矯正するための管理ツールでもある。身も蓋もないが、士気を維持するための人参である。

55歳以上の年齢層において、公務員と民間勤労者との間の給与ギャップが拡大するので、その格差を是正するというが、55歳以上の公務員と55歳以上の民間勤労者が、同じ仕事に就いているわけではない。責務・職務・拘束時間など業務内容が異なるのに、実際の給与差を<是正するべき格差>と認めるロジックは何か。


いっそ政府に雇用される公務員については、法務、財務、経済、治安、軍事、司法、中央政府・地方政府などの組織ごとに、管理業務、事務業務、補助業務、研究業務、教育業務など職種に分けたクロスセクション表をつくり、各セルごとにOECD加盟国の公務員給与平均値を算出して、特定年を基準年として購買力平価で換算し、そこで日本円と水準合わせをして、それ以降は日本の毎年の一人当たり名目GDPの増減率だけ給与を調整する、そして5年ごとにOECD加盟国の実態調査をして基準改定をする。国民経済計算でも推計するようにして、機械的に決定していくのがよいのではないか。そうすれば官僚も自分の給与が減らないように一生懸命にデフレ解消に向けて努力するだろう。等級間の格差は最後に決めればよい。

<格差是正>という感情論の餌食になりやすく、客観的な中身にも乏しいシステムよりは、よほどマシであろう。

2012年7月24日火曜日

昨日投稿の補足 ‐ デフレ停止の一案

物価下落から賃金低下という因果関係ではなく、名目賃金の切り下げによる販売価格引き下げという因果関係に着目するのであれば、<逆・所得政策>が有効だろう。

所得政策は、1970年代に大きな経済問題となった「スタッグフレーション」(=インフレ+失業率上昇)をいかにして終息させるかというときに、一部の経済学者が提唱したものだ。米国ニクソン政権でも試行されたこの政策は、しかし、見事に失敗した。というのは、当時のインフレは世界的な過剰流動性によるもので、賃金上昇はその結果だったからだ。賃金を抑えても、インフレの主因を絶たなければ、インフレは終息しない。逆に、不適切な所得政策が生活不安を招き、企業のインフレ利益を拡大し、アンフェアな経済状況をもたらすだけとなる。

現在の日本で進行しているデフレが、賃金引き下げと企業の安値競争から引き起こされている面が大きいのであれば、所得政策が有効だと考えるのがロジックだ。安値で輸入される海外製品に国内シェアを奪われる懸念もある。しかし、安値に対して安値で対抗しないという日本側の意志が明らかになれば、海外企業も高値で販売する方が得に決まっている。

不当な安値で市場奪取を仕掛けてくれば、公正取引委員会が<ダンピング摘発>を強化すればよい。政府・日銀は、何かと言えば、デフレ解決の妙案はないというが、デフレを停める方法はある。

2012年7月23日月曜日

賃金は上げるべきだ ー これがロジックか?

夏である。というには涼しい。いま22度である。ロンドン五輪、夏の甲子園が近づいているが、ピンとこない。また猛暑がやってくるのだろうか。

今日はビジネススクールの授業がある。実質的には最終回だ。次回は筆記試験をやって、それで夏季休暇に入る。とはいえ、最近は恒例の自己評価が複数種類あって、文書作成作業がやってくる ー もう誰も読まないであろう紙の浪費には違いなく、本気で文章を考えたのは高々三年くらいのものであったが。いまは役所仕事と化してしまった。これまた「パーキンソンの法則」を地でいっているわけだ。

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賃金 ー ただし名目賃金であって実質賃金ではない ー は上げるべきなのか?下げるべきなのか?

上の質問に真面目につきあおうと考える人は、(その人がいい人か意地悪な人かは全然別問題だが)経済学を全く勉強した事のない人である。というのは、ロジックとしては正解がないからだ。もらう側から言えば賃金は上げるべきだ。しかし、雇う側から言えば、下げる方がいいに決まっている。まあ、この社会には人を雇う側よりも、雇われる側の人数が多くいる。だから世論というか、声の数から言えば上げてほしいという人の方が多い。マスメディアは多数の声を支持するのが経営上の最適戦略だから、新聞には「賃金は上げるべきだ」という記事が出る結果となる。正解のないはずの問題に、あたかも「そうするのが正しいのに、なぜそうしない?」という記事を載せるわけなので、新聞が書く事は常に正しいとは言えない。新聞社の経営にとって正しい事を書くというべきであろう。

しかし、現在の日本の状況をどう見るという観点に立って、名目賃金を上げる方がうまく行くのか、下げる方が上手く行くのか?問題解決にはどちらが効率的なのか?こんな問いかけであれば論理的な答えはある。

橘木俊詔氏は経済学界ではビッグネームである。同氏が下のような意見を表明していると報道されても、驚く人はいない。
橘木俊詔・同志社大教授(労働経済学)の話 今の最低賃金の水準は低すぎて、とても生活が成りたたない。賃金が生活保護を下回っていると、働く意欲が失われかねず、一刻も早く是正されるべきだ。ただし、重要なのは生活保護の引き下げではなく、最低賃金のアップだ。経営側は、引き上げが企業を潰すと主張してきたが、従業員を養えない企業に存在意義があるのだろうか。また、被災地の企業には、別の枠組みでの支援が必要だろう。(出所:毎日新聞、7月22日)
そもそも労働市場で名目賃金が下がれば、
製品価格×限界生産力=名目賃金
という関係が経営最適化の条件になっていることを思い出せば、右辺が下がれば、左辺が下がる。だから雇用を増やして限界生産力を下げる余地が出てくる。生産性に固執しない余裕というべきか。もし雇用増加の動機が弱い場合は、販売価格を下げる誘因が働く。もしもリストラが進んでいて、限界生産力が上がっていれば、なおのこと激しく製品価格を下げて、売り上げ数量確保を狙う動機が強まる。こちらの方が近年の日本経済には関係が深いはずだ。もしもマネーサプライが過小でデフレ的政策が展開されているのであれば、価格低下→賃金低下という因果関係が作用するかもしれないが、現在の日本でそのような因果関係は絶たれている。とすれば、現状は賃金引き下げ→価格低下という因果関係に注意することが大事だ。

だから仕事の量はそのままにして、仕事の内容もそのままにして、支払い賃金だけは下げるという経営を容認するべきではない ー 従業員の雇用を守りたいという善なる動機があるにせよ、優越的な地位を濫用して賃下げを強要しているのかいずれであっても、である。つまり、考えている方向としては、小生は橘木氏の見方に賛成だ。

ただ橘木氏が述べている「従業員を養えない企業に存在意義はあるのだろうか」という箇所は多少の異論がないわけでもない。解雇をして利益が出るのであれば解雇をするべきである。生産縮小の必要性を市場が伝えているときに、仲間内の賃金を引き下げる事で生産数量だけを維持しても、それは価格引き下げ競争を激化させるだけの愚策であり、日本の長期的デフレは企業の日本的雇用死守政策から引き起こされている面が大きいからだ。下げるのではなく解雇をして、政府は新産業の拡大で失業者を吸収する。それが国内市場で困難なら、海外との連携、移民の促進、そのための語学研修・技術研修の強化を通じて国境を越えた就業の道を開いていく。それが本筋の労働政策であるはずだ。

× × ×

一口にいえば、<日本的雇用死守>を暗黙のうちにバックアップしてきたのは、日本政府である。政府は、<ワークシェアリング>と言えばいかにも理念の裏打ちがあるように聞こえるが、所得保障政策の民間委託と同じことを行ってきた。それによって、離職者の増加を抑え、財政負担の拡大を避ける誘惑に身をまかせてきた。構造変化をとめることで公的規制下にある規制産業の現状を守っている。非正規労働市場の拡大と待遇格差の拡大に目をつぶらざるをえなかったのは、そのしわ寄せである。海外投資の増加は、国内の利益機会が抑制されていることの結果である・・・まだまだ書けそうだ。


ジャパンマネーは、多くのジャパニーズの利益につながるように使うべきだろう。そのための方策を練るのがジャパニーズ・ガバンメントのはずだと、小生は思うが、必ずしもそうなってはいない。不思議だ。普通選挙と政党政治ではカネではなく、人数の多いほうの言い分が通るはずだ。にもかかわらず、より多数の日本人の利益に沿うはずの政策が実行されていない。むしろ多くの日本人が不利益をこうむる政策が採られることが多かった。ミステリーだ。


最終結果から逆に憶測すれば、日本では国民が全体として政策を決める仕掛けになっていない。だからこうなっているという「事後確率」が高い。たとえば政治活動に経費が必要な場合、資金調達力の違いから同じ政治家どうしで地位の上下が形成され、当選した議員の多くが一部政治家の意向に従うバイアスが生まれる。こういう政治プロセスモデルがあるかもしれない。また投票権を持っていないはずの大組織の意向が政治家の意見を左右しており、そのために普通選挙が正常に機能していないという政治的意思決定モデルがあるかもしれない。これらは、無論、小生にとっては憶測であり、仮説ですらもない。とまあ、確かにこういう推理はあるだろうなあ、ということだ。橘木氏はここまでは述べていないが、方向としてはこんな見方にもつながるかもしれないとは思っている。ただ上のようなモデルが仮に当てはまると仮定して、それは何かの制度的背景から合理的に生まれてきた病理なのか、日本のデモクラシーの未熟な本質を伝えるものなのか?そこまでは分からない。