2014年10月6日月曜日

サムスン-この拡大戦略はDNAがなせる行動か?

韓国サムスンが半導体事業に極めてアグレッシブな拡大戦略に打って出るということだ。
【ソウル】韓国のサムスン電子は6日、韓国に半導体の新工場を建設するため15兆6000億ウォン(約1兆6千億円)を投資すると発表した。同社は陰りの見えるスマートフォン(スマホ)以外に成長の活路を求めている。 
新工場の着工は2015年で、17年の稼働を目指す。

 新工場はソウル近郊の京畿道平沢(ピョンテク)市に建設される予定。同社は現在、国内では器興(キフン)区と華城(ファソン)市に主な半導体工場を持っている。

 権五鉉(クォン・オヒョン)共同最高経営責任者(CEO)兼副会長はこの投資について「サムスンの将来的な半導体事業に著しい影響を与えるだろう」と述べた。
(出所)Wall Street Journal Japan, 2014-10-6

 1980年代に世界半導体市場の覇権はアメリカから日本に移った。しかし90年代になって、日本はバブル景気の後始末で『三つの過剰』 ー 過剰債務、過剰設備、過剰雇用 - の解消に専念した。採った戦略はスリム化、協調的設備廃棄だった。政府自らが「過剰▲▲脱却が急務」と、そう音頭をとったことも影響した。

世界市場で攻勢をかける好機をうかがっていたサムスンは、日本の縮小路線に乗じて、攻撃的拡大戦略をとった。そしてそれが成功した。生産能力については「押さば引け、引かば押せ」の戦略的代替関係が当てはまることが多いからだ。韓国の進出と日本の後退は、日韓半導体生産ゲームのナッシュ均衡でもあったのだ。スリム化した日本勢は巨大化したサムスンと戦う意志はもはやなく、ひたすら製品差別化と「匠の技」路線を歩いていった。以後、半導体市場の覇権は日本から韓国へと移り、サムスンはその後スマートフォン市場へ参入し、今日までの成功物語を演出した。

そのサムスンが、利益の限界が見えたスマホから半導体に経営資源を集中させるという。
逆なら分かる。

利益の見込めない半導体市場から撤退する。スマホ市場に資源を集中する。ハイエンドのR&Dを強化する。ローエンドでのコスト優位性を徹底する。それなら分かる。サムスンが半導体をすてて、スマホに集中すると決定すれば、ライバルに対しては相当強烈なコミットメントになる。それと、スマホ市場は、確かに急速にコモディティ化しているが、バッテリー、GPSの活用、ビッグデータの活用等々、まだ未開発の分野は多く残されているはずだ。サムスンの利益機会は、半導体ではなくスマホ市場にまだ多く残されているのではないか。

これに対して、半導体は、単なる「IT産業のコメ」である。ウォン高も逆風だ。そして、なんと1兆6千億円の拡大投資!……差別化できるのか?コスト競争力は持てるのか?これが逆噴射にならなければよいが。

それを敢えて半導体市場で攻勢に出るとは……川上部門を内製化するシャープの垂直統合モデルをイメージしたか?それとも半導体市場でシェアを高めて価格支配力を握ろうというハラか?スマホ市場のライバルである中国スマホ企業に対して売り手交渉力を持とうというのか?色々と考えての選択だろうが、いまの世界半導体市場において価格支配力を行使するのは、参入の容易性を考えると、不可能ではないか。現実にはシェアを握っても価格を支配することは難しいのではないか。

今回のサムスンの決定をライバル陣営は歓迎しているような気がする。

2014年10月4日土曜日

模倣と創造

昨日は誕生日だったが、免許証更新に時間をつぶして、気分はザワザワしたままで、ただ一日が過ぎていった。

行くたびに、どこかの手順・やり方が変更されている。便利にするという理由はあるかもしれないが、前と同じでそんなに変わらないではないか。カネをかけてシステムを変更する意味があるのかと。そんな風にも感じる。もっと先にやることはないのか、と。


模写‐ゴッホ‐畝みち‐F8
(出所)岩波文庫『ゴッホの手紙』第545信のデッサン

…われわれの貧しさを軽くするために全力を尽くすことが、僕の義務であるのを、はっきり感じる。
それは画業の上には何の価値もないことだ。ゴーガンは僕よりはミレーに近い感じがする。僕は彼よりはディアスに近い。だから僕はディアスのように、組合に金を入れるために大衆の気にいるようにしていくつもりだ。僕は彼らよりも金を使った。そんなことは彼の絵をみた瞬間どうでもよくなった。うまく行くにはあんまり貧しいなかで仕事をしたのだ。
まあ待っていたまえ、前に送ったのよりいい、もっと売れそうな絵が出来ている。そしてもっとできそうな気がするのだ。やっとそれに確信をもてた。『星空』、『葡萄の枝』、『畝みち』、『詩人の庭』といったような詩的な題材を見つけると、ある連中の気に入ることが僕にもわかった。(引用: 岩波文庫『ゴッホの手紙(中)』、296頁)
オリジナルが目の前にあるわけではないので、ゴッホを模写しようとして、いつの間にか自分の絵になってしまった。

1888年前後、アルルの麦畑でゴッホがのこしたドローイングを本でみて彩色したくなったのだ。同じころ、大体同じ場所で描いたとみられるゴッホの作品。


Goch, Wheat Field, Arles, 1888

筆触、色調、パワーすべてが段違いであることはPCの画面からも一目瞭然。これがレベルの違い、天才と愚才の違いというものだ。やるだけ無駄だったか……。

それでも構図のとりかたも含めて、最初から自分で描いた作品と比べれば、模写であれオマージュであれ、天才の足跡を模倣することは自分を高める勉強になる。

自分一人の「独創」などはタカが知れている。単なる「思い付き」がまかり通る社会であってはならない。大いなる遺産の価値を認め、偉大なものに対して謙虚な気持ちを持つときにのみ、自分でも納得できる結果が残せるというものだろう。世の中の99パーセントを占める凡才の生きる道はこれ以外にない。

「創造」とは、集合知の進歩という形をとって進むものだ。天才ですらその天才が憧れる偉大な先達がいる。

人間に出来ることは<誰かの>あとを追う。これ以外の道はないと感じることが多い。

2014年10月2日木曜日

消費税率引き上げをめぐる景気判断は?

後期の授業が勤務先ではじまり昨日は「マクロの見方」について講じた。

マクロといってもマクロ経済学を解説しようとすれば通年4単位でも説明しきれない部分が多々残る。まして二コマ3時間で話すことができるなど、断片のそのまた断片的な部分でしかない。なので、まずはマクロ統計の見方、GDPの意味するところあたりが要点になるのは仕方がない。ま、顧客や利益、戦略について議論をするうえでの経営環境といった位置づけである。

そのGDP統計だが、話してみて<実感>したのだが、いまほどGDP統計をめぐって話題性がある時期は今後ないかもしれない。

☆ ☆ ☆

『あなたが、近々、新規事業をたちあげようと思っているとして、今年の初めに一番気になっていた点は何だったでしょう?』

『それは、消費税率を5%から8%に引き上げる影響です』

『そうですね。消費税率をあげると、収入が同じという前提にたつと、より多くの消費税を払いますから必ず消費者は消費を減らす。景気にはマイナスになります。しかし、消費税率を上げることこそ、日本経済にはプラスなんだ。そういう意見もあるのですね。だからこそ上げる。それが理屈でしょう。』

『その辺はどうなると予測されているんですか?』

☆ ☆ ☆

今年2月時点の日経短期予測は以下のようになっていた。


(出所)日本経済新聞、2014年2月28日

税率引き上げ直前の1~3月期に実質季調済前期比でプラス1.1パーセント、その後の4~6月期でマイナス1.2パーセントの反動減となる。そんな予測になっていた。

実際には、こうなった。


(出所)内閣府

8月の二次速報では、1~3月期にプラス1.5パーセント、4~6月期にマイナス1.8パーセントのかなりな落ち込みになった。駆け込みが予想以上であり、落ち込みも予想を超えた。そういえばいいのだが、昨年からずっと前期比を図にかいてみると、段々下がっている。アベノミクスの勢いもここまでかと思わせる形になっているのも事実だ。悲観論はこの辺から出ているのだろう。

一方、毎月出る景気動向指数をみると、明るい兆候もある。


(出所)内閣府

データは7月までの数字だが、先行指数が反転回復している。いずれ一致指数の回復につながる動きである。ただ、異常気象の影響で8月-そして9月も?-の経済活動は相当のマイナスの影響を受けたかもしれない。とすると、上に見る先行指数の上昇は、実際の景気回復としては現れないかもしれない。

気がかりである。ただ今年の前半によく言われたアベノミクスの限界。それは数字からも確かめられていたことなのだな。

☆ ☆ ☆

やはり4~6月期の相当の落ち込みが十分回復しないまま、秋を迎えているのではないか。そんな気はする。

7~9月期のGDP速報は、一次速報が11月17日、二次速報が12月8日に予定されている。一次速報から二次速報にかけて相当大きな修正があることもある。

安倍内閣は7~9月期のGDP速報をみて、消費税率の2回目の引き上げ(8%→10%)を最終判断しようと考えているようだ。

一部の国のように統計データ作成に政治的圧力が(直接)かかることはないが、それでも統計作成部局が感じるプレッシャーは相当なものだろう。



2014年9月30日火曜日

議論の生産性にも<4M>はある

表題の<4M>というのはQC用語である。言葉や概念自体はかなり古いのだが、応用範囲は広いし、最近特にそれを痛感してきたので、一度書いておきたい。<4M>とは

  • Man: ヒト
  • Machine: 機械・設備・道具
  • Material: モノ(材料・製品そのもの)
  • Method: 方法・やり方・手順

この四つである。仕事を進めるうえで発生する問題は、あらかた上の四つのカテゴリーに属する原因からもたらされるものである。だから問題解決をはかるには、まず「人の問題」、「道具の問題」、「モノ自体」、「やり方の問題」。これらを列挙して、優先順位をつけたうえで、重点志向で解決する。その方がかえって速く済む。総花式にすべてを解決しようとはするな。そんな思想である。

何もモノづくりの現場だけではない。あらゆる人間の営みには、無駄がありうる、工夫の余地がある。同じことをするにも上手なやり方、下手なやり方がある。「勉強法」、「修得法」という言葉も同じ意味合いからできた言葉だ。

<問題解決技術>としてQCは大変応用範囲が広いのだな。

★ ★ ★

議論や会議の運営にも上手い・下手がある。議論を上手に進める企業は、それだけで競争優位に立っているというものだ。

先日は朝ドラの舞台になることが、どのように地域経済のプラスになるかという検討会に参加した。そこで紹介したのが下の「特性要因図」である。発案者である石川馨博士の名にちなんで「石川図」ともいう。


フリーソフト"XMind"で作成した。操作はしごく簡単である。

共通の図をメンバー全員が見ながら、図の完成度を上げていく議論をすれば、結果として何をすればよいかが浮かび上がってくる。次のアクションンにつながる。議論の開始から次のアクションが見えてくるまでに経過する時間が短縮化されれば、それ即ち生産性の向上に他ならない。

以前は、会議に参加する人たちがメモをとっていた。そのメモも人によって違うことがある。聴き方・受け取り方が違うとメモも違うのだ。異なったメモを事後的に調べるのは、歴史家の史料批判には面白かろうが、そんな相違は意思決定過程に問題があったということであり、つまりは<ノイズ>である。

組織的意思決定のプロセスは、人間が行っている以上、以前と何も変わらない、そんな一面もあるだろう。一方、ソフトの進歩によって以前とは様変わりになっている面もある。ヒューマン・ファクターによる組織的問題は、ソフトウェアの進歩で解決できるはずのものである。そしてソフト面の進歩はハード面での進歩がもたらすものだ。

勤務先の会議ではタブレットが配布され、紙の資料が配布されないケースが増えてきた。資料には、各自が自由に書き入れたりメモを加筆するのが勤勉の証であったが、そんなやり方が本当に組織的にプラスの効果をもたらしていたのか、たこつぼ型の勤勉さの温床になっていたのか、よく分からない。

そもそも江戸時代には「会議」などという言葉より「寄り合い」と言っていた。意見の集約の仕方にも技術進歩はある。というより、最も重要な技術であるように思われる。

2014年9月29日月曜日

マスメディアの「統計」感覚にはあきれることがある

御嶽山の「突然」の噴火には吃驚した。土曜日の昼頃、天気は快晴、紅葉は見頃。そのため多くの人が災難に巻き込まれた。

小生も若い頃に登山に凝っていた時期があり、北は吾妻連峰、南は北アの裏銀座コースまで色々と登った経験がある。残雪の仙丈ケ岳では数人前にいた一人が雪庇を踏んで斜面を滑落していった。どうなるかと思ったが、200メートル位から向こうは緩やかな上り斜面になっているので助かった。かと思うと、夏の北ア・船窪岳近くだったと記憶しているが、すぐ前を歩いていた先輩がぬかるみに滑り、左の断崖に落ちていった…と、路の端にあった木の根に偶然につかまり命拾いをしたものだ。その情景はまだ記憶、というかまざまざと眼前によみがえるようだ。

本当に山は危険にみちている。

地元・地方紙にはこんなことが社説に書かれている。
気象庁は「今回のような規模の噴火は予測できなかった」とする。ただ、兆候が全くなかったわけではない。
 今月中旬から火山性地震の頻発を観測したが、その後は減って警戒レベルは据え置いた。マグマの活動を示唆する火山性微動などは検知されず、噴火の「前兆」とまでは言えなかったからだという。
 技術的に予測が難しいのは分かる。だからこそ、人的被害を防ぐにはわずかな変化も前兆ととらえたい。一連の対応の検証と警戒レベルの基準の再検討が必要だ。
(出所)北海道新聞、2014年7月29日

 何も火山データ解析に限ったことではない。人間ドックで集められる検査データもそうだ。気にはなっていたが、その時には何も告げず、果たして数か月後に癌が見つかったとする。『なぜその時にはっきり伝えなかったのか』と、家族は抗議したいところだろう。こういう類のことは星の数ほどにあるのだ、な。

統計学でいえば<第1種の過誤>と<第2種の過誤>の話題に該当するわけであり、データ分析の基本中の基本とも言える箇所である。

上の地元紙編集部もそう思っているようだが、異変が近づいていれば測定データも異常を示すはずである。そう思い込んでいるのではないか。

もちろん間違いではない。あらゆるデータは「異常があれば、データも異常を示すはずである」と考えてデータを集めて分析するわけである。

もしデータが異常を示すのは、実際に異常がある時だけである、と。こう言えるのであれば
異常はわずかではあるが、データが異常を示している以上、実際に異常はある
こう断言しても何も問題はないわけである。しかし、このロジックが間違っているのだ。

× × ×

実際に異常がなくとも、データが異常を示すことがある。これは偶然原因によるノイズである。ノイズを全く含まないデータというのはありえない。健康であっても血圧が150を超えることは一過的現象としてありうるし、故に血圧が150を超えたからといって「高血圧ですね」とは即断できないわけである。

実際に異常はないにもかかわらず、データが異常を示したために「異常がある」と結論すれば、これは第1種の過誤に該当する。反対に、データは「異常(=有意)」とまでは言えないにもかかわらず、実際には異常がある。この場合は異常を見逃し、とるべきアクションがとれない結果になるので、今回の御嶽山は正にこれに該当するのだが、統計学では第2種の過誤と呼ばれている。

問題は、二つの過誤を同時に少なくすることは中々できないということだ — コストをかけてデータ情報を増やせば事情は変わる。「まあ、正常な範囲でしょう」と言いたいところを、「でもおかしいことは、おかしいよね」と異常宣言を出せば、異常を見逃す確率は小さくなる。これは間違いないのだが、実際には異常がないことが後日判明し、「また空振りか」と批判されるケースも同時に増えることになる。気象庁は、そんな「空振り」にどれだけ耐えられるのか。観光に依存している地元の人たちも数多いはずだ。そして、どちらかといえば、正常であるにもかかわらず、危なげに見えるデータが得られてしまうことの方が、案外、多いのだと推測される。新聞のいうように「わずかな変化も(噴火の)前兆ととらえ」てしまうのは、人間ドックで少しでもおかしな箇所があれば、片っ端から大規模病院で精密検査をすればいいのだ、と。そんな主張とどこか似かよっている。ことは人命にかかわるとなれば、コスト、ロジックは全く無視しても構わない。ここまで言えますか……。非合理は、やっぱり非合理であることに変わりはない。

× × ×

聞くところによると、御嶽山は1979年に突然噴火した。その後、1991年、2007年に小規模な噴火活動があったという。

そもそもいつ噴火してもおかしくはない火山だったのだろう。専門家の誰かが朝のワイドショーで話していたが、『近づかないのが危険を避ける近道です』。これが最も信頼できる格言だと(小生には)思われる。
生きること自体が危険なのです。
どこかのドラマでこんなセリフがあったが、活動中の火山に登ること自体、リスクを負担する行動である。こちらの方が本筋にかなっているのではないか。

データが正常なら、オカミは「異変が近づいている」とは言えない。しかし、データが正常であっても、それは異変が起こらないことの証明ではない。

これは、データが異常であっても、異変が必ず起きるとは言えない。その裏返しである。

2014年9月23日火曜日

はからずも「霊感」について気づいたことあり

本日は秋彼岸であるが、我が家では小生の亡母の命日にもなっている。今日は月参りはなく、寺にいき彼岸会に参加する。

終わると境内の大銀杏の下で地蔵供養が行われる。そこには13体(?)の地蔵菩薩像が建っており、いつもながら建っている数に何かの特別の意味があるのかしらと考えてしまう。

とこうするうちに、また読経が始まる。今度は銀杏の大樹の下に立っているので目をつむるわけにはいかない。聴いていると般若心経である。♪色不異空、空不異色、♫色即是空、空即是色……。

『色即是空』かあ…、独り想像の世界に入る。
今朝は年甲斐も無く思い人に結婚の意ありやと告白する夢をみた。あれは別次元で進行中のもう一つの平行宇宙なのか?いま経を読んでいるのは住職である。その隣に居るのは「ご隠居」こと、住職の親父ドノである。回りに立っているのは今日出席している善男善女である。こうして目でみえる人間達の間には透明な空間があるだけで何も無い。
色即是空の「色」とは姿形をもった人や物体である。それらは、しかし、原子がたまたま集まって仮の像をつくっているだけだ。それが姿形にみえるのは、人間が生きていく上で必要な感覚のなせる結果である。食べたり、獲物をみつけたり、生命の安全をはかるには、視覚、触覚、嗅覚など五感を通して外界を認識しなければならない。
人間は、物と生物のほかには見えない。そこには何も無い空間があるように見える。それは、そこに何かが存在するにしても、特段みえる必要がないからである。そんな理屈になろう。もし人間が生きるのに見えておく必要があるなら、実際に見える種族が進化のプロセスを通して<適者>になっていたはずだからだ。つまり、現人類に見えないものは、日常生活において人間とはかかわり合いが無く、見える必要が無いからだ。だから見えない。そう考えてよいだろう。
ということは、何も無いはずの空間にたとえば「霊気」とか「生気」のようなものが実際に浮遊しているにしても、それは人間が生きていく上で見る必要はなく、意味のない、まあ、いつもは視界に入らない塵のようなものである。こんなロジックになる。

……、見えている人や物は実は仮の姿であり、やがて解体し、分解し、塵に戻る。何もないはずの空間には何も無いわけではなく、それは人の感覚がとらえられないだけである。科学的な測定機器も人の感覚を精密にするものでしかない。なるほどこう考えれば、正に
色即是空 空即是色
あるものは実は無く、無い所には実はある。まるで下のエッシャーのだまし絵ではないか。



馬上の騎士は左から右に進んでいるようでもあり、逆に右から左へ進んでいるようでもある。一方を見たければ他方には何もなく、他方を見るときは一方はなにもないブランクだ。

存在と非存在は確かに対立しているが、どちらが存在していると考えるかによって、存在は非存在になり、非存在は存在になる。世界は異なって見える。それもまた真実ということか…。

ま、多くの人には霊魂がみえない。霊気を感じない。それは害がないからだ。害もなければ益もない。人の生活とは関係ない。これだけはハッキリしていることであるな、と。

それにしても北海道の秋彼岸という割には、暖かく、上着を着ていると汗ばむ程であった。

2014年9月21日日曜日

覚え書 − 1人の「影響力」なんてあるのか?

人間一人の影響力など砂粒のようなものだと思うことが多い。どれほど権力をもっているとしても形式的なものであり、一人で決めることができる事は少ない。国事はいうに及ばず、家庭内のことでもそうだろう。

人ひとり、どれほど偉くなっても身の回り三人がライバルであり、協力者であると感じることは多い。

会社の課長は10人前後の課員をまとめることが多いだろうが、一君万民的に意を達しているというより、やはり課長代理やベテランと相談しながら、全体の方向付けをするのが常だろうと推察する。まして社長が全社員を掌握するなどは無理だ。

そういう意味では、戦前期日本の天皇機関説ではないが、<社長機関説>はどの企業にも当てはまる。人が他人に及ぼす「影響力」はどれほど偉くとも間接的である。トップとは<旗>のようなものとなり、理想的なトップとはアレコレ言わないもの、そんな風にもなりうるわけだ。つまり人ではなく、組織、というかシステムが人をしばるのだ。

いまの季節には空中に蚊柱がたつことが多いが、蚊は近くの仲間をみているだけである。仲間をみるだけで集団はバラバラにならずにすむのである。リーダーになる個体がいるわけではない。

★ ★ ★


Monet, 印象・日の出, 1873

ネットを通して絵画作品をみることができるのだから、美術館に行くか、でなければ画集でしか鑑賞できなかった時代とは様変わりになった。

「印象派」という呼称は上の作品から生まれた蔑称だそうだが、小生、最初に画集でみて、不思議に好きになった。自分でも真似をして描いてみようと思って、それが今日までの趣味になった。真作は一枚きりであり、モネが描いたのだが、その後何千枚(何万枚?)もリプリントされた模造品を通して、100年以上も後の(フランス人からみた)外国人にまで影響を与えたわけだ。

上の作品は、ずっと前に日本で公開された時にみた記憶があるが、「ああ、これが本物なのか」と違和感を感じたものだ。まして上の画像の色調は真物とはっきりと違っているはずだ。小生が思春期にさしかかる頃にみた画集はもうないが、やっぱり相当偏った色調だったのだろう。

言葉による影響力もそんな風だろうし、まして言葉に包まれた思想など、聴いた人が勝手に自分で再構成しているだけである。

『これは……意図したことと違う!』とよくいうが、マルクスもヘーゲルもカントもすべて含めて、「▲▲が言ったように」と教えられている内容をいまきけば、いい加減なことをいうなと憤慨するのは必定だろう。

その意味では「影響」とは「誤解」であり、周りの思い違いから、最初に意図されたこととは違う結果が得られるものだ。社会の歴史は思い違いと偶然と無責任に満ちている。責任とは、結果ではなく、はじめの意志について問われるものだろう。ただ、小生寡聞にして、法律の文言に「運・不運」という文字をみたことはない。