行くたびに、どこかの手順・やり方が変更されている。便利にするという理由はあるかもしれないが、前と同じでそんなに変わらないではないか。カネをかけてシステムを変更する意味があるのかと。そんな風にも感じる。もっと先にやることはないのか、と。
模写‐ゴッホ‐畝みち‐F8
(出所)岩波文庫『ゴッホの手紙』第545信のデッサン
…われわれの貧しさを軽くするために全力を尽くすことが、僕の義務であるのを、はっきり感じる。
それは画業の上には何の価値もないことだ。ゴーガンは僕よりはミレーに近い感じがする。僕は彼よりはディアスに近い。だから僕はディアスのように、組合に金を入れるために大衆の気にいるようにしていくつもりだ。僕は彼らよりも金を使った。そんなことは彼の絵をみた瞬間どうでもよくなった。うまく行くにはあんまり貧しいなかで仕事をしたのだ。
まあ待っていたまえ、前に送ったのよりいい、もっと売れそうな絵が出来ている。そしてもっとできそうな気がするのだ。やっとそれに確信をもてた。『星空』、『葡萄の枝』、『畝みち』、『詩人の庭』といったような詩的な題材を見つけると、ある連中の気に入ることが僕にもわかった。(引用: 岩波文庫『ゴッホの手紙(中)』、296頁)
オリジナルが目の前にあるわけではないので、ゴッホを模写しようとして、いつの間にか自分の絵になってしまった。
1888年前後、アルルの麦畑でゴッホがのこしたドローイングを本でみて彩色したくなったのだ。同じころ、大体同じ場所で描いたとみられるゴッホの作品。
Goch, Wheat Field, Arles, 1888
Source: Vincent van Gogh Gallery
それでも構図のとりかたも含めて、最初から自分で描いた作品と比べれば、模写であれオマージュであれ、天才の足跡を模倣することは自分を高める勉強になる。
自分一人の「独創」などはタカが知れている。単なる「思い付き」がまかり通る社会であってはならない。大いなる遺産の価値を認め、偉大なものに対して謙虚な気持ちを持つときにのみ、自分でも納得できる結果が残せるというものだろう。世の中の99パーセントを占める凡才の生きる道はこれ以外にない。
「創造」とは、集合知の進歩という形をとって進むものだ。天才ですらその天才が憧れる偉大な先達がいる。
人間に出来ることは<誰かの>あとを追う。これ以外の道はないと感じることが多い。
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