2017年12月1日金曜日

PC時代にそれでもサミュエル・ウルマンか?

サミュエル・ウルマンの詩は日本でも一世を風靡したものだ − もう随分と昔になったが。


青春とは人生のある期間を言うのではなく心の様相を言うのだ。優れた創造力、逞しき意志、炎ゆる情熱、怯懦を却ける勇猛心、安易を振り捨てる冒険心,こう言う様相を青春と言うのだ。年を重ねただけで人は老いない。理想を失う時に初めて老いがくる。歳月は皮膚のしわを増すが情熱を失う時に精神はしぼむ。苦悶や、狐疑、不安、恐怖、失望、こう言うものこそ恰も長年月の如く人を老いさせ、精気ある魂をも芥に帰せしめてしまう。年は七十であろうと十六であろうと、その胸中に抱き得るものは何か。曰く「驚異えの愛慕心」空にひらめく星晨、その輝きにも似たる事物や思想の対する欽迎、事に處する剛毅な挑戦、小児の如く求めて止まぬ探求心、人生への歓喜と興味。

人は信念と共に若く  
疑惑と共に老ゆる 
人は自信と共に若く 
恐怖と共に老ゆる
希望ある限り若く 
失望と共に老い朽ちる

大地より、神より、人より、美と喜悦、勇気と壮大、偉力と霊感を受ける限り人の若さは失われない。これらの霊感が絶え、悲歎の白雪が人の心の奥までも蔽いつくし、皮肉の厚氷がこれを固くとざすに至ればこの時にこそ人は全くに老いて神の憐れみを乞う他はなくなる。
(出所)http://home.h03.itscom.net/abe0005/ikoi/seishunn/seishunn.htm

ウルマンは1840年に生まれ1924年に死んでいる。84歳だった。

確かに、『年を重ねただけで人は老いない』のかもしれない。が、年を重ねるだけで必然的に老いる側面もある。そう言わざるを得ない時代が来たと感じる。

一世を風靡したウルマンの「青春」には一つ不思議な点がある。老眼について言及していない。視力の衰えに触れていない。アレルギーの発症について言及していない。病気についてとりあげていない。仏教でも四苦と言って生・老・病・死をあげているのに。よほど健康で病気とは無縁で肉体的に強靭だった人なのかと思ったりする。なら幸運な人である。

「青春」はウルマンが70代になって書いた作品だという。ノートPCもなく、書くといえば紙の上に大きな字を書けば、あとは出版社が活字にしてくれる時代だったから、それでよかったろう。

◆  ◆  ◆


長寿社会で人生80年の時代が来ても50歳を過ぎれば視力が衰える。60代になれば細かな字が読めなくなる。最近は、データ分析で実習授業を行なっている時、学生が使っているノートPCの画面が読めなくなってきた。彼らは12インチの画面にサイズの小さなフォントを使って、それを読んでいる。ウルマンの時代にはこんな苦悶はなかったはずだ。苦悶は老齢を意識させる。

アニメ界の巨人・宮崎駿も現役引退宣言をしたとき『もう目が見えないんですよ』と身体的能力の衰えを理由に挙げていた。信念や自信だけから『何事かかなわざらんや』というのは無茶であろう。

◆  ◆  ◆

第二次大戦時に連合軍の総司令官だったダグラス・マッカーサーは1880年の生まれだから1945年当時は65歳になっていた。

今なら年金支給開始年齢になってから占領地行政の責任者になったわけだ。激務であったろうと推察する。

それより、60歳を過ぎて、赴任していたフィリピンから追い落とされ、豪州まで退却して日本への反攻作戦を指揮したというのだから、肉体的にも実にタフであったと感嘆する思いだ。少なくとも食べるものに注文はつけない人だったのだろう。とすれば、気持ちの若い人であったに違いない。

いまの小生なら絶対無理だネ。朝方早く目が覚めてしまうわりには起きだすのは8時を過ぎてからだ。朝は美味しい珈琲と消化のいいオートミールのミルク粥。ザウワークラウトとソーセージが欲しい時もある。夜は糖質制限中。肉料理を所望だ。仕事は原則的に午前中。午後からは仕事から離れて、今のうちに読んでおきたい本を開いたり、やっておきたいデータ解析をやる。データ解析をやるときは老眼鏡では画面が見づらいので、最近流行のハヅキルーペ(メガネ型ルーペ)をつかう。午後は午睡をしたい。夜は必ずミストシャワーで疲れをとる ー 若い自分はこの程度の毎日で疲れるはずもなかったが。

小生の場合、人生80年というより、やはり60歳定年が適切だと痛感する。人間ドックなどは受けず、10年余りを過ごす。そして80歳にはならない頃を目安に、ボロボロになってしまう前に世を去る。

これがイイね。こんなライフサイクルが年金財政的にも迷惑をかけず、精神能力的にも身体能力的にもちょうど良いのではないか。

まして90歳、100歳となると、いくらウルマンでも『人は自信とともに若く』とは言わないのではないかネエ。前回投稿の『徒然草』の下りの英訳を読んでもらう方がいいのではないか。そう思ったりする。


2017年11月29日水曜日

「ハラスメント」、この現代を象徴する言葉

人生は短いとよくいう。しかし、時間が長い、短いという感覚は人生の平均的な長さから決まっているにすぎない。小生は人生は十分に長いと思う。『徒然草』第7段の有名な下りに以下のような文章がある。
命あるものを見るに、人ばかり久しきものはなし。かげろふの夕を待ち、夏の蝉の春秋を知らぬもあるぞかし。つくづくと一年を暮らすほどだにも、こよなうのどけしや。あかず惜しと思はば、千年(ちとせ)を過(すぐ)すとも一夜(ひとよ)の夢の心地こそせめ。 
住み果てぬ世に、みにくき姿を待ちえて何かはせん。命長ければ辱(はじ)多し。長くとも四十(よそじ)に足らぬほどにて死なんこそ、めやすかるべけれ。 
そのほど過ぎぬれば、かたちを恥づる心もなく、人に出でまじらはん事を思ひ、夕の陽(ひ)に子孫を愛して、栄(さか)ゆく末を見んまでの命をあらまし、ひたすら世をむさぼる心のみ深く、もののあはれも知らずなりゆくなん、あさましき。
(出所)http://roudokus.com/tsurezure/007.html

小生思うのだが、いま小中高校で上の文章を授業でとりあげれば、高齢者に対するハラスメントになるのではないかと憶測する。

人生50年の時代の40歳は、人生80年時代の65歳以上、まあ年金支給開始年齢以降の老人を指すと言ってよい。

現代の感覚に置き換えて最後の段落を読めば、『年金をもらう年齢にもなれば、風采を恥じる感性も失い、世間にしゃしゃり出ることばかりを考えるようになる。何かと言えば子供や孫のことばかりを心配し、自分の子孫が繁栄することばかりを願い、自分の目でそれをみれるまで長生きしたいと願う。ただただ貪るように、欲深く生きたいという気持ちが強くなり勝る。だから、もののあわれに感じる優雅な心とは無縁になっていくのだ。何とあさましいことか』と、大体はこんなところだ。

言えますか? 古文の授業で原文をこの通り解説できる教師がいまどのくらいいるだろうか。高齢者への「ハラスメント」に該当すると言われそうではないか。

◇ ◇ ◇

日本国憲法では私刑、いわゆるリンチは厳に禁止されている。第31条にはこう書かれている。
何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない。
なので、たとえばメディア・スクラムによって自宅に缶詰め状態になるなどという状態は、憲法違反ではないかと小生は思っている。よく「社会的制裁」と判決文にあるが、「社会的制裁」自体が私刑であり、憲法違反であると思う。「知る権利」などはマスコミによるマスコミのためのマスコミ用語であり、現行憲法には規定されていない蜃気楼のような概念であると思っている。

リンチが禁止されている以上、リンチに近似した「いじめ」。ハラスメントも禁止されるという法理は極めて自然である。

実際、30年ほど前からだろうか、世に普及したセクハラという言葉以降、今ではパワハラ、アカハラなど多種多様なハラスメントが認められるようになった。

しかし、法的にハラスメントを概念定義し、その防止や救済、処罰にあたる基本的な考え方を規定する「ハラスメント防止基本法」のような法律は、小生の勉強不足かもしれないが、まだ制定されてはいない(と思う)。

ドメスティック・バイオレンスがあるのであれば、ドメスティック・ハラスメントもあるべきであるし、デート・バイオレンスに至る前のデート・ハラスメントもそうだ。

ゴミ出しハラスメントもありうるし、井戸端ハラスメントもありうる。ペット・ハラスメント、香水ハラスメント、ファッション・ハラスメント、音楽ハラスメントもそのうち出てくるだろう。

しかし、嫌なことを全てハラスメントと認定し、社会的に抑制していこうとすれば、あたかも現実社会を無菌化するような努力にも似てくる。表現の自由、思想信条の自由との調和も必要になってくる。

だから、法的な限界(=社会として約束する範囲)を引いておく必要があると思うのだ。

◇ ◇ ◇

ただ「ハラスメント」という用語は本当に現代特有のニュアンスを帯びていると感じる―ということは、逆に30年後になお「ハラスメント」という言葉が使われているかどうかは分からない。そうも思えるのだ、な。

たとえば「侵略」という言葉がある。現代の日本社会で「侵略」という言葉は極めてネガティブな印象を与える。日本はアジアを侵略したと中国・韓国が言いつのれば、それは反日キャンペーンであると思って日本人はきくだろう。

しかし、幼少時の個人的な思い出話になるのだが、小生が幼い時の夕食時、性格もあって好きなおかずを後に残しておくことが多かった。それをみた亡くなった父は『どれ、侵略、侵略・・・』と言いながら、小生の皿からその意図的に残してあった好きなおかずを取っていったものである。『あっ、お父さんとっていった、返してよ!』と言っても、『アッハッハッハ、侵略されちゃったなあ』と。母も笑って父子のやりとりをみている。

いま、そんな会話が交わされることはあるだろうか。まず、考えられないと思うねえ。

父が好きでよく歌っていた歌は武田節だ。歌いだしはこうだ。

〽 甲斐の山々 陽に映えて
われ出陣に うれいなし
おのおの馬は 飼いたるや
妻子(つまこ)につつが あらざるや
あらざるや

歌のモデルは戦国大名の名門・武田である。真ん中で詩吟が入る。武田の旗印である風林火山である。古代中国の軍略家・孫子からとっている。

疾如風(ときことかぜのごとく)
徐如林(しずかなることはやしのごとく)
侵掠如火(しんりゃくすることひのごとく)
不動如山(うごかざることやまのごとし)

 亡くなった父にとって他を侵略する行為は、積極果敢な前向きの行動であって、やましい気持ちなどは微塵もない。父というより、戦前に教育を受けた青年たちはそんな共有された理念と価値観をもっていたことが、今になって分かるような気がするのだな。

なので、自分の幼い子供に『どりゃ、侵略、侵略・・・』などと言いながら、家庭内教育をしていたのだろう。

こんな感覚は現代日本からは完全に消失している。ということは、いまから3、40年もたてばまた再生されるかもしれない、そういうことでもある。

もう一つ、これは現代日本にも理解されそうな例がある。福沢諭吉が安政5年(1858年)の日米修好通商条約批准書交換のために訪米する万延元年遣米使節一行に随行し咸臨丸でアメリカに渡った。福沢はアメリカの経済が自由市場を基本にして成り立っていることをつぶさに見聞してきた。帰国後、Competitionを「競争」と訳したところが、幕府の役人は「争うとは穏当ではない文字じゃ」と削除を求めたそうだ。幕府は「和を以て尊しとなす」を理念としていた。なので、「競争市場」などという理念が正しいとは当時の幕府官僚にはまったく思えなかったのだ。

現代日本の感覚は、むしろ「争い」を否定して、「和」を尊重する江戸幕府の役人に共感するのかもしれない。福沢渡米から158年も経過した後、日本国民の感覚は一周りして元に戻ってきた。そういうことかとも思う。

世間の感覚は移ろいやすく、決して定かではないのである。


◇ ◇ ◇


合理性とは、これは真理であると思われる大前提から出発し、あとはロジカルな議論を通して結論を得ることで確保される。法律的論議では規定された法規が真理であると前提される。法が現実から遊離しているという可能性は法律的論議では展開不能である。経済学でも理論構成は同じ性質を共有している。消費者、企業の最適化行動を前提しないのであれば、どんな結論も出てくる。つまり、出したい結論を出せる。学問ではなくなる、というわけだ。

その「何を前提するか」だが、それは合理的議論からは出てこない。その時代の社会が「これは当然正しいよね」という感覚で前提するしかない。あとは合理的だ。故に、理にかなった考え方をするはずの国民がなぜ無茶な集団的行動をしたのか。後になって理解できないことが出てきたりするが、それは同時代の感覚を現実として共有できていないためである。

もちろん「一連の事実」を「明らかな前提」において「故に、・・」という議論の仕方もありうる。しかし、その事実をもたらした根因とメカニズムを理解しないまま、事実はこうだから云々という議論は大半が間違っている。なので、このパターンは(さしあたり)論外とする。

「ハラスメント」をあくまでも撲滅しようとする現代日本社会の、というより世界の潮流は(多分)正しい方向を向いた努力なのだろう。

しかし、ハラスメントを禁止しようという思考は<合理的>なのかどうか。それを証明するのは難しいと思う。むしろ<当然禁止するべきだよね>という世間の感覚に近い。そう思うことがある。とすれば、ハラスメントに関する議論には個人的な思い込みも混じっているだろうと思う。であれば、30年後の世界がどんな見方をとっているかは分からない。最近現れた言葉や概念は、近いうちに消えてしまうかもしれないからだ。

故に、余計にハラスメントの防止と処罰に関しては基本法を明確に制定しておくべきだと思うのだ、な。

◇ ◇ ◇

北朝鮮が盛んにミサイルを発射するのは<国家的ハラスメント>なのだろうか。それとも大国アメリカの国防感覚が発露していることから続けられる北朝鮮に対する<いじめ>に応じた<反撃>にすぎないのか。

ハラスメントとは「相手に不快な思いをさせること」で成立する。では「不快」とは何か。注射の痛みは「不快」ではないのか。耳鼻科の措置は「不快」ではないのか。現実に治療中に患者が不快を感じてしまった場合、それをどう認識するのか。ここが明確に定義されなければ、上の定義は同義反復(トートロジー)であろう。

「ハラスメント」は極めて現代的である言葉だ。それが現代を超えて、普遍的な通用力を持つかどうか、なお明確にするべき余地は大きい。

◇ ◇ ◇

横綱・日馬富士が引退を決意したとの報道だ。

あれは文字通りの「リンチ」であるという感想を小生はもった。指導には当たらないという点は前の投稿でも書いたので省略する。

【この件に関する感想 11月30日加筆】

暴力根絶は現代日本社会の合意である(と言えるだろう)。今回はこれに抵触した。

本場所・巡業の会場に自ら足を運ぶ熱心なファンは横綱の取り組みをもっと観たかったようである。もし相撲に深い関心をもつ人々だけによる裁決で結論を出すならば横綱は引退しなかったはずだ(と予想する)。つまり、横綱引退に導いた主たる力は、少数の委員、というより普段はあまり相撲に関心を持たない多数の人たちが暴力というものに対して感じる非難感情である。

類似のケースは他にもある。

野球にはもともと無関心であってもプロ野球界で不祥事があれば非難の感情を抱き処罰を求める。相撲にはもともと無関心であっても暴力事件があれば暴力否定の感情から処罰を求める。更に、美術にはもともと無関心であっても、美術界に不祥事があれば旧来の慣行が理解できないとして関係者の処罰を求める。音楽界についても同じ。文学界についても同じ。学界についても同じだろう。

このようにして関係者による分権的統治は否定され、集中的・集権的に物事を決める方向へと事態は進む。権限委譲、分散処理、地方分権が重要な社会的課題になっているにもかかわらず、単一的・集権的・機械的結論を社会は喜ぶ。実質的審議ではなく、形式的審議を分かりやすいという理由で好む。

関係のない大多数の人々がどう考えるかで集権的に物事を決めるという潮流は、「第三者の意見」を重視する近年のファッションでもある。これを直接民主主義といえば(小生は濫用であると感じるが)それなりに理にかなっていると言えるのかもしれない。

しかし、その第三者を日本人だけに限るなら理にかなわない(と思う)。国際化した活動をマネージする主体は国籍にとらわれるべきではないだろう。日本人が<これは正しいよね>と前提することを海外の人々も<そうだよね>と同意するかどうかは分からない。前提が変われば議論の全体もまた変わる。大相撲が真に日本人のための「国技」であるなら文化慣習の異なる外国人は参加するべきではない。外国人の参加を認めるなら、日本人だけの価値観や感覚で管理するべきではあるまい。

この問題は海外進出する日本企業、のみならず外国人を採用する日本企業すべての問題でもある。

まあ今は当事者・日本人を含め、色々な変化期にあるのだろう。

2017年11月26日日曜日

断想: 2017年もそろそろ終わりだ

この冬はまだ11月だというのに戸外はもう真っ白である。いつもなら紅葉に初雪が降り積もって二つの季節が重なり合うころだというのに。

申酉騒ぐの酉年ももう一月余りでおしまいだ。長らく続けてきた「仕事」もそろそろ店じまいにして、あとは自分自身のために身につけてきたもの、勉強してきたことを楽しみたいものである。

そもそも勉強も読書も自分のために始めたことだ。人のためではなかった。

とりが空をとぶように自分はじぶんの心のなかをとぶ
ミジンコが水のなかをうごきまわるようにじぶんは夢のなかをさまよう 
あのひとがまだ生きているなら自分も生きていてよかった
あのひとがもう生きていないなら自分はなぜ生きているのだろう 
この星がずっとあるなら自分の子のそのまた子のそのまた子も・・・ずっとありたい
この星がいつか消えるなら自分もいまから無とやらになっているだろうか

「人のために」とか、「社会のために」とか、「世の中のために」とか、これらは青春時代のスローガンにふさわしい言葉だ。

齢をとってくると目に見えないものは信じない。「戦争」と「戦い」との違い、「平和」と「事件」との違いは、理論好きな人たちに任せよう。




2017年11月24日金曜日

大相撲は改革されなければならないのか?

「相撲」というキーワードで本ブログを検索すると結構出てくる。

今月21日の投稿の以前にもこんなに相撲を話題にしていたのかと。意識はしなかったが、小生も相撲ファンの一人なのかもしれない。

八百長防止」というそのズバリで書いたこともあった。2011年5月11日だからもう6年以上も前のことだ。そこではこんなことも書いてある。
大体、掛け値なし本気のガチンコ勝負を15日連続でやれば、怪我をする確率が高い。特に技量が向上途中にある若手の普通クラスの力士はそうだろう。そして若手の向上途中にある力士ほど怪我をおそれるはずだ。怪我をしても次の本場所は年6場所制では2ヶ月先にやってくる。骨折でもすれば1ヶ月は稽古が出来ない。そろそろと再始動しているうちにもう本場所だ。その間に巡業などをやって勝負勘を取り戻しておけばいいが、それは無理だろう。そこでまた無理をして怪我をするかもしれない。そんな状態で15日またやる。
怪我をおそれずシナリオなしのガチンコ勝負を毎日ずっとやれというからには一定の条件が必要だ。
亡くなった父が夕食の折などよく相撲を話題にしていた。戦前は年2場所で13日制だったというのはよく話していた。

ただ、(今になってからやっとだが)Wikipediaで調べて見ると、父が相撲のラジオ中継を聴いていた昭和初めの頃は角界変動期にあたっていたらしく、昭和2年(1927年)に東京と大阪に別れていた団体が統合され大日本相撲協会が発足後、本場所は年4回でスタートしたところが、昭和7年(1932年)に待遇改善を求めて多人数の力士が脱退したため、年2回の開催となったようである。その後、名横綱・双葉山の活躍が契機となり、昭和12年から13日制となり、14年には15日制になった。父はその変わり目の頃のことを覚えていたのだろう。

戦後になってから先ず1場所13日制で再開された。昭和24年(1949年)1月場所である。同年5月場所で15日制に戻り、以後15日制が定着した。昭和25年(1950年)から27年までは年3場所の興行だった。年6場所制になったのは昭和33年(1958年)7月の名古屋場所からのことである。これ以降、年6場所・15日制が定着して今日に至っている。昭和40年(1965年)からは部屋別総当たり制も採用されることになった(以前は出羽一門、二所一門など一門同士は対戦せず大部屋に所属する力士は有利だった)。

最近の力士は重量化したこと、(さらに稽古量が減っているせいでもあるのか?)怪我をしやすい。年6場所・15日制は長期的に持続困難ではないか。

場所数を減らして、放映権、チケット料金を値上げするほうが、理にかなった方向だと思うこともある。

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 こんなことも書いてある。2015年2月13日の投稿だ。初場所なら1月で、2月に書いたというのは解せないが、何か思い出すようなことがあったのだろう。

確かに横綱白鵬は双葉山が口にした「木鶏」の境地にはなかったようである。が、けれども荘子はモンゴルの人が嫌う漢民族の人であるから、こんなエピソードは不適切かもしれない。だから、相撲に詳しい人も知ってはいたが、語らなかった。その可能性もあるやに感じられる。
ちなみに、事実の推移は親父が言ったようではなく、双葉山は東の支度部屋に戻るなり『ああっクソ!』とうめいたそうである。「木鶏」は一晩寝てから出た言葉であるそうだ。どちらが本当の話しなのか知らないが、うちのカミさんは「こちらのほうが分かる」と言っている。

2015年初場所の白鵬と稀勢の里戦で物言いがつき、取り直しになった一件で、白鵬が行司を批判した態度が横綱らしくない、と。そんな報道で一杯になったのだな。それで書いたようだ。

文中、双葉山が「ああっ、クソ」とうめいたのは、安芸ノ海に負けて70連勝を阻止され支度部屋に戻った時のことだ(と聞いている)。

いくら横綱でも悔しい気持ちになることは当然あるに違いない。判定に納得できないことも人間だからあるだろう。双葉山ですらも伝説どおりではなかったということだ。どうやらそんな感想をメモしておきたかったようである。

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小生自身の少年時代の記憶に関する投稿もあった。忘れていたなあ。2013年1月20日に書いている。

昭和の大横綱・大鵬が死去したというので地元の道新は一面トップをさいている。小生も訃報を聞いた時にはそれなりのショックと一つの時代が終わったような感覚を感じたから、一人の関取の死をトップで報道しようとする姿勢も何となくわかるのだな。
少年時代にはよく相撲中継をみた。10日目頃から大関たちとあたるようになる。栃光、栃ノ海、北葉山、佐田の山ときて千秋楽には柏戸とあたる。そんな記憶がある。戸田との取り組みはまだ覚えている。見ていた側からは負けたとしか見えなかった。亡くなった父が一緒に見ていたかどうかは覚えていない。そこでこの一戦があった昭和44年の三月場所開催期間万年カレンダーをみてみると、大鵬が戸田に負けた二日目は、3月10日月曜日だったことがわかる。してみると、父は仕事があったはずであり、当時はもう本社勤務だったはずだ。急いで帰宅しても取り組み時間には間に合わない。やはりリアルタイムでは、父は大鵬・戸田戦を観てはいなかったはずだ。NHKのニュースででも観たのだろうか。父も「負けたなあ」と話していたように覚えている。それが誤審であったと後できいて、思春期だった小生にはいかにそれが酷い話しであるのか、ピンと来なかった。「本当は勝っていたんだよ」と言われても、そうかやっぱり勝っていたのかと安心したものの、理解はできないものである。まして45連勝でとぎれたんだと説明されても、それはおかしいとしか考えられない。「世間のルール」というものを年若の者はよく知らないのだ。
小生にとって「大横綱」と言えば、大鵬をさす ー 好きな力士は北の湖であったのだが。

両人とももうこの世にはいない。

大相撲が日本から消え去るという可能性は今のところ考えられない。とはいえ、時代に合わせてシステムを変えていく努力は明治、というか江戸時代からずっと一貫して続けられてきた。

現在の興行体制は、ある時期の激変期を経てから後、それからは落ち着いて安定的に継続されてきた。それだけのことである、とも言える。

稽古ならいざ知らず、飲み会の二次会で殴って制裁するのは憲法でも禁止されている「私刑」であり、もう漫画の世界でのみありうるというのが日本人の共通の感覚だろう。

「変えてばかりいるのも問題だ」という人もいるらしいが、問題発見・問題解決への議論と計画など、真剣に続けていく必要があるわけだ。改善/改革への努力を怠ってはならない。これはもう10年前の惨状を思い出すまでもなく、自明のことである。

その努力の成果を、出来れば毎年1回、日本相撲協会『相撲白書』にまとめて公表してほしいものだ。もし刊行されれば小生は絶対に買う。執筆陣は外部協力者に委託すればよい。いまなら相撲ファンの厚みもあり、応じる人も多いだろう。

年間取り組みベスト10もやってほしいものだ。ベストスリーの取り組みは改めて表彰してほしい。そうすれば<相撲とはいかにあるべきか>が具体的に周知されるだろう。ワースト10もやるべきかもしれない。<悪い取り組みはこういうものだ>と、汚名・醜名が残るのを力士は何よりも恥じる。教育的効果は絶大だろう。

名力士を育てた親方は<名伯楽>として表彰するべきだろう。相撲界の宝は良い師匠である。

◇ ◇ ◇

以下は付け足し:

関取にも色々なタイプがいる。才能も目標もマチマチだろう。しかし、人口でいえば横綱よりはせいぜいが幕内、前頭までという人が多数派だ。

横綱まで上り詰めた人は平凡な関取OBの願望は分かるまい。と同時に、平凡な関取で相撲人生を終えた人は横綱に昇進するまでの稽古、鍛錬の苦しさは想像できないだろう。横綱が抱いている理想もわかるまい。凡人にとって相撲は生活の術であり、それ以上のものではない。

しょっちゅう書いているように、為すべきことを為すのは天才だが、受け入れるかどうかを判断するのは凡人だ。多数の凡人がついてこれなければ、天才は為すべきことができない。

天才が実際に活動できるのは「危機の時代」であるのは、そのためだ。順調にいっている間は、凡人が世の中を支配する。





2017年11月21日火曜日

国技「大相撲」の暴行騒動をきく本筋は

小生の上の愚息は幼いころから熱心な相撲ファンである。四股を踏む小学生時代の愚息を撮影した写真も数多く残っていて、それらを見ると歳月というもののたつ速さを実感する。最近まで使ってきたiPhoneからSONYのXperiaに機種更新したのだが、仕事帰りの車中でワンセグが見れるようなったと喜んでいる。相撲中継なら電車の中でも音声なしの画像だけでわかると話している(Bluetoothイヤホンを買えばいいように思うのだが)。

その大相撲界。いま九州場所の開催中であるにもかかわらず、話題はもっぱら貴ノ岩関に対する横綱・日馬富士関の暴行及び傷害(?)事件でもちきりである。

これは無礼な態度を叱責する躾だという人もいれば、パワハラだという若い人もおり、いずれ関係者の何人かは処分されるだろうが、その筋(=日本相撲協会、警察・検察?)は処分の仕方に大変苦慮することだろう。

× × ×

ここでは覚え書きとして:

一般人に対する力士の暴行事件ではない。角界の不祥事である。組織内部の統制という観点に加えて、やはり顧客志向という観点も大事だろうと思われる。もちろん社会的常識や大多数の納得感は欠かせない。

10年ほど前にも相次いで発生した不祥事があった。特に2006年から2011年まで毎年のように不祥事が連続的に発生した「角界暗黒時代」はまだ記憶に鮮明である。

その中には、横綱・朝青龍の暴行と引退もあったし(2010年)、大麻使用事件(2008年)もあった。大麻事件では当時の北の湖理事長が引責辞任をしている。その前の2007年には時津風部屋の若い弟子が稽古中に暴行されて死亡するという事件があった。

毎年のように発生するトラブルにファンは徐々に離れていたが、大打撃になったのはやはり「野球賭博事件」に大量の力士が関係していたことが明らかになり、幾つかの相撲部屋が家宅捜索をうけた事件であろう。2010年5月のことであり、直後の名古屋場所では初めてNHK中継放送が中止され、天皇杯、内閣総理大臣杯授与も行われなかった。これが大相撲を愛する堅いファン層を大いに侵食した。

そして翌年2011年の3月、大阪場所が中止に追い込まれた。野球賭博事件の根が角界にも深く広がっており、取り調べをうけた力士の中には相撲も賭けの対象にしていたと供述したものがいた。更に、八百長を認めた力士も現れてしまった。

この「相撲八百長事件」が致命的な打撃となり、相撲ファンは当時の大相撲に心底から幻滅したと言える。

今回の騒動でほぼ10年前の泥沼を思い起こす人も多いだろう。やはり、相撲の本筋は体を張った闘技ということであり、勝負の厳正さは相撲の命ということだ。単なるエンターテインメントではない。勝負にシナリオなどあってはならないわけである。しかも、相撲は日本の「国技」ということにもなっている。

この本筋にそうところに相撲ファンのコアがある。なすべき稽古もこの大原則から導かれる。そう思うのだな。

今回の騒動をどう裁くか。過去の事件の教訓を生かしてほしいものである。守るべき価値は守り、直すべきところを直してほしいものだ。

× × ×

相撲は格闘技であり、立ち合い様の張り手は当たり前のようにある。本割で張られる以上、稽古で慣れておかねば話になるまい。この点は、野球やサッカーとはまったく違う世界だ。

とはいえ、『殴ればわかる』、『殴られて悟る』という考え方では、指導の効果が出ないと小生は思っている。

小生自身も二人の愚息が成長している途上で、体罰に訴えたことがないわけではない。

殴ってしかるなら、なぜ殴るかが殴られる側にもハッキリと理解できる状況が不可欠だと思っている。

言葉で語るのが最善だ。しかし、言葉が上手な人が必ずしも善い指導者でもないことはだれでも知っている。言葉で語る話しに加えて、表情や動作、全てが表現手段である。師弟 ― のみならず親子、年上と年下等々 ― の間の信頼感は結構複雑なものだ。叩かれてその瞬間に何かが理解できる、理解できてそこでまた頬ずりをされる、抱きしめられる、そんな表現の仕方も確かにあるだろうし、特に格闘技の稽古では言葉外のコミュニケーションもありうると小生は思う。

× × ×

いま読んでいる本は相撲とはまったく関係のない『日本人のための第一次世界大戦史 世界はなぜ戦争に突入したのか』(板谷敏彦)である。その中にある下りなのだが、
表面上の軍律が厳しいのは士気が低いことの裏返し
という指摘がある。第一次世界大戦時のイタリア軍は『軍律は厳しく、無理な命令であっても突撃を躊躇するとどうなるのか、見せしめのための罪なき銃殺が部隊内で頻繁に行われ』ていたと説明されている。しかし、軍律厳しいはずのイタリア軍の現実の戦いぶりはまったく酷いもので、ドイツ軍、オーストリア軍に押し込まれ、食料は不十分で、かつ給与は低く、休暇もわずかであり、そのため1個連隊全体が反乱を起こすこともあったという。

暴力による指導や折檻をできる限り避ける方がよいのは、しばしば指導者の堕落を招きやすいからである。というより、指導者の力量不足や組織全体の堕落を暴力が象徴しているからである。

低品質の指導者はしばしば暴力や体罰、重罰・極刑に頼りがちであるという事実は、上の(第一次大戦時の)イタリア軍の惨状からも推し量れる。

× × ×

話しを戻す。

叱られた側が納得していない限り、殴打による指導・折檻が効果をあげていない、伝えるべきことが伝わっていない。これだけは明確な事実と言える。とすれば、今回の横綱・日馬富士の行為は、指導ではなく暴行である、と。いかに善意志によるものであったにしても、暴行だと認定されても仕方のない面は確かにある。

それにしても、(一部では批判の向きもあったと読んだことがあるが)北の湖前理事長が急逝した折に、今後の角界・親方衆を誰がまとめていけるのかと。そう心配する関係者が多かったようである。事実はその通りになってきた。そんな感じもするネエ・・・。

やや奇矯な人柄ではあるらしいが貴乃花親方が日頃提案していること自体は正論だと思う。組織内部の戦力として包容できる器がないとすれば大きな損失だ。しかし、そんな方向には向かっていかないだろう。

逆風に対して知恵なき内向きの姿勢が強まるだろう。先行きは暗い。

2017年11月19日日曜日

「▲▲砲」が自然発生し繁茂しつつあるようだ

「文春砲」という言葉が日常化したかと思えば、今度はネット上のニュース、というか意見公表の共有空間ともいえるアゴラをたとえて「アゴラ砲」という語が使われるようになっている。

確かにアゴラという場は実に面白く、モノトーンで退屈な大手新聞社の紙面とは全然比較にならない。アゴラは意見を公表している著者が明らかであるが、新聞は誰がこんなことを言っているのか分からない。取材記者の意見か、編集局長の意見か、社長の意見か分からない。

「意見」というと大手マスメディア企業は「報道」を担っているのだと主張するだろうが、「何をどのように報道するか」という選択にそもそも主体的な意見が含まれている。事実をどう見るかはそれ自体が意見である。

前から言っているが、個人には参政権があり政治を語る権利があるが、法人には参政権がなく、会社として政治を語る権利はない ― マア、「語る権利もない」と言い切ると言い過ぎになるかもしれないが。

もう情報伝達のためのツールという視点において、新聞とインターネットの勝負は明確についてしまっている、と。小生は断言したい。

■ ■ ■

たとえば、『公約違反の政治家を債務不履行で訴えられるか?』という問題提起があったりする。

こんな問題は、大手新聞もTVも真面目にとり上げられないに違いない。せいぜい、バラエティ番組でお笑いも混ぜて誰かが発言してポカッと叩かれる。そんな風に流すのがせいぜいである。つまり既成のマスメディアは、大手であるが故にあまりにも記事内容に自主規制、社会的規制を加えざるを得なくなっており、それが故に記事を読んでもまったく面白くない。かといって、内容にバイアス(=偏向、偏り)がなく、バランスよく世間の考え方を紹介してくれているかといえば、決してそうではなく、結局は自社の哲学や理念に賛同してくれる優良顧客層に買ってもらうために新聞を売っている、更には全国地域地域にある既存の新聞販売店を守るためには売れる新聞をつくる必要があるのだ・・・まあ、ブッチャケ、そんな成り立ちがあからさまになっている。それなら敢えて読む必要もない、と。もっとズバリ本質をついた同じ立場の意見はアゴラにある。勝負はついた。上ではそう書いたわけだ。

■ ■ ■

ただ、公約違反の政治家を債務不履行では訴えられないだろう。なぜかといえば、政治家の公約は、支持基盤に対する約束であるにすぎず、反対派との調整を行う以前の段階であることは明らかなので、公約が実現されるかどうかは未定。つまり「公約とは予定」、「予定は未定」。それが選挙の時の「公約」というものだからだ。

もし一定の公約を掲げた政党が選挙で勝利を得たとすれば、国会でも多数派になる以上、公約を実現できるだろう。確かにそれが理屈ではあるが、無理に通せば「数の力で押し切った」と批判されるだろう。少数派も国民には違いなく、すべての政策は全体の利益になるものでなければならない。それが基本原則になっているからだ。損をする(=だから反対する)側に一定の保障を与え、少数派がそれで納得しない限り、多数派の「公約」は実現不可能である。そんな調整をしているうちに、多数派が次の選挙で負けたりすると、すべてリセットされる。

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公約なんてそんなものと言えば「下らねえ」と感じたりもする。

いまでも「軍事政権」はそこかしこにある。日本も国際環境によってはそんな全体主義国家に逆戻りする可能性がないとはいえない。命令できるなら公約は必ず実行できる。命令に服従しなければ「非国民」と判定すればよい。日本にもそんな時代があった。しかし、命令できる政府なら一度政権につけば、それ以後、公約などはしないだろう。トップと何人かの側近で政治をするだろう。

選挙にせよ、政治にせよ、民主主義にせよ、これらを前提すれば「公約」はこんなものだろう。「民主主義」とは「温かい家庭」と同じようなもので、口にするのは簡単だが、実践するとなると色々な問題が発生する。

とはいえ、こんな風に自分の頭で考えて見たくなるのは、問題提起が面白いからである。社会のことを理解するには、自分の頭で考えたいと感じることが大事で、「こんな事実がありますよ」というだけではもう不十分ではないか。まして、「これはこう見るのがよい」と上から目線で「教えてやる」といったスタンスで記事を書いて見ても、もう読者はついて来ないのではないかと思ったりする。

2017年11月18日土曜日

「政治ドラマ」、「政治俳優」、「政治女優」の時代なのか?

選挙に勝った<立役者>だというので小泉進次郎議員がブレーク中である。そうかと思うと、こんな記事も出始めた。

報道陣から代表辞任の思いを問われ、「日本と、そして東京が良くなることなら、なーんでもしたい」と意気軒昂だったがこの人の心変わりは速い。知事の任期を全うするかどうかも分からない。

(出所)産経ニュース、2017年11月18日配信

言うまでもなく小池百合子都知事の近況である。

政治が現実そのものであるという実感を喪失して、どこかで上演されているドラマに近いような感覚で聞くようになると、必要なのはワクワクさせるようなストーリーと、ストーリーの中で演技をする俳優と女優である。

前に投稿したように、元キャスターである小池百合子はマスコミがうんだ最上級の政治女優であった。 しかし、同女史はプロデューサーであるマスコミが期待する言動から外れて、勝手なことを発言し始めたので、役を降ろされた。あとは失墜の行く末が待つだけである。転落した大女優もまたマスコミ好みの主題なのである。

小泉進次郎も政治俳優の道を歩むつもりなら転落が近いだろう。

安倍総理はマスコミの脚本を演じるつもりはハナからないようだ。今の日本社会ではそれが正解だ。

予想だが、小池百合子女史は近い将来に「平成無責任女」と呼ばれるようになるのではないだろうか。マスコミがそう名付けるのではないか。かつてマスコミは植木等を「昭和の無責任男」と呼んで、一大ヒットを飛ばしたものである。平成無責任女・小池百合子を完成させるのは都知事辞任(→海外の大学客員教授就任?)劇をおいて他にない。

政治ドラマを考えているマスコミはその方向でいまシナリオを検討中だろう。いま、小生、そんな想像をしている。もしそうならば、先ごろから本ブログでも何度か投稿している「小池女史=嘘つき魔女」よりももっとタチが悪い悪ふざけであると思ったりする。

なぜそんな悪ふざけをするのか? 視聴率が上がるからである。販売部数が増えるからである。儲かるからである。ただそれだけだと小生は思ってみている。

実に、<国民の国民による国民のための政治>が<少数の私企業>の損得計算に利活用され、影響され、時に支配されている。憲法で保障された表現の自由には当てはまらない問題のはずである。表現の自由とは思想や信条、信教に関する個人の権利のはずである。私企業の利益とは関係のない、もっと基本的な概念のはずだ。しかし、誰も何も言い出せない。

情けない状況になってきた。