2012年8月26日日曜日

日曜日の話し(8/26)

またまた日本テレビ系列では『24時間テレビ 愛は地球を救う』を放映している。この第1回放送は1978年、何と小生が社会で仕事を始めた年であるので、恐れ入る。よくも永く続いてきたものだ。

巷では、色々と悪しざまに言われているようだが、それほどの悪評にもかかわらず、中断もせず30年間も同じ企画を継続してきたのは、やはり利益拡大に合致するからであろう。直接的な視聴率確保だけではなく、企業イメージの向上、CM媒体としての魅力向上をもはかれる貴重な営業ツールであったのは間違いのないところだ。

小生まで今頃になって悪しざまに語ってみても仕方がないが、それにしても今年度の放送内容は見ていて涙が出る思いがした。身体に障害を負っている人は悲しいことだが多い。治らないことも多い。現実の生と、求めても得られない健常者の生との間には、大きな隔たりがある。社会的弱者でもある。しかし、小生思うのだが、不幸はどんな不幸であっても、それは神がそうしたとしか思われない側面がある。その意味では、あらゆる病気、障害、貧困、不運は、ある重要な側面において<神聖>である、と。小生は感じるのだ。というか、あらゆる<現実>は、どんなに人間の眼には理不尽に思えても、いや理不尽に思われるからこそ、神聖な一面をもつものだ。そう思うのだ、な。そこには受け入れて生きるしかない、そして死ぬしかない、そんな本質がある。

障害をテーマに番組を編集して、それによって視聴率を維持し、そんな方針全体を株式会社の営業戦略とする。この夏は、小生、はじめて腹が立ちました。
小生: 偽善だなあ、ここまで来ると・・・、気持ちが悪くなる。(利益に奉仕させるのか、不幸を、と思ったがあからさまに言うのはやめた) 
かみさん: でも、これをみて寄付をしているんだよ、たくさんの人たちが。 
小生: だから、こんなものを作るのか!作って見せるのか!こんなものを作らないと、人をいたわれないような社会なら、そんな社会は見捨てられても仕方がないだろうが。 
かみさん: 自分が気に入らないからって、そんなに悪く言うもんじゃないよ。
確かに、こんなやりとりをしているときの小生の顔は、ひどい顔だったろう。

顔と言えば、シベリア抑留を経験した日本人画家・香月泰男の真作はいずれ自分で観ようと思っている。美術館も中々充実しているとのことだ。

画家・香月は、戦争中には下関高女の美術教師をしていたことを、本の略歴で知ったのだが、ちょうどその頃、あるいはこの前後に、小生の亡くなった母が在校していたのである。香月はそこの教師を辞めて召集令状に応じたのであった。「香月先生って人、いた?絵の先生なんだけど」と、母にそんな質問をしたいものだ。



これはシベリア・シリーズの一作だ。いま立花隆「シベリア鎮魂歌 香月泰男の世界」が宅にないので、ここではタイトルを入れられないが、なにしろ「愛は地球を救う」を見てしまった後だ、ここに挿入したいと思った次第。

前の話題は抽象絵画だった。ジャーナリズムは、特にテレビ局というのは、常に具体例を求めるものだ。しかし、不幸は、トルストイも述べているように、様々な形をとり、その本質は抽象的にしかとらえられない。愛もそうである。様々な愛があるではないか。地球を救うというが、愛が国を滅ぼすこともあったではないか。このゼロに限りなく近い浅薄さと偽善には、耐えられないほどであった。おそらく、かみさんと話していた時の私の顔は、抽象派・フォートリエの下の作品を彷彿させるものであったに違いない。


Jean Fautrier, Large Tragic Head, 1942

本当の愛が、広く悪しざまに口にされるはずはない。30年間もその愛が理解されないはずはない。多数の人がその偽善を指摘するのは、愛と言う実体がないのに愛という言葉を使っているからである。


Jean Fautrier, Hostages on a Black Ground, 1946

不幸は、数えきれぬほどの具体例を列挙しても、それでも表現しきれないものである。特定の部分に光をあてて、私たちの社会が自然にもっている素直な共感といたわりの気持ちを、営利を目的とした自社の意図に沿った方向に誘導しようとはかる経営は、ただ反発と敵意をもたらすだけではないだろうか?







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