「考えるヒント1」に「プルターク英雄伝」という章がある。「プルターク英雄伝」という作品自体が、もう小林秀雄以上に<化石化済みの古典>と言える存在になっているが、いま読み返してみると、細部は完全に忘れているので、非常に新鮮だった。たとえば、以下のような下り:
歴史を鏡と呼ぶ発想は、鏡の発明とともに古いように想像される。歴史の鏡に映る見ず知らずの幾多の人間達に、己れの姿を観ずる事が出来なければ、どうして歴史が、私たちに親しかろう。事実、映るのは、詰まるところ自分の姿に他ならず、歴史を客観的に見るというような事は、実際には誰の経験のうちにも存しない空言である。嫌った人も、憎んだ人も、殺した人でさえ、思い出のうちに浮かび上がれば、どんな摂理によるのか、思い出の主と手を結ばざるを得ない。これは私達が日常行っているいかにも真実な経験である。だから、人間は歴史を持つ。社会だけなら蟻でも持つ。今年の夏は<円高の夏>であらずして、思いがけずも<歴史の夏>になった。消費税率引き上げという宿願を達成した現内閣を、領有権紛争という悶着が外から襲ってきた。支持率が危機的水準を割り込む原因に、外交的紛争があること、疑いがないところだ。
それにしても、人間の社会が、蟻やミツバチの社会と違う、その違いの本質は<歴史>だというのは、正に皮肉なようでズバリ本筋をつく小林節である。歴史とは記憶なのである、と。故に、歴史とは、単に過去の事実の記録ではないのであって、今の自国をどう見るかという自己定義、いわば原理・原則・モラルそのものであるという考え方は、たとえば日本側ではなく、立場を変えて中国、韓国の愛国と反日が派生してきた文脈理解にも通じるであろう。 日本人は「(反日という)誤った歴史教育」という言い方をよくするが、そういう言い方は適切ではない。そもそも<正しい・正しくない>という絶対的尺度はない。
HKが言っているように『プルターク英雄伝』で登場してくる歴史的大人物の伝記。全体を通して伝わってくるのは「人間とは限りなく弱いものである」という視点だ。どの英雄も一人の普通の人間であるという前提から書かれている。何の拍子か、自分に回ってきた仕事をこなしているうちに、それが王であったり、将軍であったり、成功するにも計算外のことが起こり、失敗するにも計算外のことが起こる。そんな人間の弱さである。現代の統計学者は<偶然>という言葉を使うが、ギリシア人達は<偶然>と言わず<神意>といい、偶然に見える事も実は必然と見なしていた。現代人と古代ギリシア人とそれほど人間社会の見方に違いがあるわけではない。だから古典たりうるのだな。
民衆という大問題とは何か。それをソフォクレスの羊飼が基本的な形に要約する。彼は羊の群れに向かって言う、「俺達は、こいつらの主人でありながら、奴隷のように奉仕して、物も言わぬ相手の言う事を聞かなければならない」。デマゴーグになるのも、タイラントになるのも、この難問の解決にはならない。言葉にたよる或は権力にたよる成功は一時であろう。何故かというと、彼らは、民衆の真相に基づいた問題の難しさに直面していないからだ。彼らの望んでいるものは、実は名声にすぎず、抱いているものは名誉心だけである。彼らの政治の動機は、必ずしも卑しいものではないし、政治の主義も悪くない場合もある。だが、彼らは、この宙に浮いた名誉心にすがりつき、これを失う恐怖から破滅するらしい。民衆から受けた好意を、まるでカネでも借りたように感じ、これを返さねばならぬと思う。・・・オリジナルの「プルターク英雄伝」、特にギリシア・アテネの民主派の大政治家ペリクレスの章と、HK自身の思想が渾然一体となっているが、現在、まさに眼前で繰り広げられている社会像と見事に合致しているではないか。「大政治家」ペリクレスを、しかし、民会は投票で失脚させてみるが、後がまには口のうまい無能者を得て失望するという具合であった。
少し以前に生きた歴史家トインビーが、歴史を書いた根本の動機は、古代アテネのツキディデスが書いた「政治史」を研究していて、現代の我々がやってきたこと、これからやろうとすること、これらはすべてギリシア人達がやり終えているではないか。そう強く感じ、悟る所があったからだと言う。
確かに物理、化学、生物学などの自然科学領域では、現代世界が古代ギリシアを凌駕している。しかし、人間と社会に関する限り、私達の知識は何も進歩していないかのように見える事が多い。それだけ、人間という存在が複雑であり、人間社会はそれにも増して理解不能な実体であるせいかもしれない。
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