2012年8月11日土曜日

消費増税可決 − なぜ議論の真剣勝負をしないのか

昨日の参議院で消費増税法案が可決された。実施には景気条項が緊急措置として設けられている。が、(万が一)仮に予定されている14年度実施が延期されても、景気下降局面は平均でも1年半程度であるから、せいぜい1年遅れて15年度からになるという程度であろう。消費税率がこれから4、5年間で10%にまで上がるのは確定であろう。

しかし、よく分からんねえ・・・と思うのは増税反対派は、なぜ確固とした哲学と論理を構築して、堂々たる論陣を張らなかったのか?正にこの点である。

だって簡単ではないか。実に簡単に議論を構築できる。

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現在の支出構造に問題はないと判断して、負担なきところに給付なし。そう考えるなら、政府の増税案となる。その増税案に反対するなら、支出削減を主張するのが理屈だ。

大所は、社会保障、そして公共事業、それから科学・文化・教育、軍事。何かというと公務員の給与削減がマスメディアでは論じられる。確かに高すぎる給与は下げないといけない。が、それも客観的に見て数パーセントないし1割だ。大体、給与を下げて経営が再建できた企業はありますか?あるはずがないでしょう。問題は事業内容にあるのだ。

支出削減は事業の見直しによって実行するべき事だ。事業を見直して人を整理するのだ。見直すなら、効果の小さい政府サービスから見直さなければならない。財政支出の効果とは、将来にわたって期待される便益だ。故に将来への観点にたって、見直すということになる。では、社会保障、公共事業、科学・文化・教育、軍事の中で何を見直すべきか?自ずから明らかではないか。既に人生の終盤にさしかかっている人の長い寿命をもっと長くするのではなく、これから価値を生み出す若年世代の教育に財政資金を投入するべきである。

リターンが期待できない支出は、極力節減するべきであるという原理は、企業経営、財政運営のいずれにおいても同じである。公的年金は、あくまでも想定以上に長生きする場合のリスク対応であるはずだ。そうであるならば、公的年金は、日本社会で生きるときのリスクを小さくする保険となり、国がその事業を管理運営する論拠はある(ただし必然性はない)。しかし、リスクもないのに、あげると喜ばれるので給付するという政治をすれば破産するのは当たり前だ。平均寿命が80歳の長寿社会で、65歳から80歳まで生きるのはリスクとは言えない。予想するべきことだ。予想できる事態に備えるための貯蓄を国家が管理するのは不適切だ。自己選択にまかせるべきである。また、日本国では<勤労の義務>が憲法上規定されており、自分の生きる糧は自分で得ることが義務となっている・・・とまあ、こういう論理にたって、<無駄な財政支出>を徹底的に整理するという主張をすれば、増税反対派にも論理が通ることになる。理念も確固としたものになる。理念がはっきりすれば賛同者は必ずいるものだ。賛同者が多ければ政権をとれるだろう。

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しかし、結局、反対派も最後まで「国民の生活が第一」などと言いつつ増税には反対するという理屈もなにもない、浪花節的かつ非合理的な政治行動を貫き、まったく真面目な政治論争は展開されなかった。まあ、欲しいのは自分の政治理念への支持ではなく、<議席>であったのであろうと。動機があまりにも露わであった騒動に堕した点、ここが最も情けないという感想をもったのは残念至極だ。

社会保障見直し+国防予算見直し+規制緩和+TPP参加+自由貿易推進+減税
vs
社会保障維持+資本取引規制+TPP不参加+医療、介護産業補助+増税

せめて上のような政策路線対立が、なぜ日本では有権者に対して堂々と展開されないのか?ま、つまりは日本の政治家自身が問題を理解できていない、理解するだけの頭がない、学問がない、というか関心は日本の将来ではなく、全然別の動機から政治家になった。そう言い切ってしまえば、現実を整合的に説明できるのだが。

日本において国会は国権の最高機関であり、それ故に議院内閣制を布いているのだが、それも時代の荒波に翻弄され、今後も生き延びていけるのか、誠に心もとない。そう感じたこの半月程であった。

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