2012年8月19日日曜日

日曜日の話し(8/19)

大岡信『抽象絵画への招待』を読んでいる。抽象絵画というとセザンヌ以降のキュービズムが既に抽象派への歩みであると世間ではとらえる向きが多いし、立体派の巨匠としてピカソ、ブラックを挙げるのであれば、色彩派のマティスも20世紀芸術の創始者として同時に考えないといけないだろう。とすれば、本ブログでも度々とりあげている表現派カンディンスキーは、作品をみると文字通りの抽象派だ。

<抽象>とは何なのか?対立概念は<具象>という言葉だが、抽象といい、具象といい、考えてみると、誰にとってもよく分からないのではないか?

上記「抽象絵画への招待」でも、抽象絵画はよく分からないという人が多いが、ではよく分かる絵とはどんな作品なのか?それは、つまり、見慣れているということではないのか。そう書いている。結局、絵とは平面上に創作された色の組み合わせだ。それが何を意味するのか、作った人の思いもあれば、観る人が何を思うかもある。自動車を描いているのか、自動車を作っている鉄という素材を描いているのか、そこに浮き上がっている錆を描いているのか、どう観ようと勝手である。何が描かれていようが、それをみて<美しい>という感情が生まれれば、そこに<美>の影が存在するわけであり、芸術の目的は達成されている。

小生は上野の西洋美術館に足を運んで常設展を回ることが多い。もちろん歩き疲れたあとは館内のカフェ「すいれん」で休息する。それも楽しみだ。歩いていると最後に20世紀美術のコーナーに至る。


ポロック、黒い流れ、1951年
Source:  西洋美術館


ミロ、絵画、1953年
Source:  西洋美術館

気に入った作品は模写をしてみるのが効果的な練習だ。そこは書道と似ている。しかしカンディンスキーもそうだが、上のポロックもミロも、模写は難しい。色もハッキリしているし、形もあるが、それだけで絵画が出来ているわけではない。ちょうどタンパク質とカルシウム、その他雑多な素材で人間はできているが、それだけで人間ができるわけではない。このことと似ている。

日本は、というよりどの国も、国土の上に物理的に存在している国民と物的資産だけから、できているわけではない。いま生きている日本人、日本の国土に存在している物的資産、そのどちらでもない<それ以外の要素>が、実は日本国を日本たらしめている本質であるのかもしれない。だとすれば、それが大和魂という言葉で呼ばれているものの本体であるかもしれない。それは、抽象的存在であるが故に時間を超越し、不朽かつ不変、ただ時間を超えて将来に伝えることしかできないものなのかもしれない。精神とか魂とか、いわゆる<スピリチュアル>な本質とはそういうものだろう。

21世紀は、ナショナリズムを克服することが大事な時代であると、今ももっともらしくTVの週末ワイドショーで話していたが、そんな風に単純に割り切れるものではないのかもしれない。克服は破壊とは違う。風化とも違う。これらは単なる<喪失>である。破壊をともなった創造、つまり成長でなければならない。それが発展であろう。成長と発展の本体 − 人類は、実は、未来をもたらすこの本体を真に理解しているわけではない。小生はそう思う。


0 件のコメント: