2013年2月24日日曜日

日曜日の話し(2/24)

2月後半は、春が近づき日ごとに気分が明るくなる季節である。しかし天候的にはドカ雪に見舞われがちで、旅行などをするには要注意だ。

愚息が数年前にカナダへ行こうと出発したのはいいが、千歳発の飛行機は吹雪で欠航し、そのため成田発の便にも乗れなくなった。空港の大混雑の中で代替便を用意してもらったり、その代替便も欠航したりで、何とか成田までたどりついた時にはヘトヘトだったようである。その愚息は、先日、紋別まで流氷をみに行ったようだが、帰途、降雪が激しくなり、前が見えなくなり、同行した車は雪に突っ込んで動けなくなった由。まあ、一年のうちでも今頃は、最も危険な季節である。あとは明日の前期日程大学入試が無事に終わるかだ。予報ではJRも停まるのではないかといわれている。遅刻する受験生が続出すれば、ずっと前にもあったが、大混乱になる。

とにかく浮き世で<約束>とか、<予定>とか言ってみても、始まらないものは始まらないのだ。これが生きていく上での原理・原則であろう。何も無責任なわけではない。当たり前の事実を言っているだけだ。いまの制度や規範にこだわる態度、理想がそのまま現実世界で実現できると思い込む独善、実際上の意味は希薄化しているにもかかわらず歴史的経緯や意義に執着する惑溺。これらは健全な知性の衰退に他ならない。社会的混乱の根本的な原因は人間の側の堕落にあるのが常である。

堕落しなければ全てはうまく行くというモラリストでは、小生はないが、精神的堕落が社会を駄目にするという命題は、その通りだと思っているのだ、な。その堕落とは、理性の傲慢、自然からの遊離、まあずばり言えば<我執・独断・偏見>からもたらされるものであり、従ってオドオドと怯えながらの堕落はあまりなく、堕落した精神はほぼ常に自信に満ちており、堂々としているものだ。だからこそ、こわいのだな……。

ラファエロは盛期ルネサンスを象徴する、その意味でラファエロの絵画作品は<古典>の典型である。そのラファエロの傑作である『大公の聖母(Madonna dell Granduca )』が、この3月2日、国立西洋美術館にやってくる(〜6月2日まで)。


ラファエロ、大公の聖母、1505年
出所:WebMuseum

確かにラファエロの絵画は時代と民族を超えて美しく<規範>という言葉に恥じない。だから、芸術家たる者、ラファエロを永遠の模範として絵画制作にたずさわるべしと言うなら、それは何が大事であるかを取り違えた退廃であろう。ラファエロの前にラファエロはいなかった。彼は亜流ではなく、創造的破壊を果たした創造者である。大事なのはラファエロの魂であって、彼が遺した絵画作品というモノではない。

いつの時代にも大事なのは、変化する現実の中で生を全うする創造的精神、フロンティア精神、破壊をおそれぬ生きようとする意志であろう。原発はダメで、自然エネルギーは善なのだと。自然エネルギーの拡大に意義を認めることは言うまでもないが、真理はここにのみあると言うなら、それは目的と手段を混同している。技術は常に乗り越えられるものだ。旧来の原発は乗り越えられなければならないし、太陽光や地熱発電もまた乗り越えられるべき技術にやがてなる。

変化する自然という現実の中で生き抜くことが、私たちの社会の唯一の目的であり、その他のどんな高邁な理念もそのためのツールに過ぎない。目的に都合のよいように活用するのがツールである。





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