2013年2月25日月曜日

佐藤優氏のコラムから ― カムナガラの道が復活するか

昨日の<日曜日の話し>ではモラルや精神の話しをした。あんなことを書けば、精神主義者と受け取られかねんなあ、と。後から、そんなことも気になってきたが、よ~く読んでみると、精神一到何事かならざらん、そんな事を言っているわけではなくて、その逆であることはきちんと書いてある。

ところが。

そして、「領土問題にとって、究極的に重要なのは、神話である。古事記、日本書紀に記されている天地開闢(かいびゃく)、建国神話を現代によみがえらせることによって、日本の社会と国家は強化される。近代合理主義の枠組みを超える新しい精神が必要だ」という話をした。受講生たちは、筆者の問題提起を正面から真摯(しんし)に受け止め、活発な議論がなされた。
 日本は危機的な状況にあるが、それを克服することができる若い世代のエリートが育っていることを、産経適塾での講義を通して、筆者は皮膚感覚で感じとった。産経新聞東京本社は、若者を対象に産経志塾を主宰している。筆者は産経志塾の講師をつとめたこともある。
 マスメディアの責務は、報道だけではない。自らの能力を、自己実現や立身出世のためだけでなく、日本の社会や同胞のために生かしていくという人間教育に従事している産経新聞社の姿勢に強い感銘を受けた。(出所)msn産経ニュース、2013/01/07 15:00配信、『佐藤優の地球を斬る』‐日本人としての精神教育が急務
元外務省・佐藤優氏が寄稿しているシリーズから引用した。

日本人の建国神話といえば『古事記』ってことになるのかしらん。となれば、まずはイザナギ、イザナミの命から始まって、まずはアマテラス、そしてスサノオか。その辺までは小生も、ずっと昔、読んだことがある。

まさにカムナガラの道であるなあ、と。

カムナガラとは「神の御心を奉じて」という意味であり、仮に日本がイスラム国家であれば、カムナガラとは言わずに「インシャラー」(=アラーの神の御心のままに)と言うはずだ。

★ ★ ★

神の存在は立証しようがないのでカントは純粋理性による哲学的認識の対象からは除外した。これが近代ロマン派詩人ハイネによって「神をギロチンにかけた」と喩えられた思想である。後年、カントは純粋理性ではなく実践理性をもちだし、人間が善い人間として生を全うしたいという願いを持っている以上、実践理性という働きがあるはずであり、実践理性を認める以上、神や善という概念はすべての人間が生まれながらにして持っている先験的概念であるはずだと議論した。

まあ、色々、複雑で深遠な議論が展開されたのが19世紀の近代ヨーロッパである。産業資本主義が高度に発達する中で、個々の人間がカネと物欲におぼれずに、どう生きていけばよいのか、迷いながらも考えていた。そんな欧州の人々の風景が目に見えるようだ。そんな喧々諤々の論争を仕掛けることもなく「カムナガラの道」を歩いていいのか?これではまるで「バカのすすめ」ではないか、「狂人のすすめ」にもなるか。

確かに精神的支柱は日本人に必要だが、たとえば『新約聖書』をパラパラめくってみるだけで、精神と肉体、善と悪、神と人間が対立されていて、緊迫感ある文章が縦横に展開されているのがわかる。バイブル全体が信仰を是とするのは何故かと言う疑念に対するドラマティックな読み物になっているのだな。

ただ「信じろ」といって「信じないのは国賊だ」という態度では、指導層自ら愚者となり、国民を同程度の愚者にそろえようとする原理主義教育と変わらない。たとえ神なる存在を持ち出す場合であっても、必要なのは<バカバカしい神話>ではなく、知性を反映した対話と窮極的価値をめぐる社会的合意であろう。

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