小生は割と永井荷風が好きでよく読んでいる—いや、そうでもないか、小説はどうも展開が遅くて最後までいかない。最初に感心したのは荷風が後半生に記した日記『断腸亭日乗』であるので相当に渋い。それから随筆へと目が向いて、先日投稿の「霊廟」のほか、「雪の日」や「狐」を何度も読み直して、非常に感心した。荷風は、怖い父親、優しい母親から長男として生まれ、周囲からチヤホヤされて甘やかされて育ち、それでも何度も転宅を繰り返しては自分の居所を失うという淋しさを経験する。そんなところが結構小生とも似ているのだ。だから共感できる下りが多い。
荷風が幼年の頃、西南戦争が終わってまだそれほど年数が経っていなかった時分、自宅の書生の田崎についてこんな風に書いている。稲荷神の使いであるという狐を殺せと荷風の父親が厳命したのに、それは恐ろしいことだと女性達が異論を唱える場面である。
その時分の書生のさまなぞ、今から考えると、幕府の当時と同様、おかしいほど主従の差別のついていたことが、一挙一動思い出される。…田崎は主命の尊さ、御飯焚(メシタキ)風情のくちばしを入れるところではないと一言の下に排斥してしまった。(出所)「狐」より引用。<主命>という言葉が、平成の現時点、死語となっていることは確実だ。いまでは社長の業務命令すら、厳格には通らないであろう。何が正しく、何を最優先で行うべきかという思想が変わったのだ。とはいえ、荷風が思う程の事でもない点もある。
親切で、いや味がなく、機転のきいている、こういう接待ぶりもその頃にはさして珍しいというほどの事でもなかったのであるが、今日これを回想してみると、市街の光景と共に、かかる人情、かかる風俗も再び見がたく、再び遇いがたきものである。物ひとたび去れば遂にはかえっては来ない。(出所)「雪の日」より引用親友井上と隅田川畔を歩いている時に雪に降られて入った茶屋で焼き海苔と熱燗を振る舞われた時の情景である。荷風は、あの時のような人情、親切には再びあいがたいと嘆いているが、先日の東京五輪招致の成功のキーワードが「おもてなし」であったという事を聞けば、あの世で荷風がどういうか聞いてみたいものだ。
しかし私たち二人、二十一、二の男に十六、七の娘が更け渡る夜の寒さと寂しさとに、おのずから身を摺り寄せながら行くにもかかわらず、唯の一度も巡査に見咎められたことがなかった。今日、その事を思い返すだけでも、明治時代と大正以後の世の中との相違が知られる。その頃の世の中には猜疑と羨怨の眼が今日ほど鋭くひかり輝いていなかったのである。(出所)「雪の日」より引用上の下りは「雪の日」の終盤、寄席でアルバイトをしていた荷風が、下座をつとめていた若い女と二人で一緒に帰る事にしていたところ、ある夜、急な雪で難儀をしたときのことを70歳近くになってから回想しているものだ。
日本は、戦前期・昭和に軍国主義の台頭を抑えきれずに失敗しただけで、他の時期は明治から大正にかけて奇跡のような近代化を成し遂げた。歴史の教科書のとおりにそう思いがちだが、明治と大正を比較しても荷風のように世の中はずいぶん違っていたと感じる人物がいたのである。そう言えば夏目漱石は「日本は滅びるね」と「三四郎」の中で暗闇の牛に言わせている。明治が終わると、日本人の心の中には人を疑う気持ち、人を羨んだり、妬んだり、憎悪を感じる気持ちが強まっていた。日本の近代化の一つの曲がり角がそこにあったわけだが、その風潮は直ちには方向が戻らず、昭和前期にかけて益々強まる一方になった。リアルタイムでこんな感想を持つ人がいたことなど、案外、知られてはいないのじゃないかと思うのだ、な。
経済発展は、一直線にはいかず、ジグザグの進路をたどるものだ。グローバル化は19世紀に非常に進んだが、その果てには帝国主義と民族主義が興り、ついには世界大戦になった。進歩は必ず反動をまねく。日本の明治期・経済発展にも反動はあった。反動は、個人個人の心の中では<反発>として芽生える。<憎悪>として育つ。共有されたその情念が、いつの間にか日本人自らが歩む方向を変えてしまうのである。人間はいつでも自分の歩む方向が正しいと信じたいものだ。言っている事ややっている事が正しいと信じたがるものだ。日本人を駆り立てている真の動機と意図が何であるか、何かの目的が共有されているかといえば、そんな共有された理念などはない時代のほうが案外長いのかもしれない。世の移り変わりは、ずっと経ってから初めてわかるものなのだろう。
こんな風にさまざまな事を荷風は回想しているが、
東京の町に降る雪には、日本の中でも他所に見られぬ固有のものがあった。…哀愁と哀憐とが感じられた。(出所)上と同じこの下りをみて、小生は覚えず以前にみたチェ・スジョン主演の韓流ドラマ「初恋」の中の一編「ソウルの雪」を思い出した。雪の日の思い出は、多く人にあるのだと思うが、それは国籍や時代を問わないもののようで、それ自体が不思議に感じることがある。