2015年11月13日金曜日

汚職の臨界点というのはあるのか?

小生が暮らす北海道では、冬の降雪を間近にして飲酒運転根絶に道警など関係機関が力コブを入れようとしたその矢先、砂川警察署員が二日酔いによる酒気帯び運転で書類送検されることになったよし。同警察署ではこの6月にも署員が飲酒運転事故を起こしており、大変な衝撃を受けているらしい。

もちろんマスメディアは『とんでもない失態であり、警察に対する信頼性が地に堕ちたと言っても過言ではない』と、まあこんな風な話しぶり、書きぶりであった。

思うのだが、こういう警察官による不祥事は、どんな理想社会でもゼロにはならないと思うのだが、何か臨界点、というかこれ以上の公務員不祥事が継続的に発生すれば、政府に対する信頼性が致命的に毀損され、社会が無法状態へとシフトしていく。そんなクリティカル・ポイントのような水準はあるのだろうか?

少し考えれば、警察官の不祥事がまったく報道されない社会は、不祥事がない社会を意味するわけではなく、政府が不祥事を隠蔽できる国であることを意味する。そのくらいは誰でも理解できることである。

戦前の帝国陸海軍でも不祥事は山のようにあったときく。参謀本部の高級課員の子弟がちょっとした犯罪に手を染めてしまったこともあったときく。しかし、それらは基本的に軍部の意向で報道されることはまずなかったと聞いたことがあった。

そこで<汚職 信頼性 臨界値>をキーワードにしてググると、いやあ、出てきました。出てくるものだネエ……。とっくに総務省の官房企画課がワーキンググループを設けて研究し、レポートを平成22年3月に公表していたのだな。タイトルは『行政の信頼性確保、向上方策に関する調査研究報告書』という。

その中にこういう下りがある。
この文脈で、行政には「適度の不信が必要」で、その方が民主主義には望ましい、とい う主張(Newton, 2008)にも注目しておこう。この主張の視線は安心部分を指しており、適 度の不信が監視を動機づけることを意味していると解釈すべきだろう。一方で狭義の信頼 部分で不信が増大することは、広義の信頼の全体像にとって大きな打撃となる。プロフェ ッショナルとしての倫理性を疑われる行政官というのはその例である。(資料21ページから引用)
フ~ム、行政には適度の不信が必要である…、正しく、かつありうべき洞察だ。最後の方にある「行政官」とは、「官僚集団」と言い換えても可であるし、「警察組織」に置き換えても意味はとおる。

汚職の臨界点を直接的・実証的に研究しているレポートではないが、こういう問題意識がとっくの昔に政府部内で議論されていることは評価しても良いのではないか。そう感じた次第。



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