本文を読むと、どうも「タイ王室の財産」と題したフリージャーナリストの記事の印刷を印刷会社が拒否したとのことだ。最後には『タイには、王室の名誉をおとしめたものを罰する不敬罪が今も存在する』と記して道新のコラムは終わっている。
ふ〜む、不敬罪か・・・。「今も存在する」というのは、「まだあるのか、そんな遅れた制度が」と言いたげでもあるなあ。小生はそんな見方には同意しないけれどネ。
以前にも何度か投稿したが、考えたことを言葉に表現する自由、つまり「表現の自由」は近代社会であれば当然認められている制度的要件として合意されている。
しかし、JR電車の中で向かいの席に座った客が奇妙な服を着ているからといって、『変な服着てるよなあ、センス疑うよ」とか何とか、高声でしゃべれば、最悪の場合、ぶん殴られるであろう。それは相手の感情を傷つけた以上、当然の反応として予測しておかなければならない。もちろん暴行罪として相手を訴えることはできる。しかし、経緯を知れば当局は暴行を加えた相手側に情状を認めるであろうことは確実だ。
時間と国を超えて、いつでもどこでも<礼>は<モラル>の核心である。そして礼の端緒が辞譲にあるのは孟子を待つまでもない。相手に譲るには相手の存在への尊重が先に来る話しだ。モラルを失った側が、相手に倫理や人道を訴えても、もやは無意味だろう。これがいわゆる<傲慢>である。
時間と国を超えて、いつでもどこでも<礼>は<モラル>の核心である。そして礼の端緒が辞譲にあるのは孟子を待つまでもない。相手に譲るには相手の存在への尊重が先に来る話しだ。モラルを失った側が、相手に倫理や人道を訴えても、もやは無意味だろう。これがいわゆる<傲慢>である。
表現の自由とは、自分の言葉に責任をもつということと表裏一体である。デスクに「こう書け」と業務命令されて書く文章には責任はほとんどない(拒否する自由を行使しなかった責任はある)。が、自ら書く文章にはすべて責任がある。
王室に対する不敬罪を法から削除したとしても、そういう感情が国民に残っている国で、安易に王室の名誉を傷つける文章を書いて公衆の前に提供すれば、最悪の場合、何らかのテロ行為を被るとしても、それは当然ありうる可能性として考慮に入れておくべきであろう ― パリの事件を思い出したまえ。考慮に含め、覚悟をした上で行動するべきなのだ。
不敬罪を法で規定することの意味は、その国に広く共有されている感情を傷付けてはいけないというソフト・メッセージである。そして、特定の罪に対して一定の罰条を適用するという原則を通し、結果の合理的な予測を可能とするものである。
「表現の自由」とはいえ、それは現実の社会の中でマネージされる重要なことのうちの一つでしかない。これ自体が目的ではないと考えておくべきだろう。
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