小生、相当のへそ曲がりであることは何度も断っている。
深い疑問をもつ。
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別に自慢することではないが、小生の両親は『たくさんの人の役にたつ人になりなさい』という風な意味のことを小生に云ったことは一度もない(と記憶している)。
何度も聞いて耳にタコができてしまったのは『いい人が早くみつかるといいわね』とか、『何になりたいのかね』とか、要するに一言で言えば『幸福ならそれでいいんだ』ということが趣旨ではなかったのかな、と。そう思っている。
結局、人は「いい人」を見つけて、「やりたいこと」をやって、子供を「いい人間」に育てれば、生まれた時に負っていた義務は100パーセント果したと言えるのだ、というのがいまの考えだ。それ以外に何がありますかね・・・あったらご高説をきいてみたいものでござんす。まさか「仕事が」なんておっしゃるんじゃござんせんよね。
親になった立場から顧みてもまず絶対にそうであって、何を子供に願うかといって『人の役に立ってほしい』とか、『社会に貢献できる人になってほしい』とか、そんなことを考えたことはない。あえていえば『人に迷惑をかけるような人にはなってほしくない』。これは普通の人の最大公約数的な共通意識だろう。
富国強兵、軍国主義ではあるまいし『国家有意の人材』であれなど、本気でそんなことを語る人が今時まだいるとは考えられないのだな。
それでも、よくそういうセリフを口にする。
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それほど昔ではないある一時期、『楽しんで来たいと思います』という風な発言が流行したことがある。
(不思議なことに)決して評判のよい言い方ではなかったと記憶している。
まあ、確かに(たとえば)税金で世界大会に派遣されておきながら、「楽しんできます」と選手当人がいえば、「お前の楽しみのためにカネを出しているわけじゃない」と、そんなクレームをつける人もいるのだろう。だから(というわけじゃないと思うが)「楽しんできます」というのは下火になって来た。
小生も下の愚息に『お前の仕事は楽しんでやる仕事ではないだろ』と話したことはある。が、だからといって滅私奉公が第一だというつもりは毛頭ない。最高に善なるものは「幸福であること」。これはソクラテス、プラトン以来の西欧哲学の源流で、この出発点から幸福へ至る道としてのモラルが議論されるわけなのだがj、日本では人の役に立てることが幸福で、無用の人であるのは最大の不幸である。これが実際に多い見方ではないだろうか。
逆である(と思う)。
人の役にたつかどうかなどは結果論ではないだろうか。人の役にたてなくとも良いではないか(貧乏ではあると思うが)。足るをしれば心は平穏になり、人にも優しくなれるものだ。いまやっていることに満足すれば、幸福への第一歩をきざめる。そして、これはそう難しいことではないのだ。
真の意味で人の役にたつことこそ難しい。「役にたつ」というのは、「役にたつ=カネをもらう」であるから、限りなく「金持ちになりたい」という意味にもなるのが資本主義社会であると云ってしまうと、身も蓋もないか・・・。それとも、実際「役にたつ仕事をどんどんやって、どんどんカネをもらいたいです」と。これが趣旨なのだろうか。
人の役にたつことを目標にすれば、イライラし、疲れ果て、蔓延するのは偽善ばかりになるものだ。そこに幸福はないのではないか、と。そう思う今日この頃である。
またまたへそ曲がりの感想を書いてしまったなあ・・・
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