2017年1月4日水曜日

断想 ー 正月三が日にしては重い話ではないか

昨晩、どこの局かは知らないが、いかにも正月風のバラエティにカミさんがチャンネルを合わせているので何気に見ていると、いじめの加害者の実名を公開するべきかどうかという話をしていた。

いちいち、ここで話の内容を紹介する必要はないと思う。実際、TV画面でも喧々諤々、丁々発止であって、大体からして結論の出る話ではない。

一つの疑問:

ある出演者が「加害者が更生するためには実名報道は障害になる」、「実名が公開されると、加害者の人生はもう終わってしまう」と、こんな意見を述べていた。

ふ〜〜〜む、なるほどネ、合理的な意見だと思った。戦後日本の常識にも適っている。

と同時に、何気にこの意見をきいた瞬間に感じたのが、以下の疑問だ。それは「更生」という日常生活では使われていない(はずの)用語の意味である。

被害者の生命を奪った加害者は、「更生する(≒ やり直す)権利」を持っているのか、それとも「更生する(≒ 社会に貢献できる人間になること?)義務」を負ったのか?

どちらの観点に基づいて現代社会の法なるものはあるのかという点だ。

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別に「いじめ」に限る話ではない。

『加害者も更生しなければならないので・・・』とよく言われるが、この「・・・なければならない」というのは、いかなる意味でそう言っているのか。なぜ更生しなければならないのか。人間にはそもそも生まれ持った宿命や業というのはないのか。ありのままではいけないのか。更生しなければならないのかどうか決して自明ではないと小生には思われる。

更生する必要はない。その時の事実とその時の状況に応じ、社会がなすべきことを道理に基づいて決めるのが加害者に対する正しい姿勢である。こんな意見をいう人がいるとすれば、これまた自然だと(小生には)思われる。

加害者が更生するための措置、環境づくりをなぜ社会はとらなければならないのか。それは社会の義務なのか。であれば、加害者は「更生する権利」をもつわけだ。本当にそうなのか。そういうことにしているだけではないか。これまた決して自明ではないだろう。

そもそも「更生する」とはどう定義されるのか。

あらゆる罪は、「償う」ことで加害者は「更生可能」なのか。いかなる犯罪もその後の社会的貢献により埋め合わせることができるのか。

埋め合わせるとはどういうことか。一人の人間の命の喪失とその後の社会的貢献の度合いをそれぞれ量的に比較して、「埋め合わせた」と判定できる瞬間がやってくるのか。これに回答できなければ「更生」という言葉は使えまい。これもやはり自明ではあるまい。

自明ではない大前提にたって現代社会の法は構築されている。

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自明ではないことを前提するには、社会的な合意が要る。議論が紛糾し、判断が分かれるなら、それは合意が困難であることを示唆する。

法には理念が込められるのが常だが、これにも自ずから限界がある。合意困難な理念は法の前提とするべきではない。法に納得できない人が多数発生するからだ。

・・・

こんな考察を述べたレポートがもし提出されたなら、ロジカルである点を高く評価しようと思うが、(小生なら)「秀」にはしないなあ。

この議論には大事な要素が抜け落ちている(ような気がする)。


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