2017年1月2日月曜日

雑話: 宗教としてのイスラム教、その存在感について

謹賀新年。

歳末は猛吹雪に毎週三連発で見舞われたが、年があけると文字通りの雪晴れ。今日は気温も上がり実に過ごしやすい。ただ、10日間予報をみると当面は雪が降らないとのことだ。そうなると、14、15日の入試センター当日頃に暴風雪がくるのではないかと、また心配になる。

どちらにしても、厳冬期に大学入試をやるなどと、北海道型天候を標準にすればありえない制度だ。

大体、新学期といえば9月が世界の主流だ。欧米もそうであるし、中国、台湾もそうだという。フィリピンは確か6月だ。

政府の会計年度とは関係ない。米国の会計年度は1月から12月だ(もっとも連邦政府は10月から9月まで)。中国、韓国もそうである、な。

もし世界の大勢に沿って9月新学期をとれば、センター試験は初夏の頃、各大学の二次試験は盆明けになろう。いいではないか。正月明けの厳冬期にセンター試験をするよりよほどいい。日本の各地とも最適の季節になるのではないだろうか。

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トルコ、モロッコなどイスラム文化圏ではどうなのだろう・・・と思って調べてみたが、やはり9月新学期であるようだ。

そのイスラム教国はどこも政治的混乱のさなかにある。

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20世紀の初め第一次世界大戦停戦までは中近東全域はオスマントルコ帝国が支配していた。トルコ帝国は、15世紀にギリシア人による最後の帝国であるビザンチン帝国を滅亡させ、16世紀にはスレイマン一世の治下、(ペルシア全体を支配することはなかったが)輝かしい黄金時代を迎えた。その後、ロシア帝国の南下から圧迫を受けたものの、スルタンカリフ制の下でイスラム教徒はほぼ統一的に支配され、ヨーロッパの列国とも十分に張り合えるだけの力と文化を有していたものである。イスラム教は一つの世界宗教であったわけだ。

その当時、一体、21世紀の現代という時代の到来を予想できただろうか。あまりにも違う。経済は愚か、文化的発信力の衰えが酷い。文化的膨らみを失った宗教的原理はもはや精神的な骸骨にしか映らぬ。

今日の中東、というかイスラム教圏の混迷と没落は、トルコ帝国の消滅に端を発する民族レベルの構造変化プロセスであるのだろう。

100年後にイスラム教という宗教がまだ「宗教」として実存しているかどうか定かではない。

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そんなことを言えば、宗教としてのキリスト教はどうだ?今日なお「宗教」として機能していると言えるのだろうか?こんな疑問もある。まあ、カトリックには確かにバチカンという存在がある。

確かにバチカンは存在し、教会はあり、人々は集まり、積極的活動もしている。しかし、エネルギーの噴出である宗教的対立、さらには宗教戦争がキリスト教社会から消え去って久しい。

アジアにおける仏教もそうである。いま浮世の世話をする儀式以上の意味を仏教はもっているだろうか。

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思いついたのは、「時間」という単純な数字である。

イエスキリストの死後、既に概ね2000年が経っているのに対し、マホメットの没後はまだ1400年弱である。釈迦に至っては2500年以上が経過している。

かつては、キリスト教国でも「魔女狩り」があったし、30年戦争もあった。宗教的エネルギーというのは、血で血をあらうような抗争をもたらすものなのだ。

シリア内戦などをみるとなるほど外国勢力の介入という要素がある。しかし、内部で対立しているから内戦状態が継続すると見るべきだ。信徒が統一されていれば、内戦ではなく、抵抗戦争なり、独立戦争になる。

宗教的エネルギーが宗派の対立を生み、外国勢力が拡大戦略をとる余地をもたらし、それがイスラム側に聖戦を宣言させる動機をつくると見るならば、それはそれだけ宗教としてのイスラム教がまだ「若い」せいかもしれない。

なので、平和が訪れるまであと幾世代かは必要かもしれず、その混乱に一般信徒が耐えきれず宗教的勢力としては消え去ってしまう可能性もある。そんな風に感じたりもするのだ。

どうもフリードマンの「100年予測』に感化されたらしい。

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