忖度という単語は外国語にはなりにくい言葉であると報道されている。とはいえ、忖度という言葉は和製漢語ではない。四書五経の一つである『孟子』に遡る言葉であるようだ。
ネットで検索してみると、以下のような解説が見つかったーこの辺が(100%の信頼性があるかどうかはともかく)ネットの素晴らしいところだ:
〔孟子、梁恵王上〕詩に云う、他人に心あり、われはこれを忖度す、と
忖度の「忖(ソン)」は、「立身偏(りっしんべん)に「寸」だから、他人の脈をはかり、心臓の動悸や不整脈のあらわれを診る」ことを意味する。(出所)和・漢・洋・才! 語源のブログ
だからというわけでもなかったろうが、小生が若い時分、まだ小役人をやっている時は「忖度」は当然するべきことであり、下にいる者は上にいる人の胸の内を忖度して判断をしなければならないと、常にそう指導されていた。
組織というのは、本来はバラバラの個々人が協働して一つの目的を追求する以上、目的意識の共有は不可欠である。目的の共有は「忖度」となって現れる。これがロジックだ。
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しかし、忖度が大事であると言われてはいたが、小生が自ら(例えば)閣僚や、まして総理大臣や官房長官の胸中を忖度しようなどとは一度も発想すらしなかった。必要なかったのだ。忖度する対象は、まあ自分が所属する課の課長、せいぜいが局長どまりであって、事務次官の心の内すら忖度しようと考えたことはない。さらに言えば、局長クラス、事務次官クラスであっても、時の大臣、時の総理大臣の心を忖度することがあったのだろうか・・・、まあ無視することはなかったと想像するが、忖度したかとなると、雰囲気的には極めて疑問だと思っている。
当たり前であった。
官僚は官僚内部の慣行によって人事はすべて決まっており、大臣、というか「政治家」が官僚の人事権をもつと法的には規定されていたはずであったが、実際に政治家が官僚の人事に介入するなどということは、まず考えられなかった。そんな時代であったのだから、総理大臣や政治家が何を本当は望んでいるか、下々の小役人にはどうでもよいことであった。
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官僚国家ではなく、政治が主導する国家にしたいと思ったのは、日本人自身である。そもそも民主党政権が自民党から政権を奪ったのは「政治主導」を旗印にしたからではなかったか。
高級官僚の人事を霞ヶ関に割拠する中央省庁から内閣で一元管理する方向へ、日本のマスメディアはどれほど熱望し、支援し、一体何年をかけてそれを実現したのであったか。
いま官僚は内閣に服従している。内閣が人事権を把握しているからだ。服従するのであれば、トップつまり「政権」の意向を忖度するのは当たり前のことである。その政権は民主的手続きによって構成され「正当性」を有し、「支持率」も高いのだから、尚更だ。
だからこそ、「たかが」というのは小生がへそ曲がりであるせいだが、森友クラスのゴタゴタでこれほどまで長期間国会が紛糾するのは、官僚集団の意図せぬサボタージュがあるのではないか。そんな風にも思われるのだな。
かなり読者数がいるはずのニュースサイトには「忖度」をネガティブにとらえる意見すら公表されている。
政治家が恣意的に官僚統制をするべきではない。官僚の行政は「公平に」、「民主的プロセスによって定められた法規に沿って自動的に」、「文書として」進められるべきであって、政治家のいかなる意向も混じるとすれば不適切である。これこそ、かつての官僚国家・日本の特質(の一側面)であった。
政治家の意向を忖度する必要がないのであれば官僚主義がよいというロジックになるのではないか。デモクラシーというより、むしろビューロクラシーを良しとすることになるのではないか。
事件の黒幕を知りたいならば、それによって得をするものを探せ、だ。
そう邪推しているところである。
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