今朝もそうだったのだが、今回ははっきりと覚えているので、記しておこう。
テーマは「存在」ということだったので、先日の投稿の続編ともいえる。
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人間の認識は全て変化をとらえる、というか変化や運動をとらえるしか人間は認識しようがない(と思う)。
そもそも五感は、光や空気の振動をとらえるものだ。光や音に対して感覚器官が反応(=化学的変化)するので人間の脳が外界を感知(=化学的変化)するわけだ。
大体からして、デカルトの『我思う、故に我あり』という出発点。思考は脳の特定のプロセスである以上、時間の中にのみありうることだ。故に、自己という存在も時間の中でのみ定義できることだ。
人間にとって「存在する」という時の存在とは、原理上、「時点Tにおいて〇〇が在る」という存在・非存在とは別種の事柄だというのは、そういう意味だ。しかし、存在、つまり「在る」というのは「時点Tという一時点において、そこに在る」と。そういう意味だ。そんな本来的な意味で、何かがそこに存在しているとしても、人間がその何かを時点Tにおいて認識することはない。その何かが、何かを放射し、どんな形態でか変化したり移動したりする。そんな場合でしか認知することはない。厳密な意味で、静止している何かを「そこに何かがある」と認識することはロジックからして不可能である。
とすれば、もしも仏性をもった、あるいは神的な存在があるとすれば、阿弥陀如来や神なる存在は永遠であり、変わることのない存在であるので、人間がその存在を知ることはない。そんな理屈になる。
とすれば、阿弥陀如来や観自在菩薩のような仏性をもった存在があるとすれば、人間にとっては何もない「無」として存在する。そして、人間が在ると思っている物は、すべて移ろい行く変化の相にある。
まさに万物流転。神は無として永遠に在る。
ふ〜む、これって『色即是空、空即是色』が意味することではないか。
ここで目が覚めた。
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