2018年5月15日火曜日

クウェスチョンマークや「ではないでしょうか?」で終わる文章は「報道」の要件を欠く

職業柄、アカデミックな論文を読むことも多かったし、愚作ではあれど自論文をサブミットしたこともあった ― サブミットした論文がアクセプトされた時の強い喜びを学生への教育活動で同程度に感じられる機会はそう多いものではないのが現実だ。この点で亡父からきいた戦前期の「大学」と今とはまったく状況が違う。

・・・いや、いや、大学論や学生論が本日投稿の主題ではない。

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論文でもクウェスチョンマークを使うことはある。ただし、それは論文のイントロダクションで使うことがほとんどである。たとえば、"Problems to be answered are as follows:"などという表現は英語の拙い日本人には定石的文章になっている。このあと、箇条書きで疑問文をリストアップするのだ。

その後は本論になる。そして本論に入ってからは、クウェスチョンマークを使うことは、よほどの修辞的文章でなければまずはなく、すべて記述的な平文でデータに示された事実や論理的に得られる堅い推論を飾りなく述べていくのが鉄則だ。二重否定や修辞的な反語的疑問文は逆効果である。

事実やデータ、実験結果を示して何かを結論付ける、何かを提案する以上は、「・・・ではないでしょうか?」と言うのは禁物だ。まあ中には「予想」を述べる場合もある。が、学問上の「予想」というのは「理論的には・・・であると結論され、今後のデータによってそれが正しいことが確認されるものと予想する」。これが趣旨である。予想とはいえ、理屈としては結論を述べているのだ。数学的な「予想」もほぼ同趣旨だ。証明はまだ得られていないが、これまで得られた結果をみれば、このような結論が証明可能であるはずだという確信を述べたものだ。

『・・・ではないでしょうか?』、結論がこんな風では「今回公表する必要はあったのでしょうか」と逆に指摘されるのが落ちであって、何かを提案する以上は『・・・とするべきである、何故なら・・・』と主張するのがよい。データがあるなら「・・・であることが明らかになった」という具合に結論を明確に示さなければ論文の体をなさない。

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報道機関が何かの報道をするとき、以下のようにしてくれれば、ずっと目に入りやすくなる、また聞きやすくなるだろう:

  1. 疑問文を結論部分には置かず、また極力、反語的疑問文は用いない。
  2. 文章中のクウェスチョンマークは不使用を原則とする。

言葉の定義上、事実を相手とするのが報道である。「・・・ではないでしょうか?」とどうしても語りたいなら、根拠とともに「・・・であると思われます」と、少なくともこの程度の断定はするべきだ。でなければ、伝えていることが信頼されることはない。

まして『・・・と疑われます』などという表現は論文では使ってはならず(序論の部分で旧説への懐疑を示す下りならまだしも、本論で使えば何も研究していないのと同義である)、報道としても限りなく失格に近い、と感じるのだ。これは、その人の意見であり、意見である以上は「個人の責任においてそう思う」と言明する一言が必要である。というか、意見を報道と称するべきではなく、政府から割り当てられた電波を利用して自己の見解を独占的・一方的に述べるのは機会の平等に反する。

『・・・は不明のままです』や『・・・という謎が残ります』という表現も、「報道するべき今後の課題宣言」としては分からないわけではないが、個人的にはタブーとする方がニュースレベルが保たれると思う。が、あれはダメ、これもイカンと言うのでは、一切のニュース解説は無意味にもなりかねず、ここでは掘り下げない。

ずっと以前のニュース番組では、キャスターは(念入りに推敲されたのであろう)ニュース原稿を読み上げていたが、いつの間にか、原稿なしで(自由に?)事実について色々と話すようになった。そして、いつの間にかニュース番組が「放談番組」に近づいてしまった。ずっと昔になるが、細川隆元と藤原弘達(小汀利得が初代)の二人の談義は『時事放談』とタイトルを打っていただけ良心的であった。確か、TBS系列だった。立場や主義が違うにせよ、ハイレベルの批判は批判される方もファイトが掻き立てられる。何にせよ、だ。意気に感ずるのはこういう時だ。みんな小粒になったから「放談」とは名乗らずに中身で放談をしちゃってる、と。無免許運転にも似ているかねえ・・・時代が変わってしまったといえば、それまでのことか・・・。



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