2018年5月28日月曜日

日大問題: 「乖離」とは何と何との乖離だったか?

今回の悪質タックル問題が生じた原因として、日大当局と加害者学生本人の言い分がまったく正反対になっており、事実はどうであったのかという点で紛糾している。

「乖離」という用語、というか概念は、世間のマスコミには「普段、こんな言葉、使いませんよ」という具合で大変評判が悪いのだが、小生のようにマクロ経済状況の統計的把握や政策の効果予測を専門にしてきた人間にとっては、日頃使い慣れた言葉である。

「乖離」もそうであるが、「ラグ」、中でも「認知ラグ」や「効果ラグ」などは使わない日がないくらいであるし、「予測誤差」や「ノイズ」もこれらに劣らず、非常によく使う言葉である。

なぜなら、経済分析や経済政策は物理学や精密製造現場のように極めて精度の高いコントロールが可能な領域ではなく、簡単に言えば「大体、こんな方向で行くだろう」という程度でまずはやってみる。ありていに言えば、こんな感じで分析やマネジメントをしているからだ。

経済学もそうであるし、経営学も同じである。企業経営の当事者にとって、社員が完全にトップの意図通りに行動してくれるなどということはありえない。自然現象においても河川管理、災害防止、天候予測、地震予測等々においては精密予測、精密制御が不可能であり、上のような状況があてはまっている。

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経済政策には三つのラグがある。
認知ラグ: 特定の政策が必要である経済状況を認めるまでの遅れ
決定ラグ: 必要な政策を決定するまでの意思決定、手続きの遅れ
効果ラグ: 実施した政策の効果が浸透するまでの遅れ
さらに人間集団において戦略意図、個々のオペレーションを共有できるまでの「乖離」には四つの段階がある(と考えられる)。

  1. 指導者が思考の結果を特定の意図として具体化するまでの乖離
  2. 特定の意図をどんな言葉で表現するかという段階における乖離
  3. 表現された言葉が聴いている人間集団にどう解釈されるかという段階の乖離
  4. 聴いた人間集団がどんな行動をとるかという段階における乖離

小生、思うのだが、日大の指導陣は「▲▲という内容の特定の傷害行為を遅くとも〇〇という時点までに必ず実行したい」という「意図」を持っていたわけではなかった。この点は間違っていないと感じている。なぜなら、これはもはやアメリカンフットボールという競技ではないからだ。「自分たちはアメフトをやっているのだ」という意識は確かにあった、と。そう思われるのだ。更に、傷害の意図がそもそもあるなら、後の追及を予想し意図を隠ぺいする、つまりカムフラージュするはずなのだが、日大側は試合後に謝罪もせず、開き直っているかのようであった。やろうとしていたのは、(ラフであるにせよ)アメフトというゲームであり、傷害行為を意図していたわけではなかった。この点の認容が今日の投稿の出発点となる。

日大当局のいう「乖離」とは、上の1と4との乖離。つまり自分たちの思考/意図と選手の行動とが乖離していたと。そんな主張なのだろうと推測する。一方、マスメディアは「乖離」というか、「ミス・コミュニケーション」というレベルに問題を矮小化しようとする大学当局を卑怯であると非難を続けている。「傷害行為を指示した」ことは「事実」であると認めるように毎日のワイドショーを通じて圧力を加え続けている。

しかし、「このような傷害行為をしようと考えていたわけではない」という言い分が実際に真相であり、日大指導陣が当事者にとっての真相を話しているのであれば、ひと先ずはそれを聞き入れ、ではなぜあのような結果が起こりえたのか?

こんな具合に掘り下げていく姿勢が、少なくとも「報道」を目的とするマスコミ各社には求められるはずだ。「双方の話しの内容に矛盾がある以上、どちらかが嘘をついている」と断定するのは、(いまさら驚くことではないが)日本の(海外でも同じか?)マスコミ各社の低レベルと、単細胞的な粗雑さを伝えている。そう思うのだな。

今回のルール違反に憤りを感じ、番組でもとりあげてきたマスコミ各社は社会の中で果たすべき役割を果たしたと思う。が、例によってマスメディアは恒常的なパターンに逆戻りをして、非常に非知性的な、浅堀りの議論を反復的に繰り返し、問題解決に向かう日本社会の足を引っ張り始めている。そう思うことが(またしても)増えてきた。

なんでいつもこうなるんだろうねえ・・・と。不思議である。と不思議に思いつつ、小生の個人的予想としては予想ラインにそって(順序の前後は生じているが)進んでいるようで、先日の投稿のとおりに、マア、マアなっていくのではないかと今はまだ思っている。

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まず事実であると感じられるのは加害者のM選手が指導陣と語った言葉である。話は極めて具体的であり、実際に観察された情況とも整合している。そして、指導陣が口にした言葉というのは、それは傷害行為を命じる非社会的組織の組長の言葉そのものである、と。アメフトに詳しい人物はそう語っている。「あそこまで言えば、そういう意図だと思ってきくでしょう」ということだ。

だとすれば、「乖離」があったのだとすれば、上の段階の1と4というのは欺瞞であり、1か2においてだろう。

つまり、指導陣とM選手の間に乖離があったのではなく、指導陣が意図したことが適切な言葉で表現されなかった。これは段階2である。あるいは、トップ自らの思考が一つの意志としてまとまり伝達可能な具体的意図として表現されていたか。つまり段階1における本質的な乖離もありうる。要するに、トップの前監督・U氏がチームの現状をどう解釈し、レベルアップのために何をやろうとしていたのか。現状解釈と問題確認、問題解決への具体的意図。その意志の共有化。そこで「乖離」が起こっていたこともありうる。

だとすれば、監督・コーチという指導陣の機能不全である。福島第一原発事故の原因として「不作為の指示」ではなく、東京電力経営陣の「機能不全」に着目する観点にも通じる見方かもしれない。マネジメント不在の無責任体制であったのかもしれない。リスクの存在に鈍感であり、言葉をきく相手の心の動きを察するだけのデリカシーがない無神経な指導陣であったとも言えるだろう。

これを単に「指導陣と選手の間に乖離」があったというだけでは、極めて表面的かつ皮相的である。M選手の記者会見で明らかにされたように、そこで使われた言葉が事実であれば(多分事実だろうと感じる)、言葉とM選手の行動に乖離の生ずる余地はなく、言葉は「指示」として聞く側が聞いたとしても自然である。ではなぜ、このような「異常な指示」を「意図することなく」行うという結果が生じたのか?

M選手の最後の「悪質タックル」をTV画面でみていて、小生は(自分が経験したわけではないが)太平洋戦争中に特攻で敵艦につっこむゼロ戦を連想した。あれもまた「同調圧力/指示/命令」はあったかもしれないが、自軍の兵を喜んで殺す作戦など最初からつくるはずがないという上層部の意図もまた同時にあったわけである。責任あるマネジメントはなかった。何かに対して狂信的な人間集団がそこになければ起こりえないことも時にはあるものだ。だから人は吃驚する。

これが非常に大事な本質的問題である。多分、これからは以上のような体系的な調査と分析が必要になってくると思われる。そんな調査を通して、スポーツにせよ、アカデミックな研究、教育の現場において、「乖離」や「ミス・コミュニケーション」が生じる可能性をなくしていく。やるべきことはそんなことだ。

まあ、月並みな言い方をすれば
負けて覚える相撲かな
事件や不祥事そのものは決して忌むべきものではない。

そこには必ず社会を改善するためのヒントが含まれているものだ。関係者を処罰して、「これでサッパリした」などというアプローチは最低の姿勢であり、「正義」を語る資格などはないと言える。

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