2018年5月25日金曜日

一言メモ: 「善意志」に基づく行動を認めるべきときとは

前稿ではこう書いた:
近代社会の哲学的基盤を整えたと言っても過言ではないドイツの哲学者エマニュエル・カントは『この世界で最も善なるものは善意志をおいて他にはない』と考えた。行為の受け身となった側の受け取り方よりも(こちらに着目すればアングロサクソン流の功利主義となるのだが)、本来、善をもたらしうるのは善意志をもって行為をする側である。意志の善悪に目を向けるこの哲理もまた真理であろう。善意志のもとに行為している側にハラスメントが認定されるとすれば、法と哲学が矛盾することになるだろう。
では、1931年9月18日の関東軍参謀・石原莞爾のように(真に?)国益を願って軍律違反の作戦を実行した場合はどう考えればいいのか? 国益を願っての行動は正に善なる意志によるのではないだろうか?

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当時の日本国内のマスメディア大手は大半が軍の行動を支持した。国際協調の観点から軍の独走を抑えようとする内閣を「堕落している」と非難した。

事後的には満州事変がその後の日本の歴史を歪め敗亡への道を歩ませることになった。文字通りの一大転機となった。

善意志の善たる価値は、いわゆる「国益」であった。その国益を「純粋」に追及して行動に出た。故に、国民はその大胆さに感動の気持ちをすら覚えたのだろう。保身に身をやつす政治家とは対照的だった。

が、もしも国益が善なる価値であるなら、その行動が真に国益に合致するのか?これまた難しい判断だ、本来は。どのように判定するのか?

一つ言えることは、一部のエリート軍人に情報が独占されるのではなく、国民全体が考えるべきであった。エリートが判断するのではなく、国民が判断するべきであった。つまり全てのモラル的な価値は国民が共有するもので、少数のエリートが決めるものではない。故に、国際関係や中国情勢の正しい情報、海外からの反応、日本の国力等々、重要な情報をオープンにした上で、国民が国益に合致するかどうかの判定を下すべきであった。この意味で、<民主主義>というのは<善>をこの社会で実現するモラル的な基盤でもあると位置づけられる。「最悪だが、まだましだ」というような政治体制ではないのだろう。「民主主義」そのものの価値については小生はずいぶん懐疑的であったが(たとえばこれ)、最近になってだんだん変わってきた。

とまあ、ひとまずは考えておけば前稿の一言メモは完結する。

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とはいえ、上の総括では十分ではないかもしれない。

「侵略」とは隣国に対する窮極的な国家的ハラスメントと言えるだろう。共存共栄の国際的理念に合致していることも、それが善なる目的に沿った行動であるかどうかの判定をするには大事な要点だったはずだ。

何が善であるか? 結局、この問いにまた戻るのだ。

カントは、「実践理性」なるものが全ての経験に先立って、最初から人間には備わっているはずだと考えた。その実践理性の働きを曇らせるものは、独断や後天的な慣習、教育である。

小生にもまだ分からない。

時間が出来たら読みたいと思う本があった。が、勉強したいことはどんどん増える。

日暮れて、道遠し

ハラスメントの防止は重要な社会的課題だ。しかし、難問だ。まあ、運用可能な法技術でとりあえず始めるのだろうが、最初は欠陥だらけのスタートとなるのは間違いない。

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