人の落ち度には厳しくとも、自分の落ち度には甘くなるのは、その時の事情を自分が一番よく知っているからである。この文章が小生は大変気に入っているのだ、な。特に最近年の日本社会を見るにつけそう思う。明らかに小生が若い頃の時代とは変わってきている。ありていに言えば、思考力に欠けた低能社会化現象が目立つ。世論は本質をはずし皮相的になり、寛容さがうすれ、非寛容が大手をふっている。
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大手芸能事務所の山口某が自身のセクハラ行為で契約を解除されようと、無期限謹慎のままでいようと、日本経済にも国民生活にも何も影響はない。なので、「社会的影響も考慮し」と言われつつも、それは「多くの人の関心を集めており」という意味合いでしかないのが現実だ。
であれば、<とりあえず厳罰に>というのも分からないではない。厳罰を課すことの社会的コストはゼロだから。世間はそれを十分わかっているのだ。一体誰が山口某の人生をまじめに考えるだろうか。所詮は他人事なのだ。
しかし、処罰感情には<正義を主張する快感>のほかにも、群衆の持つ「決められる快感」、「報復できる快感」、「支配できる快感」が混じっていることが多い。もし後者の劣情のほうが半分以上を占めていれば、無法社会がもたらされるだけである。
最初の政治哲学者とも呼ばれる英国のトーマス・ホッブスがいう「万人の万人に対する闘争("Bellum omnium contra omnes" = "The War of All Againt All")。まさにこれである。ホッブスは、原初状態の人間社会をモデル化する概念として「無法社会」を提示し、これを解決するための政治的ツールとして「社会契約」と「法治国家」の重要性を結論付けたのだが、まさか日本社会で逆向きの群集心理と社会的制裁がまかりとおるようになろうとは、小生にとってまったく想定外の成り行きである。
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足を踏まれたからと言って、相手を殴れば、最初に足を踏まれた側はもやは被害者ではない。町のならず者に殴られたからと言って、得意の空手で相手を骨折させてしまえば、被害者というより加害者である。
セクハラ救済も社会では大事だが、社会で最も重要な規範はフェアであるかどうかではないか。
昔から「因果応報」という言葉があるが、まあ同じような意味合いだ。人間の行為には行為に応じた結果がもたらされるという確信がなければ、人たるもの、人間社会をどう信頼すればよいのだろうか。
故に、被害を超えた報復が加害者に対して結果として社会で行われてしまえば、被害者は単なる被害者としての立場にいつづけるのは難しくなるという理屈になる。
具体的に書いておく。相手に嫌な思いをさせたのなら、自分もまた嫌な思いをさせられても仕方がない。相手を殴ったのなら自分もまた殴られても仕方がない。人を殺害すれば、自分の命を奪われても仕方がない。3千5百年余り昔のハムラビ法典に提示されている「目には目を、歯には歯を」はフェアネスの原初形態である。これによって過剰な制裁が禁止され止めどもない復讐が不正義となった。正義がフェアネスとして表れるという"Justice as Fairness"の観点は現代に生きるロールズよりも実はずっと遡り、ソロモン王の昔まで辿ることができる。已むに已まれぬリベンジもフェアであることが求められるのである。嫌な思いをさせられたから相手を破滅させるのは不当である。もしこれをやれば過剰制裁となる。過剰な報復を望む被害者は既に加害者に転じていると解釈されても仕方がない。被害者に同情する社会が同じことを望んでも同罪である。小生はハッキリとこう思うのだ、な。
なので本日の表題を決めた。
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小生の専門分野は将来予測であるので、予測はほとんど趣味と言ってもよい。1~2年以内に日本社会で流行する言葉を予測しておこう。それは「被害者づら」という言葉である。
どこかの週刊誌で、誰かが記事を書いて、それをどこかの民放で、誰かがその言葉を使う・・・そんな展開があるのではないかと予想している。
よくまあ、イケシャアシャアと、「被害者づら」をして出てこれますねエ・・・その後の成り行きをみれば、「実質加害者」と言ってもいいんじゃない?こんなんでいいのでしょうか??
こんな予想になるだろうか?
社会が一方の極端にいけば、必ず反動がおこる。「被害者づら」という言葉がもしも万が一流行すれば、日本社会は進歩から退歩へと局面が転換する。そうなれば一定期間、世間は現在とは正反対の方向に突き進むと予想される。そんな不安定な社会を安定させるために法治国家というモデルがあるのだが、残念ながら、最近の日本社会は法よりも群集心理と群衆を顧客とするメディア産業企業によって動かされているようだ。
セクハラだけではなくハラスメント一般の問題解決は、十分な研究に基づいて着実に進めることが大事だ。ただ「許せない」からという感情から急進的に対応すれば社会状況は希望に反して必ず悪化すると予想する。
メディア産業の寡占企業は、民主主義社会の敵とまで言えるかどうかにはまだ時期尚早だと思うが、<法治国家の敵>であるという判定は既にできる状況ではないかと感じる。
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