2018年5月1日火曜日

「平成の刀狩り」があるとすれば

日本国内を統一し100年余りの戦国時代に終止符をうった豊臣秀吉が行った数々の政策の中で、後世からみて最も感謝するべき英断は「刀狩り」をおいて他にはない。個人的にはそう理解している。「宗教政策」、「税制政策」、「貿易管理政策」、「行政組織」等々、多方面のことを豊臣政権は実行したが、「刀狩り」があってこその成功であったと思うのだ。

なるほど「検地」によって中央政権は地域ブロックごとの納税能力を把握した。納税能力を把握できれば、地域が反乱を起こす際の潜在的軍事力の限界を評価できるので、中央政権が保有するべき警察力も決まってくる。行政機構の基本を設計できることになる。確かに、「検地」は中央政権にして初めて実行可能な必須の経済政策だった。

が、やはり「刀狩り」こそ、庶民から軍事力をはぎ取り、内戦継続能力を消滅せしめることで、はじめて豊臣政権を国内唯一の<真の権力>とする決定的政策だった。もし「刀狩り」を実行していなければ、武士による徳川250年の平和は不可能だったろう。必須の政策であった「検地」もまた「刀狩り」と並行させてこそ実効性があったのだ。

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英米では"due process of law"という言葉が最も重要視されている。正当かつ公式の法的手続きによって、という意味合いである。「法学」が学問として確立されたのは、「法に則す」という社会的合意が最上位の規範としてその社会で共有されたときだ。そう言ってもよい。その合意がないなら法治国家ではないし、国民国家ですらないだろう。

もちろん国家には法治国家以外の国もある。人治国家もあれば、徳治国家もある。軍事国家、一党独裁国家等々、国の形は実にさまざまだ。

現在の日本は三権分立制を布いている。この事は日本国憲法で定められており、小学校の授業でも説明されていることである。

三権分立制とは、立法は国会に、行政は政府に、司法は裁判所に、という制度であり、それ以外に国民が服するべき<権力>は、いかなる団体にも保有させないということである。国民、すなわち全ての民間の個人、企業は、政府の政策に不服があれば選挙を通して、あるいは裁判所に提訴して、その決定に従うことになる。故に、いかなる違法行為を犯したとしても、当該個人に対する<制裁権>は司法以外には属していないわけだ。

しかし、現代日本社会で<社会的制裁>という用語が浸透して久しい。そしてメディア産業の独占的企業が社会的制裁のプロデューサーとして活動しているのは明らかだ。

立憲主義の観点から考えれば、いかなる<社会的制裁>も違法である理屈であり、法的規定なき制裁、つまり<私刑>を実質的に演出している大手メディア企業は、非公式の権力を行使している。そんな現実は実はずっと以前からも指摘されていたが、このところ、実は公的な権力よりも非公式の権力の方が、速度、実効性ともに、上回っているのではないか。そう思うことが増えてきた。

その理由は、公的な権力は民主的統制に服している一方で、非公式の権力はいかなる民主的統制にも服していないためである。更には、情報が瞬時に社会に浸透する自由なネット社会の到来も背景としては挙げられる。

日本という国では、歴史上しばしば、非公式の権力が生まれ、社会の個々人の生活に覆いかぶさる例が多かった。いにしえの院政は引退した天皇による裏の権力。「目白の闇将軍」は刑事被告人となった元首相が「数の力」で表の権力をあやつった裏の権力であった。

日本人は、非公式の権力が行使されている状態に対して、(よくいえば)免疫をもっており、(悪く言えば)自立しておらず屈従的である。

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憲法に定められた権力以外に個々の日本人を制裁する権力はあるはずがない。あってはならない。この認識が最も基本的だろう。

なるほど会社に勤務する社員が不正を行い会社に不利益をもたらせば会社から懲戒処分をうける。が、会社の行為は雇用契約に基づくものだ。さらに処分は雇用者対被雇用者の限定的な関係における行為であり、法を犯した刑事犯でなければ社会に公開されることはなく、個人情報は保護される。契約の当事者双方にとってフェアな関係が保たれている。

ここでいう<権力>とは契約という双方の合意を経ることなく日本社会がその社会のルールを犯したという理由で構成員たる個人を処罰/制裁することが出来る力のことを指す。

確かにジャーナリズムは一般論として民主主義にとって不可欠である。しかしながら、民主主義社会を維持する権力はすべて法によってその限界を定められる必要がある。正当な権力以外の主体から権力的手段を奪う政策が「刀狩り」である。政府が民主的であれば「刀狩り」もまた民主主義のためである、という理屈になる。

最近非常に顕著になりつつある独占的メディア企業が主導する<社会的制裁>は憲法を犯していると、小生、思っている。裁判所の判決で<社会的制裁>を現に受けていることを情状酌量の構成要素にあげる例が多いが、社会的制裁の存在を司法が認めること自体が、小生には理解不能である。

非公式な権力が行使されているとすれば、その権力的部分は解体されるべきであるし、解体されないなら民主的統制下に置くべきだ。

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我々は事実を報道しているだけだという主張はもはや通用しない時代だ。

Facebookは、ユーザーが自分の意見を発信する場にすぎないとして、自らの役割を自己定義していたが、それが通らなくなった。結果として社会に対して不当な影響力を行使しようと考える主体がいた。その主体がFacebookを密かに利用した。故に、アメリカではFacebookが非難されているのだ。

日本のメディア産業で支配力を有する寡占企業はなぜそのような行動をとっているのか、まったく不透明である。経営者の思想・政治的立場、プロデューサーの職歴・実績、記事の執筆者等々、すべて闇の中である。実に非民主的である。自由市場の中の私企業としては許されるが、非公式の権力を行使している状況であれば容認できない。

この辺、小生、あまりに潔癖にすぎるのだろうかねえ・・・


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・・・ま、こんな議論にも筋道は通っているように思われる。ということは、実際にこんな方向で物事が動き始める可能性もあるということだ。

もちろん憲法で保障している「表現の自由」と調和するのかどうかという問題を解決しなければならない。この問題も数多くの設問に分かれるだろう。

もしもメディア産業で支配力をもつ寡占企業に十分な知性が欠けていれば激しく抵抗するだろう。もしそうなれば、それは既に権力の一端を把握した集団と正当な政府との内戦と本質的には同じだ。その片方を中国やロシア、北朝鮮が密かに支援して介入するとどうなるかねえ・・・。そんなことまで考えさせられる昨今の状況である。



暴力的な展開は正直ごめんだ。今後将来にかけても平穏な時代が続いてほしいものだ。


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